夏油マッスル傑 作:めちゃく
天内理子が目を開けた時、最初に見えたのは白い髪だった。
次に、サングラスをかけたやけに整っている男の顔。
それから、自分の背中を支えているものが人間の腕ではないことに気づいた。
肩から先だけを切り出したような巨大な腕で、黒い筋が血管のように浮き、肘から上がやけに膨れている。五本の指は意外なほど丁寧に理子の背と首を支えていたが、丁寧だからといって許される姿ではなかった。
「お、起きた」
五条が言った。
その声に、心配の色はほとんどない。寝坊した同級生を見つけた時のような軽さだった。
理子は一拍遅れて、状況を理解した。
「下衆め!! 妾を殺したくばまずは貴様が死んでみせ──っうわぁ!?」
理子は腕の中で暴れるが巨大な腕は彼女の首を危なげなく固定したまま背中を支え直し、落とさない。下手な人間よりずっと安全に抱えている。その事実が理子の混乱をさらに深くした。
五条は顔の横で片手を上げた。
「元気じゃん。大丈夫そうだな」
「大丈夫なわけがあるか! 妾は今、何に抱えられておる!?」
理子の視線の先で、前髪の男が穏やかに頷いた。
「上腕二頭筋五号だよ」
「何じゃその名は!!」
「分類名だね。救助用に再編した呪霊だ。落下者を受け止める時は、指先だけで掴むと危ない。背中と首を面で支えて、衝撃を肘関節で逃がす必要がある」
夏油が真面目に説明したので、かえって理子の目が据わった。
「妾はそういう説明を求めておらぬ!」
「でも、怖がっているようだったから」
「余計怖いわ!」
上腕二頭筋五号は、理子の怒声に合わせてわずかに指を丸めた。夏油がすぐに視線を向ける。
「締めすぎない。肋骨に圧をかけないように」
「いや、これ起きた瞬間に見せんのは無理あるって。傑、お前またグロいもん作ったな」
「機能美だよ。美観はあとからついてくる」
「置いてけぼりだよ」
理子は二人を交互に見た。白髪の男は態度が軽く、軽薄そうだ。いつ殴ってきてもおかしくない。
前髪の男は穏やかだが、話している内容がだいぶおかしい。しかも自分を抱えているモノは、上腕二頭筋五号などという名前をつけられている。
敵ではない、と判断する材料が少なすぎた。
「貴様ら、妾をどこへ連れていくつもりじゃ。天元様のもとへ連れて行く前に、怪しげな鍛錬場へでも放り込む気ではあるまいな」
五条はサングラス越しに理子を見た。
「発想が傑に寄ってんな」
「怪しげではないよ」
夏油が言った。
「正しいフォームがある場所は、基本的に安全だ」
「貴様は黙っておれ!! あとなんじゃその前髪は!」
理子が叫ぶと、五条は面白がるように口元を歪めた。
「声デカいな。落ちた直後にそれだけ出るなら肺は無事そうか」
「悟、雑に診断しない。落下後は本人が痛みに気づいていない場合がある。理子ちゃん、今、首は痛むかい。手足に痺れは?」
「理子ちゃんと呼ぶな!」
「わかった。理子ちゃん、手足は動くかい?」
「わかっておらぬ!」
理子は上腕二頭筋五号から身を起こそうとした。巨大な腕が、彼女の動きに合わせてゆっくりと角度を変える。夏油はそれを観察して、満足そうにうなずいた。
「いいね。受け身が安定している」
「妾を教材にするな!」
その時、廊下の向こうから蹄のような音が近づいてきた。
硬い床を、何かが跳ねる、走る。ばねの効いた足音だった。理子がそちらを見ると、曲がり角から黒井美里が現れた。
黒井は、巨大な脚の形をした呪霊に乗っていた。
膝から下だけのような呪霊だった。大腿部はない。だが脹脛は異様に発達しており、足首はしなやかで、爪先は静かに床を蹴っている。
黒井はその上に横座りのような姿勢で乗り、片手で呪霊のすねにしがみついている。
「お嬢様!」
「黒井、何に乗っておる!?」
黒井は一瞬だけ視線を落とした。自分でも説明に困っている顔だった。
「……その、前髪の方の術式で」
夏油がすぐに反応した。
「黒井さん、その言い方は少し」
「前髪の方の術式」
「理子ちゃんまで。どうせなら筋肉に張りがある方と」
筋肉脚呪霊は、黒井を床に下ろすと、役目を終えたように軽く爪先立ちをし、夏油がそれに向かって頷く。
「呪霊操術。名の通り呪霊を取り込んで操る術式だよ、まぁ私の場合ちょこっと改良しているけれど……ありがとう、腓腹筋二号。良い跳躍だった」
