夏油マッスル傑   作:めちゃく

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夏油マッスル傑2

 

 

 教室の床は、朝から少し沈んでいた。

 

 古い木造校舎の一室である。梁も柱も扉も、見た目だけなら由緒ある稽古場と呼べた。しかし机の脚にはなぜか黒いゴムチューブが巻きつけられ、椅子の下には砂袋が二つ置かれている。

 

 窓際には、蓋の締まりきっていないシェイカーが一本あり、中身は見なかったことにしたい白さだった。

 

 夜蛾は教卓に両手をついたまま、それらを順番に見た。

 

「傑」

 

「はい」

 

 夏油は背筋を伸ばして座っている。姿勢だけなら、文句のつけようがない。実際、文句をつけるべき場所は姿勢以外にあった。

 

「机に巻いてあるそれは何だ」

 

「抵抗力です」

 

「答えになっていない」

 

「座学中でも最低限の刺激を入れられるように。腸腰筋が眠ると、思考も眠りますので」

 

 夜蛾は怒鳴ろうとしたが、まず何を言えばいいのかわからず口を噤んだ。

 

 五条は隣の席で椅子を後ろに傾け、足を机の横に放り出していた。サングラスの奥から、夏油の足元をちらりと見て笑う。

 

「傑、ここでも筋トレすんのやめろよ。こっちまで椅子揺れんだよ」

 

「悟もやった方がいいよ。座り方が悪い」

 

「今それ言う?」

 

「今だから言うんだよ。日々の積み重ねが、将来の椎間板を守る」

 

「俺の椎間板の未来まで背負うな」

 

 夜蛾が教卓を叩いた。乾いた音が室内に落ちる。

 

「悟。傑。任務の話をする」

 

 二人は一応前を向いた。五条は姿勢を正していない。夏油は正している。どちらも反省はしていなかった。

 

 夜蛾は黒板に短く文字を書き、概要を説明する。

 

 護衛、抹消。

 

 五条が片眉を上げる。

 

「少女の護衛と抹消? 何それ、同じとこに書いていい任務?」

 

 夏油は黒板を見たまま、少し考えるように顎へ手を添え、足首のチューブを外した。外したチューブを丁寧に畳み、机の上に置く。

 

 夜蛾は説明を続けた。

 

 天元との同化に必要な適合者、星漿体。二日後の満月までに、その少女を護衛し、天元のもとへ送り届ける。

 任務は護衛、そして抹消。

 

 そこまで聞いて、夏油が静かに手を上げた。

 

「待ってください。それはおかしい」

 

 夜蛾は視線だけを向けた。

 

「何がだ、傑」

 

 夏油は真面目な顔をしていた。ふざけている顔ではない。むしろ、ふざけている時より始末が悪い顔だった。

 

「天元様は不死なんでしょう」

 

「そうだ」

 

「なら、永遠に鍛えられるということです」

 

 五条の椅子がかたんと床に戻り、夜蛾は静止する。

 

 夏油は続ける。授業中に正答を述べる優等生の声だった。

 

「五百年という歳月があれば、自重から始めても相当なところまで行けます。まして天元様は結界術の要です。空間把握、姿勢制御、呼吸の安定。どれを取っても鍛錬との相性がいい。にもかかわらず、同化による初期化を前提としている。これはおかしい」

 

「傑」

 

「はい」

 

「今は筋肉の話ではない」

 

「いえ、肉体の情報を書き換える話です。ほぼ筋肉の話です」

 

「違う」

 

 夜蛾の声は低く、五条は口元を押さえている。笑うと怒られるとわかっているが、もう遅かった。

 

 夏油はまだ真剣だった。

 

「不死でありながら不老ではない。つまり、老化はする。なら老化に対抗するための継続的な負荷設計が必要です。天元様には、おそらくスポッターがいない」

 

「ス、スポッター?」

 

 五条が耐えきれずに聞き返した。

 

「補助者だよ。限界重量を扱う時、一人では危険だからね」

 

「天元サマにベンチプレスさせる気かよ」

 

「悟、物事を限定的に見るのはよくない。懸垂かもしれない」

 

「そこじゃねーよ」

 

 夜蛾は目を閉じた。

 

 夏油はようやく、自分が本題から逸れていることに気づいたらしい。気づいたが、納得して引いたというより、今は置いておくという顔だった。

 

「失礼しました。続けてください」

 

「……天元様は不死の術式を持つが、不老ではない。肉体の老化が進めば、術式が肉体を別の段階へ移行させる」

 

 夜蛾は説明を再開した。先ほどより少しだけ疲れている。

 

 五条は頬杖をついた。

 

「進化ってやつ?」

 

「そうだ。ただし、人でなくなり、より高次の存在へ移る。天元様が天元様でなくなる可能性がある」

 

 夏油は頷いた。

 

「フォームの崩れた進化ですね」

 

「傑」

 

「すみません」

 

 夜蛾は、天元の結界が高専や呪術界の基盤であること、暴走すれば影響は術師だけに留まらないことを説明した。五条は聞いているのかいないのかわからない顔をしていたが、目線だけは外していない。

 

 夏油は真面目に聞いている。机の下で、外したチューブを無意識に指で伸ばしていることを除けば。

 

