夏油マッスル傑 作:めちゃく
夏油傑がその村に入った時、任務はほとんど終わっていた。
山間の旧村。地図の端に押し込まれたような集落で、道は細く、家々は斜面に貼りついている。湿った土の匂いが濃く、夕方でもないのに軒下は暗い。
人が少ないわけではない。戸口や障子の隙間から、こちらを見る目だけは多かった。
祓うべき呪霊は、村の奥にある古い祠にいた。
神隠し、変死、家畜の異常。報告に並んでいた被害の原因はそれで間違いない。夏油は手早く祓い、呪霊玉を取り込んだ。舌の奥にいつもの泥を煮詰めて固めたような、胃の内側へ貼りつく味が広がる。
彼は顔をしかめる代わりに、ゆっくり息を吐いた。
「負荷としては悪くない」
同行していた補助監督は、慣れ切った顔で歩調を合わせる。
祠から戻ると、村人たちが広場に集まっていた。恐怖から解放された顔ではない。何かを待っている。
夏油が任務完了を告げる前に、村長格の男が前へ出た。
「先生、まだです」
夏油は足を止めた。
「呪霊は祓いました」
「いえ、まだ原因が残っています」
男は声を潜め、村の奥にある納屋を指差した。周囲の村人たちも、同じ方向を見る。そこに何かがあるのではなく、何かがいるのだと告げる目だった。
「あの二人です」
夏油は眉を動かさない。
「二人?」
「双子です。おかしいんですよ、あれは。普通の子供じゃない。見えないものを見る。不思議な力で村人を脅かす。今までだって何度も、あいつらのせいで村が荒れた」
別の女が、待ちかねていたように口を挟んだ。
「親もそうでした。気味の悪い連中でしたよ。血が悪いんです。あの家は昔から村に災いを呼ぶ」
夏油は、女の顔を見た。目は血走っていて、恐怖と興奮の区別がつかなくなっている顔だった。
男がさらに言う。
「正直、赤子のうちに始末しておけばよかった。そうすれば、こんなことにはならなかった」
補助監督が息を呑んだ。
夏油は黙ったまま、納屋の方へ歩き出す。村人たちが後ろからついてくる。誰かが「見ればわかります」と言い、別の誰かが「あの目を見れば」と続けた。
納屋の中は暗かった。
奥に、木の柵で囲われた小さな空間がある。檻というほど堅牢ではない。子供を閉じ込めるには十分で、大人が本気で壊すには頼りない作りだった。
その中に、二人の少女がいた。
片方は黒髪で、ぬいぐるみを抱えている。もう片方は金髪に近い明るい髪で、前へ出るように座っていた。頬はこけ、服には埃がついている。暴行の形跡はないが、何度も同じ言葉で責められた子供の目は嫌でも夏油の眼を貫く。
泣かない目。
泣けば、相手が喜ぶと知っている目だった。
菜々子が先に口を開いた。
「……次はあんた?」
夏油はしゃがみ、視線の高さを合わせた。
「夏油傑。呪術高専から来た術師だ」
「術師?」
「そう。君たちと同じように、見える」
菜々子の目が少しだけ揺れた。美々子はぬいぐるみを強く抱いたまま、夏油の耳元のピアスを見ていた。
背後で村人が言った。
「先生、近づかない方がいいです。何をするかわかったものじゃない」
夏油は振り返らずに尋ねる。
「この子たちは、誰に何をしましたか」
「は?」
「不思議な力で村人を襲った、と言いましたね。いつ、どこで、誰を、どう襲ったのか。説明してください」
納屋の中が静かになる。
男は口を開けたまま、少し遅れて言葉を探した。
「そ、それは……夜に声がして、家の戸が揺れて」
「この子たちがやった証拠は」
「見えると言ったんです。普通の者には見えないものを」
「見えることと、襲ったことは別です」
夏油の声は低くなかった。穏やかですらある。村人たちは、その穏やかさの下にあるものをまだ測れずにいた。
女が金切り声を上げる。
「先生は騙されてるんです! あの子らは人の形をしているだけです! 親もそうだった! 村の者を見下して、何か知っているような顔をして、気味が悪くて──」
「それで、閉じ込めた?」
「村を守るためです!」
「村を守るために、子供二人を檻へ入れた」
夏油はそこで立ち上がった。
