子供のころは、とても幸福だった。
知っていることよりも知らないことの方が多かったし、世界は僕にたくさんの好奇をもたらしてくれていた。
まだまだ自分の将来に希望が持てたし、僕は僕の能力に自負も自信もあった。
行動力は無尽蔵、未来は無制限、可能性は無限。
満ち足りていて、余りあるくらいだった。
僕には尊敬すべき父がいた。手軽に見下せる兄がいた。
母の愛が恋しい時期もあったが、そんなものは後で手に入れればいい。
僕は父の期待に応えられるように精一杯努力をしたし、その努力が報われるだけの才能があった。父に認められ、父の同僚部下に認められ、すでに後継者として、仕事仲間として一定の評価を得ていた。
だから僕は、自分が天に愛されていると信じて疑わなかった。
彼女たちに出会うまでは。
◇
「晴臣、お前いくつになった」
薛秦義肢公司の社屋、百六十三階第五会議室での役員会議が終わった後のことである。
僕の父、鮎川総一郎が資料を束ねながら言った。
陽光をさりげなく取り込める構造の大広間には、中央にぐねりと凹みの入った楕円形の金属製長机が鎮座ましましており、上には飲み干されたコーヒーの残骸がいくつも放置されている。
机を囲む工業意匠であることを隠しきれていない十四のデザイナーズチェアは、きちんと整えられているのが半分、整えられていないのが半分。
だから今回の会議はまあ、それなりに成功と言っていいだろう。
僕は議事録をまとめていた手を止めて、答えた。
「今年で十二だけど」
「ふむ、そうか」
父が難しそうな顔をしながら、顎を触る。
その腕に巻かれているのはスイス製の高級アナログ腕時計。いやらしくなく上品に、陽光を受けて銀に輝いている。父は普段、健康管理のためにスマートウォッチを付けているのだが、ここぞの場面で迎合できるのは素直に尊敬する。父がいつものように抑揚なく言った。
「……晴臣、お前学校教育に興味はないか?」
突飛な発言。僕はその意味について、少し考える。
「教育事業に手を伸ばすって事?」
「いや、違う。お前が都立の小学校に通うってことだ」
僕は父の真意を探るため、彼の瞳を覗いてみたが、そこには暗く鈍く輝く、いつもの瞳しかなかった。
「……えっと、僕はすでに高等教育までのカリキュラムを終えているよ。この前だって専門経済学の履修が済んだ。父さんだって褒めてくれたじゃないか」
「そうなんだがな。……うーん、なんて言ったらいいか」
実に言いにくそうな口調であったので、僕は遠慮せずに言ってもいいよの頷きをする。
「晴臣この前、精神検査受けただろ。その結果を見たんだがな、どうにもお前は同世代の子供たちに比べて、成熟しすぎているらしい。それ自体は良いんだ、俺が望んだことでもあるし、素晴らしいと思う。だけどな、晴臣、お前は普通を知らなすぎる」
「いや別にやろうと思えば、できるけど」
「違う。そうじゃない。お前が表面的に真似ることができたとしても意味がない。お前は経験として普通とはどういうことかを知っておく必要がある」
「……と、いうと?」
「結局、この世界に生きている大半の人間は普通の人間だ。そして俺たちはその普通の人間相手に商売をしている。だから数字として彼らを認識するんじゃなく、経験として彼らを知っておかなければならない。……俺だって一応、下生まれだ。だからここまで来ることができた。これがルサンチマンだったとしても、事実だ」
僕は眉根を寄せ、少し勘案した。
「そう言われれば、そうだね」
「よし。だからお前は普通をするために小学校に通え。普通を知るために学校に通え。すでに手続きはすんでいる。期間は、来週から卒業までの一年間だ。丁度進級のタイミングだし、良いだろう? 無駄にするなよ」
「うん、わかったよ」
正直、学校に通っている時間が丸々奪われるのは癪であったが、それでも父なりの考えがあるのだろう。父の言うことに間違いがあったことなんて一度もない。僕は心を納得させた。
「──というのは建前で」
「え?」
「実際、それより重要な目的が他に二つある」
