夏油マッスル傑 作:めちゃく
そのジムは、町の外れにあった。
表通りから少し外れた坂道を上がり、民家の間を抜け、古い石垣に沿ってさらに奥へ進む。観光客が迷い込むような場所ではない。
地図に出しても近くまでは来られるが、最後の十数メートルで必ず行き止まりに見える。そういう作りになっていた。
理子はその道中、ずっと不満そうだった。
「妾は納得しておらん」
五条は前を歩きながら、あくびを噛み殺した。
「知ってる。ここまでずっと言ってるし」
「ならば戻れ!」
「俺に言うなよ。言い出したの傑だし」
五条が顎で前を示す。夏油は先頭を歩いていた。片手に鞄、もう片方の手には会員証らしき黒い札を持っている。足取りはいつもより少し軽い。
黒井は理子の横を歩き、彼女が本当に引き返そうとするたび、さりげなく肩を押し戻している。
「お嬢様、せっかくですから一度だけでも」
「黒井まで裏切るのか」
「裏切りではございません。見学です」
「見学と言いながら、あやつは絶対に妾を動かすつもりじゃ」
理子の視線の先で、夏油が振り返った。
「無理はさせないよ。最初は呼吸と軽い可動域確認だけでいい」
「ほら見ろ! もう始める気じゃ!」
「呼吸は誰でもしているだろう」
「そういう問題ではない!」
五条は笑いながら、夏油の隣へ並んだ。
「で、ここ本当に大丈夫なんだろうな。鍛えるにしても高専のが良かったんじゃねーの」
「もちろん高専は安全だよ。ただ、ここも外から見えるよりは堅い」
夏油は足を止めた。
目の前には、古びた木戸と、その奥に続いていそうで続いていない細い道がある。
行き止まりにしか見えない。理子は眉をひそめた。
「何もないではないか」
「あるよ」
夏油は黒い会員証を指で挟み、木戸の脇に掲げた。札の表面に淡く呪力が流れる。すると、ただの石垣だったはずの場所に、薄い水面のような歪みが走った。
五条がサングラスの奥で目を細める。
「へえ」
理子は一歩後ろへ下がった。
「なんじゃ、今の」
「結界だよ」
夏油は会員証をしまいながら説明した。
「会員証と、その会員本人の呪力を照合して通れるようになっている。会員と同伴する者がいる場合は、会員側が受け入れることで一緒に入れる」
「ただのジムにか?」
五条が言うと、夏油は少しだけ得意そうにした。
「呪術師御用達だからね」
「こんな高度な結界術、誰が作ったんだよ」
その問いに、夏油は当たり前のように答えた。
「同じ志を持った仲間たちと共に作り上げたんだ」
「志?」
「鍛錬の志だよ」
五条はそこで少し嫌な顔をした。だが、夏油は気にせず続ける。
「中心は私だけどね。夜蛾先生も協力してくれた」
「先生何やってんだよ」
「安全確保のためだよ」
「絶対途中から面倒になって許可出しただけだろ」
理子が横から小声で黒井に聞く。
「黒井、帰れるか?」
「お嬢様、ここまで来ましたので……」
夏油が手を差し出すようにして、結界の中へ入るよう促した。
「大丈夫。私が受け入れるから、そのまま通れるよ」
「むむ……」
理子は黒井に背中を押されながら、渋々結界をくぐった。
視界が一瞬だけ白く揺れ、次の瞬間、目の前に建物が現れた。
外からは見えなかったはずの場所に、綺麗な建物があった。木造を基調にしているが、古びた感じはない。深い色の柱、磨かれた石畳、大きな軒。
神社や道場に近い荘厳さがありながら、入口の横には控えめに「GYM」と書かれた看板がある。
理子はその看板を見て、さらに嫌そうな顔になった。
「なぜそこだけ英語なのじゃ」
「雰囲気だよ」
扉を開けると、受付に木造の呪骸が座っていた。
人の形をしているが、肌は木目のまま。丸い目が二つあり、首に小さなタオルを掛けている。胸元には「受付」と書かれた札。動きは妙に丁寧で、夏油を見ると、ぎこちなく頭を下げた。
「オツカレサマデス、ゲトウサン」
理子が飛び上がった。
「なんじゃアレは!?」
「受付だよ」
夏油は普通に答えた。
「見ればわかるじゃろ! なぜ木が喋る!」
「夜蛾先生作の呪骸だ。会員管理と施設案内をしてくれる」
