夏油マッスル傑   作:めちゃく

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夏油マッスル傑5.5(2)

 

 

 

 

 

 そのジムは、町の外れにあった。

 

 表通りから少し外れた坂道を上がり、民家の間を抜け、古い石垣に沿ってさらに奥へ進む。観光客が迷い込むような場所ではない。

 

 地図に出しても近くまでは来られるが、最後の十数メートルで必ず行き止まりに見える。そういう作りになっていた。

 

 理子はその道中、ずっと不満そうだった。

 

「妾は納得しておらん」

 

 五条は前を歩きながら、あくびを噛み殺した。

 

「知ってる。ここまでずっと言ってるし」

 

「ならば戻れ!」

 

「俺に言うなよ。言い出したの傑だし」

 

 五条が顎で前を示す。夏油は先頭を歩いていた。片手に鞄、もう片方の手には会員証らしき黒い札を持っている。足取りはいつもより少し軽い。

 

 黒井は理子の横を歩き、彼女が本当に引き返そうとするたび、さりげなく肩を押し戻している。

 

「お嬢様、せっかくですから一度だけでも」

 

「黒井まで裏切るのか」

 

「裏切りではございません。見学です」

 

「見学と言いながら、あやつは絶対に妾を動かすつもりじゃ」

 

 理子の視線の先で、夏油が振り返った。

 

「無理はさせないよ。最初は呼吸と軽い可動域確認だけでいい」

 

「ほら見ろ! もう始める気じゃ!」

 

「呼吸は誰でもしているだろう」

 

「そういう問題ではない!」

 

 五条は笑いながら、夏油の隣へ並んだ。

 

「で、ここ本当に大丈夫なんだろうな。鍛えるにしても高専のが良かったんじゃねーの」

 

「もちろん高専は安全だよ。ただ、ここも外から見えるよりは堅い」

 

 夏油は足を止めた。

 

 目の前には、古びた木戸と、その奥に続いていそうで続いていない細い道がある。

 

 行き止まりにしか見えない。理子は眉をひそめた。

 

「何もないではないか」

 

「あるよ」

 

 夏油は黒い会員証を指で挟み、木戸の脇に掲げた。札の表面に淡く呪力が流れる。すると、ただの石垣だったはずの場所に、薄い水面のような歪みが走った。

 

 五条がサングラスの奥で目を細める。

 

「へえ」

 

 理子は一歩後ろへ下がった。

 

「なんじゃ、今の」

 

「結界だよ」

 

 夏油は会員証をしまいながら説明した。

 

「会員証と、その会員本人の呪力を照合して通れるようになっている。会員と同伴する者がいる場合は、会員側が受け入れることで一緒に入れる」

 

「ただのジムにか?」

 

 五条が言うと、夏油は少しだけ得意そうにした。

 

「呪術師御用達だからね」

 

「こんな高度な結界術、誰が作ったんだよ」

 

 その問いに、夏油は当たり前のように答えた。

 

「同じ志を持った仲間たちと共に作り上げたんだ」

 

「志?」

 

「鍛錬の志だよ」

 

 五条はそこで少し嫌な顔をした。だが、夏油は気にせず続ける。

 

「中心は私だけどね。夜蛾先生も協力してくれた」

 

「先生何やってんだよ」

 

「安全確保のためだよ」

 

「絶対途中から面倒になって許可出しただけだろ」

 

 理子が横から小声で黒井に聞く。

 

「黒井、帰れるか?」

 

「お嬢様、ここまで来ましたので……」

 

 夏油が手を差し出すようにして、結界の中へ入るよう促した。

 

「大丈夫。私が受け入れるから、そのまま通れるよ」

 

「むむ……」

 

 理子は黒井に背中を押されながら、渋々結界をくぐった。

 

 視界が一瞬だけ白く揺れ、次の瞬間、目の前に建物が現れた。

 

 外からは見えなかったはずの場所に、綺麗な建物があった。木造を基調にしているが、古びた感じはない。深い色の柱、磨かれた石畳、大きな軒。

 