父が僕の眼前に突き付けたブイサインには、彼の並々ならぬ野望がにじみ出ていた。
◇
ペルシャ絨毯を思わせる、中心に楕円を据えたオリエンタルな幾何学模様、メダリオン柄が植物的にフラクタルに渦を巻き、床一面を覆いつくす大ホール。
誰もが惜しげもなく床を踏みしめながら、歓談に励んでいる。
上等なスーツ、上等なドレスの間を抜け、個々別々で嗅げばそれなりにいい香りのしそうな香水に顔を顰めながら、僕は父の元を目指していた。
雑踏。ざわめき。
濃淡様々な酒精と、シャンパングラスに入ったアペタイザーのツンとくる酢の匂い。
今宵のパーティは、社内の横断的交流と銘打たれているが、実際には違う。もちろん懇親会なんて生ぬるいものでもない。かつての舞踏会が貴族たちの交流の場であったのと同様、父は戦争の前の根回しの場であると言っていた。
いつもはできるだけ顔を売れと言われているが、今日は違う。役割がある、らしい。まだ何も聞かされていないが、僕はやる気に満ち溢れていた。
蝶ネクタイはもうずいぶん前に卒業した。父と同じ専属の職人がオーダーメイドで設えてくれた背広の襟を正し、僕は父に話しかける。
「父さん」
父が小太りの男との歓談をやめ、一瞬こめかみをピクリと動かした後、笑顔を作って言った。
「晴臣、よく来たな。……そうだ、お前あっちにあったシャルキュトリーは食ったか。テリーヌがなかなか良かったぞ」
おっと。少しタイミングが悪かったらしい。父は言外にどこか行ってろと伝えてきている。僕がアハアハとかなんとか子供らしく笑った後、踵を返したところで、
「鮎川さん、そんな無碍に扱わなくてもいいんじゃないですか。自分のご子息でしょう。それにこの後どうせ彼とも話さなければならない。ならば、その予定を少し早めても問題はないのでは?」
そう毅然とフォローを入れてくれたのは、父の隣に控えていた男であった。
背が高く痩せ型で、びっこを引きながら杖を突いている。多分年は四十代後半くらい。ぎょろと飛び出た両目をせわしなく動かしていて、その輪郭は黄ばんでいる。鷲鼻で、口はへの字に歪んでおり、腰が少し曲がっていた。前髪は撫でつけられているが、白髪交じりで薄くなっており、全体的に不格好な男であった。
どこかで見たとこあるなと、記憶を当たってみるが、思い出せない。強いて言えばこの間自然博物館で見た、枯れ木に似ている。
僕は余計なことをと思ったが、顔には出さなかった。
父の目尻がひくりと動く。ああ、かなり苛ついているな。
「そういうことなら、私はこのあたりで」と小太りの男が好機とばかりに声を弾ませ、会釈をして去っていく。
「前川さん、さっき言っていた件、よく考えておいてくださいよ」と父が一歩踏み出して言った。
小太りの男は角度だけで振り返り、苦く微笑んだ後、人ごみの中に溶けていった。
父が大きく鼻息を吐く。
それから、冷ややかな視線を不格好な男に向けた。──前川さん、という事は総務部か。次に行う統一事業構想の根回しだろう。
父が「鳶」と鋭く発声したと同時に、周囲にさりげなく視線を走らせる。そして不格好な男に耳打ちを誘った。鳶と呼ばれた男が腰をかがめた瞬間、彼の鼻に肘が入った。
「ごブッ」
父は流麗な所作で懐からハンカチを取り出し、自身の肘を拭った後、鳶さんの顔面に覆いかぶせる。
周囲の注意がこちらに向くが、
「どうもすいません。部下が鼻血を出してしまったようで。この場の雰囲気に当てられたのでしょう。皆さんはお気になさらず、どうかご歓談を続けてください」
「な、なにを──」
父は微笑みを崩さないまま、怒りを滲ませた声で言った。
「お前のせいで言質を取り損ねた。これでまた進捗が遅れる。いつも言ってるだろ、俺の邪魔だけはしてくれるなって」
「前川さんは、明らかに立ち去りたがっていた。あれは梃でも動きませんよ。この場は穏便に収めて、落ち着いてから──」
鳶さんが鼻を押さえながら反論した。ハンカチには赤が滲んでいる。
「年功者の助言ってか。部下に立場逆転されたから足を引っ張ってやろうってか」