「受付を呪骸に任せんなよ」
五条が言うと、夏油は会員証を受付に見せた。
「人件費の問題もあるからね」
中は外観よりさらに広かった。
床は清潔で、壁には護符と姿見が並び、トレーニング器具はどれも手入れされている。広いフリーウェイトエリアには、かなりの人数がいた。
ほとんどが術師だろう。視線の置き方、立ち方、呪力の流れが普通の人間とは違う。
筋骨隆々な男が多い。これは理子にもわかった。だが、女性も少なくない。細身でも芯が強そうな者、背中の厚い者、柔軟をしているだけで気配が鋭い者。
理子は少しだけ圧倒されていた。
「……本当にジムなのか? 道場ではなく?」
「ジムだね」
「何が違うのじゃ」
「プロテインの種類かな」
その時、奥の方から小さな足音が二つ走ってきた。
「夏油トレーナー!」
「トレーナー!」
呼ばれた夏油が振り返る前に、二人の子供が駆け寄ってきた。
一人は色白で、黒髪を下ろした少女だった。表情はあまり動かないが、夏油を見る目だけが少し明るい。もう一人は褐色の肌に金髪の少女で、こちらは遠慮がない。二人とも動きやすいトレーニングウェアを着ている。
黒髪の少女が美々子、金髪の少女が菜々子だった。
菜々子は夏油の前でぴたりと止まると、すぐに五条へ目をやった。
「あ、グラサンもいるじゃん」
五条の眉が動いた。
「誰がグラサンだ」
美々子も遅れて五条を見る。
「グラサンさん」
「丁寧にすればいいってもんじゃねえぞ」
菜々子は五条の全身をざっと見た。
「グラサンも鍛えたいの?」
「鍛えに来たんじゃねえよ」
「じゃあ何しに来たの」
「仕事」
「へえ。グラサンも仕事するんだ」
五条はしばらく菜々子を見た。相手は子供で、しかも夏油の保護下にいる。だから殴るわけにはいかない。
「テメーらは鍛え方よりまず礼儀を覚えろ、ガキ共」
菜々子は舌を出した。
美々子は夏油の袖を少しだけつまむ。
「夏油トレーナー、今日は一緒?」
「うん。ちょうどいい。皆で一緒にトレーニングしようか」
夏油は理子の方を見た。
「この子達も来たばかりだし、友達が増えるのは良いことだ」
理子は身構えた。
「妾を巻き込むな」
夏油はその反応を見ても、特に困った顔をしなかった。むしろ、何かを思いついたように美々子と菜々子を呼び、少し離れた場所へ連れていく。
夏油は二人の前にしゃがみ、声を落とした。
「そこにいる理子ちゃんは、どうやらトレーニングが初めてなようでね。少し嫌がっているんだ」
菜々子は理子をちらりと見た。
「あの偉そうな子?」
「偉そうではなく、立派な子だよ」
「偉そうじゃん」
「菜々子」
「はい」
美々子は黙って理子を見ていた。少しだけ首を傾ける。
「怖いの?」
「初めての場所だからね」
夏油は二人に優しく言った。
「だから、君たち二人で気分を上げさせて、なんとか楽しませてあげて欲しい」
菜々子はすぐに笑った。
「いいよ。任せて、トレーナー」
美々子も小さく頷く。
「やる」
「ありがとう」
夏油が立ち上がる頃、理子はまだ入口側で腕を組んでいた。
「こんなところ来るくらいなら旅行にでも行きたかった! 今からでも日帰りだったら間に合うのじゃ!」
黒井が困ったように横で見守っている。五条はその様子を面白そうに眺めていた。
そこへ菜々子が走っていった。
「お姉さん」
理子の動きが止まった。
「……妾か?」
「うん。お姉さん、ジム初めてなんでしょ」
菜々子は遠慮なく理子の前に立つ。美々子は少し後ろにいて、理子の服装や靴を静かに見ていた。
「最初は難しいのしないよ。ストレッチとか、軽いやつ。終わったあと、身体が軽くなるんだよ」
美々子も頷いた。
「気分がよくなるの」
理子は警戒しながらも、さっきより少し声が弱くなった。
「そ、そうなのか?」
「うん。トレーナーも怖くない。変だけど」
「そこは否定せぬのじゃな」
「でもいっぱい優しい」
美々子が言った。
理子は少し黙った。お姉さん、と呼ばれたことが効いていた。黒井はそれに気づいたが、何も言わない。ただ、口元だけが少し緩んでいる。
