夏油マッスル傑   作:めちゃく

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夏油マッスル傑 5.5

 

 

 

 廉直女学院での一日は、思いのほか穏やかに終わった。

 

 理子は友人たちと笑い、怒り、教師に少し叱られ、何事もなかったような顔で校門を出てきた。しかし、何事もなかったわけではない。

 

 午前中にビルから落ち、巨大な筋肉腕に抱えられ、呪詛師に命を狙われ、ついでに天元様向け疑似プランクの説明まで聞かされている。

 

 それでも、学院の制服を着て友人の中に戻った理子は、やはり普通の中学生だった。

 

 その普通さを見て、五条は退屈そうにしていたし、夏油は妙に静かだった。黒井は少し離れた場所から理子を見守り、時折、夏油に言われた呼吸を思い出したように肩を下げていた。

 

 高専へ戻る頃には、空はだいぶ暮れていた。

 

 理子と黒井は与えられた部屋へ入り、夜蛾への報告も一通り済んだ。五条と夏油は校舎の外廊下に残った。古い木材の匂いと、山の湿った空気。遠くで虫が鳴いている。

 

 五条は自販機で買った缶を片手で弄んでいた。飲むでもなく、ただ指先で回している。

 

「天内、思ったより普通にしてたな」

 

「うん」

 

 夏油は欄干に軽く背を預け、庭の方を見ていた。

 

「普通にしていたかったんだろうね」

 

「あれで?」

 

「そう見えたよ」

 

 五条は鼻で笑った。

 

「まあ、ガキだしな。学校とか友達とか、そういうのが大事なんだろ」

 

「悟にもそういう時期があったんじゃないかい」

 

「ないね」

 

「即答だな」

 

「俺、生まれた時から俺だし」

 

「嫌な乳児だ」

 

 五条は缶を夏油へ投げた。夏油は片手で受け取り、そのまま返す。缶は空中で軽く回り、五条の掌に戻った。

 

 しばらく、二人は黙っていた。

 

 昼間の騒ぎに比べれば、夜は拍子抜けするほど静かだった。何度か敵が来る可能性を考え、夏油は周辺に呪霊を置いた。五条も気配には意識を向けている。だが、高専の結界内にいるというだけで、外とは負担の質が違った。

 

 

 


 

 

 

 二日目の昼前、夏油は当たり前のように言った。

 

「呪術師御用達のジムがあるんだ」

 

 五条は、廊下の柱に寄りかかったまま、サングラスの奥で目を細めた。

 

「何の話?」

 

「今日の予定だよ」

 

「予定?」

 

「うん。午後に少し身体を動かしに行こうと思っている」

 

 五条は一度、何も言わずに夏油を見た。

 

 夏油は普段通りだった。制服姿で、髪も整っていて、表情も穏やか。だが片手には、すでに畳まれたトレーニングウェアがある。行く気満々で、相談の形を取った宣言だった。

 

「安全面的に高専ずっといた方が良いだろ」

 

「それはそうだね」

 

 夏油はあっさり認めたが、言葉を続ける。

 

「呪霊は周りに配置しておく。中は術師しかいないから、万が一襲われても対応できる」

 

「術師しかいないジムって何だよ」

 

「あるんだよ。呪術師御用達のジムが」

 

「御用達にすんな」

 

「プロテインの品揃えもいい。流石に呪霊玉は置けなかったけれどね」

 

「知らねーよ」

 

 五条は缶飲料を開けた。ぷしゅ、と音がする。夏油の話を聞く時には、何か手元にないとやっていられない。

 

 夏油は真面目な顔で続けた。

 

「護衛中でも、日課のトレーニングは欠かせないんだ。1日でも怠れば筋肉がなまってしまう」

 

「なまんねーよ、1日で」

 

「なまるよ」

 

「どこの筋肉が」

 

「心の筋肉も含めてだ」

 

「逃げ道増やすな」

 

 五条は缶を口に運びかけて、やめた。夏油が、いつもの筋肉理論だけで押している顔ではなかったからだ。

 

「それに、同化までずっと高専にいるのもなんだろう。確かに理論的にそれが一番良いかもしれないが」

 

 夏油は廊下の外へ視線を向けた。庭の木々が風で揺れている。夏の光が葉の隙間から落ち、床板に細い影を作っていた。

 

「もちろん、それ以外にも行きたい所があれば応える。理子ちゃんや黒井さんのリフレッシュにもなる」

 