木柵に手をかける。力任せというほどの動きではない。軽く握り、引いただけに見えた。乾いた音がして、柵が曲がる。鍵ごと、木枠が外れた。
村人たちの顔が変わった。
「あなたたちは、守ったのではありません」
夏油は壊れた柵を脇へ置いた。
「自分たちが理解できないものを、抵抗できない子供へ押しつけただけです」
「違う! 俺たちは被害者だ!」
「呪霊による被害者ではあります」
夏油は男へ向き直る。
「それを理由に、この子たちへの加害者ではない顔をするのはやめなさい」
男が詰まる。
夏油は、広場で喚いていた全員の顔を一人ずつ見た。
「呪霊は祓いました。村を襲っていたものはもういない。では、ここに残っているものは何か」
誰も答えない。夏油は一通り一瞥したあと、わざとらしくため息を吐き捨て続ける。
「無知、そして恐怖です。責任を弱いところへ流す癖です。あなたたちは見えないものが怖かった。その怖さを引き受けられず、見える子供を標的にした」
女が唇を震わせた。
「この子らが普通なら、こんなことには」
「普通でない者を閉じ込めていいという法律も、倫理も、呪術規定もありません」
夏油の声が、そこで初めて少し冷えた。
「赤子のうちに始末しておけばよかった、と言いましたね」
女は一歩下がる。
「今の言葉を、もう一度この子たちの前で言えますか。言えるなら、あなたは自分が何を口にしたのか理解していない。言えないなら、理解した上で言ったことになる」
女が押し黙ったのを確認し、夏油は隅で見ていた補助監督に目を向ける。
「どちらにせよ、記録します」
「記録……?」
「里田さん」
呼ばれた補助監督が、慌てて手帳を取り出す。
「今の発言を残してください。村人全員から聞き取りを行います。誰がこの子たちを閉じ込める判断をしたのか、誰が詰問したのか、誰が止めなかったのか。すべてです」
村人たちの中に、ざわめきが広がる。
老人が前へ出た。
「待ってください。そんなことを外へ出されたら、この村は」
「この村が困ると?」
夏油は短く遮った。
「この子たちはもう困っています」
老人は喉を鳴らし、それでも目を見開き食い下がる。
「村には村の事情がある」
「事情は罪を薄めません」
夏油は即答した。
「閉じた場所で生きているから何をしてもいい、という理屈はありません。むしろ閉じた場所ほど、内側の歪みは腐る。換気が必要です」
そこで、夏油は広場へ視線を向け、底冷えした笑顔で言った。
「皆さん、外へ出ましょう」
村人たちは動かない。
夏油は少しだけ首を傾ける。
「ここでまだこの子たちを囲みますか。呪霊がいない今、あなたたちが何を恐れているのか、はっきりしますよ」
それで、誰も逆らえなくなった。
広場へ移動した村人たちは、まだ小声で文句を言っていた。夏油はそれを聞きながら、袖をまくる。さながら今から演説を始める教祖のような振る舞いだった。
補助監督が不安そうに近づいた。
「夏油さん、聞き取りと報告はわかります。ただ、その、今から何を」
「再発防止です」
夏油は広場の地面を見た。平らではないが、使えないほどではない。呪霊を使えば時間はかかるが整地もできる。
「謝罪、次に記録、次に生活の改善」
「生活?」
「はい」
村長格の男が、嫌な予感を覚えた顔をした。
「まさか、まだ何かさせる気ですか」
「当然です」
夏油は全員へ向き直る。
「反省は口だけでは足りません。生活を変えなければ、また同じことをします。朝起き、身体を動かし、働き、食し、眠る。自分の弱さを他人へ投げる前に、自分の身体へ戻す習慣を作ります。そしてその間に少しだけ鍛えるトレーニングを挟むことが重要なんです」
村人の一人が怒鳴った。
「それで罪が消えるとでも言うのか!」
「消えません」
夏油はすぐ返した。
「消えないから、償い続けるんです。筋トレは免罪符ではありません。逃げない身体を作るための土台です」
言い返そうとした男の口が止まる。
「あなたたちは、見えないものを怖がりました……それは仕方がない。見えないものが怖いのは自然です。問題は、その恐怖を同じ人間に投げたことです。投げたものは、拾い直してください」