「そんな、私は……」
「温いことやってるから出世が遅れるんだよ。言われたことだけやっとけ、ブ男が」
……へぇ。この鳶さんという男は、よっぽど父に信頼されているらしい。
父の苛烈ともいえる嗜虐性は、本当にたまにしか顔を見せない。
それも信頼している身内にしか、である。
不出来の兄には全くの無関心、母に対してはいつも仮面をかぶっている。僕にその矛先が向くときもあるが手までは出ない。自らが行う暴力など父にとって何の意味もないからだ。だから鳶さんへの肘打ちは一見、不合理極まりないが、彼なりの愛の叱咤という事になるのだろう。
「まあいい。あれは後で何とかする。それで、晴臣の件だったな」
鳶さんがずず、と鼻をすする。ハンカチの赤は広がり続けている。
「す、すいません。少し、トイレに……」
「駄目だ。お前が言ったんだ、先に済ます。……晴臣、この情けないブ男は、鳶明彦と言って俺の直属の部下だ。何度か会ったことはあると思うが、覚えていないだろう。一応俺より年上だが、尊敬はくれてやらなくていい。むしろ反面教師にしろ。──で、今は遺伝子改造事業を任せている。かなりリソースを割いていたんだがな、コイツがトンマなせいでなかなか芽が出なかった。しかし、ここ最近、一つだけ成功例が出た」
父が鳶さんの肩を掴む。鳶さんは痛みに顔を顰める。
「こいつの娘だ。と言っても血は繋がっていない。期待していた促成でもない。鳶が個人的に金出してやっていた、
フェルマー。フェルマーの最終定理。長い間未解決とされていた数学の定理だ。
「……十一。年、下?」
「そういう事だな。まあそう悲観することはない。そういうのができるように調整されているわけだからな。……で、だ。この娘、鳶カタリナって言うらしい、が情緒の発展に著しく遅れている。感情が希薄で、外的刺激に興味を示さない。無茶な調整の副作用ってやつだ。感情による判断ができない、人間的コミュニケーションが取れない、計算だけが得意な奴なんて、そんなもんはコンピューターでいい。だからお前はそのカタリナちゃんと一緒に学校に通って、いろんなこと体験させて、人並みの感情を持たせてやってくれ。そして危ないことから守ってやってくれ」
父が僕にだけ見える角度で人差し指を立てた。
どうやらこれが、僕が外で行う重要な任務の一つ目らしい。しかし、多分これも建前。もう少し裏の目的が何かありそうだ。
僕が、ちらと視線を横にスライドさせると、鳶さんの瞳に明らかな動揺が浮かんでいた。
「そうい、……鮎川さん。それは、まだ、決定事項じゃないでしょう。あの娘が外に行くなんて、まだ、とてもとても……」
「はァ? お前が泣きついてきたんだろうが」
「あなたが、強引に暴いたんでしょう。……それに、晴臣君にはカタリナの話し相手になって欲しいってだけで」
「嫌だね。うちの晴臣をそんなつまらないことに貸し出すことはできない。うちのは来週から下の学校に通わせることが決定しているんだ。それに同世代の子供たちという複雑性、晴臣という安定性、の二軸で刺激を与えられる。次なる外的刺激という意味では丁度いいじゃないか」
「しかし、唯一の成功例ですよ! まだラディカルに進める段階では」
「個人的な、だろう。上に言うぞ」
鳶さんが歯噛みし、一歩後ずさる。
「すでに手続きは終えている。監視役も手配した。お前が俺に隠し切れなかった時点で、これは俺の問題になってんだよ。諦めろ。……ほら、早く顔合わせさせてやれ。連れて来てんだろ」
鳶さんが震えるように二、三度深呼吸をする。額には脂汗が光り輝いている。それから消え入るような声で「はい」と言った。
「……では、晴臣君。こちらへ」
鳶さんの後を追おうと僕が歩き出した瞬間、父に肩を掴まれた。
「晴臣、うまくやれよ」
「鳶カタリナのこと? 期待に応えられるように努力はするよ」
「そうだが、そうじゃない。鳶カタリナは女だ。それに、まだ誰にも心を開いていない。俺も一度会ったが、あれはかなり使えるぞ。人間としてじゃない、計算機としてだ。そしてあの鳶の娘だ。奴と血は繋がっていないが、血縁は使える。それにお前は十二、向こうは十一。ウェスターマークはもう切れている。──分かるな? だから利用しろ、利用しつくせ」
