「ノーベを殺してください」
ガラス越しの薄明光線が降り注ぐサンルームに、リーナの小さいながらも凛と透き通った声が響いた。
僕の手からアールグレイ味のスコーンが零れ落ちる。
「……なんて?」
この「なんて」は「なんで」と「なんて」が混じった変な発音になってしまった。
リーナの衝撃発言の少し前までは表面上和やかなアフタヌーンティーを二人で嗜んでいたのだ。今日は休日。昼過ぎに彼女から電話口で今日の夕方は空いているかと呼び出されていたのだ。
どうせ件のお願い事だと、僕は内心気が気ではなかったが、それでもかなりの覚悟を持ってこの場に臨んだはずであった。
先ほどまでどこの紅茶がうまい、どこのカヌレがうまいなどと、他愛ない話をしていた。正直毒気を抜かれていた。このまま、さあ先輩、いい雰囲気になりましたね、セックスしましょうの流れになると思っていた。
落差。
どこに場面切り替えがあったのか、急激な話題の転換は、そして日常会話の延長のようなリーナの平坦な口調は、僕の握力を弱めるには十分な衝撃だった。
リーナは上品に口元を拭い、
「ディセ、席を外して」と傍らに控えていた従者に言った。
従者──ノーベさんの代わりだろうか、小学校高学年くらいの幼い娘であった──がまだ慣れていないお辞儀をしたのちサンルームを出ると、リーナは僕の傍へと椅子を寄せ、僕の腕に絡みついた。
「んふふ」
「んふふでなく」
リーナが悪びれなく、頬ずりをしながら言った。
「彼女、ノーベの代わりなんです。私以降のデチューンされた
「いやいや、その話じゃなくて」
リーナが顎に人差し指を当て、あざとく考える仕草をする。
「……ああ、ですから、この前の約束です。PMC派兵の代わりのお願い。ハル先輩が何でも一つ、お願いを聞いてくれる約束。あれ、ノーベを殺すことでお願いします」
リーナの言葉は過不足なく僕の頭に入り、しっかりと意味が理解できた。しかしその意味こそが問題なのだ。僕の全身から一気に汗が噴き出る。ようやく身体反応が精神に追い付いてきた。
「な、んで……なぜ、ノーベさんを殺すんだ」
「決まっています。私の父を殺したからですよ」
思考が淀んだ。
情報。思考より先に、情報が勝手に繋がりだす。さらに発汗。待て、言葉にしろ。思考は言語に規定される。文字を頭に思い浮かべ、読むように考えろ。思考を統制しろ。呼吸が荒くなる。鼓動が速くなる。冷静に。落ち着け。リーナの父、鳶明彦が殺された。誰に。リーナが言っただろう、ノーベさんにだ。なぜ。まだわからない。スナーク狩りからの依頼。違う、昨日の基地での仲良しサークルぶりを見ただろう。そんなことはさせないはずだ。断言できるか。できない。今、何秒経った。何か言わなくては。リーナは、僕が何を知っているかをどこまで知っている。整理しろ。早く。落ち着け。
──まずは、
「いつ……いつ鳶さんは殺されたんだ」
「三日前です。先輩が、PMCの派兵を依頼してきた少し後です」
ユーリアの言っていた、ノーベさんが姿を消した時間とつじつまが合う。
「まだ公にはしていません。騒ぎになっても困りますからね。然るべき時、然るべき方法で公表する予定です。薛秦義肢公司は現在私がCEO代理としてまとめています。問題なく運営していますよ。ご心配なく」
リーナが優雅にカップを傾け、ほうと息を吐く。
なんだ、なぜ彼女はこんなにも呑気なんだ。父親が殺されているんだぞ。いくら彼女が鳶明彦の本当の娘じゃないとしても、唐突に殺されたんだぞ。それも自身の護衛兼秘書のノーベさんに。
……本当にそうか?
