それは、まだ空が白み始めたばかりの、肺の中まで凍り付いてしまいそうな冬の朝。
僕が改都に帰る少し前、追跡者に追い詰められ山小屋に潜伏していた時のことである。
母は自死を選び、父は狂い始めた。
母が命を賭して稼いだ金は、父の放埓によって消えた。再起することは叶わず、父が騒ぐせいで追跡者に居場所がばれ、逃げることしかできない。ましてや、こちらから打って出ようなんて、考えることすらできなかった。
どこかで終わりは来る。
終わらねばならない。終わらせなければならない。
そんなことは分かっている。でも、僕には出来なかった。
選び続けた、逃げという選択肢。
縋れるものは何もなく、ただがむしゃらに逃げた。
追跡者からではない。現実からだ。
鋭敏になっていた感覚が玄関での物音を捉えたので、確認しに行くと、そこには兄がいた。
一つ、終わりに近づいたと僕は安堵した。
期待を持って僕は兄に問う。
「……兄さん。どこに行くつもりだ」
予想外だとでも言うかのように兄の肩が跳ねた。
「うっ」
それから兄はぎぎぎと錆びついたみたいに首を回して、
「ちょっとなぁ」と照れたように後頭部を掻きながら言った。
ぶくぶくに着ぶくれた一張羅のダウンジャケットに、パンパンに詰まったバックパック。耐水性のナイロン手袋に、防寒ニット。兄の装備は明らかに山を下ろうとしている人間のそれであった。
「昨日、麓を見てきたけど、いくつかのタイヤの跡と、たくさんの足跡があった。多分プロだ。包囲はされていないにせよ、感づかれてはいる。逃げるなら、あと二日ほど待って新月を狙った方が良い」
兄は慌てて、大きく腕を振り下ろしながら、
「俺が逃げっ──」
とそこまで言ったところで硬直し、眉間に皺を寄せた。
それから小さく、「……いや、そう思われていた方が良いのか?」と呟いた。
「なんだよ、違うのか」
兄が足で地面をいじくりながら、こめかみを軽く叩く。
これは兄が何かを迷っているときの癖だ。この時間から、僕に知られたくない理由で山小屋を出る。それも逃亡じゃないとしたら──
「まさか、あんた……提案を呑んだのか」
兄はバツの悪い顔をして、僕から視線を逸らした。
「おい! 答えろ!」
「怒鳴るなよぉ。……でもさ、もうこれ以上は無理だよ。親父もあんなふうになっちゃったし、いくらお前が優秀でも足手まとい二人抱えながら、これ以上の逃亡は続けられないだろ?」
「……っ」
提案。前回、追跡者との接触の際に受けた打診。内容は僕ら三人が改都に戻り、ヤクザの下で働くという事。そうしたら命は取られない、らしい。
「だとしたら、なんで一人で行くんだよ」
「俺さぁ、これでも結構頑張ったんだぜ。無い頭絞って、無い勇気振るって、奴らと取引したんだ。とにかく時間をくれってさ。時間さえあれば晴臣が何とかしてくれる。父さんも元に戻るかもしれない」
「な、にを」
僕の頭にすでに答えは浮かんでいた。しかし、聞かざるを得なかった。
「俺、出稼ぎに行くんだわ。お前と親父には改都に戻ってもらうことになるけど、それでもどうにか時間は作った。お前は高校卒業までの間、自由に動ける。どうだ、お兄ちゃん頑張っただろ」
「僕が……僕がそんなことを望んだか! 何勝手に決めて──」
「じゃあ三人そろって仲良く死ぬのかよ‼」
兄が怒鳴った。今まで、一度もそんなことはなかった。だから僕は少し怯んでしまった。
「それは、まだ、なにか、方法を考えて……」
尻すぼみの言葉。やれることは全部やった。他の手は思いついていない。思いつきそうにもない。逃げる、もしくは奇跡を待つ、の二つ以外に取れる選択肢はない。
兄が深呼吸をする。それから優しく微笑んで、