菜々子は理子の手首を軽く引いた。
「一緒にやろ。お姉さんがいると、私たちも楽しいし」
理子は顎を上げた。
「そ、そんなにやりたいなら、付き合ってあげなくもないのじゃ」
五条が遠くで小さく笑った。
理子はすぐにそちらを睨む。
「何を笑っておる!」
「別に」
「妾はお姉さんじゃからな。子供のお願いを聞くのは当たり前じゃ!」
菜々子がにこっと笑い、美々子は理子の袖を少しつまんだ。黒井は暖かい目でその三人を見ていた。
理子はそのまま、二人に連れていかれた。連行に近かったが、本人は最後まで胸を張っていた。
五条はそれを見送ってから、夏油へ顔を向ける。
「アイツもチョロいけど、ガキ共もお前によく教育されてんな」
「まあね」
夏油の声には、少しだけ柔らかいものが混じった。
「私の大事な門下生さ」
五条は何か言いかけたが、やめた。美々子と菜々子が夏油を見る目を、さっき見ていたからだ。
夏油は軽く肩を回した。
「さて、悟も一緒に鍛えようか」
「やらねーよ」
「トレーニングが嫌なら、筋肉に効く対決でもいいよ。君ならできるだろう」
夏油の声は穏やかだった。だがその穏やかさの奥に、五条にはよく知った色が見えた。挑発の前段階である。
五条は目を細める。
「お前今のははだいぶ安い餌だぞ」
「そうか。じゃあ、もう少し正確に言おう」
夏油は五条の正面に立った。視線の高さはほとんど変わらない。近くでは術師たちが自分のメニューをこなしているが、二人の会話に気づいた数人が、少しだけこちらへ意識を向けていた。
夏油は声を荒げない。むしろ、いつもより丁寧に言った。
「悟。君は確かに強い」
「知ってる」
「無下限と六眼。術式の精度、認識能力、呪力操作。どれを取っても、君は間違いなく規格外だ」
「知ってるって」
「でもね」
そこで夏油は一度、言葉を切った。
五条の口元から笑みが少し消える。夏油がこういう切り方をする時は、大抵ろくなことを言わないと知っているからだ。
「それは、無下限と六眼が機能している前提の強さだ」
五条はサングラス越しに夏油を見る。
「あ?」
「君が強いのは事実だ。けれど、もし万が一、無下限を破られたらどうする?」
「破られねーよ」
夏油は素直に頷いた。
「だが、普通ではない相手が来ないとは限らない。術式をすり抜ける呪具、無効化、領域、奇襲。考えられる条件はいくつかある」
「俺に説教?」
夏油は少しだけ笑い、「助言だよ」と呟いた。
「君は術式に対する信頼が強い。それは悪いことじゃない。強みを信じるのは当然だ。でも、強みが一つ抜かれた瞬間に身体が遅れるなら、それは弱点だよ」
五条の指が、サングラスの縁に触れた。
「俺の身体が遅いって言ってんの?」
「いや、鍛えていないと言っている」
五条が乾くように笑った。
「君の反応速度は速い。身体能力も高い。だが、それは「高い」のであって、「鍛え抜かれている」とは違う。生まれつきの土台と、術式に最適化された動きで成立している部分が大きい」
「へえ」
「君が悪いわけじゃない。必要がなかったんだ。無下限がある。六眼がある。大抵の攻撃は届かず、それを受ける身体を作る必要がない」
五条は黙って聞いていた。
黙っている時の五条は、機嫌がいいとは限らない。むしろ、笑っている時より面倒なことが多い。夏油はそれをわかった上で続けた。
「でも、届いたら?」
その言葉は、軽く置かれた。
五条の目元が、サングラスの奥でわずかに細くなる。
「届かせねーよ」
「それは術師として正しい。でも、届いた後の備えを捨てていい理由にはならない」
夏油は近くの懸垂バーへ視線を向けた。そこでは一人の術師が静かに身体を引き上げている。反動を使わず、肘を引き、肩甲骨を下げている。夏油はそれをちらりと確認してから、五条へ戻った。
「体幹が強ければ、崩されても戻れる。背中が使えれば、押された時に逃げ道がある。握力があれば、失った姿勢を繋ぎ止められる。足腰ができていれば、術式の起動前に一歩動ける」
「全部術式でどうにかなんだろ」
吐き捨てるように言えば、夏油は薄く目線を合わせるようにして笑う。