 神社や道場に近い荘厳さがありながら、入口の横には控えめに「GYM」と書かれた看板がある。

 

 理子はその看板を見て、さらに嫌そうな顔になった。

 

「なぜそこだけ英語なのじゃ」

 

「雰囲気だよ」

 

 扉を開けると、受付に木造の呪骸が座っていた。

 

 人の形をしているが、肌は木目のまま。丸い目が二つあり、首に小さなタオルを掛けている。胸元には「受付」と書かれた札。動きは妙に丁寧で、夏油を見ると、ぎこちなく頭を下げた。

 

「オツカレサマデス、ゲトウサン」

 

 理子が飛び上がった。

 

「なんじゃアレは!?」

 

「受付だよ」

 

 夏油は普通に答えた。

 

「見ればわかるじゃろ! なぜ木が喋る!」

 

「夜蛾先生作の呪骸だ。会員管理と施設案内をしてくれる」

 

「受付を呪骸に任せんなよ」

 

 五条が言うと、夏油は会員証を受付に見せた。

 

「人件費の問題もあるからね」

 

 

 

 

 

 中は外観よりさらに広かった。

 

 床は清潔で、壁には護符と姿見が並び、トレーニング器具はどれも手入れされている。広いフリーウェイトエリアには、かなりの人数がいた。

 

 ほとんどが術師だろう。視線の置き方、立ち方、呪力の流れが普通の人間とは違う。

 

 筋骨隆々な男が多い。これは理子にもわかった。だが、女性も少なくない。細身でも芯が強そうな者、背中の厚い者、柔軟をしているだけで気配が鋭い者。

 

 理子は少しだけ圧倒されていた。

 

「……本当にジムなのか? 道場ではなく?」

 

「ジムだね」

 

「何が違うのじゃ」

 

「プロテインの種類かな」

 

 その時、奥の方から小さな足音が二つ走ってきた。

 

「夏油トレーナー!」

 

「トレーナー!」

 

 呼ばれた夏油が振り返る前に、二人の子供が駆け寄ってきた。

 

 一人は色白で、黒髪を下ろした少女だった。表情はあまり動かないが、夏油を見る目だけが少し明るい。もう一人は褐色の肌に金髪の少女で、こちらは遠慮がない。二人とも動きやすいトレーニングウェアを着ている。

 

 黒髪の少女が美々子、金髪の少女が菜々子だった。

 

 菜々子は夏油の前でぴたりと止まると、すぐに五条へ目をやった。

 

「あ、グラサンもいるじゃん」

 

 五条の眉が動いた。

 

「誰がグラサンだ」

 

 美々子も遅れて五条を見る。

 

「グラサンさん」

 

「丁寧にすればいいってもんじゃねえぞ」

 

 菜々子は五条の全身をざっと見た。

 

「グラサンも鍛えたいの?」

 

「鍛えに来たんじゃねえよ」

 

「じゃあ何しに来たの」

 

「仕事」

 

「へえ。グラサンも仕事するんだ」

 

 五条はしばらく菜々子を見た。相手は子供で、しかも夏油の保護下にいる。だから殴るわけにはいかない。

 

「テメーらは鍛え方よりまず礼儀を覚えろ、ガキ共」

 

 菜々子は舌を出した。

 

 美々子は夏油の袖を少しだけつまむ。

 

「夏油トレーナー、今日は一緒?」

 

「うん。ちょうどいい。皆で一緒にトレーニングしようか」

 

 夏油は理子の方を見た。

 

「この子達も来たばかりだし、友達が増えるのは良いことだ」

 

 理子は身構えた。

 

「妾を巻き込むな」

 

 夏油はその反応を見ても、特に困った顔をしなかった。むしろ、何かを思いついたように美々子と菜々子を呼び、少し離れた場所へ連れていく。

 

 夏油は二人の前にしゃがみ、声を落とした。

 

「そこにいる理子ちゃんは、どうやらトレーニングが初めてなようでね。少し嫌がっているんだ」

 

 菜々子は理子をちらりと見た。

 

「あの偉そうな子?」

 