「食料はもう尽きた。燃料ももうない。街に降りようにも顔が割れているから降りられない。この場所じゃ冬は越せない。俺は馬鹿だけどな、それくらいは分かるぜ。一か八か違うとこに逃げて、よしんばそれが成功したとしても、じゃあ一生そうやって暮らすのか? 逃げて、逃げて、逃げた先に何がある」
「……それはっ!」
「なあ、晴臣、ここらが年貢の納め時じゃねえか? ……四年間、俺達結構やった方だと思うぜ。家族全員が持っているモンを全部使って頑張った。結果こそ振るわなかったが、俺は結構楽しかった。俺も初めて家族の一員に慣れた気がした。役割ができた。微力ながら役に立てた。十分だよ、俺は」
「じゃあ、僕もそこに行く。兄さんだけを犠牲には出来ない」
「駄目だ」
「なんでだよ!」
「お前はここまでの間、十分やってくれた。それにお前にゃ役不足だ。誤用じゃなくな」
「…………」
何も言えなくなった僕を一瞥した兄が踵を返し、歩き出す。
僕はその腕をつかんだ。行かせたくない。僕は一人になりたくない。もうこれ以上頑張りたくない。堕ちるなら、誰かと共に堕ちていきたい。
ほんと、都合がいいよ、僕は。あれだけ見下していた兄が、心の支えになるとわかるやいなや、これだ。ずるいな。小賢しいな。こんなやつ、早く見捨てるべきだ。
「晴臣」
「……どこに。その出稼ぎってのは、どこに行くんだよ」
「えー、そうだな……あー」
「正直に言ってくれ」
兄が少しの間視線を彷徨わせた後、言った。
「正確な場所は口止めされているが、汚染地区とだけ」
汚染地区。現在の日本列島は前世紀の内紛によってかなりの数の汚染地区がある。核汚染、熱汚染、電磁汚染、細菌汚染など人間の生存に適さなくなってしまった場所を総称して汚染地区と呼んでいる。何にせよ、危険で、寿命を減らす可能性がある。
「そんな危険な場所……それならいっそ三人でヤクザの下についた方がましだ」
「うーん、俺は違うと思うな」
「なにが」
「希望があるかないか、だ」
兄はきっぱりと言い切った。
「ヤクザの下についてしまえば、命は助かるが希望が無くなる。だがここで俺が出稼ぎをして、借金の利子を払ってお前を自由に動けられるようにすれば、お前がどうにかしてくれるかもしれない」
「兄さんは僕のことを買い被り過ぎだ。それに兄さんの命が危なくなる」
「そんなもんどうだっていいよ。俺は人生で必要なものはもう得ている」
「……なんだよそれは」
「思い出と希望だ。……これは授業で習ったんだが、昔の偉い人が言ってたんだ。人間、思い出と希望があれば生きていけるってな。その通りだと思う。俺には思い出はもうたくさんある。家族で力合わせて頑張って言う最高の思い出もある。そして希望、お前がいる。お前がどうにかしてくれるかもしれないと言う、最高の希望がある。それだけで、俺は生きていける。大変だとか辛いだとか危険だとか、そんなことは関係ない。生きる理由さえあれば、俺はそれでいい」
「そんなの自己欺瞞だ。ただの現実逃避を、思考停止を、美化しているだけだ」
兄が困った顔をする。
「……晴臣ぃ、そんな難しいこと言われたって、俺にはわかんねぇよ」
「だから──」
兄が優しく僕の肩を叩いた。兄の意思は固い。覚悟はすでに済んでいる。僕がこれ以上何を言おうが彼は行ってしまう。手から力が抜け落ちる。兄が解放される。
ああ、なにも頼れるものがなくなってしまった。
縋れるものがなくなってしまった。
なんて残酷な仕打ちなんだ。
僕は、僕自身の責任で、僕一人で生きていかなければならない。
兄の期待を背負って。父という負債を背負って。
「晴臣」
兄が僕を抱きしめてくれる。
「俺達ガキの頃は結構良い思いしてきただろう。これは揺り戻しだ。受け入れるべき罰だ。でもお前ならまだ巻き返せる。罪を被るのは俺だけでいい。……な、だから頑張れよ。親父を超えて見せろよ。お前にならできるって」