『問題なく運営』
『ご心配なく』
──リーナの声が脳内でリフレインされる。
……まさか。
僕は思わずリーナの瞳を覗きこんだ。覗き込んでしまった。
──平坦、平常。いや少々淫靡に色づいている。
そして僕は気付く。リーナがやりそうな事。リーナならできてしまう事。
「リーナ、お前……」
リーナが体の芯まで凍えてしまうような、無機質で悪戯な笑みを浮かべた。
「はいそうです。私が殺させました。あ、ノーベにじゃないですよ。別の人達にです。ノーベはどうも別の組織に所属しているみたいでしたから、丁度良かったので犯人に仕立て上げました。まあ、建前ですがね。誰が殺そうが良かったはずです。誰もがあの人の死を願っていましたから」
チチ、と窓の外から小鳥の鳴き声が聞こえた。小さな影が僕らの頭上を通り過ぎた。勿論、造り物である。それっぽい雰囲気を出すための設定である。
リーナは世界を数字でとらえている。鳶明彦が彼女とDNA的に繋がっていないことも、鳶明彦が
「だってあの人、会社の経営に一切関与しなくなったのに、ポストだけは譲らないんですよ。年下の女囲って、セックスできる娘としての役割与えて、引きこもっているだけなんです。早く退任すれば命までは取らなかったのに。あはは、皮肉ですよね。自分が出世するために
リーナは無邪気に笑うが、これは擬態だ。僕の前では人間であるための演技だ。内心、何も思っていないはずだ。後悔も悲哀も、嘲笑すらも。
「それでも一応CEOが殺されたんですから、その犯人に報復しないのは、会社として面子が立たないでしょう。今後の営業に差し障ります」
僕がノーベさんを殺すことは多分すでに彼女の計算に入っている。キスやセックス程度でこの決定は覆らないだろう。
くそったれ。
僕は全部を噛み下し、飲み下す。そしてようやく、
「……それで、何で僕なんだ。『
「それがですねハル先輩、ノーベが逃げ込んだ先が非管理領域なんですよ。裏社会とは手を切ったばかりの我々です。そっち方面ではまだノウハウがない。人海戦術で非管理領域さらってもいいんですが、流石に時間がかかり過ぎる。ノーベは一応私の護衛でしたから、そんな悠長なことしていたら、逃げ切られる。だから、お願いします先輩。あなたの手でノーベを殺してください」
科白だけ聞けば、復讐を望む普通の娘のようだが、実状は全く違う。
決定事項を冷淡に伝える上司のように、死刑執行のボタンを押す公務員のように、言葉になんの感情も含まずに彼女は言った。
「…………」
僕は承服した。承服せざるを得なかった。
◇
狩りのための準備を終えた頃、街にはもう夜の帳が降りていた。
墨汁のような空の中心には、不気味なほどに黄色く輝く満月。もしも僕が狼男なら今日ほど絶好な夜はないだろう。ルナティック。狂えてしまったらどんなにいいか。
僕は今後の予定を頭の中でもう一度確認しながら、お嬢に借りたロイヤルエンフィールドに跨ると、不意にタンデムシートに誰かが乗ってきた。
「──ッ!」
腰のガネイシャに手を掛けながら、バイクを飛び降りる。
「おっとぉ、撃たないでくださいね。あたしですよ、あたし」
そこには立花がいた。いつもの制服姿ではなく、白いスキニーパンツにサマーカーディガンとラフな私服姿。彼女は軽薄な笑みを浮かべながら、両手をひらひらと上げている。
僕はガネイシャから手を放し、脱力した。
「なにしてんだよ」
「あ、ちょっと待ってくださいね。いつもの奴やりますから」立花がシートからひょいと飛び降り、咳払いをした。「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!」
僕は気を強く持って、膝から崩れ落ちてしまいそうになるのをどうにか堪えた。
それでも頭にはくらりと来ている。
立花が頬を赤く染めながら、僕の肩をゆすって、
「だだ滑りじゃないですかぁ!」
「……うるさいなぁ。そもそも呼んでねえよ」
僕が立花を引きはがすと、彼女はいつもの調子に戻って言った。