「偉そうではなく、立派な子だよ」

 

「偉そうじゃん」

 

「菜々子」

 

「はい」

 

 美々子は黙って理子を見ていた。少しだけ首を傾ける。

 

「怖いの?」

 

「初めての場所だからね」

 

 夏油は二人に優しく言った。

 

「だから、君たち二人で気分を上げさせて、なんとか楽しませてあげて欲しい」

 

 菜々子はすぐに笑った。

 

「いいよ。任せて、トレーナー」

 

 美々子も小さく頷く。

 

「やる」

 

「ありがとう」

 

 夏油が立ち上がる頃、理子はまだ入口側で腕を組んでいた。

 

「こんなところ来るくらいなら旅行にでも行きたかった! 今からでも日帰りだったら間に合うのじゃ!」

 

 黒井が困ったように横で見守っている。五条はその様子を面白そうに眺めていた。

 

 そこへ菜々子が走っていった。

 

「お姉さん」

 

 理子の動きが止まった。

 

「……妾か?」

 

「うん。お姉さん、ジム初めてなんでしょ」

 

 菜々子は遠慮なく理子の前に立つ。美々子は少し後ろにいて、理子の服装や靴を静かに見ていた。

 

「最初は難しいのしないよ。ストレッチとか、軽いやつ。終わったあと、身体が軽くなるんだよ」

 

 美々子も頷いた。

 

「気分がよくなるの」

 

 理子は警戒しながらも、さっきより少し声が弱くなった。

 

「そ、そうなのか?」

 

「うん。トレーナーも怖くない。変だけど」

 

「そこは否定せぬのじゃな」

 

「でもいっぱい優しい」

 

 美々子が言った。

 

 理子は少し黙った。お姉さん、と呼ばれたことが効いていた。黒井はそれに気づいたが、何も言わない。ただ、口元だけが少し緩んでいる。

 

 菜々子は理子の手首を軽く引いた。

 

「一緒にやろ。お姉さんがいると、私たちも楽しいし」

 

 理子は顎を上げた。

 

「そ、そんなにやりたいなら、付き合ってあげなくもないのじゃ」

 

 五条が遠くで小さく笑った。

 

 理子はすぐにそちらを睨む。

 

「何を笑っておる!」

 

「別に」

 

「妾はお姉さんじゃからな。子供のお願いを聞くのは当たり前じゃ!」

 

 菜々子がにこっと笑い、美々子は理子の袖を少しつまんだ。黒井は暖かい目でその三人を見ていた。

 

 理子はそのまま、二人に連れていかれた。連行に近かったが、本人は最後まで胸を張っていた。

 

 五条はそれを見送ってから、夏油へ顔を向ける。

 

「アイツもチョロいけど、ガキ共もお前によく教育されてんな」

 

「まあね」

 

 夏油の声には、少しだけ柔らかいものが混じった。

 

「私の大事な門下生さ」

 

 五条は何か言いかけたが、やめた。美々子と菜々子が夏油を見る目を、さっき見ていたからだ。

 

 夏油は軽く肩を回した。

 

「さて、悟も一緒に鍛えようか」

 

「やらねーよ」

 

「トレーニングが嫌なら、筋肉に効く対決でもいいよ。君ならできるだろう」

 

 夏油の声は穏やかだった。だがその穏やかさの奥に、五条にはよく知った色が見えた。挑発の前段階である。

 

 五条は目を細める。

 

「お前今のははだいぶ安い餌だぞ」

 

「そうか。じゃあ、もう少し正確に言おう」

 

 夏油は五条の正面に立った。視線の高さはほとんど変わらない。近くでは術師たちが自分のメニューをこなしているが、二人の会話に気づいた数人が、少しだけこちらへ意識を向けていた。

 

 夏油は声を荒げない。むしろ、いつもより丁寧に言った。

 

「悟。君は確かに強い」

 

「知ってる」

 

「無下限と六眼。術式の精度、認識能力、呪力操作。どれを取っても、君は間違いなく規格外だ」

 

「知ってるって」

 

「でもね」

 