「天内はまだ百歩譲って理解できる。黒井さんはちげーだろ」

 

「黒井さんは基礎がある。棒術の動きから見ても、体幹と肩甲骨まわりを整えるだけでかなり動きがよくなるはずだ」

 

「黒井さんを巻き込むなよ」

 

「本人が望めば、だよ」

 

 五条は黙った。

 

 夏油は、声の調子を少しだけ落とした。

 

「私としてはね、どうせなら沢山新しいことをして、せめて理子ちゃんの心身を最高の状態にまで引き上げたいと思っている」

 

 その言い方には軽さがなかった。

 

 天元との同化までの時間は決まっている。理子がどう言おうと、笑っていようと、怒っていようと、その事実は変わらない。なら、その前に何をさせるか。何を残すか。

 

 五条は、缶を持ったまましばらく黙った。

 

 黙ったあとで、ゆっくり口を開く。

 

「傑──」

 

「うん」

 

「お前……本音言えよ」

 

「……何?」

 

 夏油はしかめ面になり首を傾げながら、上半身の服を脱いだ。

 

 唐突だった。

 

 制服の上着を肩から外し、シャツのボタンをいくつか開け、そのまま滑らかに脱ぐ。廊下の光の中で、胸板が出る。肩が出る。

 

 さっきまで理子の心身だの、新しい経験だのと言っていた男の上半身が、やけに仕上がっていた。

 

 五条は缶を持ったまま固まった。

 

「いやだから……おい胸筋ピクピクさせんのやめろ」

 

 夏油は脱いだ制服を丁寧に畳んだ。畳み方がきれいだった。そこだけはいつも通り礼儀正しい。上半身が裸でなければ、かなり品のある動作だった。

 

「──ジムで話そうか、悟」

 

「結局行きたいんじゃねーかよ」

 

「行きたいよ」

 

「お前が今まで理子と黒井さんのリフレッシュとか言ってた時間、全部何だったんだよ」

 

「それは本当さ」

 

 夏油はシャツの代わりに、黒いトレーニング用の上着を羽織った。袖を通す時、肩まわりで布が少し鳴る。五条はそれを見て、また嫌そうな顔をした。

 

 その時、廊下の向こうから理子の声がした。

 

「何じゃ、もう出るのか?」

 

 理子と黒井がこちらへ歩いてくる。理子は制服姿ではなく、動きやすい服装に着替えていた。黒井も外出の支度を整えている。どうやら夏油がすでに話を通していたらしい。

 

 五条は夏油を見た。

 

「根回し済みかよ」

 

「確認はしたよ」

 

「俺には相談してねーじゃん」

 

「今している」

 

「事後報告って言うんだよ、それ」

 

 理子は夏油の格好を見て、露骨に顔をしかめた。

 

「前髪、なぜ脱いでおる」

 

「ジムに行くからね」

 

「じむ」

 

「身体を鍛える場所だよ」

 

 理子は一拍置いてから、五条へ顔を向けた。

 

「帰るぞ」

 

「珍しく意見合ったな、天内」

 

「妾は鍛錬などせぬ!」

 

 夏油は理子の言葉をまったく責めない顔で頷いた。

 

「見学だけでもいい。新しい場所を見るのは悪くないよ」

 

「妾は天元様じゃぞ。見学される側じゃ」

 

「なら、今日は逆を経験しよう」

 

「なぜそうなる!」

 

 黒井が困ったように口を挟んだ。

 

「お嬢様、外出はお気分転換にもなりますし、夏油様が安全面も確認してくださっているようですので」

 

「黒井まで……」

 

「それに、私は少し興味があります」

 

 黒井が小さく言うと、理子は信じられないものを見る顔になった。

 

「く、黒井?」

 

「改めて、身体の使い方を見直すのは悪くないかと」

 

 夏油が満足そうに頷いた。

 

「素晴らしい判断です」

 

「褒めるでない! 黒井がそちら側に行く!」

 

 五条は缶を飲み干し、空き缶を軽く振った。

 

「もういいわ。行くならさっさと行こうぜ。どうせ護衛は必要だし」

 

「悟もトレーニングするかい」

 

「しねーよ」

 

「では、見学から」

 

「しねーって」

 

「理子ちゃんも、まずは軽いストレッチだけで」

 

「せぬ!」

 

 夏油は穏やかに笑った。

 

「大丈夫。無理はさせないよ。こう見えて実績がある」

 

 

 





懐玉・玉折編の日常パートってほぼ無かったよな…
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