「まあまあ。それより調査に行くんでしょ。手伝いますよ。この前のお詫びってことで」
「お詫び?」
「ほら、この間生徒会長に拉致られていたでしょう。あたしがもう少し早くお伝えできていれば、鮎川君逃げられたのになって」
「…………」
こいつは、しれっとそういうことを。
「いや、あれはそもそも詰んでいた。どうやっても捕まってたよ」
「そうですか。それは残念。……それでどうでした?」
「なにが」
立花はわざとらしくシナを作って、
「だって、したんでしょう?」立花が僕に向かって投げキッスをした。「マウストゥマウス」
僕は嘆息した。
彼女の軽薄にはほとほと呆れるが、それがさっきまでの陰鬱な気分を晴らしたのは確かである。立花も、現実も、まともに相手するのが阿保らしくなってきた。
「……馬鹿野郎。もっと先までやったよ」
「ほう……というと?」
「性器トゥ性器」
「ぶふっ!」
立花が腹を抱えて笑う。自身の太腿をバンバンと叩く。
釣られて僕の口角も上がりだすが、内頬を噛んで耐えた。
「おい立花、僕が今から何をするのか分かっているのか」
立花が何度か失敗しながら息を整える。
「具体的には知りませんよ。でもスナーク狩りと接触して、何かしらの依頼を受けたのは推測できます。今の格好と装備、そのバイクからミナミなんかの裏──非管理領域に行くってことも。……大方、数日前に姿を消した
僕は瞠目した。
……ほとんど当たっている。流石の観察眼だ。しかし、
「今日の午後まではそうだった」
立花の視線が僕の腰──像頭の女神のエンブレムが入ったガネイシャカスタムに移る。
「暗殺ですか」
「そういう事だ。正確には暗殺ではないけどな」
「誰から……いや」
立花の視線が聳え立つ五つの摩天楼へと移る。
「お察しの通りだよ」
僕は再びバイクに跨り、振り返りながら言った。
「それでも着いてくるか?」
立花は裏の人間ではない。片足を突っ込んではいるが、それでもまだ回復可能な位置にいる。将来がある。若き日の過ちとして処理できる。そしてそれが分からないほど彼女は馬鹿じゃない。
そういった含意での発言である。探偵事務所での件、事前警告の件といい、彼女がいたらなんだかんだ助かるのは確かだが、これは僕の問題だ。これ以上彼女を巻き込むわけにはいかない。
しかし、立花は少しも引かず、ただ合点がいったという表情で僕を見ていた。
「ああ、なるほど。それで」
「……何がだよ」
立花が一歩踏み込んでくる。
「いやー、さっきからずっと何かを迷っていたので、心配してたんですよ」
「……は?」
「その暗殺依頼、スナーク狩りの依頼と真っ向から相反するわけじゃないですかぁ。だから迷ってたんだ。つまり、殺すべきか殺さないでおくべきか。そういう事でしょう。目の前に開ける二つの道。このまま最初に設定した目的を達成するか、可能性に賭けてみるか、そういった選択だ」
立花がすべてを見透かしたかのような笑顔で僕を穿つ。
「……スナーク狩り、そんなに良かったんですか?」
「お前、何言って──」
「あれ? 自分でも気づいてなかったんですか? ……まあいいや。どっちにしろ仲介人の潜伏場所は見つけないと駄目でしょう。ならあたしは役に立ちますよ。着いて行きます」
立花は躊躇なく、タンデムシートに跨った。
「立花……」
「なんです? あ、先にこれ渡しておきましょう」
立花はバッグから小さな手帳を取り出して、僕に手渡してきた。
「調べられる範囲で、仲介人の来歴、能力、目撃場所を調べておきました。この前の探偵事務所に行った日から念のため調査しておいたんですが、役に立ちそうですね」
僕はぺらぺらと手帳をめくる。リーナから貰った資料には載っていない情報もあった。
「……助かるよ」
「いーえ。では行きましょう! まずはミナミですか?」
「いや、西地区……スラムだ」
◇
改都の北には海がある。
その海のラインを直径として、街は半円状の壁に囲われていた。中世都市における城壁のような役割であるが、それにしては随分不愛想で、物騒である。