僕は何かを言おうとしたが、涙をこらえていたせいで、何も言葉にできなかった。
「じゃあな、晴臣。後は任せた」
そう言った兄の瞳は、冬の朝の空気と同じようにとても澄んでいた。
これが、僕が最後に見た兄の姿、最後に交わした言葉であった。
◇
神前式は嚴禅会本部で執り行われた。
非情に荘厳な式であったらしい。
始まりは朝。
台風一過の大快晴。
うっすらと蝉の鳴き声が聞こえる室内に、雅楽の音色が鳴り響く。
神主を先頭にゆっくりと進む新郎新婦。本来ならそこに続くはずの親族はいない。死んだ、もしくは参加できる状態ではないからだ。
残存した嚴禅会の幹部及びその部下たちが期待と緊張を浮かばせながらも参列。
大部屋最奥の神棚を神前と見立て新郎新婦が着席。左に新郎、右に新婦である。
新婦である箕土路蒼青は白無垢を纏い、頭には角隠し。本来なら文金高島田に結われるはずの髪は、新婦の強い要望により洋髪に編まれていた。サイドには牡丹を模ったつまみ細工。控えめな化粧と紅が、彼女の粗野を覆い隠し、彼女本来の静謐な美を際立たせていた。
神主が
続いて神主が祝詞を奏上、参列者は起立してこれを受ける。
新婦と新郎が大中小の杯にて三度ずつお神酒を呑み交わす。三々九度。誓杯の儀。ここで新婦が思わず吹き出してしまうというトラブルが発生したが、概ねつつがなく進行。
その後に誓詞奉読、玉串奉奠が続く。本来ならば親族杯の儀が続くはずであったが、親族がいないので割愛。最後に神主が祝辞を述べ、退場。神前式は無事終了した。
仕切り直して披露宴が行われる。
最初は誰もが黙り、重苦しい空気であったが、車いすにて登場した嚴禅会会長、藤代雅の「無礼講」という鶴の一言、そして新婦箕土路蒼青の底抜けに浮かれ調子な「乾杯!」の一言で会場の空気は一変。賑やかな宴へと変わる。
誰もが限界以上に酒を飲み、今後の嚴禅会の展望について語り合った。
そこには不安が微塵もない。皆、嚴禅会のこれまで以上の発展を信じている。
僕は、僕に対しての挨拶にオートマチックで返答した。何を答えたかは覚えていない。僕に張り付いた、その場に必要とされる僕が自動的にその状況にあった言葉を吐いたのだろう。
心はそこになかった。
結婚も、神前式も、披露宴も、全く自分事ではなかった。一度や二度しか会ったことのない遠い親戚の結婚式に呼ばれたような心境であった。そこにあるのは空虚、そして退屈。
隣に座る蒼青はいつになく楽しそうである。いつものような尖った雰囲気はなく、幸福な結婚を祝われる普通の年ごろの娘のようであった。
どうやら僕は、箕土路蒼青と結婚したらしい。
非現実的な、LSDによるトリップ中のような、信じがたい光景の中、どうにかそのことだけは認識できた。
だから、何だって言うのだ。
兄が死んだのだ。
兄が死んだのだ。
それ以上に、勘考すべきことがあるだろうか。
ナイ。ない。無い。
無いはずだ。
酔っ払いふらふらになった男が上裸になって、太鼓をたたき始める。
ドン。ドドン。ドン。ドドン。
誰かが腹踊りを始めた。辺りからどっと笑いが溢れる。誰かがいいぞいいぞとはやし立てる。
よっ、ほっ、はっ。今日はめでたき日。はねっかえりのお転婆娘が、一丁前に──とかなんとか。
皆顔が真っ赤だ。幸せそうだ。これは他人の不幸を養分にした幸せだ。だってヤクザなんだぜ。こいつらが笑っていていいはずない。こんなやつらに祝われていいはずがない。
なんだこれは。茶番じゃないか。阿保らしい。
…………。
…………。
で、僕は何を考えるんだっけ。頭がうまく回らない。
そうだ、兄が死んだのだ。リーナが言っていた。僕の父を裏切った男の娘、鳶カタリナが言っていた。
……死んだのか? 本当に?
