カス女ハーレム   作:大豆亭きなこ

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第三話:鳶カタリナ

 僕が仕込みを終え、応接間へと入室した頃には、交渉事も終盤に差し掛かっていた。

 

 西に傾き始めた日が差し込む八畳ほどの部屋、牛革張りの一人掛けのソファが四脚、その間にはガラスのローテーブル、壁面には賞状やトロフィーが並び、調度品が暗褐色に揃えられた重厚な雰囲気の応接間である。

 

 扉の傍で控えていたノーベさんに「完了」とだけ短く伝え、僕は彼女と補佐兼護衛の役割を変わる。ノーベさんは僕にインカムを渡し、外へと出て行った。

 

 僕から見て向こう側、項垂れ、頭を抱えた交渉相手の男の様子を見るに、趨勢はもう決したようなもんなのだろう。男は白髪交じりでシャツの上から白衣を着た中年である。いかにも苦労を重ねてきたであろうことが、少し薄くなった頭頂部から伺える。

 僕の入室時のノック音と失礼しますの声に何の反応を示さなかったので相当参っているのだろう。あとは彼が事態を自分にどう呑み込ませるかだけである。

 

 対して今回の僕の雇い主、(とび)カタリナは悠然と構えていた。

 背筋をピンと張り、用意された紅茶に一切手を付けず、ノーベさんが淹れたのであろう紅茶を嫋やかな所作で嗜んでいる。彼女は僕に気が付くと、

 

「ハル先輩」

 

 と言いながら自分の隣のソファを軽く叩き、着席を促した。別に拒む理由もないので素直に従うことにする。僕が座ると、何が嬉しいのか鳶カタリナ──リーナは柔らかく微笑んだ。

 

 リーナは全身を真っ白いドレスで全身を覆っていた。所謂白ゴスと言うやつだが、彼女曰くそんなちゃちなものではなく、一流のデザイナーがヴィクトリア期の英国ドレスを、現代風にアップデートさせた、最先端(ラディカル)な本物であるらしい。

 

 触り心地のよさそうな艶めき煌めく絹の生地に、幾重にも重ねられたフリルたち、首から手首から足首から隙なく結ばれたリボンに、随所にあしらわれた透け透けレース。遠目から見るとルネサンス画家の描いた天使のようにも見える。

 

 リーナが凄いのはこの大げさな衣装に着られている感が全くなく、むしろ完全に着こなしている点である。色素の薄いロングヘアーはふわふわと緩く巻かれ、ふさふさのまつ毛と合わせて、愛嬌がある。しかし、強い意志を宿した碧眼は見つめられるだけで石になってしまうんではないかってくらいに力強く、それが彼女が単に愛されるだけに終わらないことを示している。

 

 高嶺のどころか天界に咲く花、そう思えるくらい彼女は透き通っていた。

 

 スーツを着た僕がむしろこの場において場違いなんではないかって思わせるくらいである。

 

 リーナがソーサーをテーブルに置きながら、

 

「さあ、もういいでしょう、鍋島さん。早く契約書にサインして、この会社を手放してください」

 

 鍋島の肩がピクリと動く。このままだんまりを決め込むのは、駄々を捏ねる子供のようであると彼自身気付いているのだろう。

 

 ローテーブルの上には投射ビジョンがあった。そこに映し出されているのはたくさんの資料。そこに記された多種多様なグラフ、表、数字が示しているのは彼の会社の窮状と未来予測である。

 リーナはいつも正しいことしか言わない。人間、物品、過去、未来のすべてを数字に置き換え、正確に、網羅的に可能性を指摘する。そういう風に造られている。

 

 鍋島がわなわなと震えながらようやく顔を上げた。僕の顔を見て、少し驚いてはいたが、すぐに表情を切り替えリーナに向き直った。

 

「あ、あと半年あれば、立て直せるんだ。だから──」

 

「それは半年前にも聞きました。二度目はありません。これでもあなたの技術に敬意をはらい最大限譲歩したのです」

 

「それは分かる。だが、私を手放すのは惜しいだろ。アイインプラントは誰もが望む……」

 