四階建てのビルくらいの高さに、継ぎ目のない灰色のコンクリート。少し叩いたくらいではびくともせず、重機を用いたとしても破壊には骨が折れるだろう。半分の地点には返しもついており、登れそうにもない。
内向きにも外向きにも機関銃並びに警備ドローンが睨みを利かせていて、外に繋がる道なんてものはほとんど皆無であった。
首脳部は、この壁は改都を自治都市として成り立たせるために絶対必要なものであると言ってはいるが、実際はそうではない。
これは檻だ。入った人間を逃がさないため、そして中で生まれた人間を捕え続けておくための檻である。でなければ、入都申請と退都申請の受領率にここまで大きく差が出るわけがない。
そんな、どうしようもない現実のメタファーのような壁を横目に、僕はバイクを走らせてきた。
ロイヤルエンフィールドを廃屋の後ろに隠し、さらに偽装処置を施す。
工場と工場の間の細い道を通り抜け、食べ物が腐ったような饐えた臭いに顔を顰めていると、スラムに辿り着いた。
積み上がったゴミ山のような街並みを見ながら立花が言った。
「あたし、スラム初めて来ましたよ」
「おい、ここでスラムって言葉を使うな」
自分たちの住む街をスラムと言われて気分がいい人間なんていない。
「じゃあなんて言うんですか? ファヴェーラ? ドヤ街?」
僕は少し考える。
「そうだな、あえて言うなら……『センター』かな」
「センター?」
かつて壁の内側はすべて管理領域であった。人口が増えるにつれ、安全が保障できない場所としての非管理領域が設定されたが、それ以前はこの場所も行政の管轄内であった。
そしてこのスラムは工場街とごみ処理場に隣接している。労働者たちの飯場として発展してきたわけだ。
「ああ、それでセンターですか。
「そういう事だ」
センターにはまるで捨てられた空き缶のように人が転がっている。涎をたらした
「……フェンタニルですか」
「それに手を出すまで墜ちた人間が住む場所なんだ」
「ほへー」
立花は興味津々といった様子で、街並み、住人を観察していた。僕よりも数歩先を歩いている。
辺りをオレンジに照らす街灯は三つあれば二つは故障しており、息も絶え絶えに不規則な点滅を繰り返している。
ふとした瞬間に暗闇が襲い掛かってくるので、なにかを仕掛けるには絶好なタイミングがたびたび訪れるのだ。
「おい、立花。あまり僕から離れるなよ」
「なんでです? あ、独占欲?」
「あのなぁ……」
「あはは、わかってますよ。攫われることを危惧してくれているんでしょう?」
立花が周囲にいる住人たちを見回しながら言った。
彼らは首を垂れ、座り込みながらも彼女に怪しい視線を飛ばしている。
「ここには風俗の類が一つもない。金ができたらギャンブルかドラッグで使ってしまうからな。お前みたいな美人がいきなり現れたんじゃ、奴ら何するかわからん」
「…………へ?」
立花がいきなり立ち止まった。それからぎこちなく、首を回して振り返る。
「く、口説いてんですかぁ?」
「なんでだよ」
「いや、だって……ん? 待てよ。まさか天然? ……本心?」
立花がぶつぶつと言い出す。なんだこいつ。というか思考の切れ端を口に出す癖があるなこいつは。
「歩け歩け、滞在時間はなるべく減らしたいんだ」
僕らは横並びになって歩き出す。
立花が妙な表情で僕の顔を覗き込みながら言った。
「あの、鮎川君、あたしのこと美人だと思ってくれてます?」
なんの質問だよ。
別に彼女の前で取り繕う必要はないので、素直に答えることにする。
「はぁ? 思ってるけど? なに、お前そんなんいちいち気にするくらい初心なの?」
立花がにまにましながら僕の背中をバンバン叩き、
「あははぁ! やっぱ一皮むけた男はちがうっすねぇ!」
「……少しは大人しくしてろよ」
「照れやがってぇ! あたしのこと好きすぎかぁ? 好感度天井突破ですかぁ?」
マジでうるさいこいつ。
僕は衛星のように付き纏ってくる彼女を無視して、歩みを進めた。