 そこで夏油は一度、言葉を切った。

 

 五条の口元から笑みが少し消える。夏油がこういう切り方をする時は、大抵ろくなことを言わないと知っているからだ。

 

「それは、無下限と六眼が機能している前提の強さだ」

 

 五条はサングラス越しに夏油を見る。

 

「あ?」

 

「君が強いのは事実だ。けれど、もし万が一、無下限を破られたらどうする?」

 

「破られねーよ」

 

 夏油は素直に頷いた。

 

「だが、普通ではない相手が来ないとは限らない。術式をすり抜ける呪具、無効化、領域、奇襲。考えられる条件はいくつかある」

 

「俺に説教?」

 

 夏油は少しだけ笑い、「助言だよ」と呟いた。

 

「君は術式に対する信頼が強い。それは悪いことじゃない。強みを信じるのは当然だ。でも、強みが一つ抜かれた瞬間に身体が遅れるなら、それは弱点だよ」

 

 五条の指が、サングラスの縁に触れた。

 

「俺の身体が遅いって言ってんの?」

 

「いや、鍛えていないと言っている」

 

 五条が乾くように笑った。

 

「君の反応速度は速い。身体能力も高い。だが、それは「高い」のであって、「鍛え抜かれている」とは違う。生まれつきの土台と、術式に最適化された動きで成立している部分が大きい」

 

「へえ」

 

「君が悪いわけじゃない。必要がなかったんだ。無下限がある。六眼がある。大抵の攻撃は届かず、それを受ける身体を作る必要がない」

 

 五条は黙って聞いていた。

 

 黙っている時の五条は、機嫌がいいとは限らない。むしろ、笑っている時より面倒なことが多い。夏油はそれをわかった上で続けた。

 

「でも、届いたら?」

 

 その言葉は、軽く置かれた。

 五条の目元が、サングラスの奥でわずかに細くなる。

 

「届かせねーよ」

 

「それは術師として正しい。でも、届いた後の備えを捨てていい理由にはならない」

 

 夏油は近くの懸垂バーへ視線を向けた。そこでは一人の術師が静かに身体を引き上げている。反動を使わず、肘を引き、肩甲骨を下げている。夏油はそれをちらりと確認してから、五条へ戻った。

 

「体幹が強ければ、崩されても戻れる。背中が使えれば、押された時に逃げ道がある。握力があれば、失った姿勢を繋ぎ止められる。足腰ができていれば、術式の起動前に一歩動ける」

 

「全部術式でどうにかなんだろ」

 

 吐き捨てるように言えば、夏油は薄く目線を合わせるようにして笑う。

 

「今はね」

 

「今も今後もだろ」

 

「そう信じられるのは強さだ。でも、そう信じきるのは怠慢だよ」

 

 五条の口元から笑みが消えるが、夏油は相変わらず穏やかだった。

 

「悟、君は最強かもしれない。でも、最強だから鍛えなくていいという理屈はない。むしろ逆だ。最強なら、抜かれる可能性のある穴を残すべきじゃない」

 

 五条の口元が、少しだけ歪んだ。

 

 笑ったようにも見えるし、苛立ったようにも見える。普段ならすぐに茶化して流すところだが、今はそうしなかった。

 

「俺に穴があるって?」

 

 五条は軽く顎を上げた。

 サングラスの奥の目は見えない。それでも、視線が細くなったのはわかった。

 

 夏油は逃げるでも、言い直すでもなく、正面から頷いた。

 

「あるよ」

 

 すぐ近くでトレーニングしていた術師が、二人の空気に気づいて、無言で器具から離れた。

 

 五条は夏油の顔をしばらく見ていた。

 

 この手の話で引く男ではないと、五条は知っている。夏油は柔らかく言うが、引く時と引かない時の線がはっきりしている。そして今は、引かない側だった。

 

「言ってみろよ」

 

 夏油は五条の肩、背中、腰の置き方を順に見た。診断というより、観察だった。五条はそれに気づいて、少し眉を寄せる。

 

「筋持久力」

 

「は?」

 