夏油は集会所を指差した。
「あそこを使います。畳を一部外せば十分動ける。納屋の柵は、二度と人を閉じ込めるためには使わせません。補強してスクワットラックにします」
「……縄は懸垂補助に。古い農具は握力強化に使えるものを選別します。畑仕事をしている方は股関節の硬さが目立ちますね、腰痛持ちも多いでしょう。そこも改善します」
「何を言ってるんだ、あんた」
「村を建て直す話です」
「呪術師だろう!」
「はい。呪いの根を見ています」
夏油は静かに言った。
「この村の呪霊は祓いました。残った根は、怠惰と閉鎖性と責任転嫁です。そこへ手を入れないなら、また別の呪いが生まれる」
喚いていた村人たちの声が、少しずつ小さくなる。
夏油の言葉は綺麗ごとではなかった。慰めでもなく、逃げ道を塞ぐための正論。
村人たちは、自分たちが被害者であることを盾にしていた。夏油はその盾を割り、内側に隠していたものを見える場所へ置いた。
「弱いことは罪ではありません」
夏油は最後にそう言った。
「弱さを理由に、子供を閉じ込めることが罪です。弱さを自覚したなら鍛えなさい。罪を自覚したなら償いなさい。どちらも嫌なら、あなたたちはただの卑怯者です」
その日から、村は筋肉の沼に足を浸からせた。
最初は恐怖だった。
村人たちは朝、集会所へ集められた。夏油本人が常駐したわけではない。高専への報告と処理が進む間、補助監督や関係者が監視に入り、夏油が残したメニュー表と記録用紙が壁に貼られた。
逃げれば記録され、誤魔化せば聞き取りに戻され、謝罪を先延ばしにすれば、誰が先延ばしにしたのかまで残る。
最初の一週間、村人たちは夏油を恨んだ。
二週間目には、腰痛が少し引いた老人が出た。
三週間目、畑仕事の疲れが前より残らないと言う者が出た。
一ヶ月後、集会所には自主的に来る者が混じり始めた。
美々子と菜々子への謝罪は、記録として残された。二人が受け取るかどうかは別問題とされ、村人たちは、許されるためではなく、逃げないために謝ることを覚えさせられた。
罪を償えた訳では無いが、やがて村は変わった。
閉鎖的だった寄り合いは外部の指導を受け入れる形になり、呪術的な異常があれば高専へ通す手順が作られた。集会所の一角にはトレーニング用の器具が置かれ、納屋の柵だった木材は本当にスクワットラックへ作り替えられた。
見る者が見れば悪趣味な象徴だったが、村人たちは誰も笑わなかった。
数ヶ月後、別の変化が起きる。
美々子と菜々子が高専に保護され、夏油が拾った後続の術師として数えられることになった。
呪術界は慢性的に人手不足で、術式を持つ子供を適切に育てる枠は喉から手が出るほど欲しいモノ。故に高専からの援助が入り、村には監視と支援の名目で人が来るようになる。
村は夏油に破壊されない代わりに、逃げられない形で建て直された。
ジムの壁際で、菜々子はそこまで話すと、水のボトルを軽く振った。
「で、今は村人全員、夏油様のこと信仰してる」
理子はしばらく返事をしなかった。
遠くでは、夏油が五条に何か言っている。おそらく肩か首か腹圧について言われているのだろう。
「信仰?」
「うん。村の集会所に、夏油様のメニュー表が額に入って飾ってある。『弱さを自覚したなら鍛えなさい』って書いてあるやつ」
美々子が小さく付け足す。
「花も供えてあるよ」
「最近、銅像を建てる案まで出てるの。合掌してる姿にするか、スクワットしてる姿にするかで揉めてるって」
「他にも新しい色んな器具作ってるみたいだし、今度遊びに行こうかな……まだ怖いけど」
理子は夏油を見た。
本人は自分が銅像案になっていることなど知らない顔で、五条のフォームを指摘している。あの男なら、銅像の姿勢にまで口を出すだろうと理子は思った。
「……その村、別の呪いにかかっておらぬか」
美々子は少し考えた。
「たぶん」
菜々子は笑ったまま、夏油の方を見る。
「でも、前よりずっといい呪いだよ」