夏油マッスル傑 作:めちゃく
舟皿の上で丸い生地が潰れ、ソースに濡れた蛸が湯気の奥から覗く。昼を少し外した店内は空いていて、壁際のテレビだけが場違いに明るい声を垂れ流している。甚爾は片肘をつき、携帯を耳に当てたまま、熱の残るそれを口へ運んだ。
『高専には戻らなかったな』
電話の向こうで、孔時雨が言った。
「ラッキーだな」
『星漿体は学校、護衛は二人。懸賞金に釣られた連中も動き出してる。ま、そこまではお前の読み通りか』
「賞金に釣られるバカも、時間を切りゃ少しはまともになる」
甚爾はもう一つ、たこ焼きを割った。箸先にソースが絡み、青海苔が少し落ちる。窓の外では人通りが絶えず、さっきまで別のビルの屋上から見下ろしていた騒ぎなど、街の表面にはもう残っていなかった。
五条悟と夏油傑が、Qの連中をあっさり潰した現場。
星漿体が落ち、五条が別の敵へ向かい、夏油が妙な呪霊を飛ばして少女を拾った。甚爾と孔はそれを離れたビルから見ていた。
距離はあったが、甚爾の目なら十分だった。人の動きと呪力の流れ、踏み込みの癖。そのどれもが明確に映っており、それを記憶している。
『で、いいのか。盤星教からお前に入る手付金、三千万。それを餌にして呪詛師を集めてるが、星漿体が殺られりゃ』
「ならねえよ、あっちには五条悟がいる」
甚爾の箸が、そこで一瞬だけ止まった。
「百年ぶりの無下限呪術と六眼の抱き合わせ。あいつがいる限り、星漿体はまず殺せない」
『だから雑魚をぶつけて削る、か』
「星漿体を殺せりゃ御の字。殺せなくてもいい。五条を休ませず、神経を張らせ続けりゃ、それで仕事になる」
孔が軽く笑う。甚爾は返さず、ぬるくなりかけた茶を飲んだ。たいしてうまくもないが、舌の油は流れる。
「それに」
『ん?』
「……あん時にいた黒髪のガキもいる」
『夏油傑か。呪霊操術の奴だろ』
「名前はどうでもいい。前髪のやつだ」
『お前、名前覚える気ねえだろ』
「特徴がある方が悪い。それに男の名前はいつまで経っても覚えられねぇな」
甚爾は、皿の端に流れたソースを箸先でなぞる。
思い出すのは、あの立ち方だった。呪霊操術師。普通なら、距離を取って手駒で押す。本人は後ろに立ち、術式の数と質で場を作る。
そういう連中は、本人の肉体が遅れることが多い。手駒が強ければ強いほど、自分の足で詰める必要が薄くなるからだ。
だが、あれは違った。
「ああいう術式持ってると、術師本人は雑魚の場合が多い」
『まあ、手駒で戦う型ならな』
「ヤツは相当鍛えてる。立ち方が違う。肩と腰が浮いてねえし、踏み込みも速い。距離を詰める前から、もう体が戦う形になってた」
『高専で体術もやるんだろ』
「習った動きじゃねえ。使ってる動きだ、俺以上に分かるやつなんざいねぇよ」
甚爾は淡々と言った。
あの時、Qの呪詛師が一人やられた。名前までは知らない。知る必要もない。ただ、黒髪の術師が呪霊を使わずに間合いを潰し肩から入り、組んで落とした。
付け焼き刃ではない。
甚爾はたこ焼きを口へ入れ、少しだけ噛む速度を落とした。
「本人も動ける、見えねぇが恐らく呪霊も明確な役割を持ってる。五条悟とは別の意味で削るのに手間がかかる」
『五条と夏油、二枚まとめて削るつもりか』
「削れるならな。雑魚じゃ無理だろうが、手の内は出る」
『見物してた甲斐はあったってわけだ』
「少しはな」
孔は電話口で息を吐いた。からかうような、けれど仕事の勘所だけは外さない声だった。
『しかし、変なの引いたな。五条だけでも面倒なのに、横に妙な呪霊操術師つきかよ』
「五条ほどじゃねえがな」
甚爾は最後の一つを箸で挟んだ。冷めていた。さっきまで熱かったものが、会話の間にすっかり丸くなっている。
『時間制限をつけたのは正解だったな。呪詛師はよく集まってる』
「それだけじゃねぇが……あと金な。三千万、ちゃんと戻せよ」
