夏油マッスル傑 作:めちゃく
煙は、ビルの上階から太く流れていた。
白い外壁の一部が黒く裂け、窓枠がいくつか外れており、その破れ目から小さな影が空へ投げ出される。
人の形をしている。意識があるような姿勢ではなかった。
五条は缶飲料を片手に、首だけを上げた。
「これでガキんちょ死んだら俺らのせい?」
声に焦りはない。任務対象が落下している現場で言うことではなかったが、五条悟はそういう男だった。
「筋肉は裏切らないさ。もしダメだったならそれは裏切らせた私が悪い」
隣で夏油は落ちていく少女を見上げていた。制服の裾が風で揺れる。昔ならここで応用も効き、空中制御がしやすい呪霊を出していた。呪術師らしく陰気に、相応の形に。
だが、今の夏油傑は少し違う。
「おいで、上腕二頭筋五号」
足元の影が膨らんだ。
そこから現れたのは、呪霊というより腕だった。
巨大な腕。肩から先だけのような形をしているくせに、上腕は不自然なほど膨れ、黒い血管めいた筋が表面を走っている。手首から先は妙に丁寧な形をしていて、受け止めるためだけに生まれたような指が五本、空へ向かって開いた。
五条が一歩離れた。
「お前またグロいもん作ったな……」
上腕二頭筋五号は、返事の代わりに力こぶを作った。
夏油はそれを見て、満足そうに頷く。
「首を固定して。落下の衝撃はこうやって逃がすんだ」
「呪霊にフォーム指導すんなよ」
五条の声を背に、腕の形をした呪霊が飛んだ。
それは速かった。落下する少女を追うというより、重力の行き先へ先回りする動きだった。空中で少女の下へ回り込み、落下の勢いを一気に殺さず、肘を折るようにして受ける。
巨大な手のひらが背中を支え、もう片方の指が首を挟む。雑に掴まず、乱暴に抱えない。
夏油がそう作ったからだ。この呪霊は物を安全に受け止める為にある。
筋肉に目覚めてから、夏油の呪霊操術は明らかに妙な方向へ伸びていた。取り込んだ呪霊をただ使役するのではなく、役割ごとに部位として再編する。
運搬用、拘束用、攻撃用、補助用。彼の中では、それぞれが筋群であり、呪霊の数は、そのまま身体機能の拡張だ。
それだけではない。本人の肉体も変わっていた。
制服の下で肩幅は増し、立ち姿は妙安定し、歩くだけで底知れない圧が滲み出る。呪霊を取り込む不快感を、夏油はいつの頃からか「高濃度の負荷」と呼び始めた。
呪霊を摂取し、鍛え、回復する。その循環を繰り返すうちに、術式の出力と肉体の出力が、ひどく嫌な形で噛み合ってしまった。
普通なら通らない理屈であるが、夏油傑の場合は通ってしまったのだ。
上腕二頭筋五号が少女を抱え、煙の切れ目を抜ける。夏油は屋上へ向けて跳んだ。足場代わりに呪霊を蹴り、壁面を一度だけ踏む。
下では、五条が別の気配へ視線を向けている。
「じゃ、そっちは任せるわー!」
夏油は振り返らなかった。
「任されたよ」
それだけで、二人の役割は分かれた。
夏油はビルの側面を越え、上腕二頭筋五号を伴って屋上に降り立った。少女は気を失っている。細い肩がだらりと落ち、髪が風に流れていた。
夏油は呪霊に軽く指示を出す。
「そのまま支えていてくれ。胸郭は潰さないようにね、呼吸が浅い」
上腕二頭筋五号は親指を立てた。
それを見たQの戦闘員、コークンは、目の前の状況を理解するまでに少し時間を要した。少女が助かったこと。空中から高専の術師が現れたこと。そして、その術師の背後に、筋肉の腕のような呪霊がいること。
「その制服……高専の術師だな?」
コークンの視線は、夏油の詰襟に向いていた。ただ、すぐ肩へ逸れた。制服の線が少しおかしい。布地が、内側から押されている。
「……サイズ、合ってるか?」
夏油は自分の肩を見下ろした。
「最近、三角筋が育ってね」
「聞いてねえよ」
「聞いたような顔をしていたから」