しばらくするとセンターの最奥、壁にしなだれかかるように積み上がったバラック街に到着する。煙草をくれ、金を恵んでくれと迫ってくる老人たちを追い払い、階段と梯子を上っていく。
道中、道が交差する点に座り込む老人に、0.8gほどの覚醒剤を握らせると、行き先を指し示してくれた。
「これはどこに向かっているんです?」
「……王様のところだよ」
「王様?」
「ミナミでも繁華街でも、表じゃないところにはその場所を取り仕切るボスみたいなのがいるだろ。センターにもボスがいて、王様と言われている」
「てことは専制君主制なわけですか?」
立花はふざけて聞いてきているようだが、実際そうなのだ。
「センター内の情報はすべてそいつが知っている。ここにいる住人はその王様に隷属しているのさ。敬愛と親しみを持ってな」
「ふうん。……あ、そうだ。聞きそびれていたんですが、どうしてあたしたちはセンターに来たんですか? 仲介人がここに逃げ込んできたとか?」
「そうだ」
「わお」
「改都には正規の出入り口が大門の他に三つほどある。そのうちの一つがこのセンターの近くにあるんだ。そしてそこは三つのうちでもっとも警備が薄い」
立花が振り返り、遠くを見やる。視線の先には大小様々な豆腐を組み合わせたような、白い建物があった。豆腐から突き出た二本の煙突がもうもうと煙を吐き出している。
「ごみ処理場ですか」
「あそこは工場地帯のごみを一手に引き受けている。このセンターから人足を供給している関係もあって、パイプがある。金さえ払えばゴミに紛れて外に出られるってわけだ。成功は保証されないし、酷い匂いだから最終手段だけどな。僕も夜逃げの時に頼ったから知っている」
「ふむ。でも本当にいますかね」
「いるはずだ。お前も調べただろう、ノーベさんは正規に住民登録されていない。それに手負いだ。目撃情報と時間帯からして、センターで潜伏中なのはほぼ間違いない」
「じゃあもう逃げちゃったんじゃないですかね」
「ごみを捨てるための穴を開くのは週に一度しかない。そしてそれは明日だ」
バラック街の天辺、少し開けた展望台のような広場には、ぽつんと一つのベンチだけがあった。そこには杖をつき、街を見下ろしている老人が一人、座っていた。
背が低く、後ろ姿からは子供にしか見えない。
それが場違いなほど上等な三つ揃えに、色合いが全くあっていないダッフルコートを着込んでいるもんだから、滑稽である。
「ここ数日の間、眼帯をしたブロンドの髪の女が来ませんでしたか?」
王様がゆっくりと振り返った。
目が白く濁っている。白内障。視力はほとんどないはずである。それでも、僕ら二人をじろじろと見回し、何かを計っているようだった。
「…………」
「肩を怪我していて、明日ごみ穴を通って外へ出ていくはずです」
王様は気高く頷くと、震える右手で立花を指差した。
「?」
「いやダメです。他の物にして下さい」
王様は右手を下ろさない。困ったことになったな。
「あの、鮎川君?」
僕は立花に耳打ちした。
「ノーベさんの場所は知っているようだが、対価にお前を抱かせろと言っている。大丈夫、そんなことは絶対させない。少し下がって様子を見てろ」
「ん? ああ、そういう事ですか。あたしは別にいいですよ。鮎川君の役に立つならそのくらい」
「駄目に決まってんだろッ!!」
存外、大きな声が出た。
「……え、ええ」
立花が若干引いている。
僕だってそんなつもりはなかった。台詞も声量も、反射的に出たものである。困惑。理性的ではない。なにをしてるんだ、僕は。
僕は大きく深呼吸をして、立花を僕のすぐ近くまで寄らせる。
先ほどの大声で警戒されたらしく、周囲に人の気配が増えた。微かな金属音も聞こえる。
僕はジャケットをゆっくりと捲り、懐にある白い粉が封入されたパッケージの束を取り出した。それを王様に向けて無造作に投げてよこす。
「覚醒剤だ。百グラムある。品位については嚴禅会が保証している。混ぜ物なしだ。情報一つの対価にしては破格だろう。これ以上何も聞かず、何も言わず、早く教えろ!」