『バカ言え、その辺の匿名掲示板じゃねぇんだぞ、それにな』
甚爾は携帯を耳から離した。
「電波悪ぃな」
『おい、聞こえてんだろ』
「もしもし」
『伏黒』
「もしもし。駄目だな、これ」
『お前な——』
通話を切る。
甚爾は携帯を卓上に放り、空になった舟皿を見下ろした。ソースの跡だけが残っている。伝票を指で挟み、立ち上がる。外は白く、昼の光がまだ強かった。
プール棟と本校舎を繋ぐ渡り廊下の脇、植え込みと非常階段の影が重なるあたりに、妙な静けさが落ちている。ついさっきまで女学生たちの声が薄く流れていたはずなのに、その一角だけ空気がよどんでいた。
原因はすぐに見つかった。
二体の筋肉呪霊が、二人の男を全身ごとミシミシと押さえつけている。
一人は白いバンダナを巻き、丸い眼鏡をかけた初老だった。細身だが、指先の運びには妙な粘りがあり、懐にはまだ式札らしきものが何枚か覗いている。
もう一人は紙袋を頭から被った筋肉質な男で、肩と胸板ばかりやたら発達している。だが、その立派な肉体も今は意味をなしていない。前鋸筋二号が肋骨の動きを読んだ角度で上半身を壁へ押しつけていたからだ。
骨が軋む音が、控えめに鳴っている。
五条はその光景を見て嫌そうな顔になった。
「……お前の呪霊、やっぱ嫌だな」
「よく働いてくれているよ」
夏油は穏やかに答えた。答えながらも視線は二人の侵入者ではなく、校舎の方へ一度だけ向く。
それに気づいた五条が眉を上げた。
「黒井さん一人で行かせて大丈夫か?」
「大丈夫だよ。黒井さんの周囲には監視用の眼筋呪霊と、縮小した拳型呪霊を置いてある。心配はいらない」
「何だよ眼筋呪霊って」
「眼輪筋を強調した観測特化型だね。視認性と追尾性が高い。拳の方は、いざという時に鼻っ柱を折る役目だ」
「拳って、そんなんでいけんの?」
「1cmほどに縮小してある。本来のサイズは2m弱かな」
「へ〜」
二人の侵入者の前で足を止め、拘束の具合を見ている。腓腹筋三号が老人の片腕と両脚を締め、前鋸筋二号が紙袋の男の胸郭ごと押さえ込んでいた。
五条は片手をポケットに突っ込んだまま、気楽に言う。
「で、どう尋問する? ボコるのが一番手っ取り早いか?」
「いや」
夏油は少し考えるように顎へ指を添え、それから静かに首を振った。
「こういう手合には、もっといい方法がある」
その言葉と一緒に、筋肉呪霊へ軽く手を振る。
「二人とも、一度離れてくれ」
拘束がふっと緩んだ。
老人はその場へ崩れ落ち、紙袋の男は壁に片手をついて息を荒げた。開放されたばかりだというのに、二人ともすぐには動かない。夏油の背後に控えた呪霊たちが、まだ視界の端でぴくぴくと筋を鳴らしているからだ。
老人が息を整えながら、低く吐く。
「ぐ、ぅ……呪霊操術か……!」
その声には、驚きより警戒が勝っていた。式神使いとして、目の前の術式がどれだけ厄介かは理解しているのだろう。理解しているからこそ、無理に札へ手を伸ばさない。
だが、紙袋の男は違った。
「っざけんなよ……! 化け物みてえな呪霊出しやがって!」
悪態とほぼ同時に、その身体がぶれた。
一人が二人、二人が三人、三人が四人へ増える。紙袋を被った筋肉質な男が、廊下の影を埋めるように並んだ。どれも肩幅が広く、腕が太い。
五条が少し面白がる。
「へえ」
その一瞬を狙って、一体が夏油の背後へ回り込んだ。
靴音ひとつ立てずに距離を潰し、拳が振り抜かれる。後頭部へ叩き込むつもりだったのだろう。けれど、その拳が届く前に、夏油の左手が後ろへ流れた。
乾いた音がした。
殴ったはずの分身の方が、顔面から弾け飛ぶ。紙袋が裂け、身体が歪み、霧のように消えた。
「!」
残った分身たちが足を止める。
夏油は振り向きもしないまま、少しだけ感心したように言った。
「なるほど。良い術式だ」
紙袋の男が舌打ちする。