 返事はすぐだった。

 五条の声には、呆れと軽い怒りが混じっている。予想していた弱点の方向と、夏油の答えがまったく噛み合っていなかったのだろう。

 

 夏油は特に慌てなかった。

 

「正確には、術式を抜きにした状態での継続出力と姿勢維持。それと、単純な反復動作への耐性」

 

 五条は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「それ、今必要か?」

 

 声が少し低くなっている。

 

 夏油はその変化を聞き分けたが、やめなかった。ここで退くくらいなら、最初から話していない。

 

「必要だよ。君が無下限を使わず、純粋な身体操作だけでどこまで動けるか。少なくとも自分で知っておくべきだ」

 

 五条は鼻で笑った。

 

 周囲の空気が少しだけ緩む。だが、完全には戻らない。五条の笑い方が、いつもの軽さとは違っていたからだ。

 

「知る必要ねーよ。使わねーし」

 

 そう言って、五条は片手をポケットに入れた。姿勢は崩れている。だが、それも意図的だった。夏油の言葉に乗っていないと見せるための動き。

 

 夏油は、そこも含めて見ていた。

 

「それを言うのが早計なんだ」

 

 五条の指が、ポケットの中で止まった。

 夏油は静かに続ける準備をしていた。表情は穏やかだったが、言葉を引っ込める気はなかった。

 

 夏油は五条の肩まわりを見た。

 

 失礼なほど真面目な視線だった。相手の身体を観察することに、ためらいがない。肩の高さ、首の入り方、立っている時の重心。

 

 五条はその視線に気づいた。サングラスの奥で目が細くなる。

 

「どこ見てんだよ」

 

「肩が高い」

 

「は?」

 

 五条の眉が動く。

 

「普段から術式の処理を優先しているせいか、首まわりに力が入りやすい。君は気にしていないだろうけど、疲労が溜まるとここに出る」

 

 夏油は自分の首の横を指で示した。

 

 五条はその手を見て、さらに顔をしかめる。診断されていること自体が気に食わないというより、診断内容が妙に具体的なのが嫌だった。

 

「勝手に診断すんな」

 

「脚は悪くない」

 

 夏油は五条の言葉を受け流した。

 

 視線が肩から膝、足元へ落ちる。五条は片足へ少し体重を乗せていたが、崩れているわけではない。楽に立っているようで、すぐ動ける余白はある。そこは認めるべきだった。

 

「でも、粘りは試してみないとわからない」

 

 五条はゆっくり息を吐いた。

 

 周囲の空気が、少しだけ静かになった。器具の音はまだしている。誰かが小さく数を数える声もある。ただ、二人の周りだけ、妙に間が空いた。

 

 それから五条は、サングラスに手をかけた。

 

 外す動作はゆっくりだった。怒っている時の雑さではない。自分で線を引く時の、妙に丁寧な動きだった。外したサングラスを指先で軽く振り、夏油を見る。

 

 夏油の口元が、ほんの少しだけ上がった。

 

 ほとんど見えない。けれど五条にはわかった。長い付き合いで、夏油が本当に面白がっている時の小さな変化くらいは見える。

 

「お前、今笑った?」

 

「いいや」

 

 夏油はすぐに否定した。

 

 否定したが、声が少しだけ楽しそうだった。五条はそれを聞き逃さない。

 

「笑ったよな」

 

「君がやる気になったのが嬉しくて」

 

「まだやるって言ってねーよ」

 

 五条は外したサングラスを持ったまま、夏油を睨む。青い目が、真正面から相手を捉えた。

 

 夏油は視線を逸らさない。むしろ、サングラスが外れたことで話が一歩進んだとでも言いたげだった。

 

「悟こそどうしたんだい?」

 

「目が疲れただけだ」

 

「ジムで?」

 

 夏油は不思議そうに聞いた。

 

 五条は一瞬だけ黙った。返す言葉はあるはずなのに、面倒になった顔だった。

 

「うるせえ」

 

 サングラスをポケットへ差し込む。

 

 夏油は、近くの懸垂バーへ歩き出した。

 