ウェスターマーク効果。幼い時分に男女が共に過ごし過ぎると、性的魅力を感じにくくなる現象。
それから鳶家は、母と同様この街を造った主幹メンバーの一族である。
「それはつまり、父さんが母さんにやった、みたいなこと?」
「そうだ。……晴臣、俺たちの目的は忘れていないな」
僕はかつて父が言っていたことを、一言一句間違えず慎重に答えた。
「『人類という種全体を前進させる』」
「よし、わかっているならいい。……なあ晴臣、俺は最近、前ほど頭がキレなくなってきた。気を付けてはいるが、朝、体が怠いときも増えてきた。あと十年もしないうちに、俺はお前に能力面で追い越されるだろう」
「いや、そんな……」
「卑下するな。自分のことは正当に評価しろ。そして事実を正確に認識しろ。……正直、現実が見えてきたんだ。あの頃ほど無謀でもなくなってきた。──俺一代では目的は成せない。だから俺はお前には全部をやる。俺が得てきたすべてを与えてやる。知識も技術も手法も体系も、コネだって金だって……何でもだ。しかし、関係は自分で築け。将来のための種まきは自分でしろ。これだけ言えばわかるな」
僕は頷いた。
「なら、行け」
◇
冷戦は
米国が内戦に夢中なうちに、ロシアと中国は共同で、凄まじい速度で宇宙開発を進め、遂には惑星封鎖にまで至った。
だから、僕ら地球に残された人類は宇宙に可能性を求めることができなくなってしまった。
父が人類全体の
大扉を抜け、エレベーターホールを横切り、突き当りを左に曲がる。
杖を頼りにふらふら歩く鳶さんの歩幅に合わせ、ゆっくりと歩く。彼が鼻をハンカチで抑えていないところを見ると、血はもう止まったのだろう。
道中何度か声をかけようと思ったが、止めた。
僕が何を言おうと、ひとかけらも彼の心を救うことはないだろうし、年の差が年の差なので同情にすらならない。
つか、ツカつか、と変拍子に響く足音を聞きながら、僕は脳内で下宿先に持ち込むものをリストアップしていた。
そう、小学校へは通いではなく下宿なのだ。僕はここにも父の思惑が隠れていると考えている。──ので、準備は万全にしておきたい。
「晴臣君」
気が付くと鳶さんは立ち止まっており、僕を正面から見据えていた。
「あ、もう着きましたか」
鳶さんが手をついている先には、扉。深緑の重厚な扉には、立ち入り禁止のステンシルが掛けられていた。
「そうですが、その前に私と話をしませんか」
僕は首をかしげながら答えた。
「? ええ、構いませんが」
鳶さんが咳ばらいを一つ。
「……それでは、単刀直入に聞きます。彼のこと、鮎川総一郎のこと、ご自身の父のこと、あなたはどうお考えですか?」
鳶さんの不気味な瞳が、僕を一直線に貫いている。
……あ、これは僕を取り込もうとしているな。僕にはそれが、直観的に分かった。
それほどまでに娘が大事なのか、父に対する恨みなのかは知らないが、こういった分かりやすい所が父にいい様に扱われる原因じゃないのか。
さて、どうしよう。
鳶さんに乗ったふりをして、ダブルスパイするのもいいと思うが、どうせ来週には僕はいなくなる。それならば、ここで出来るだけ情報を引き出すのが賢明だろう。僕は慎重に言葉を選んで、答えた。
「一応、尊敬はしていますよ。そりゃあ、やり過ぎだろと思うことは多々ありますが、それでも見習うべきところは多い。さっきのあなたへの仕打ちはひどすぎましたけどね」
鳶さんが目を閉じ、眉根を揉むこむ。
「……そうですか」
鳶さんの目がゆっくり開く。そこに宿っていたの、ぞっとするぐらいの敵意。そして軽蔑。
「あなたは本当に賢いですね。どうか娘のことをよろしくお願いします」
あれ? 思っていた反応と違うぞ。
鳶さんが僕に冷たい視線を向けた後、隣にあった扉をノックし、開けた。
……図られていたのは、僕の方だったか。
やられた。失敗した。