「最大五人まで増やせて、恐らく任意に本体を入れ替えられる。奇襲、攪乱、退避、どれにも向いている。練ればかなり面白い」
褒められているのか分析されているのか判断がつかず、紙袋の男はかえって気色ばんだ。
「舐めてんじゃねえぞ!」
四方から分身が散る。二階の手すりへ飛ぶもの、植え込みを踏み越えるもの、真っ直ぐ距離を詰めるもの。本体がどこへ混ざったのか、普通なら見失う。
普通なら、だ。
「なら──」
夏油が、そこで一歩だけ前へ出た。
声は落ち着いていた。授業で黒板へ答えを書く時みたいな、妙に整った響きだった。
「『
次の瞬間、夏油の背後から、腕が生えた。
一本や二本ではない。肩甲骨のあたりから、黒い呪力の筋を浮かせた巨大な腕と拳が、花が開くように拡がる。上腕、前腕、拳。筋肉の束をそのまま武器にしたような呪霊が、幾重にも重なって拡散した。
その異様な光景に、五条でさえ一瞬だけ黙った。
腕は、逃げ場を選ばせない。
右へ逃げた分身の頭を拳が叩き潰し、左へ跳んだものを別の腕が壁へ打ちつけ、手すりへ上がったものを下から握り潰す。植え込みへ潜った一体も、地面ごと抉り上げられて消えた。
本体が入れ替わる暇もない。判別する必要すらなかった。全部まとめて潰せば済む話だからだ。
最後に残った一体が、咄嗟に後ろへ引こうとした。
夏油はようやくそちらを見た。
「そっちが本体だ」
答えを待たず、最後の拳が落ちる。
ぐしゃり、と鈍い音がして、紙袋の男はその場へ沈んだ。床に貼りつき、もう動かない。紙袋だけが少し遅れて、ぺしゃりと傾いた。
五条が、心底嫌そうな顔で口を開く。
「うっわ、なんだそれ」
夏油の背後で、巨大な腕たちがぼろぼろと崩れ始めた。役目を終えた呪霊が、砂のように解けて消えていく。
「呪霊掛術だよ。私が肉体改造に目覚めた後、導き出した拡張術式の一つだ」
「その名の通り、呪霊を掛け合わせて更に強化できる。用途の近い呪霊同士を重ねると、単独運用よりも爆発的な出力が出るんだ。掛け合わせた呪霊たちは、使った後は消滅してしまうけれどね」
「ソシャゲみてえ」
「大切な情報だよ」
老人はそのやり取りを聞きながら、眼鏡の奥で目を細めていた。逃げる気配はない。いや、逃げられないのだろう。逃げれば今の拳が自分に来ると理解している。
夏油はまず紙袋の男へ歩み寄った。しゃがみ込み、その肩を二度ほど軽く叩く。
「起きたまえ」
反応がない。
五条が横から覗き込む。
「死んでねえよな?」
「もちろん」
夏油は気絶している男の頬を、今度は少し強めに叩いた。紙袋がふるえ、男がうめきながら身じろぎする。意識が浮いたところで、夏油は満足したように頷いた。
「よし」
それから、今度は老人へ視線を向ける。
「あなたも」
老人は苦々しげに口を歪めた。
「何だ」
「少し話をしよう」
五条は横で腕を組んだ。
「傑の言い方で始まる時だいたい碌な話じゃねえんだよな」
「そんなことはないよ」
「ある」
夏油は否定しなかった。否定せず、倒れたままの紙袋の男と、壁に背をつけた老人を見比べる。
「まず、君たちの現状から整理しよう」
老人の眉が寄る。紙袋の男はまだ意識が定まりきっていないのか、ぼんやり顔を上げただけだ。
「君たちは星漿体を狙って学院へ侵入した。だが、護衛に阻まれた。ここまでは事実だね」
「……だったら何だ」
老人が吐き捨てると、夏油は穏やかに頷く。
「問題はその先だよ。君たちは、目的設定も負荷管理も甘い」
「式神使いであるあなたは、式の運用に長けている。それ自体は立派だ。けれど、術式に身体が追いついていない。肩が前に入り、踏ん張りが利かない。いざという時に式へ頼りすぎる人の崩れ方だ」
老人が露骨に嫌そうな顔をした。
「……何を言っている」
「生活指導だよ」
「聞いていない!」
「聞くべきだ。今後の人生に関わる」
紙袋の男がようやく上体を起こしかけ、そこで胸を押さえて顔をしかめた。夏油はその胸板へ視線を落とす。