「惜しくありません。すでに代わりは用意しています。あなたが今できるのはあなたが抱えた負債を少しでも減らすため、会社と研究結果をすぐさま私に譲ることです」

 

 鍋島の表情は百面相のようにころころ変わり、最終的には絶望へと落ち着いた。鍋島はそのまま数秒、絶望を続けていたが、強く歯を食いしばった後、瞳の色が急激に媚びに染まった。

 

「なあ、リーナちゃん。君とは昔よく遊んだよな。覚えているだろう? 君の親父さんも若い頃は私が面倒を見て……」

 

「それとあなたの無能さは関係ありません」

 

「む、娘……私には君と同じ年の娘がいる。会ったことあるだろう? き、君はあの娘の将来も奪おうとしているんだぞ!」

 

 鍋島は泣き落としを試みているようだが、そんなものはリーナには通じない。それどころか逆効果になるだろう。

 

「そういった情があなたの現状を決定づけたのでは? 早いうちに自らの手で性風俗の類に沈めていたら、あとひと月ほどは延命できたはずですよ」

 

 鍋島がカッと目を見開いた。

 

「あんた、まさかっ!」

 

「すべてはもう詮無きことです。あの娘がどうなろうとあなたの知るところではありません。あなたが今できるのは、あなた自身に降りかかる今後の不幸を、なるべく減らすため、一刻も早く、ここにサインをすることだけです」

 

 そこで鍋島はこめかみに青筋を浮かべ、リーナに飛び掛かろうとしたので、僕は急いで彼の顔面を蹴り、地面に押さえこんだ。

 

「ぐうッ!」

 

 リーナは一切表情を変えず、僕たちを見下ろしながら、

 

「ありがとうございます」

 

 これでも鍋島の為である。あと一歩近づいていたら、自動防衛箱型鞄(アタックケース)によって彼の頭は吹き飛んでいた。鍋島がもがきながらも僕に振り返って叫ぶ。

 

「ハル坊! お前は悔しくないのかよッ! 元はと言えばこいつの親父がお前の親父を裏切ったからだろうが! 私だって、本当は今頃……ッ!」

 

 鍋島の視線が窓の外に向いた。僕とリーナも彼の視線を追い掛ける。

 

 そこには『城』があった。

 

 この街、『改都(リバイスシティ)』の中心部、高層ビルが林立する中、際立って高い五つのビルを街の人間は『城』と呼んでいた。巨大企業群『TOMAS(トマス)』の社屋である。

 

 鍋島が窓から視線を外すとき、一瞬別の方に意識が向いたのを僕は見逃さなかった。僕はインカムにその場所を伝えながら鍋島を開放する。鍋島はへたり込んだまま僕を睨み、

 

「情けない! 本当に情けないな、お前ら親子はッ! 何も成さずにへいこらとこの街に戻ってきて、今度は裏切り者の下につくのかよ! プライドは、男としての矜持はないのかよッ!」

 

 僕がリーナに視線を向けると、彼女は答えておやりなさいとばかりに小さく頷いた。

 

「ないですよ、別に」

 

 鍋島が僕に軽蔑の目を向ける。僕は気にせずに続けた。

 

「僕の父は負けたんです。父だってあなただって、大なり小なり騙して裏切って企業(カンパニ)の中で出世していったんでしょう。最後の大勝負であなた達は負けた。鳶さんが一枚上手だった。それだけです」

 

「……ハル坊、お前は」

 

 鍋島の瞳に憐れみの色が浮かんだ。表情がころころ変わる人だな、この人は。

 

「それでもまだ僕は生きている。それならできることをやるしかないでしょう。具体に言うと借金を返すとか、その利子分を払うため出稼ぎに行った兄を解放するとかね」

 

 鍋島の肩ががくりと落ちた。この人もまだ、心のどこかでは僕の父の再起を待っていた口なのだろう。そんなことは起こりえないのだけど。

 

「ハル先輩、そろそろ……」

 

 ああ、止めか。リーナも水仙ほどじゃないとしても人の心の機微を読むのがうまい。

 

 僕は応接室の扉を開き、外で待機していた社員たちを呼び込んだ。

 

「……社長」

 

「お、お前ら」

 