僕はガネイシャに手を掛ける。立花を庇うように立つ。王様はパッケージと僕の顔を交互に見比べ、ため息をついたかに思うと、懐から紙を取り出し、何かを書き始めた。
「すごい量ですね、どうしたんです?」
「お嬢に融通してもらった」
「お金は?」
「ロハ」
「まさか」
「もちろん。性器トゥ性器だ」
「……あんた、あたしに何か言える口じゃなないでしょう」
「うるせえ」
王様が紙をくしゃりと丸めてこちらに投げてきた。僕はそれを慎重に拾い、中を見ると記号の羅列が書かれていた。旧番地と座標を組み合わせた簡単な記号である。
「……廃病院か。ご協力に感謝します!」
王様は顎をしゃくり上げ、早く行けの合図。
そこに他の含意がないことを確認し、僕たちは展望台を後にした。
◇
「やっぱり殺すんですか?」
ごみ穴が開くのは朝六時。ノーベさんが動くとしたらその前だろうとのことで、奇襲をかけるのは明朝にした。
センターにいくつか仕掛けを施し、空が白み始めるまでは待機。僕らは病院の近くの廃屋に隠れ潜んだ。
「それしかない」
「そんなことはないですよ。だってスナーク狩りと目的は一緒なんでしょう。手段が違うだけで。それにスナーク狩りもいい線いってそうだ。嚴禅会会長の一人息子に、箕土路のお嬢様と同じ能力を持つサイボーグ、刑事、傭兵、それに
僕は立花に僕自身のことをほとんど話してしまっていた。彼女がやけに聞きたがったのが鬱陶しかったのと、僕自身の甘えの為である。
「それでもだ。もうラインは超えたよ。それに僕は探偵が殺された場に居合わせていた」
「でも鮎川君は殺していない」
「加担はしてる。止めもしなかった」
「だとしても──」
「なんなんだよさっきから。僕に今更真っ当になれって言うのか。お前自身、カス共でハーレムを作ることを面白がっていたじゃないか」
「そりゃあ、あたしだってその先の結末は見たいですよ。こんなに心惹かれるものはない。だけどですね、鮎川君がこのまま突っ走って行ったのなら、絶対どこかで無理が生じますよ。壊れてしまう。あたしはそれが心配だ」
「心配ぃ? オブザーバーらしくないな」
「もう当事者です」
「……お前さぁ、結局何なの。なんで僕に付き纏うの? なんで関わろうとしてくんの?」
「最初に言ったじゃないですか。鮎川君の好感度を稼ぐためですよ」
「なんで?」
「あなたが好きだから」
立花は臆面なく、そう言った。
「…………な、ぜ。ぼ、僕はお前に何かしてやった──それこそ惚れられるような行動をとった覚えがないんだけど」
「なんにでも理由を求めようとするのは、鮎川君の悪い癖ですね」
「いいから」
「そうですねぇ、確かにあなたに手ずから何かをしてもらったことはない。ですが、あなたからはたくさんの物を貰いましたよ。形があるものじゃなく、です」
立花の言っている意味が分からない。視線で続きを促すと、彼女は居住まいを正した。
「少し、あたしの話をしていいですか?」
「長くならないならな」
「じゃあ、最終回前特別スペシャル、ダイジェスト版でお送りいたします」
「なんじゃそりゃ」
立花が咳ばらいを一つして、
「あたしはごく普通の家庭環境で育ちました。食うものに困らず、裕福でなかったけどできる範囲で欲しいものは買って貰え、ピアノ教室に通わせてもらえるくらいの家庭でした。それがまあ詰まらない。退屈だ。だから勉強して企業で成り上がってやろうと思ったんですが、企業のご子息ご子女たちとは勉強に使える時間が違い過ぎる。その上奴らスマートドラッグキメて、質も底上げしてんだから敵わない。路線変更、群れに入って成り上がってやろうと思ったわけです」
「それがまず間違っている」
「あはは、鮎川君に言われたかねえですよ。ともかく私は群れに入った。それが一年前の話。そこからあたしは頑張りました。超がつくほど頑張りましたよ。スリルもリスクも楽しめた。多分才能か適性があったんでしょうね、そこそこ上の立場に行けて、ようやく何者かに慣れた気分でした。ですがそこに表れた超新星。群れが抱えている難題を瞬く間にスマートに解決し、明らかに生徒会長に贔屓されている大型新人が登場。あなたのことですよ、鮎川君」