腐っても鳶家、という事か。こんなことなら、下手な芝居をうたなきゃよかった。
そんな悔しさが胸中を満たすのを感じながら、僕は扉の向こうに視線を移した。
そこには、真っ白な空間が広がっていた。
スーツ、天蓋付きベッド、そして空間中を埋め尽くすクッションの数々──はすべて純白で、まるで雲の上の世界のようであった。死後の世界、という意味での雲の上である。
ふわりと漂う、甘ったるいバニラの香り。──には何故だか吐き気がした。
鳶さんが部屋に踏み込むと同時に言った。
「カタリナ、出て来なさい。晴臣君がご挨拶に来てくれたぞ」
白い空間にその声が反響したが、積み上がっているクッションがすぐに吸い取る。後に残るのは虚しい静寂。部屋にはピクリとも動くものがない。本当に鳶カタリナは存在するのか、と疑ってしまうほどだ。
鳶さんが振り返って、
「私は、娘に嫌われているのです。……見ての通り醜男ですから。その、多分、怖いのでしょう」
いや、それはあまり関係ないと思う。
親はどこまで言っても親だ。美醜は関係ない。彼がそう思いたいだけな気がする。
鳶さんが僕の隣を通り抜け、部屋を出る。
「では、後はあなたにお任せしますので、よろしくお願いします。あまり、酷い事はしないでやってください」とそう言い残して扉を閉めた。
……さて、どうするか。僕は大きく息を吐いた。
実の親にまでこの警戒心。
赤の他人なんて怖くてたまらないのだろう。僕は長期戦になることを覚悟して、手近なクッションを手に取り、座った。
情緒の発展が著しく遅れている、人間的感情が希薄。父はそう言っていた。
だから、映画などでよく見るロボットとかアンドロイドみたいなもんかと思っていたが、違うらしい。野生の動物とかそんなもんだと思った方がよさそうだ。
僕は待つ。
先ほどの続き、持ち物確認を脳内で行いながら待つ。
そうして、しばらくじっとしていると、天蓋ベッドの上、そろと何かが蠢いた。
シーツの間から、僕を覗いている。僕は動かず、気にもしない。全く興味がありませんよという風を装いながら、緩慢な動作で尻ポケットから、間食用のチョコレートバーを取り出す。
まず試すのはは餌付け作戦。この警戒心と今の時間を考えれば、彼女が空腹である可能性は高い。
バニラの匂いで塗れたこの部屋で、チョコの匂いが正しく彼女の元に到達するのかは疑問だが、やって損という事はない。
包装を剥き、一口かじる。見せつけるように、薄く微笑んでやる。食事中というのは動物が最も警戒心を解く時間である。先に油断を見せておけば、あの所に必要以上の警戒を与えなくて済む。
じっとこちらを見ているのを感じる。もう一口。シーツがひらりと動く。
「君も食べてみるかい?」
さっと、彼女がシーツの奥に引っ込んだ。少し早かったかと思ったが、微かに籠った声が聞こえた。
「それ、なに」
凛と金属的な、鈴の音のような声である。……話せはするのか。
「お菓子。甘くておいしいよ」
「いらない。今日取るべき栄養及びカロリーはすでに摂取している」
「夜に食べるチョコは、背徳感もあって格別だよ」
「いらない。いらない。……あなたは何、誰。私はあなたに早く出ていって欲しいと思っている」
思った以上に話が通じるな。……というかなんだこの状況は。天岩戸やってんじゃないんだぞ。文句はいくらでも思いつくが、顔には出さない。これは仕事である。
「僕の名前は鮎川晴臣。君と一緒に下の小学校に通うことになった。今日はその顔合わせ」
「聞いてない」
「今日決まったらしいよ。正直僕も驚いている」
「行かない。意味がない。私は私の脳にこれ以上負荷は掛けられない」
「君のそう言った年相応の感性のなさを是正するために、小学校に行くらしい。同世代の普通の子供たちの中で揉まれて、普通を知れってさ。僕もそう言われた」
「……あなたも?」
「そうさ。僕も君と同質の問題を抱えている」
「私は、私のこれを問題だとは思っていない。ただの、性質でしかない」
「僕だってそうだ。だけど、僕の父、君の父含め、周りの大人たちはそう考えていない」