夏油は少女を上腕二頭筋五号に任せ、ゆっくりと前へ出た。呪霊は使わない。コークンはそれを見て、わずかに目を細める。
「ガキを渡せ」
夏油は返事をしなかった。
「聞こえねえのか、渡せ。殺すぞ」
風が屋上を抜ける。破壊された壁の隙間から、煙が斜めに流れていく。夏油は穏やかな顔のまま、足を肩幅に開いた。
「聞こえているよ」
「だったら──」
言葉はそこで切れた。
夏油が消えたからだ。
いや、消えたように見えただけだった。実際には、地面を蹴っている。踏み込みの音が一拍遅れて屋上に響き、次の瞬間にはコークンの腹へ肩が入っていた。
鈍い音がした。
「ガハッ……!?」
コークンの体が折れ、背中から屋上の床に叩きつけられる。夏油はそのまま流れるように片膝をつき、相手の腕を取った。手首を返し、肘を固め、肩を押さえる。術式でもなく、呪霊の仕業でもない。ただの組み技だった。
「ぐっ、あ、待っ……!」
「君たちは、かわいそうだ」
夏油の声は静かで、相手の腕を極めながら出す声ではない。
「Q。呪術界の転覆を目論む呪詛師集団。志の大きさだけは認めよう。ただ、方向が悪い」
コークンは何か言おうとした。言う前に、肩の奥から小さな音がした。
「ギブギブギブギブ!!」
声が一気に裏返る。
夏油は聞いていた。聞いていたが、手は緩めない。
「世界を壊そうとする者は、たいてい自分の内側を整える術を知らない。怒り、不満、劣等感。そういうものを外へ撒き散らす前に、まず筋肉へ通すべきなんだ」
「分かった!! 分かったから!」
腕がさらに少しだけ締まる。
「もうQ抜ける! 勿論呪詛師も辞める! だから離ッ……ぐあああああ!!」
「まだ話は終わっていない」
夏油はコークンの腕を固定したまま、膝の位置を直す。
「君たちは負荷を知らない。正しい負荷は人を壊さない。むしろ、腐りかけた精神を一度身体へ戻してくれる。悲しみも、怒りも、焦りも、全部だ。筋肉を経由してから外へ出せば、世界を転覆させようなんて雑な発想にはならない」
「知らねえよ!!」
「知らないから、こんなことになったんだろう」
夏油は本気で同情していた。本気である分たちが悪い。
「君達は哀れだ。筋肉を信じず、破壊でしか自己証明ができない。呪術界を転覆させる前に、まず自分の肩甲骨を動かすべきだった」
「肩甲骨って何だよ!!」
「そこからか」
夏油は少し困った顔をした。
困った顔をするならまず離すべきだったが、彼の中では教育と拘束が同時進行していた。コークンは地面に頬を押しつけられたまま、涙目で何度も床を叩いている。
「君はもう呪詛師を辞めると言ったね」
「言った! 言ったから!」
「では、まず三ヶ月。毎朝の自重トレーニングから始めるといい。腕立て十回、スクワット二十回、プランク三十秒。呪術界を転覆させるより、ずっと建設的だ」
「やる! やるから離せ!」
「食事は?」
「え?」
また腕が締まった。
「食事は?」
「ちゃんと食う!! タンパク質も摂る!!」
「よし」
夏油はようやく手を離した。
コークンは屋上に崩れ、しばらく動かなかった。死んではいない、意識もある。ただ、呪詛師としての何かが折れていた。骨も少し折れていた。
夏油は立ち上がり、制服についた埃を払う。それから、少女を抱えている上腕二頭筋五号へ向き直った。
「待たせたね。行こう」
呪霊は少女を抱えたまま、静かに親指を立てた。
コークンの方から、かすれた声がした。
「高専、怖……」
夏油は振り返り、穏やかに微笑む。
「怖がらなくていい。まずは呼吸からだ」
コークンは気絶した。
「……あ、食事についてだが私のオリジナル呪霊玉メニューを──気を失ってしまったか」
余談だが、この頃、別地点でQ最高戦力のバイエルは五条悟に仕留められていた。
片や最高戦力を失い、片や戦闘員が関節技と生活指導によって退職を決意した。
呪詛師集団Qは、その日を境に瓦解した。