黒井は理子に駆け寄り、上腕二頭筋五号の腕の中にいる彼女を確認した。
「お怪我はありませんか、お嬢様」
「見ての通りじゃ。怪我より先に尊厳が危うい」
「ご無事で何よりです」
「黒井、流すでない!」
黒井は五条と夏油へ向き直った。
「お嬢様。この方々は、高専から派遣された護衛の方々です。お嬢様を襲った者たちとは違います」
理子はまだ疑っている顔で二人を見た。
「本当か?」
「はい」
「では、なぜ未だに妾は筋肉の腕に抱えられておる。潰されそうで気が気じゃないんじゃが」
黒井は少し黙った。
「……安全のためかと」
夏油は嬉しそうに頷いた。
「その通りです。黒井さんは理解が早い」
夏油はようやく上腕二頭筋五号に合図し、理子を床へ下ろさせた。理子は自分の足で立ったが、すぐにふらつく。黒井が支えようとするより少し早く、夏油が片手を出しかけた。
しかし理子は自力で踏みとどまった。膝はわずかに震えている。本人はそれを隠そうとして、ますます胸を張った。
「元気そうじゃん。同化でおセンチになってるかと思ったのに」
「勘違いするでない。妾は哀れまれるためにおるのではない」
その声で、場の空気が少し変わる。
「妾は天元様なのだ。天元様は妾であり、妾は天元様。皆、同化と死を混同しておる。妾は消えるのではない。天元様となる。天元様もまた妾となる。妾の意思も、心も、魂も、同化後も生き続ける」
理子は一息に言った。
言い切ったあと、ほんの少しだけ唇を結ぶ。震えを隠すように顎を上げている。
夏油はそれを見ていた。理子が自分に言い聞かせていることも、黒井がそれを横で聞くしかないことも、たぶんわかっていた。
「そうか」
夏油は柔らかく言った。
「なら、なおさら伝えてほしいことがある」
理子は眉をひそめた。
「何じゃ」
「理子ちゃん。君が天元様と同化することを望んでいるのなら、天元様に是非伝えて欲しい」
夏油の声は真剣だった。
だから理子も、黒井も、思わず聞く姿勢になった。
「天元様にもできる筋トレがある」
聞く姿勢になったことを、理子はすぐ後悔した。
「貴様」
「はい」
「今、妾の覚悟の話をしておったな?」
「うん」
「その流れで、なぜ筋トレになる」
「同化後、君は天元様となり、天元様もまた君となる。なら、君の意思や心が残るように、身体への意識も引き継げるかもしれない」
理子は一瞬だけ黙った。入り口だけはまともだったからだ。
夏油は続ける。
「高専最下層で結界の基となるなら、大きな移動は難しいだろう。だが、動けないから鍛えられないというのは早計だ。等尺性収縮というものがある。関節を大きく動かさずに筋へ刺激を入れる方法だよ」
五条が横で小さく「あー」と言った。
「たとえば結界呼吸法とかね。吸って四秒、止めて四秒、吐いて六秒。意識を結界全域に広げながら、中心軸をぶらさない。慣れてきたら、天元様ほどの結界術なら、結界そのものを負荷として使える可能性がある。疑似プランクだね」
「天元様にプランクをさせるな!!」
「させるんじゃない。提案だよ」
「同じじゃ!」
黒井は困った顔で夏油を見た。
「夏油様、それは……天元様にお伝えしてよろしい内容なのでしょうか」
「黒井さん、鍛錬に身分はありません」
「そういう問題では」
「むしろ天元様ほどのお方なら、誰よりも長く鍛えられる。継続こそ筋肉の王道です」
五条が理子の肩をぽんと叩いた。
「諦めろ、天内。傑はこうなったら長い」
「何を諦めろと言うのじゃ!」
「話をまともに戻すこと」
「戻せ!」
「無理」
夏油はまだ何か言いたそうだったが、その時、理子の視線が自分の制服へ落ちた。
白いブラウス、リボン、スカート。袖に残った皺、黒井が乱れを直してくれた制服。
「そうじゃ! 学校!」
黒井がすぐに顔を上げた。
「お嬢様、今はもう昼前です。今日はお休みになった方が」
「ならぬ。妾は学校へ行く」
「お嬢様」
「途中からでもよい。友人に会う。昼休みには間に合うじゃろ。妾は行くぞ」
その声には、先ほどの強がりとは違う硬さがあった。
「そんな喋り方で友達いんのかよ」
「学校いる時は普通に喋ってるもん!」
黒井は止めるべきだと思っていた。けれど、理子が何にしがみつこうとしているのかもわかっている。言葉を選ぶ間に、五条が面倒くさそうに頭を掻いた。