 五条はその背中を見て、すぐに気づく。もう種目を決めている。こちらの返事を待つ前から。

 

「では、まずは軽く懸垂から」

 

「誰が種目決めていいって言った」

 

 五条はその場を動かずに言った。だが、声にはもう拒絶より対抗心が混じっている。

 

 夏油はバーの前で振り返った。

 

「嫌なら変えるよ」

 

 言い方は柔らかい。選択権を渡しているように聞こえる。だが五条にはわかっていた。ここで種目を変えれば、夏油の土俵を避けたことになる。

 

 五条は即答した。

 

「変えねー」

 

 夏油は予想通りという顔をした。わかっていたような、少しだけ腹の立つ顔だった。

 

「いいのかい?」

 

 五条は夏油の隣へ歩く。

 

「お前が選んだ種目で潰す」

 

 

 

 


 

 

 

 理子たちの場所では、最初のストレッチが始まっていた。

 

「お姉さん、そこ違う。背中丸い」

 

「丸くなどなっておらぬ」

 

「なってる」

 

 美々子が短く言う。

 

 理子は反論しようとして、鏡に映った自分を見た。たしかに少し丸い。悔しそうに背筋を伸ばすと、菜々子が嬉しそうに頷いた。

 

「できてるじゃん。お姉さん、けっこう才能あるよ」

 

「そ、そうか?」

 

「うん。初めてにしてはちゃんと動くし」

 

 理子は目に見えて機嫌を直した。

 

「まあ、妾は天元様じゃからな」

 

「天元様って身体硬いの?」

 

「知らぬ!」

 

 黒井は少し離れて見守っていたが、菜々子がふと声をかけた。

 

「黒井さんもやる?」

 

「私ですか」

 

「うん。なんかトレーナーが褒めてたし」

 

 黒井は少し迷ったあと、控えめに上着の袖を整えた。

 

「では、少しだけ」

 

 黒井は見本として、片足を軽く引き、ゆっくりと腰を落とした。無理のない姿勢だった。だが、軸がまったくぶれない。膝の角度も、背中の位置も、呼吸も整っている。

 

 菜々子の目が丸くなった。

 

「え、できるじゃん」

 

 黒井はきょとんとした顔をした。

 

「へ? これくらいなら出来ますが……?」

 

 理子が胸を張る。

 

「黒井はすごいのじゃ!」

 

 美々子は黒井をじっと見ていた。

 

「強そう」

 

「いえ、そのようなことは」

 

 黒井は困ったように笑った。

 

 少し休憩になり、四人は壁際のベンチに座った。

 

 遠くでは、五条と夏油が懸垂をしている。理子は水を飲みながら、その二人を眺めた。

 

「あやつら、本当に何をしておるのじゃ」

 

「多分勝負じゃない?」

 

 菜々子が答える。

 

「グラサン、負けず嫌いだから」

 

「夏油トレーナーもね」

 

 理子はしばらく夏油を見てから、二人へ顔を向けた。

 

「おぬしら、前がっ……夏油とはどういう関係なのじゃ」

 

 菜々子の表情が、少しだけ変わった。

 

 理子はそれに気づいたが、言葉を引っ込めなかった。

 

「いや、一緒にいて一日程度だが理解できる。あやつは本当に自分の肉体のことにしか目を向けておらん。生涯で見たことのない生き物じゃ」

 

 美々子は菜々子を見返す。二人の間に、短い沈黙が落ちた。さっきまでの軽い空気が少しだけ変わる。

 

 菜々子は一度、目を伏せてそれから顔を上げる。声はいつもより穏やかだった。

 

「それじゃあ、私が話すね」

 

 理子は水の入ったボトルを膝の上に置いた。

 

 黒井も静かに耳を傾ける。

 

 菜々子は遠くの夏油を一度だけ見た。ちょうど夏油が懸垂を終え、五条に何か言っているところだった。五条は本気で嫌そうな顔をしている。

 

 それを見て、菜々子は少しだけ笑った。

 

「私達が、夏油様にどんな風に救われたか」

 

 

 

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