 社員たちが申し訳なさそうな顔してぞろぞろと入室してきた。

 

「だってもう一度、企業(カンパニ)に戻れるんですよ。そりゃあ最初は志し高く独立したはいいものの、それだけじゃ飯は食えません。それに息子さんから聞くに、もう鮎川さんは……」

 

「鳶さんのところに行けば、資金繰りに頭を悩ませず研究を続けられるって……」

 

 社員を説得する。これが先ほど僕が行った仕込みである。彼らは鳶さんのやり方に納得がいかなくて企業を抜け、鍋島に付いてきたのだ。もちろんかつては父のチームにいたメンバーもいて、僕の顔を覚えている人も存在した。

 

 ここで注意すべきはまだ契約書を交わしていないという事である。

 説得は口約束、リーナ及び鳶さんは人材を必要としていない。必要なのは研究データと技術だけなのである。鍋島がサインし次第、彼らも用済みになるだろう。

 もう少し時間か交渉が必要になるとも思ったが、思ったより早く済んでしまった。貧すれば鈍す。彼らは地上(ストリート)に染まり過ぎたのだ。

 

「あ、ああ……」

 

 鍋島が手で顔を覆い、慟哭する。本当にショックを受けているのだろうが、彼が存外狸なことを僕たち二人は知っていた。今も、目を隠したのはアイインプラントによる操作を気取られないようにするためだろう。

 先ほどの視線の動き。多分あそこにこの状況を覆せる何かが待機しているはずだ。それでなきゃ鍋島がわざわざ、この応接間を交渉場所に選ぶはずがない。

 

「あ、あ、あああ…………あ?」

 

 気が付いたようだ。

 乱雑な足音が聞こえ、若い男が一人、何かに突き飛ばされたように、つんのめりながら部屋へと飛び込んできた。直後、拳銃を片手に構えた、スーツ姿の女性──ノーベさんが規則正しい靴音を響かせながら入室。

 ノーベさんは若い男のこめかみに拳銃を突き立てながら、髪をひっつかみ強制的に僕の方へと向けた。

 

「どこの組ですか?」

 

 顔面が腫れ上がっていたので、誰か判別ができない。僕は男の懐を漁って、携帯電話を取り出した。内カメラを若い男に向け、ロックを解除すると電話帳を開く。

 

「内岡、田辺、安田……おっ、山岡群司、ノーベさんこいつ花房組のやつです」

 

「そうですか、やはりヤクザと繋がっていましたね。……カタリナ様」

 

「鍋島さん、最後の手も使えなくなってしまいましたね。あなたがこの場所を指定したときから怪しいと思っていましたが、大方暴力に訴え、私たちを脅そうとしたのでしょう。くだらない。心底くだらないですよ鍋島さん。あなたが足掻けば足掻くほど状況が悪くなるのがまだわかりませんか?」

 

 ここに来た社員は主任以上の中核を担う社員たちである。顔を背けるなどの反応から見るに、ヤクザと付き合っていたのを知っている社員は半分程度。この分だと、かなりの数のアイインプラントが裏に流れているな。

 

 それから鍋島は、借りてきた猫のようにおとなしくなり、無言のうちに契約書へとサインをした。その後、ノーベさんの部下が彼をどこかへと連れていく。良くて街からの追放、悪ければ海の底だろう。リーナと鍋島の間にどんな甘言が交わされていようと、契約書にサインしてしまった彼にもう用はない。

 

 鍋島の会社を出て、リーナは車に乗り込みながら、

 

「ハル先輩、今日はありがとうございました。今日の分の報酬はまた後日渡します」

 

「こちらこそどうも。それより大丈夫か? 俺のこと雇ってんの、親父さんは知らないんだろう?」

 

「そんなことはどうでもいいんです。いずれ嫌でも知ることになるんですから。……それよりハル先輩、今日の夜十時頃、また私の部屋に来てください。今度は私個人から先輩に仕事があります。迎えにノーベを寄こしますので」

 

 僕が頷くと、リーナは満足そうに微笑んで、ぺこりと頭を下げた。

 

    ◇

 

 五つの摩天楼とそれに群がるビル群が、点々と光を放ちながら、夜の闇の中に佇んでいる。

 