「いや、高専戻った方が安全だろ」
「そうだね」
夏油は認めた。
「でも、理子ちゃんの要望には応えるよう言われている」
「ふん! それなら良かろう」
「ガキ」
「誰がガキじゃ!!」
夏油は理子の足元を見ていた。
「学校に行くなら、その前に軽く足首を回そう」
「まだ言うか!」
「落下後だからね。階段で痛めるといけない」
「妾は天元様じゃぞ!」
「天元様にも足首はある」
廉直女学院中等部。
昼を過ぎ、五条と夏油と黒井はプールサイドにいた。
水面が陽を受けて細かく揺れている。校舎の方から、理子の声がかすかに聞こえた。友人に囲まれ、普段どおり振る舞っているらしい。
五条は携帯を耳に当てていた。
「はあ? さっさと高専戻った方が安全でしょ」
声はだるいが、言っていることは正しい。
「山々だが、じゃねえよ。天元様のご命令? ……はいはい」
通話を切った五条は、携帯をポケットへ突っ込んだ。
「天内の要望には全部応えろってさ」
夏油はプールの縁に立ち、水面を見ていた。
「そうだろうね」
「ゆとり極まりだな」
「悟」
夏油の声が少しだけ低くなる。
五条は「あ?」という顔をしたが、それ以上ふざけるのはやめた。
「同化後、彼女は天元様として高専最下層で結界の基となる。友人にも、家族にも、大切な人たちにも、もう会えなくなる」
プールサイドの水音が、少しだけ大きく聞こえた。
「なら、今くらいは好きにさせよう。それが任務でもある」
夏油はそこで一度言葉を切った。
「それに、最後に普段の生活へ戻ることは悪くない。精神の可動域が固まりすぎると、負荷の受け方も悪くなる」
夏油は真面目だった。真面目なので、五条はそれ以上言っても無駄だと判断した。
黒井が少し離れて立っている。理子のいる方を見つめる顔は、世話係というより、家族を見守る人間の顔だった。
夏油はそれに気づく。
「黒井さん」
「はい」
「理子ちゃんに、ご家族は?」
黒井は短く沈黙した。
「おりません。幼い頃から、私がお世話をして参りました。ですから、せめて友人とは少しでも——」
言葉はそこで止まった。言い切ると、別れが形になってしまうからだろう。
夏油は静かに頷いた。
「それじゃあ、あなたが家族だ」
「……はい」
黒井は小さく答えた。
夏油は小さく笑って、さりげなく黒井の立ち方を見ていた。
理子のいる校舎の方へ意識を向けながらも、黒井の身体は完全にはそちらへ流れていない。片足へ体重を預けすぎず、視線だけを動かし、肩は落ちている。
手はモップを持ち前で揃えているように見えるが、指先には無駄な力が入っていない。
ただの世話係の立ち方ではなかった。
「ところで、身体を鍛えていますね」
「何の話?」
「黒井さんの話だよ」
夏油は黒井の足元へ視線を落とした。靴の向き、膝の緩み、腰の置き方。どれも目立たないように整えられている。
「姿勢が綺麗です。見せるための姿勢じゃない。動くための姿勢だ。立ち方に癖が少ない。手首も固まっていない。体術か、棒術か……そのあたりの心得がありますね」
黒井は一瞬だけ目を細めた。表情はすぐに戻ったが、完全には隠しきれていない。
「……お嬢様のお世話をする上で、多少は」
「多少ではないでしょう」
夏油は穏やかに言った。責めている声ではない。むしろ、良いフォームを見つけた時の声だった。
「理子ちゃんの身の回りを整えるだけなら、そこまで重心を作る必要はありません。あなたは世話役であると同時に、ちょっとした護衛も担っているのでは?」
五条が黒井を見た。
「へえ。黒井さん、戦えんの?」
「戦うというほどのものではありません」
「いやぁ、そういう人大体そこそこできんだよな」
黒井は困ったように笑った。否定はしなかった。
夏油は頷く。
「いいことです。理子ちゃんの近くに、そういう人がいるのは心強い」
「ただ、右の肩甲骨が少し固い。棒を扱うなら、引く動作の後で肩が上がりやすいはずです。長く続けるなら、肩甲骨の下制を意識した方がいい」
黒井は少し引いた。
「……夏油様、何故そんなところを」
「よく動ける人ほど、止まっている時に出ます」
「そちらではなく」
「肩甲骨の方ですか」
「そちらです」
五条が横で吹き出した。
「黒井さん、諦めた方がいいよ。傑、こういうの見つけると長いから」