「それと君」
「……あ?」
紙袋越しでも、警戒と反発がにじんでいる。
夏油は本当に惜しむような顔をした。
「君は実に良い筋肉を持っている」
紙袋の男が固まった。
五条はもう笑いを堪えていない。
「肩も胸も背中も、ちゃんと育っている。腕も太い。術式との相性もいい。分身による攪乱は、反復と持久の概念と噛み合う。なのに、なぜそんな素晴らしいものを持ちながら悪の道に落ちてしまったんだ」
「知るかよ!」
「もったいない」
夏油は悲しそうな顔で言った。その悲壮感があまりに本気なので、紙袋の男は返答に困る。
「筋肉は人を支えるためにある。少なくとも、学院に侵入して女子中学生を狙うためのものではない」
「そこは普通だな」
五条がぼそりと言った。
「普通のことを言っているだけだよ」
「途中までだいぶ変だったけどな」
その後も、説教は続いた。
式神使いの老人には、術式へ依存するあまり本人の身体が軽くなっていることを、紙袋の男には、せっかく鍛えた肉体を犯罪で消耗していることを。呼吸の浅さ、足幅の狭さ、食事の偏り、目的意識の甘さ、そして何より、力の使い道の貧しさについて。
五条は最初こそ横で聞いていたが、途中から壁へもたれ、さらに途中から欠伸をし、気づけばどこかへ消えていた。たぶん自販機か、あるいは面倒になって別の見回りへ行ったのだろう。夏油は気づいていたが、特に止めなかった。
渡り廊下の脇には、妙に静かな気配が漂っていた。
白いバンダナの老人は、さっきまでの険しさをだいぶ失い、膝の上へ両手を置いて座っている。
紙袋の男は、いつの間にか紙袋を脱いでいた。汗だくの顔で、だが目だけは変に澄んでいる。
最初に口を開いたのは、老人だった。
「……もう呪詛師は辞める」
声は低かったが、妙な晴れやかさがあった。
「式神に頼る前に、自分の足で立てと言われたのは初めてだ」
「良い判断です」
夏油は満足そうに頷いた。
「基礎からやり直せば、まだ伸びますよ」
老人は複雑そうな顔をした。複雑そうなまま、しかし否定はしない。
一方、紙袋の男は、じり、と夏油へにじり寄ってくる。
「トレーナー……!」
呼び方が変わっていた。
夏油は少しだけ首を傾げる。
「私かい?」
「他に誰がいるんだよ! 俺、わかったんだ。今までの俺は、鍛えてるつもりで、ただ力を振り回してただけだった。筋肉を持ってることと、筋肉を使えてることは違うんだな……!」
「そうだね」
「トレーナー、俺を弟子にしてくれ!」
勢いよく頭を下げる。さっきまで学院に侵入していた呪詛師とは思えない必死さだった。
夏油はしばらく彼を見ていたが、やがて静かに頷いた。
「なら、今までの罪を精算することだ」
紙袋の男が顔を上げる。
「精算……」
「逃げずに償う。それからだよ。鍛えるのは」
夏油の声は穏やかだった。穏やかだが、そこで線を引く固さもある。紙袋の男はその固さを正面から受けとめ、何度も頷いた。
「わかった。やる。俺、ちゃんとやる……!」
老人も隣で、諦めたように言う。
「……私も、然るべきところに身を預ける。式神の前に、人として立てというなら、その順序だろう」
「ええ」
夏油は柔らかく笑った。
「それがいい」
渡り廊下の向こうでは、女学生たちの声がまだ遠く響いていた。プールの水音もかすかに混じる。学院の日常は、そのまま流れている。
その日常の端で、呪詛師が一人更生し、もう一人が弟子入りを願い、そして白髪の親友はいつの間にかいなくなっていた。
夏油はその不在を気にすることなく、元呪詛師たちへ向き直る。
「では、まずは反省と整理、君達の具体的な目的の説明から始めようか」
紙袋の男が勢いよく背筋を伸ばした。
「押忍、トレーナー!」
老人は目を閉じた。
「……本当に始めるのか」
夏油は真面目な顔で答える。
「もちろんです。人生のフォーム修正は、早い方がいいですから」