夏油マッスル傑   作:めちゃく

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夏油マッスル傑

 

 

 

 高専の古びた木造校舎を背に、夏油傑は半裸で土俵を踏んでいた。

 

 いや、土俵ではない。校庭である。由緒ある寺社仏閣めいた瓦屋根と、苔むした石灯籠。

 

 いかにも呪術師の教育機関らしい陰気な景観の真ん中に、なぜか丸太と注連縄と鉄骨とタイヤと呪霊の残骸で組まれた、暑苦しい即席トレーニング場が出現していた。

 

 その中央で、夏油は背中に巨大な岩と錘呪霊を背負い、低姿勢でスクワットをこなしていた。腕や脚には同じように呪霊や錘が巻き付けられている。

 

「一四九六……!」

 

 制服の上着は近くの石に丁寧に畳んで置かれている。シャツは脱いでいる。なぜか首には数珠のようにプロテインシェイカーの蓋が連なっていた。

 

 額から落ちた汗が顎を伝い、土に落ちる。その一滴一滴が、まるで修行僧の祈りのように見えなくもなかったが、やっていることは概ね筋トレだった。

 

「一四九七……!」

 

 隅で、補助監督が見なかったことにして通り過ぎた。

 

「一四九八……!」

 

 夏油の背後で、錘にされている低級呪霊が「ぎぃ」と呻いた。本来なら取り込む価値もないような烏合の一体だが、数週間前から現在に至るまで、夏油に一番呼び出されているのは虹龍ではなくこの呪霊である。

 

 その丁度いい重さが主のお眼鏡にかなったからだ。

 

 夏油は穏やかな顔で言った。

 

「姿勢が崩れているよ。負荷にも礼節は必要だ」

 

 呪霊は自分の役割を理解し錘に徹しているので返事をしなかった。

 

 ちょうどその時、任務帰りの五条が校門の方から歩いてきた。制服を雑に着崩し、片手に甘い飲み物と菓子の紙袋をぶら下げている。

 

 彼は異常な熱量を一目見て、何ひとつ驚かなかった。

 驚く時期はもうとっくに過ぎている。

 

 五条は夏油の背後まで来ると、何の前触れもなく、その尻を軽く蹴った。

 

「まーたやってるよ、筋肉バカ」

 

 夏油の体勢は崩れなかった。岩も落ちず、呪霊錘も揺れない、完璧な姿勢。一つため息をつくと、顔だけでゆっくり振り返った。

 

「任務帰りにキツいモン見せてんじゃねーよ」

 

「失礼だな。どうせなら馬鹿筋肉と呼んでくれ」

 

「どっちも変わんねーだろ」

 

「変わるさ。筋肉バカは筋肉に支配された者。馬鹿筋肉は馬鹿でありながら筋肉を支配する者だ。主従が逆だよ」

 

 五条は紙袋から菓子を取り出し、勝手に食べ始めた。別にここにいる理由は無いし部屋に帰ってもいいのだが、少し前から親友の筋トレをぼーっと見るのが日課になりつつあったからだ。

 

 当の本人の夏油は気にせず、再び前を向き腰を落とした。背負った岩がみしりと鳴る。

 

「一四九九……」

 

 沈む。

 

 大腿が張る。背筋が伸びる。呪力が汗と一緒に湯気のように立つ。五条はそれを見ながら、心底嫌そうに口元を歪めた。

 

「それ一体どこ鍛えてんだよ」

 

「全てだよ」

 

「人間は部位で分かれているようで、実際には一つの連関だ。脚を鍛えれば大地を掴め、背を鍛えれば天を押し返し、腹を鍛えれば世界の理不尽に耐えられる」

 

「んな訳ねーだろ」

 

「一五〇〇!」

 

 夏油は立ち上がった。

 

 その瞬間、呪霊錘が泡のようにほどけ消滅する。

 

 夏油は「ありがとう、広背筋二号」と呪霊の跡に呟いたあと、背中の岩を丁寧に下ろし、深く息を吸った。肺が膨らむ。胸郭が開く。

 

 空気が少し暑くなった気がした。五条が半歩下がる。

 

 夏油は畳んでいた制服の上着のそばに歩み寄り、ポケットから黒い球を取り出した。呪霊を取り込むための、あの不快な塊である。

 

 普通なら、手に取っただけで顔をしかめる。少なくとも夏油は昔そうだった。昔は。

 

 今の夏油は、それを夕食前のサプリメントのように眺めた。

 

「摂取の時間だ!」

 

 五条の顔が露骨に引きつった。

 

「うげ」

 

 夏油は躊躇なく呪霊玉を口に放り込んだ。噛まず、ただ呑む。喉が上下する。同時に、悪意の塊のような、吐瀉物を雑巾で拭いて丸めたような、非常に不快で染み込むような味が広がる。

 

 その直後、足元に置いてあった特大のシェイカーを掴み、白濁したプロテインを一気に流し込んだ。

 

「……!!!」

 

 風が吹き、鳥が鳴いている。夏油は思いっ切り息を吐き、目を閉じて両腕を広げ、両手を合わせて祈った。

 