そうだ、僕は確認しなければならないのだ。
僕は立ち上がった。隣の蒼青がトイレかと聞いてくる。僕は答えず、広間を出た。
途中使用人に会長が休んでいる部屋を聞き、そこへと向かう。急いで向かう。目が覚める。急激に脳が冴えていく。
僕の脳内には、お嬢に抱えられ闇に飛び込んでいく前の、リーナの言葉が反復された。
『あなたのお兄さん、鮎川海星はすでに亡くなっているんです!』
『あの手紙を届けさせたのだって私です! あなたが事実を受け入れられるようになるまで、隠しておくために!』
『だから、その女と一緒にいたって、何にもなりません! お兄さんは帰ってきません!』
僕は勢いよく襖を開いた。
「……よお、来たか晴臣」
会長は点滴他医療器具に繋がれ、ベッドに横たわっていた。会長の体はすっかり痩せていて、目の下には深いクマが浮かんでいた。
僕は息を整えて、彼の前でも対応できる僕を呼び出す。演じる。
「……まだ、治っていないんですか?」
会長がふっと微笑んだ。
「刺された傷か? あっちはもうかなり良くなった」
「じゃあ、なぜ」
会長がトントンと自身のこめかみを叩く。
「あの後、脳の血管が切れちまってよ、俺ももう長くないらしい」
「…………」
「まあそんなことはどうでもいい。組のことは何も心配していない。お前が蒼青と結ばれたんだからな。ほんとに良かったよ。幸せにな、晴臣」
会長が緩慢な拍手を送ってくれる。
それから僕に着席を促したが、僕はそれには従わなかった。
「……それで何の用だ」
僕は溢れてくる感情をすべて呑み込んで、言った。
「兄は、兄はどうなったんですか」
会長の視線が鋭く僕を射抜いた。僕は一歩も怯まずに、そのまま視線を合わせ続けた。
「お前、相当うまくやったらしいな。借金全額返済、おめでとう。本当に大した奴だよ」
「そんなことを僕は聞きたいわけじゃない!」
「…………そうだよな」
会長が起き上がり、自身に繋がれていた管をぶちぶちと引き抜いていく。
それから肩を落として、僕から視線を外し、言った。
「死んだ。放射能被ばくによる中枢神経障害が死因だと聞いている」
両膝に衝撃、痛み。僕は膝から崩れ落ちたらしい。
なんだそれは。
そんなことがあってたまるか。
兄の死は、小賢しいリーナが土壇場で吐いた嘘であるはずだ。
僕を失うことに恐怖して思わず言ってしまった、口から出まかせなはずだ。
だからあの手紙も本当で、兄の仕事が落ち着いたらまた手紙が届くはずなのだ。
それが、なんで、ああ、なんだって……。くそったれ。
全身から力が抜ける。自然と首が垂れていき、視界が畳で埋まる。その視界も滲み、ぼやけていく。
「現場で火災が起こったんだとよ。崩れた建物に閉じ込められた同僚を助けるために、防護服を脱いで単身乗り込んでいったらしい。本来ならすぐにお前に伝えなきゃならなかったが、あれがあったからな。すまない」
怒鳴り、軽蔑し、殺してやりたかったが、体が動かなかった。そもそも、それをして何になる。意味がない。
「なにか、その、兄が死んだということを証明できるものは……」
なぜ僕はそんなものを求めるんだ。全員が裏で示し合わせて、僕を騙していると考えればいいじゃないか。そのほうが心丈夫である。リスクが少ない。
「一応、遺骨はある。遺書もあったらしいが、すまない、紛失したとの報告があった。遺骨は放射能に汚染されているから、少し時間はかかるが、必ずお前の元に届けさせる」
それから、外に兄を探しに行けばいい。それで野垂れ死ねばいい。そうしたら僕は、僕のまま、兄が生きていると信じたまま、死ねた。
会長がまだ何か、僕を慰めるための胡乱な言葉を吐いているが、僕の耳には一切入ってこなかった。
◇
世界がやけに澄んでいる。
清浄で、静謐で、すべての物が僕に心を開いてくれている。
それに反して、思考はぼやけていて、今まで何をしていたか、これから何をすべきかが一切分からない。心も凍り付いていて、何も感じない。何か重要なことがあった気がするが、思い出そうとすると心が軋んで痛いので、止めた。
二度、吐いた。
三度、
披露宴は体調が悪いとかなんとか言って抜けてきた。
僕は今、帰路についている。家に帰ろうとしている。この世界は全部嘘なので、朝起きたら全部が元通りになるはずだからだ。そう、心から願っている。
僕は今、高校二年生なのだ。花の十七才なのだ。