「今はね」
「今も今後もだろ」
「そう信じられるのは強さだ。でも、そう信じきるのは怠慢だよ」
五条の口元から笑みが消えるが、夏油は相変わらず穏やかだった。
「悟、君は最強かもしれない。でも、最強だから鍛えなくていいという理屈はない。むしろ逆だ。最強なら、抜かれる可能性のある穴を残すべきじゃない」
五条の口元が、少しだけ歪んだ。
笑ったようにも見えるし、苛立ったようにも見える。普段ならすぐに茶化して流すところだが、今はそうしなかった。
「俺に穴があるって?」
五条は軽く顎を上げた。
サングラスの奥の目は見えない。それでも、視線が細くなったのはわかった。
夏油は逃げるでも、言い直すでもなく、正面から頷いた。
「あるよ」
すぐ近くでトレーニングしていた術師が、二人の空気に気づいて、無言で器具から離れた。
五条は夏油の顔をしばらく見ていた。
この手の話で引く男ではないと、五条は知っている。夏油は柔らかく言うが、引く時と引かない時の線がはっきりしている。そして今は、引かない側だった。
「言ってみろよ」
夏油は五条の肩、背中、腰の置き方を順に見た。診断というより、観察だった。五条はそれに気づいて、少し眉を寄せる。
「筋持久力」
「は?」
返事はすぐだった。
五条の声には、呆れと軽い怒りが混じっている。予想していた弱点の方向と、夏油の答えがまったく噛み合っていなかったのだろう。
夏油は特に慌てなかった。
「正確には、術式を抜きにした状態での継続出力と姿勢維持。それと、単純な反復動作への耐性」
五条は露骨に嫌そうな顔をした。
「それ、今必要か?」
声が少し低くなっている。
夏油はその変化を聞き分けたが、やめなかった。ここで退くくらいなら、最初から話していない。
「必要だよ。君が無下限を使わず、純粋な身体操作だけでどこまで動けるか。少なくとも自分で知っておくべきだ」
五条は鼻で笑った。
周囲の空気が少しだけ緩む。だが、完全には戻らない。五条の笑い方が、いつもの軽さとは違っていたからだ。
「知る必要ねーよ。使わねーし」
そう言って、五条は片手をポケットに入れた。姿勢は崩れている。だが、それも意図的だった。夏油の言葉に乗っていないと見せるための動き。
夏油は、そこも含めて見ていた。
「それを言うのが早計なんだ」
五条の指が、ポケットの中で止まった。
夏油は静かに続ける準備をしていた。表情は穏やかだったが、言葉を引っ込める気はなかった。
夏油は五条の肩まわりを見た。
失礼なほど真面目な視線だった。相手の身体を観察することに、ためらいがない。肩の高さ、首の入り方、立っている時の重心。
五条はその視線に気づいた。サングラスの奥で目が細くなる。
「どこ見てんだよ」
「肩が高い」
「は?」
五条の眉が動く。
「普段から術式の処理を優先しているせいか、首まわりに力が入りやすい。君は気にしていないだろうけど、疲労が溜まるとここに出る」
夏油は自分の首の横を指で示した。
五条はその手を見て、さらに顔をしかめる。診断されていること自体が気に食わないというより、診断内容が妙に具体的なのが嫌だった。
「勝手に診断すんな」
「脚は悪くない」
夏油は五条の言葉を受け流した。
視線が肩から膝、足元へ落ちる。五条は片足へ少し体重を乗せていたが、崩れているわけではない。楽に立っているようで、すぐ動ける余白はある。そこは認めるべきだった。
「でも、粘りは試してみないとわからない」
五条はゆっくり息を吐いた。
周囲の空気が、少しだけ静かになった。器具の音はまだしている。誰かが小さく数を数える声もある。ただ、二人の周りだけ、妙に間が空いた。
それから五条は、サングラスに手をかけた。
外す動作はゆっくりだった。怒っている時の雑さではない。自分で線を引く時の、妙に丁寧な動きだった。外したサングラスを指先で軽く振り、夏油を見る。
夏油の口元が、ほんの少しだけ上がった。
ほとんど見えない。けれど五条にはわかった。長い付き合いで、夏油が本当に面白がっている時の小さな変化くらいは見える。