 僕の乗るセダンは、ビルの間を縫うように、複雑に張り巡らされたアウトバーンを、何の障害もなく疾走していた。

 対向車線には仕事を終え帰宅途中であろう車がひしめいており、反対に僕らの車線には僕ら以外の車がほとんどない。誰もこの時間から出社しないからであろう。

 

 運転手であるノーベさんは、しっかりとハンドルを握っていた。

 確かアウトバーンは自動操縦に対応していたはずだが、彼女がそれを使わずに、手動で運転しているのは、僕にルートパターンを記憶させないためだろう。

 

 ここに来るまでの間、車中で会話らしい会話はない。それがリーナの指示なのか、彼女自身の意思なのかは知らないが、退屈なのに変わりはない。

 僕は分厚いサイドウィンドから見える、歪んだ街並みを横目に、考えを整理することにした。

 

 きっと、僕の表面的な目的を達成するためには、このままリーナの下に付くっていうのが一番手っ取り早いのだろうな。

 リーナには彼女個人で動かせる会社、資金が十分にあるし、外とのパイプも持っている。借金を返し、兄を汚染地帯での強制労働から救うためにはそれが一番早いだろう。

 それでも僕自身かなりの犠牲を払う事にはなるだろうが。

 

 それに彼女と彼女の父親の会社が、このまま暴力のアウトソーシングをやめ、内在化させるのならば、僕のような人間が必要なのは間違いない。

 僕の能力、有用さはこの一か月の間、十分にリーナに示したはずである。その結実が今日の仕事につながったのであろう。

 そして今日の仕事もしっかりと成功させた。多分、満点近い点数で。

 

 金、企業でのコネ、計算、実務能力。リーナの持っているものは、企業で成り上がるのであれば、おつりがくるくらい上等な能力である。──企業で成り上がるのならば。

 

 しかし、もしも僕がいろいろと諦めたとして、リーナの下についたのならば、ドミノ倒しに問題が起こるであろうことは容易に予想できた。その一番の問題が──

 

「ねえ、ノーベさん、少し質問してもいいですか?」

 

 ノーベさんは僕の声に一切表情を動かさず、バックミラー越しに僕の顔を一瞬だけ見た後、これまた感情のこもらない声で「どうぞ」とだけ言った。

 

 ノーベさんはパンツルックの黒いスーツを着た女性である。本名? コードネーム? がノーベンバーなので、僕はノーベさんと呼んでいる。年齢は不詳だが、外見からは二十代半ばに見えた。

 自然なブロンドの髪をしっかり七三に分けたショートヘア、右目には眼帯を付けており、それで覆えないほどの爆傷が彼女の歴戦を証明している。

 

「箕土路蒼青って分かります? 嚴禅会前会長の娘なんですけど……」

 

「もちろん存じ上げております。それが何か?」

 

「ノーベさん、外で傭兵やってたんでしょ? だから箕土路蒼青と戦って、勝てるのかなーって」

 

 ここで初めてノーベさんの眉が少し動いた。僕のこれからを考えるにあたって、正規の戦闘訓練を受けている人にお嬢の評価を聞いておきたかったのだ。

 

「……それは、真正面からサシでやりやってと言う事でしょうか。それとも私の現在持ち得るすべてを使って、という事でしょうか」

 

「もちろん、後者で。もし、ノーベさんの雇い主、鳶カタリナに頼まれたとしてです」

 

 しばらくの間沈黙が流れた。本当に道を走ってんのかって思うほど振動のない車内に、ノーベさんが指でハンドルを叩く規則正しい音だけが響く。

 

 とぐろをまく上昇道路から、外側へのGを感じ始めたところでノーベさんは再び口を開いた。

 

「片手、ですかね」

 

 その勝てるかどうかと言う質問に全く答えていない回答に、思うことがないわけではなかったが、それでも意味は分かったので先に進めることにした。

 

「……それは確実に、ですか?」

 

「まさか。不意打ちが完璧に成功し、すべての幸運が私に向いて、すべての悪運が彼女に降りかかった場合に、おおよそ三割ほどの確率で片手を使い物にならなくさせる、という意味です。それくらいの実力差が私たちの間にあります」