びしりと立花が僕を指差した。
「…………」
「おっとぉ、そんなんで簡単に惚れるあたしではありません。まず覚えたのは嫉妬。そしてライバル意識。しかしもともと持っている素養か知識かが全く違うので敵わない。作戦変更、あなたの弱点を探ることにしました」
「お前、そんなことしてたのか」
「そしたらやばい女三人の間を綱渡り、悲惨すぎる過去、路地裏で吐いてるゲロ。そんな現状。そこであたしは思いましたね。こいつ狂ってる、と。そしてこうも思いました、あたしの人生はこの人の手助けをするためにあるんだと」
「急だなぁ。感情の動きが分からん」
「あたしにもわかりません。直観ですよ。ピンと来たんですよ。啓示のように。そして一度言葉になってしまったのなら、それが心にこびりついて離れない。あたしは考えました。寝る間も惜しんで考えました。そして結論、その直感は正しい。理性も感性も感情も心も体も脳みそも、それを肯定している。だけどあたしができることは少ない。それでも命は捧げることはできます。あなたのために命を投げ出すことはできます。だから何でもやります」
「僕はそんなこと望んでいない。それに今の立花の状態も説明がつくぞ。お前は自分が成れない人間に同一化しているんだ。普通の子供が芸能人やミュージシャンに自分を重ね合わせるように。それが元来持っていたスリルジャンキーな性質と合わさって、今の火遊びのようなものを楽しんでいる。それだけだ」
「そうかもしれませんね。でもそれだって感情だ。誤認だってそれに気付けなければ本物だ。それを否定はできませんよね、鮎川君」
「…………」
「特別になりたい。承認されたいなんて誰もが持っています。それがどんな形であろうとも、あなたは利用できるなら利用すべきですよ。生徒会長みたいにね。だから、あなたはあたしの命を使い尽くしてください。あたしの体を使用してください。それが、あたしの心からの願いです」
立花は話の締めくくりのごとく、最後にいつものような軽薄な笑みを浮かべた。
多分、言葉にするなら献身。敬虔な使徒が神へ身を殉ずる。そんな状態に近いのだろう。それが思春期的情動、コンプレックスと合わさって、今の立花を作り上げた。
言葉では理解できる。理性では理解できる。しかし心はそうじゃなかった。何だろうこのやるせなさは。
僕らの間にぼんやりとした赤が差し込んでくる。夜が明けたのだ。窓から差し込む光は、僕らの間を明確に区切り、ほこりをプラネタリウムのように照らした。
「あなたが壊れてしまったら元も子もないですからね。やめるならやめるでいいですよ。鮎川君が心配なのも本当です」
立花が立ち上がる。僕もそれに続く。
「それで、どうします?」
「やるよ。立花の言うことに感化されたわけじゃないが、僕も僕の結末が見たくなった。最後までやろう、最後までやり通そう。付き合ってくれるな、立花」
「もちろん」
僕らは最後に、装備と準備の万全さを確認し、廃屋を出た。
キスの一つでもしてやろうと思ったが、僕の体は動かなかった。
セミが騒がしく交尾をせがんでいる。街はまだ眠っている。夏と朝の匂い。
選択。迷い。
僕は今日、ノーベさんを殺す。
直接、自分の手で殺人を行う。
この世に絶対はないが、成功することは目に見えている。準備にいくらでも時間をかけてもいいのなら、僕にできないことはない。
吹っ切れたように見えて、全くそうではない。
後悔と戸惑いは枷のように、僕の両足に引っ付いている。
それでも選択をしてしまったのは、多分、立花を失望させたくなかったからなのだ。
そんなことにふと、気が付いた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
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チュ!(投げキッス)