那寄駅を出て最初の停車は下川駅になります。
この駅で貨物の取り扱いのために停車。後部の2両を切り離します。
連結切り離しと緩急車の連結を待つ間に通票の交換が行われます。
区間閉塞の概念を実現させるために通票はなくてはならないものです。この通票を持つ列車だけが次の通票を受け取る駅、または信号所までの合間の閉塞区間に入る事を許されます。つまりこの通票がある限り交換設備のある駅までは前にも後ろにも列車はいないと言う事になります。
停車時間の合間に安斎さんは懐から包み紙を取り出した。中にはお餅が入っていた。それを釜の上に置いていく。
「正月に食べきれなかった分さ。峠を越えたら食べようや」
再度緩急車が連結し直され、制動試験を行ったのちに私達は下川を出発した。
雪はさらに強くなろうとしていた。
窓から顔を出すと顔に雪が降りかかる。視界が奪われそうになるのをかろうじて抑えながら信号を確認。喚呼票も確認。
「中継信号、進行」
「中継信号、進行」
私と同じタイミングで伊藤さんも喚呼。もちろん目視してからです。
すぐに次の信号が見えてくる。一の橋駅の場内信号機です。
「もうすぐ一の橋です。場内制限45」
一の橋駅にも貨物取り扱いホームがありますが、私たちの貨物列車はここには停車しない。このまま通過になる。
「はいよ。安斎、峠に備えるぞ」
「オーライ」
安斎さんが釜に焚べる石炭の量を増やした。峠で必要な蒸気をたくさん作るためには峠に入る頃に火力を上げても間に合わない。水が蒸気に鳴るにはそれなりの時間が必要だからです。
場内信号機通過。転轍機をいくつか跨いで列車はホームを通過していきます。連続したブラスト音だけが下川駅のホームに響き渡ります。ホームの端に帝鉄の外套を纏った人が立っていた。
伊藤さんの代わりに運転室から身を乗り出して通票を外に出します。
ちょうど運転体の体で通票を外に出すとホームに立っている駅員さんにちょうどいい高さで渡せます。
「下興部通票」
下川から持ってきた通票は一の橋駅で立っている駅員さんに渡します。
代わりにホームの端にあるのが下興部までいくための通票。下興部通票をもらう。こっちにも駅員さんが立っていて私がそれを受け取ります。時速25km/h。鉄道では低速に分類されますがこうして身を乗り出すと意外と速く感じます。それに顔に打ちつけてくる雪と風がとても寒い。
「下興部通票、丸」
そして一の橋駅から次の下興部駅までの合間にあるのが那寄本線の難所になる天北峠です。連続して25‰の急勾配が続く線路です。
編成の重量は私が補機無しで25‰の坂を登れるギリギリに設定されています。だから規則の上では補機無しでの登坂も可能にはなっています。
「もうすぐ峠だ」
ホーム隣の機関車が本来待避している線路には何もいなかった。奥の待機用の建物にも機関車はいない。
本来なら一の橋駅で補機連結を行うのですが、補機を担当できる機関車が居ないので今日は私だけでの登坂です。
編成全体が徐行区間を終えたところで再び機関車は加速を始めます。ですがあまり速くはならない。運転席と火室を挟んで反対側にある機関助士用の座席から外を見ますが、視界は良くない。
それでもレエルロオドの共感を使えば線路の状態はすぐに分かる。
前方800m地点で保線員さん達が除雪作業をしていた。
「前方800m先除雪中です」
「除雪中オーライ」
伊藤さんが復唱し、汽笛を鳴らした。お腹の底に響くくらいの大きく、甲高い音が響き渡ります。
それでも、雪に音が吸収されてしまい中々遠くまでは聞こえにくい。
それでも汽笛に気付いたのか、線路から保線員さん達が退避していた。
線路の左右はラッセル車なっで押し除けられた雪が壁のようになっていて、保線員さん達はそれを崩して遠くに退かす作業をしていました。
列車が通過するときに伊藤さんも私も敬礼で見送ります。私達が安全に走れているのは彼らのおかげですから。
「シイナ、線路状況はどうだ?」
周囲の畑や農家の家がなくなっていき、人の気配が、人の営みが消え始めたところで伊藤さんが訪ねてきました。
「峠に何ヶ所か吹き溜まりがあります。大きいのは……25‰の箇所に一ヶ所です」
「よりにもよってそこか、弾き飛ばせるか?」
「難しいかもしれません」
レエルロオドの私でも流石に突破できるか判断が難しかった。
針の穴に糸を通すが如く繊細な操作でできるかどうか。
私達レエルロオドはあくまでも人の操作の補佐を行うのが主任務として設計されています。私が一人で操作するというのは出来ません。
だから伊藤さんの技術が頼りです。
そうしているうちに勾配票が見えてきた。峠越えの始まりだった。
雪で視界は悪く、雪が降り積もった地面と閉まって一面真っ白な空間にいるようだった。
貨車に引っ張られて少しづつ速度が下がっていきます。
周囲の風景も平野から左右に木々が生い茂り始めます。安斎さんが石炭を焚べる量を増やし、ボイラーへの注水量も増やした。
「釜どうだい?」
「ぼちぼちです。機嫌は悪くないんですがね」
「少し蒸気の出が悪いですね。ですが問題はありません」
「よし、やってやるか」
それでも少しづつ速度は落ちていきます。急カーブも増えていき車輪のフランジが盛大に擦れる音を立てていきます。
ブラスト音も少しづつ下がっていってしまいます。
「おっと……」
吹き溜まりの雪をスノープラウが押し除けたときに一瞬だけ空転。素早く伊藤さんが砂を撒いて車輪の食いつきを良くします。
空転はすぐに収まり動輪がレールに食いつきます。
「レールに錆が浮いていて滑りやすくなってます」