「……おと、な」
よし釣れた。やはりそこか。彼女は味方を求めている。世界が不安で不安でたまらないのだろう。野生動物、というより実験動物。まだ希望を捨てきれていない学習性無気力。知能は高いが経験不足。この上なく与しやすい。
「君
「あなたは、味方?」
「そうとも言えるな。だけど正確には、僕らは仲間、だ」
少しの静寂。先ほどまでの張り詰めた緊張感はなく、少し弛緩している。スーツが今までで一番大きく、揺れた。
「……なら、教えて欲しい。色々。このままずっとじゃ、嫌だ。私にできることは、するから」
よしきた。氷解。初めの一歩はまあ成功と言っていいだろう。友情や愛情は、これからじっくり育んでいけばいい。
警戒心は、彼女を実験動物として扱う大人たちへのものだったのだろう。問題の本質こそつかめなかったが、解決法は提示できた。後で父に頼んでデータを見せてもらおう。
感情が希薄というよりかは、物を知らないだけな気がする。情緒の発展は遅れているが、それは周りの無理解と、知能の高さに起因するのだろう。
僕は立ち上がり、天蓋ベッドの方に手を差し出した。
「なに」
「握手しよう」
「なぜ」
「協力関係の成立に、僕らの友情に」
「いや、だ」
「なら、この話はなしだ。学校に行くのはすでに決定事項。君は防波堤なしで世界に出るしかなくなる」
こんな軽い条件、拒否を受容してしまったら今後の関係に差し障る。それに身体的接触は、愛着を感じさせやすい。
「脅しには屈さない。あなたも困るはず」
心で舌打ちを一つ。
「握手ぐらい、いいじゃないか」
「あなたの前に姿をさらすのがいやだ」
「それこそ何で?」
「私の容姿は、あなたと違い過ぎる」
血は繋がっていないと聞いたが、鳶さんと同様のコンプレックスを抱えているのか。別にどんな不細工でも僕には関係ない。性的嗜好は別で満たせばいい。
「どうせ後から会うんだぜ、今でも大差ないだろ」
「……驚かない?」
「君にもし、三つ目の瞳があったとしても驚いてやらない」
「そこまで、言うなら──」
すら、とまず足が伸びた。
注視しなければ空間と輪郭の境が分からない。
それから手、胴、と順にシーツから這い出てくる。
焦らすようにゆっくりとその全容が明らかになる。
そして、僕はその異様さに生唾を飲まされてしまった。
白から白が出てきた。そう思った。
色素の薄い、腰のあたりまであるシルクの様な髪。
色素の薄い、飴細工のようにほんのり光沢を帯びた薄く細い四肢。
白の中で唯一、大きな瞳の中で丸く輝く虹彩だけが、ターコイズブルーに色づいていた。
背筋に戦慄が走るほど美しい。
一切の瑕疵がない完璧な造形。
自然的に人工的。人工的に自然的。相反する印象が、二律背反が僕の心をかき乱す。
鳶さんの、自身の容姿に対するコンプレックスがそのまま表出したような、そんな少女であった。
カタリナが、素足のままひたひたと歩き、僕の前まで来た。僕が後ずさらなかったのはプライドである。
「手、だして」
僕は彼女の言うとおりにした。小さく骨ばった手で、僕の右手が包まれる。
ほんのりと感じる暖かさが、肌のぬっちりとした感触が、必死に自分は人間であると主張しているようで、恐ろしかった。
「よろしく、ね。……えっと、先輩?」
僕の不遜なる自信に、少し、ひびが入った。
更新が空いてしまって申し訳ありません。次回作の準備をしていました。
今回から少しの間は過去編です。スターウォーズで言うと、2、3やった後、1(ファントムメナス)やるようなもんです。次回は晴臣の母、沙織が登場します。
『らぶみーとぅー!~NTR性癖の幼馴染を満足させるため、僕は真実の愛を探す~』(https://syosetu.org/novel/419545/)
→少し前に書いた作品ですが、私は結構好きです。ちょこちょこ手直ししつつ更新していくので、皆様がもし、ツイッターを見るくらいしかやることがないほどお暇なら、お読みください。
たたたあたいたたしたたてたるたた。
(ヒント:たぬき)