 

「その場合、ノーベさんは……」

 

「確実に死んでいるでしょうね」

 

 車内に重い沈黙が降りる。

 そこまでか、そこまでなのか箕土路蒼青。

 しかも今の時代片手を取ったくらいでは全く意味がない。サイバネティクスによる機械代替が容易に可能だからである。

 これがあるから僕はリーナの元へ下れないのである。僕がリーナを選んだ時、確実にお嬢は僕を殺しに来る。リーナの持つ武力ではそれを防ぐことはできない。

 

「以前、私がこの街に来たばかりのころ、箕土路蒼青について調べようとしたことがあります。私は尾行に自信があったのですが、尾け始めてすぐに気付かれ、次に同じことをしたら殺すと脅されました。だから、私は人が知っている程度の情報しか知りません。その上での回答です」

 

 恐怖か畏怖か諦観か、ノーベさんも誰かに話したかったのだろう。続けて、

 

「有名な三十三人殺し、あれも準備なしに素手で乗り込んでいってのことだと聞きました。それが枷もなくこの街を堂々と歩いている。そんなの安全装置のない核弾頭が放置されているようなものじゃないですか。多分、彼女がその気になればTOMASの一角くらいは落とせますよ」

 

 リーナの護衛を務めている間、一切の感情を見せない仕事人の彼女がそこまで言うのである。正直僕は驚いたが、ノーベさんの気持ちも分かる。唯一の拠り所が敵対する他人によって易々と圧倒されているのだ。こんなに恐ろしいことはない。

 

 セダンが認証ゲートによるスキャンを受け、個体符号識別を終えた後、磁力処置を受け、車体が宙に浮いた。そのまま誘導灯の案内に従って、セダンは一切のブレなく離着陸デッキへと吸い込まれていった。

 

「すいません。喋り過ぎましたね。どうかこのことは……」

 

「ええ、リーナには言いません。こちらこそ、答えにくい質問をしてしまってすいません」

 

 ノーベさんは悔しそうに眉をひそめながら、

 

「……いえ、あなたの気持ちも理解できますから」と言った。

 

    ◇

 

 花や植物の精緻なレリーフが施された木製のドアをノックすると、少しの間バタバタと物音がして、余裕たっぷりの「どうぞ」という声が聞こえた。

 

「先輩、よくお越しくださいましたね」

 

「あ、ああ。お邪魔します……」

 

 ちょっとしたホールくらいある広さの部屋、枯山水のように置き場所含め空間ごと計算されつくした家具、調度品の類──はすべて白一色に揃えられていた。

 真ん中には巨大な天蓋ベッドがあって、リーナはそこに座っていた。

 

 リーナが手招きしてきたので、僕は歩を進めた。一歩一歩近づくごとに彼女が発生源であろうバニラの様なムスクの様な甘い香りが、僕の理性を絡めとろうとしてくる。

 

 夢の中の様な、死後の世界の様な、視界に写る光景のあまりの非現実さに、僕は一瞬呼吸の仕方を忘れてしまった。

 そして、視界の中心にある、リーナの姿格好も現実感のなさに拍車をかけていた。

 

 ネグリジェである。生地が薄く、体のラインがはっきりとわかるデザインの奴である。部屋に入った瞬間、僕は彼女が今、全裸なのかと疑ったほどである。

 

 シュシュでゆるく髪が纏められており、風呂上りなのか頬や露出した肩などが仄かに色づいている。足は長いナイトソックスで覆われており、そこから少しだけ覗いた太腿が、僕の扇情をさらに煽った。

 

「今日はお疲れさまでした。おかげで上手くいきました」

 

「まさか。僕の力なんてなくても君は上手くやっていただろう」

 

 それじゃあ困るので否定してほしいと願いながら、僕はそう言った。

 

「それこそまさかですよ。私に人の心の機微は分かりません。それに社員の説得は、先輩の顔がなければもっと難航していたでしょう。速く、最小限の労力で、最も穏便な結末で、成功できたことを私は言っているのです」

 

「そう言ってもらえるのなら嬉しいね。素直に称賛を受け取っておくことにするよ」

 

 リーナはにっこりと笑って、

 