「きっしょ」

 

 夏油は聞こえていないふりをした。いや、聞こえていても反応する必要を感じていなかった。彼はいま、自分の内側に沈む呪霊の重さを、質を味わっている。

 

 味わうという表現がそもそもおかしいのだが、本人はきわめて真剣だった。

 

 しばらく目を閉じていた夏油は、やがて満足げに息を吐いた。

 

「ふぅ……今回のはかなり重いな。大物だった」

 

 五条はサングラスの奥で目を細めた。強いものも妙なものも見慣れている。呪いも、死体も、術式も、呪詛師も、だいたいのものは笑って流せる。最強だという自負があるから。

 

 だが、親友が呪霊玉を飲んでプロテインで流し込む光景だけは、何度見ても慣れない。慣れたら終わりだという本能もあった。

 

 夏油はシェイカーの蓋を閉め、何かを思いついたように五条へ差し出した。

 

「悟も食べるかい?」

 

「食べねーよ」

 

「味は最悪だけど、その後にトレーニングをすれば肉体も術式も向上するかもしれない」

 

「しねーって」

 

「決めつけはよくないな」

 

「俺が食べても意味ねーんだよそれ。お前の術式だろ」

 

 その瞬間、夏油の目が光った。

 

 比喩ではない。五条には本当に光ったように見えた。夏油の瞳の奥で、理性と狂気と筋肉理論が一斉に点灯した。

 

 五条が踏んだのは地雷ではない。スクワットラックだ。

 

「意味が無いと口にするのは早計だ、悟」

 

「あー、いい! 今のなし!」

 

「いや、聞いてくれ」

 

「無理!」

 

 夏油は一歩近づいた。五条も一歩下がる。

 

「まず前提として、術式適性と肉体適応は別系統に見えて、実際には呪力伝達効率という一点で接続している。いいかい悟。君は無下限を扱う上で、常に精密な呪力操作をしているわけだけれど、その操作を支えるのは脳だけじゃない。姿勢、呼吸、筋膜の張力、関節可動域、そして足底から頭頂までの連動性だ。ここを軽視する術師が多すぎる。実に嘆かわしい!」

 

「硝子ー」

 

 五条は校舎の方を見て助けを呼ぶが、窓の向こうでこちらを見ていた家入硝子は、遠くから片手を振っただけだった。関わる気がない。実に賢明だった。

 

「筋肥大と聞くと、君は単純に筋断面積の増加だけを想像するかもしれない。だが重要なのは神経系の動員率だ。高負荷トレーニングによって運動単位の発火が最適化されれば、瞬間的な出力は上がる。出力が上がれば姿勢制御が安定する。姿勢制御が安定すれば呪力の無駄な漏れが減る。呪力の漏れが減れば術式精度が上がる。つまり、懸垂は術式の基礎だ」

 

「違うと思う」

 

「違わない。しかも呪霊玉の摂取によって体内に一時的な負の負荷が発生する。普通ならそれは精神の澱みになる。でも、その直後に適切なレジスタンストレーニングを行えばどうなる?」

 

「知らねーよ」

 

「乳酸だよ」

 

「乳酸じゃねーよ」

 

「負の感情は全て乳酸なんだよ」

 

 五条は黙った。

 

 風がまた吹く。今度は少し湿っている。

 

「硝子、君も見ていないでこっちに来たまえ」

 

 遠くで窓を閉める音がした。

 

 夏油は両手を広げた。

 

「……悲しみも、怒りも、迷いも、倦怠も、全部だ。溜めるから腐る。流せばいい。筋肉に送り、血で巡らせ、呼吸で燃やす。術師が非術師を守るためにあるなら、まず術師自身が折れない身体を持つべきだろう?」

 

「祓う、取り込む。鍛える、回復する。この循環こそが、現代呪術に欠けている基礎代謝なんだ」

 

 五条は親指と人差し指でサングラスの縁をつまみ、少しだけ下げた。六眼で見れば、何か違うものが見えるかもしれないと思ったのだ。

 

 何も変わらなかった。

 

 そこには汗だくで、妙に晴れやかで、理路整然に狂っている夏油傑がいるだけだった。

 

「傑……お前昔さ……」

 

「うん」

 

「性格悪かったけどさ……もうちょい……普通だったよな」

 

 夏油は穏やかに笑った。

 

「普通は停滞だよ、悟」

 

「……」

 

「停滞は澱みを生む。澱みは呪いを生む。そして呪いは——」

 

「もういい。続けたら蹴るぞ」

 

「さっきもう蹴ったじゃないか」

 

「二セット目だよ」

 

 夏油は少し考えたあと、真面目にうなずいた。

 

「なるほど。追い込みだね」

 

「いや違……いいやもう」

 

 五条は空を見上げた。高専の空はやけに青かった。任務帰りの疲れも、呪詛師への苛立ちも、補助監督の説教も、ぜんぶどうでもよくなっていた。

 

 夏油はその間にも、シェイカーを振り直している。まだ飲む気らしい。五条は本気で引いた。

 

「なんでこんなアホみたいな性格になったんだ、傑……」

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