夏油は心外そうに五条を見た。
「長くはしないよ。黒井さんは既に基礎がある。少し整えれば、もっと理子ちゃんを守りやすくなる」
「護衛の話なのに、何で整体みたいになってんだよ」
「身体を整えることは護衛の一部だ」
黒井はしばらく夏油を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。怒ったわけではない。むしろ、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
「……お嬢様をお守りするためなら、覚えておきます」
「ええ。まずは呼吸からで十分です。肩を上げずに吸って、背中側へ入れるように」
黒井は言われた通り、浅く息を吸った。たしかに肩は上がらない。
その時、ふと顔を上げた。
「傑」
五条がすぐに気づく。
「監視に出してる呪霊は?」
「ああ」
夏油はプールサイドから校舎の方へ視線を向けた。見える者にしか見えないものが、学院のあちこちに置かれている。
廊下の梁に一体。植え込みの影に一体。校舎裏の壁面に一体。プール棟の排水口近くには、小型の脚のような呪霊が逆さに張りついていた。他にも配置してある。
五条はそれを見つけ、顔をしかめた。
「おい、あれ何」
「腓腹筋三号」
「名前で形が想像できるのが嫌なんだけど」
「ふくらはぎは監視に向いている。異常があればすぐ跳ねる」
「初めて聞いたなソレ」
黒井は聞かなかったことにしようとして失敗していた。
夏油は特に気にせず続ける。
「冥さんみたいに視覚共有ができればいいんだけどね。私の呪霊ではそこまでは難しい。ただ、異常があればすぐにわかる。祓われれば、負荷が抜けるような感覚がある」
「呪霊の死を筋肉の張りで言うな」
「近いんだよ」
五条は水面に視線を戻した。風が吹き、水が揺れる。
「ま、何か来たら来たで叩けばいいだろ」
「校内だよ。壊さないように」
「お前こそ変な筋肉呪霊出すなよ。天内の友達泣くぞ」
その時、答えようとした夏油がふと顔を上げた。
何かが祓われたわけではなかった。
むしろ逆だった。夏油の内側に、妙な張りが伝わってくる。筋肉が限界まで収縮した後、まだ余力を残したまま対象を固定している時のあの頼もしい圧。
術式を通じて戻ってくる感覚としてはかなり異常だったが、夏油はもうそれを異常として扱っていなかった。
少し目を細める。
「……制圧したね」
五条が水面から顔を上げた。
「何を」
「二人。呪詛師だと思う。校舎北側の植え込みに一人、二階廊下に一人。腓腹筋三号と前鋸筋二号が押さえた。二体とも奇襲に特化しているから、まだそんなに時間はたってないだろう」
黒井が目を瞬いた。
「押さえた、というのは」
「動けないようにしています」
夏油は穏やかに答えた。
植え込みの影でふくらはぎ型の呪霊が男の胴を挟み込み、二階廊下では肋骨まわりの筋肉を模した呪霊が紙袋を被っている男を壁に貼りつけていた。
どちらも殺してはいない。ただし、少しでも暴れれば骨格の大切さを身をもって学ぶ形になる。
五条は顔をしかめた。
「何でわかんの」
「マッスルセンサーだよ」
「はい?」
「筋肉呪霊は、対象を拘束した時の負荷を私に返してくる。いま二体とも、ちょうどいい張力で相手を保持している。暴れているが、出力は大したことない」
「せめて呪術的に説明しろよ」
黒井は、夏油と五条の会話を聞きながら、理解することを途中で諦めた顔になった。
「つまり、敵はすでに捕まっているのですね」
「はい。理子ちゃんに近づく前に止められました」
夏油はそう言って、校舎の方へ目をやった。
「ただ、確認は必要です。監視用とはいえ、あの子たちは加減がまだ少し苦手なので」
「加減が苦手な監視を学校に置くなよ」
「そこは教育中だよ」
「呪霊を?」
「もちろん」
五条が小さく笑った。呆れているのか、もう面白がっているのか、自分でもよくわからなくなっている顔だった。
夏油は黒井へ向き直る。
「黒井さんは理子ちゃんのそばに。おそらく校内に入り込んだ者はこの二人だけですが、念のためです」
「承知しました」
「じゃ、見に行くか。お前の筋肉呪霊が校内で何してるか」
「人聞きが悪いな」
「女子校でふくらはぎとかが人間押さえつけてんだろ。人聞きの問題じゃねーよ」