「お前、今笑った?」
「いいや」
夏油はすぐに否定した。
否定したが、声が少しだけ楽しそうだった。五条はそれを聞き逃さない。
「笑ったよな」
「君がやる気になったのが嬉しくて」
「まだやるって言ってねーよ」
五条は外したサングラスを持ったまま、夏油を睨む。青い目が、真正面から相手を捉えた。
夏油は視線を逸らさない。むしろ、サングラスが外れたことで話が一歩進んだとでも言いたげだった。
「悟こそどうしたんだい?」
「目が疲れただけだ」
「ジムで?」
夏油は不思議そうに聞いた。
五条は一瞬だけ黙った。返す言葉はあるはずなのに、面倒になった顔だった。
「うるせえ」
サングラスをポケットへ差し込む。
夏油は、近くの懸垂バーへ歩き出した。
五条はその背中を見て、すぐに気づく。もう種目を決めている。こちらの返事を待つ前から。
「では、まずは軽く懸垂から」
「誰が種目決めていいって言った」
五条はその場を動かずに言った。だが、声にはもう拒絶より対抗心が混じっている。
夏油はバーの前で振り返った。
「嫌なら変えるよ」
言い方は柔らかい。選択権を渡しているように聞こえる。だが五条にはわかっていた。ここで種目を変えれば、夏油の土俵を避けたことになる。
五条は即答した。
「変えねー」
夏油は予想通りという顔をした。わかっていたような、少しだけ腹の立つ顔だった。
「いいのかい?」
五条は夏油の隣へ歩く。
「お前が選んだ種目で潰す」
理子たちの場所では、最初のストレッチが始まっていた。
「お姉さん、そこ違う。背中丸い」
「丸くなどなっておらぬ」
「なってる」
美々子が短く言う。
理子は反論しようとして、鏡に映った自分を見た。たしかに少し丸い。悔しそうに背筋を伸ばすと、菜々子が嬉しそうに頷いた。
「できてるじゃん。お姉さん、けっこう才能あるよ」
「そ、そうか?」
「うん。初めてにしてはちゃんと動くし」
理子は目に見えて機嫌を直した。
「まあ、妾は天元様じゃからな」
「天元様って身体硬いの?」
「知らぬ!」
黒井は少し離れて見守っていたが、菜々子がふと声をかけた。
「黒井さんもやる?」
「私ですか」
「うん。なんかトレーナーが褒めてたし」
黒井は少し迷ったあと、控えめに上着の袖を整えた。
「では、少しだけ」
黒井は見本として、片足を軽く引き、ゆっくりと腰を落とした。無理のない姿勢だった。だが、軸がまったくぶれない。膝の角度も、背中の位置も、呼吸も整っている。
菜々子の目が丸くなった。
「え、できるじゃん」
黒井はきょとんとした顔をした。
「へ? これくらいなら出来ますが……?」
理子が胸を張る。
「黒井はすごいのじゃ!」
美々子は黒井をじっと見ていた。
「強そう」
「いえ、そのようなことは」
黒井は困ったように笑った。
少し休憩になり、四人は壁際のベンチに座った。
遠くでは、五条と夏油が懸垂をしている。理子は水を飲みながら、その二人を眺めた。
「あやつら、本当に何をしておるのじゃ」
「多分勝負じゃない?」
菜々子が答える。
「グラサン、負けず嫌いだから」
「夏油トレーナーもね」
理子はしばらく夏油を見てから、二人へ顔を向けた。
「おぬしら、前がっ……夏油とはどういう関係なのじゃ」
菜々子の表情が、少しだけ変わった。
理子はそれに気づいたが、言葉を引っ込めなかった。
「いや、一緒にいて一日程度だが理解できる。あやつは本当に自分の肉体のことにしか目を向けておらん。生涯で見たことのない生き物じゃ」
美々子は菜々子を見返す。二人の間に、短い沈黙が落ちた。さっきまでの軽い空気が少しだけ変わる。
菜々子は一度、目を伏せてそれから顔を上げる。声はいつもより穏やかだった。
「それじゃあ、私が話すね」
理子は水の入ったボトルを膝の上に置いた。
黒井も静かに耳を傾ける。
菜々子は遠くの夏油を一度だけ見た。ちょうど夏油が懸垂を終え、五条に何か言っているところだった。五条は本気で嫌そうな顔をしている。
それを見て、菜々子は少しだけ笑った。
「私達が、夏油様にどんな風に救われたか」