「オーライ、こりゃ相当厳しいぞ」
既に自転車で走るよりも速度は遅くなってしまっていました。ちょうど間が悪いことにカーブの先に一番大きい雪の吹き溜まりが出来ていました。
到達まで後50秒。
「前方、大きめの雪溜まりです。カーブの先です」
「オーライ。さあいけるか」
ようやくカーブを抜け雪にぶつかります。
スノープラウが雪を押し除けようとしますが、雪の抵抗が強く車体が減速していきます。
大空転。同時に車体が完全に停まってしまいました。
こうなってしまってはもうこの場での発車はできません。
伊藤さんがすぐに機関車を止めます。
「ダメだったか」
残念そうな顔で自弁を開き編成全体に制動をかけて前方を見に行こうとします。
私と安斎さんもそれに続いていきます。
吹き溜まりはそこそこの量になっていてスノープラウがすっかり埋まっていました。
ここにいる人数で線路の雪を全て除雪するのは時間がかかりすぎます。それに除雪道具がありません。
「この雪じゃあ……」
「仕方ない。バックしてやり直すぞ」
ここは25‰の急勾配。ここで再発車は現実的ではありません。
列車が停まった事で様子を見にきた車掌さんと打ち合わせをして列車は勾配の緩いところまで後退していきます。
勾配がある区間では圧縮引き出しという方法を使い列車を発車させます。
伊藤さんが自弁をかけて編成全体を停車させました。
「それじゃあ行くぞ」
伊藤さんは運転士になってもうすぐ六年。圧縮引き出しも手慣れています。
逆転器を前身いっぱいの位置にしてまずは単弁だけを緩めます。こうする事で機関車だけがその場でブレーキが解除されます。
9600型は総重量で94t。多少水と石炭を使っていますがそれでも今は93t近くの自重があります。当然貨車だけのブレーキでは抑えることはできず少しづつ機関車が後退します。
ある程度のところで伊藤さんが自弁を緩解して編成全体のブレーキを解除します。
ですが編成が長く機関車側から圧縮空気をブレーキに送り込んでいっても編成最後尾の緩急車のブレーキが解除されるまでは時間がかかります。
その間にも機関車側に連結されている貨車の制動力がなくなり機関車と一緒に少しづつ後退を始めました。
そこで伊藤さんが加減弁を開き機関車を前進させます。
間隙がある貨車の連結器が自重による後退で圧縮されたところで機関車が発車することで連結器の間隙分が圧縮された分だけは貨車の重量を無視して機関車が前に動き出すことができます。
勢いついた機関車に引っ張られて貨車も勢いよく前進を開始します。
流石に旅客列車では乗り心地が悪くなるので使用することはほとんどありません。
これが圧縮引き出し。
タイミングが合わないと逆に連結器が伸び切ってしまい発車が出来なくなってしまいます。その時はまた最初からやり直しとなってしまいますし、最悪の場合最後尾の緩急車や貨車に強い衝撃を与えることになってしまいます。
再び坂を登り出した私達でしたが、先ほど立ち往生した地点が近づくにつれて速度の伸びが悪くなってしまいます。
私の合図で空転を抑えつつ走らせてはいきますが、それでもタイミングの僅かなズレで空転が大きくなってしまいます。
雪とスノープラウが接触し、強い抵抗がかかります。先ほどよりも少しだけ前には行けましたが、砂を撒いても前進ができません。
再び大空転を起こし列車が止まってしまいました。
「やっぱりダメか」
仕方がなしに伊藤さんは汽笛を長緩汽笛で5回鳴らしました。
車掌だけでなく、近くにいるかもしれない保線員さんなどを呼ぶために集合を合図したのです。峠にこだまだけが小さく残滓となって残ります。
「シイナ、機関車の点検をしていてくれ。俺たちは機関区と連絡をとってくる」
「了解しました」
整備体が緩急車にあるので運転体のままですが点検に向かいます。
まず第一に見ないといけないのは空転を起こした動輪です。レールと接触する面である踏面が傷だらけになっていないか、削れてフラットが出ていないかを確認していきます。
幸い伊藤さんの判断が的確だったおかげでフラットや傷は出来ていません。レールにも異常は見られません。
気の利いている車掌さんが整備体も持ってきてくれました。そちらに切り替えて点検をしていきます。
今の所異常なし。水も次の給水予定地点までは問題なく保ちます。ですが、砂はだいぶ減っていました。
少し離れたところでは伊藤さんと安斎さんが線路に並走している電話線を利用して機関区と連絡をとっていました。
意外と声も聞こえてきます。
「もしもし、機関区!こちら1192列車機関士。応答願いますどうぞ!」
「こちら機関区どうぞ」
「1192列車ですが天北峠の千分の二十五の勾配で立ち往生してしまいました」
「あー……やっぱりか。参ったなあ……」
「なんとかやってみますが最悪の場合救援が欲しいのですが」
「弱ったなあ、釜がないんだよ」
結局救援は得られそうにありませんね。なんとかするしかありません。
「やっぱり麓に戻って何両か切り離しますか」
安斎さんの提案に伊藤さんは即座に否定します。
「ダメだそんなの」
「砂、だいぶ少なくなってます」
先ほどからかなりの量を蒔いていたので仕方がありませんけれど、流石に砂ありで挑戦できるのは後一回といったところです。そしてこの雪溜まりは後一回の再挑戦では難しそうです。最低でも後二回は必要かと。
「ううん……」
やはり救援を待つしかないでしょうか。
そうしていると、雪を踏み締める足音が響いてきました。誰かが来たようです。
「どうしたよ?」
列車の後方からやってきたのはベテラン機関士の北原さんだった。