蒼青はただの反抗期のヤンキーで、水仙はマゾっ気のあるただの生徒会長、リーナだって親が金持ちなだけのただの箱入り娘なのだ。立花なんかはスクープを追う新聞部員。僕は勝手に助手にされ、ドタバタの学園生活を送るのだ。
なあ、そうなんだろう。そうであってくれ。頼むから。
ああ、ダメだ。もう無理だ。ひび割れていく。心を覆っていた分厚い膜が、劣化し、剥がれ落ちていく。本当が、頭に、流れ込んでくる。
僕は本日三度目の嘔吐を果たした。
…………。…………。…………。
わかってる。
わかってるよ。
でも、もういいだろう。
もう十分やっただろう。
そもそも、僕が最後まで父に付き合う義理はなかったのだ。父が狂ったと分かった時点で、父を捨て兄と二人で生きればよかったのだ。
そうすれば、いまごろ……。
いまごろ、なんだよ。うまくその先が想像できない。
だってそんなもの無いんだから。ありもしないんだ。元々、望んでいないんだ。
僕は空を見上げた。
稜線に少しの紫を残した、紛れもない夜。闇。星なんかはない。一つも見えない。街の灯りか、光化学スモッグかは知らないが、とにかく星は見えない。
気違いじみた朧げな月だけが、ぽっかりと空虚に浮かんでいる。それが、何者かが僕を観察するために設えられたのぞき穴に見えて、非常に腹立たしかった。
首を垂れた電灯が、虫を殺すためだけに輝いている。
遠くから救急車のサイレンが聞こえる。ああせめて、苦しんで死んでいてくれ。助かる見込みがなくあってくれ。
帰ろう。早く部屋に帰ろう。
あそこには、強めの睡眠導入剤があったはずだ。もう、この世界にいたくない。眠らせてくれ。退場させてくれ。
「ハル君」
女性の声。
僕は無視したが、無視できていなかったらしい。僕が声の方を見ると制服姿の女性がいた。隠れてはいるが、彼女の後ろにも何人かいる。気配を感じる。
それは、我らが生徒会長、梶尾水仙であった。
「まさか、結婚しちゃうとはね。驚きだよ」
声が続く。僕は歩く。
「君は合理的だから、あのヤクザのお嬢さんをコントロールするためにセックスを利用した。そこまでは分かる。そこまでは理解できるし、納得してあげよう」
声が続く。僕は歩く。
「だけど、結婚はダメだろ。なにやってんの、ほんとに。ルール違反だ」
声が続く。僕は歩く。
「ハル君。ゲームはゲームだ。所詮遊興。現実に持ちこんじゃいけない。そういう不文律がボクらの間にはあったと思っていたんだがねぇ。……なあハル君?」
声が止まり、彼女が僕を通せんぼした。
「聞いているのかい? ……そりゃあ、お兄さんのことは残念だとは思うけど、いつまでも落ち込んでいられるほど、君は暇じゃないだろう。ほら、今から──」
──知っているのか。
「ああ、もちろん。お兄さんの件だけどうにかすれば君は群れに入るって言っただろう」言っていない。「だからあれからずっと探していたんだ。後手は踏んだがね、場所は特定した。その時にはもう亡くなっていたけどね」
三。
三回。
僕は兄の死をそれぞれ別の人間から、三回聞いた。
『I have said it thrice: What I tell you three times is true.(私は三度言った。三度言ったことは真実なのだ)』
もう、やめてくれ。
「なあハル君、もう少し待っていてくれ。あの二人を殺して、殺しつくしてきっと君を迎えに行く。
──うるさい。
「…………なに、なんだって?」
──勝手にしろよ。
「もちろんそのつもりさ。君もいつまでもうじうじしていないで、割り切った方が良いぜ」
──だまれ。
水仙が肩を竦めた。それから携帯を取り出してどこかに電話をかける。
「始めていいよ」
僕は再び歩く。背後から声が聞こえる。
「じゃあまた後で。朝までには終わらすつもりだよ」
◇
歪む。
僕も、世界も。
自我が溶け、穢れた万物と一体になる。
とても不愉快だ。
カンカンと甲高い金属音が耳に障る。
上るたび、ぎいぎい軋む、サビた金属製の階段が癇に障る。
ボコボコに凹んだ、アパートの扉を開けると、珍しいことに明かりがついていた。
ペットボトルに、カップ麺の食べかすに、しわくちゃになった衣服に、いつもながら汚い我が家ではあったが、今日はさらに散乱していた。上と下を入れ替え、混ぜ返したような様相であった。
その中心に、父がいた。
直立で、スーツ姿で、すこし首を傾け、僕を見ていた。
その目は、正気であった。
「父さん」
「……晴臣か」