 夜蛾は黒板に、二つの勢力名を書いた。

 

「少女の所在はすでに漏れている。命を狙う勢力は大きく二つ。一つは呪詛師集団「Q」。天元様の暴走による、現呪術界の転覆を目論んでいる」

 

 五条が口を開きかける前に、夏油が先に言った。

 

「哀れですね」

 

 夜蛾が眉を動かす。

 

「何がだ」

 

「Qです」

 

 夏油は黒板を見つめている。声は落ち着いていた。

 

「呪術界を転覆させるほどの熱量がありながら、その矛先が筋肉に向いていない。可哀想です。正しい負荷を知らない者は、世界を壊すことでしか自分の出力を確認できない」

 

 五条は机に突っ伏した。肩が揺れている。

 

 夜蛾はそれを無視した。

 

「もう一つは盤星教。天元様を信仰する宗教団体だ。連中は天元様を純粋な存在として崇拝している。星漿体との同化を、不純物の混入と捉えている」

 

「もっと哀れですね」

 

「傑」

 

「はい」

 

「まだ何かあるのか」

 

「筋肉を信仰していないのに、純粋さを語るのは危ういと思います」

 

 五条がこの話を広げる気満々で顔を上げた。

 

「何でだよ」

 

「純粋さとは削ぎ落とすことだ。余分なものを削ぎ、必要なものを残す。その過程には鍛錬が要る。なのに彼らは、天元様を崇拝しながら自分たちの身体には何の負荷も与えていない。信仰が片手落ちだよ」

 

「宗教団体に筋トレの不足で同情すんな」

 

「同情しているだけだ。侮ってはいない」

 

「いや、かなり侮ってる」

 

 夏油は少しだけ考えた。

 

「……では、憐れんでいる」

 

「悪化したな」

 

 夜蛾は説明を締めに入った。放っておくと、盤星教の礼拝姿勢とスクワットフォームの関係まで話が進みかねなかった。

 

「期限は二日後の満月。お前たちは、それまで少女を護衛し、天元様の下まで送り届ける」

 

 夜蛾の声が一段低くなる。

 

「失敗すれば、その影響は一般社会にまで及ぶ。心してかかれ」

 

 五条は椅子から立ち上がった。夏油もそれに続く。夏油は机の上のチューブとシェイカーを回収し、何事もなかったように鞄へしまった。

 

 夜蛾はそれを見ていたが、もう何も言わなかった。

 

 言えばまた、負荷の話になるからだ。

 

 

 


 

 

 

 説明が終わってから少しして、五条と夏油は街にいた。

 

 五条は自販機に小銭を入れ、缶飲料のボタンを押した。取り出し口から缶を拾い上げ、片手でプルタブを開ける。

 

「で、盤星教って何で星漿体殺したがるわけ」

 

 夏油は隣に立ち、街の向こうを眺めていた。風で制服の裾がわずかに揺れる。

 

「彼らが崇拝しているのは、純粋な天元様だ。星漿体との同化で、そこに別の肉体情報が混ざることを嫌っている」

 

「ふうん。不純物ってこと?」

 

「彼らの理屈ではね」

 

 五条は缶に口をつけた。甘い匂いが少し漂う。

 

「じゃあ、その純粋な天元様とやらに、五百年分のトレーニングメニュー組んでやれば解決じゃん」

 

 冗談で言ったが、夏油からの返答がないことに目を見開き思わず振り向く。

 

「おい。今のは拾うな」

 

「いや」

 

「俺が悪かった」

 

「一理ある」

 

「ねーよ」

 

 夏油は顎に手を添え、思考に落ちる。

 

「もし盤星教が、天元様の純粋性を肉体の更新ではなく鍛錬によって維持する思想を持っていたなら、今回の衝突は避けられた可能性がある」

 

「ない」

 

「なぜ言い切れるんだ」

 

「お前が言ってるからだよ」

 

 五条は缶を持ったまま歩き出した。夏油も隣へ並ぶ。

 

「まあ、盤星教は非術師の集団だ。直接戦闘能力としては大きな脅威じゃない。警戒すべきはQの方だろうね」

 

「非術師ねえ」

 

「ただ、軽んじるべきではないよ。筋肉を信仰していない者ほど思想に逃げる」

 

 五条は呆れた顔で三分の一ほど飲んだ缶を振る。

 

「顔と身体が合ってねーんだよな」

 

 夏油は少し笑った。

 

「術師は非術師を守るためにある。それは変わらないよ。ただ、守る側も守られる側も、もう少し鍛えた方がいいとは思っている」

 

「善意かよ」

 

それ(善意)も鍛えるほど強くなるよ」

 

 五条は缶を飲み干し、近くのゴミ箱へ放る。

 

 その直後だった。

 

 遠くで、鈍い破裂音がした。

 

「お?」

 

 二人の足が止まり、音の方向を視認する。少し離れた高層ビルの一角から煙が上がっていた。壁面のあたりで何かが弾け、黒い点のようなものが宙へ放り出される。

 

「これでガキんちょ死んだら俺らのせい?」

 

「筋肉は裏切らないさ。もしダメだったならそれは裏切らせた私が悪い」

 

 

 

 

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