「父さん、直ったの? 正気に、戻ったの?」
父が振り返って言った。
「ああ、もう大丈夫だ。苦労かけたな、晴臣」
「父さん!」
僕は父の元へと駆け寄った。
「兄さんが、死んだんだ! 僕のせいで、あの時、僕がいい方法を思いつけなかったから、犠牲になってしまった! 僕だって一生懸命頑張ったんだよ。この街に帰ってきてから、必死になってやった。でも、全部が裏目に出て……父さん、どうにかしてよっ! 父さんならなんとか──」
そこで僕は気付く。
父は手に、母が出演したアダルトビデオを、まだ、持っていた。
「……父さん?」
「晴臣、そんなことは、どうでもいいんだ」
それに、この服。スーツじゃない。喪服だ。
「今日は母さんの、沙織の命日だろう。だから俺は母さんに会わなければならない。邪な気持ち抜きで、向き合わなきゃならない。だから喪服を引っ張りだしてみたんだが──」
父が、テレビの方向を指差す。
「DVDプレーヤーが壊れてしまった。なあ、晴臣、直してくれないか? それができないなら新しい奴を買ってきてくれ」
歪曲。認知が正される。融解。僕が再び組み上げられる。懊悩。迷いが吹っ切れる。失意。一筋の希望が僕を差す。──絶望。すべてが元通り。
何かが、
壊れる音が、
した。
もう、いいか。
やめよう。全部。
借金だってリーナが返してくれたみたいだし、また追い掛けられることはないだろう。逃げてしまおう。捨ててしまおう。こんな街。
母は本懐を遂げた。兄は死んだ。父も、もう父じゃなくなってしまった。なら、もういいだろう。
また蝦夷の方まで行こう。義勇軍じゃなくても、僕にできる仕事はいくらでもあるはずだ。そこまで言ったらカス共の手も届かない。今日、お互い潰し合うみたいだし、共倒れしてくれることを願おう。
死んでしまってもいいが、何も今すぐ死ぬことはない。
僕は、僕を縛っていたすべてから、今、解き放たれたのだ。
少しくらい、気の向くまま、自由に生きてみてもいいじゃないか。
思えばずっと父に縛られた人生だった。幼い頃から後継者として育てられ、しりぬぐいまでした。その結果がこれだ。今までは父の複製としての人生。これからは僕の人生。僕のための人生だ。
なんだか思考がポジティブになってきた。
今度はたくさんの人に褒められる人生にしよう。損得勘定なしに、ただ善意だけで人を助けよう。釣りをして一日過ごしてみよう。酒の美味しさを探してみよう。友人と酒を飲み交わして語り合おう。それから好きな人と、共に生きよう。
好きな人。
そうだ、立花も誘ってみようじゃないか!
あいつは、立花涼音は、とても愉快で、すこぶる頭が回り、非常に気が利く奴なのだ。それにこんな僕を好きだと言ってくれた。声をかけたら、きっと着いてきてくれる。
各地を巡って、一緒に美しい景色を見よう。
ジャーナリズムに傾倒して、日本の現状を記事にするのもいいな。
そうと決まれば、善は急げだ。
僕は急いで最低限の準備を整え、ほとんどスキップみたいな足取りで部屋を出た。
「買いに行ってくれるのか。なるべく早めに頼む」
黙れ!
早足で階段を下りながら、電話帳から立花の名前を探す。
通話ボタンを押して、耳に当てる。プープープーと待機音。頼む、出てくれ!
『……鮎川君?』
小さく、掠れてはいるが、それは間違いなく立花の声だった。心がぱっと喜色に染まる。
「立花! いや、涼音! 今どこにいる⁉ 今すぐに会えないか!」
少しの間。
『へへ、嬉しいですが、無理そうです。ちょっとドジ踏んじゃいまして……』
軋む。
「どこだ、どこにいる⁉ 何があったとしても僕が助けてやる! 街を出るんだ!」
『そうはいくかよ、バーカ』
男の声。
それも、聞き覚えのある声。
さらに軋み、揺らぐ。
「涼音! 無事か! 何があった!」
僕は叫ぶ。電話口に叫ぶ。かき消すように叫ぶ。
『うるせえな。中央広場だ。時計塔のふもとにいる。早く来いよぉ、晴臣ぃ。そしたら俺の拳が痛む回数が減るからなぁ』
品のない笑い声と共に通話が切れた。
──藤代尊。
「あああああああああああああああああああああ‼」
僕はありったけを吐き出してから、走り出した。
もう嫌だ。許してくれ。頼むから、無事でいてくれ。
現実が再び、僕の手の中に、視界に、心に、返ってきた。
二つ目の摩天楼が、崩壊を始めた。
空には群れを成した大量のヘリ。
気づけば街のあちこちから火の手が上がっている。
僕は走った。走らざるを得なかった。