「はい、そうしてください」と言った。

 

 そこでリーナが自身の隣をポンポンと叩いたので、僕はベッドに座った。リーナとは少し距離を離して座ったのだが、彼女はすぐさま距離を詰めてきて、肩と肩が密着した。

 

 脳がとろけそうになる匂いに包まれる。リーナの息遣いがすぐそばで聞こえる。

 

「……あの、それで先輩、この前のお返事をいただきたいのですが」

 

 リーナが上目遣いで尋ねてきた。その瞳は不安そうに潤んでいる。先ほどの応接室での様子からは考えられないほど、感情にまみれている。これが計算でないのだから、なお一層恐ろしい。

 

「前にも言ったと思うけど、打診は嬉しい。でもさ、やっぱり借金は自分で返すよ」

 

「……私の父が原因で背負わせてしまった借金です。ならば私が返すのが筋です。先輩もこうして街に戻ってきたことですし」

 

「僕と君は対等(フラット)だ。僕は今でもそう思っている。それともリーナは、僕が自分の借金も自分で返せない、そんな甲斐も能力もない奴だと思っているのか?」

 

「ま、まさか! ……それでも一からだと時間がかかるでしょう。それに無条件と言うわけでなく──」

 

「借金分の働きをするまで、君の部下になるんだろう? 君の世話になることには変わりない。一時的でも対等でなくなるのが嫌なんだ」

 

「でも今日は……」

 

「あれはスポット的な雇用契約だ。業務の円滑な遂行のため、そう見せただけで、意味が違う」

 

 そこでリーナは僕の腕に絡みついてきた。仕事に行く父を引き留める幼い娘のように。

 胸の形が変わるくらい僕の腕にしがみついてきているので、情動が僕の全身に駆け巡るが、僕はそれを理性で抑え込んだ。

 彼女は本質的にファザコンなのである。それでいて欠けた人間性を僕の中に求めている。アウトソーシング化しようとしている。冷静に考えたらはた迷惑である。

 

「私は、私が私であるためにあなたが必要なのです。幼い頃、あなたは世界のすべてを私にくれた。私に他人を教えてくれた。あまりの数字の多さに恐怖で泣いてばかりいた私に」

 

 リーナがおセンチなことを言い出した。

 別に聞いてもいないし、興味もない。あの時は、リーナの面倒を見ることを仕事として父から与えられたのだ。

 リーナが僕に体重を預けてきたので、それを支え頭を撫でてやる。

 

「『泣き虫リーナ』が随分とまあ、立派になったもんだな」

 

「……それは言わないでくださいよ」

 

「あはは、ごめんごめん」

 

 リーナが目元をぐしと拭い、仕切り直しだとばかりに姿勢を正した。

 

「それで今日先輩をお呼びだてしたのは、こんな情けないことを聞いてもらうためだけではありません」

 

 自覚はあったのか。

 

「ああ、なんか個人的な仕事があるとか」

 

「はい。……先輩、私の足を舐めてくれませんか?」

 

 その言葉に僕は凍り付いた。

 一瞬、聞き間違いかと思った。しかし彼女の瞳はどこまでも正気だった。

 

「……まじ?」

 

「マジです。どうせ先輩のことですから、借金の件は断られると思っていました。でもちゃんとした仕事なら、受けてくれるんでしょう? 私の願望と先輩の利益が丁度釣り合うのはこれしかありません。鍋島さんの会社の買収のような仕事は滅多にありませんからね」

 

 願望って……。

 

「片足につき、十万ほどお支払いしますよ。日々のバイトや普通の仕事では稼げない金額です。丹念に丁寧に舐めあげてください。……あ、お風呂上りなので別に汚くはありませんよ」

 

「…………」

 

 屈辱的だが、別に耐えられないほどではない。むしろリーナが僕の足舐めに十万円もの価値を感じていることにラッキーと思う。彼女の目と脳はこういう時に不当に価値を吊り上げたりしないのだ。

 ──と言っても、はいはい舐めます舐めますと軽薄な態度は彼女の望むところではないだろう。だから僕は歯を食いしばって、散々熟考した後、屈辱的に跪いた。

 

「ふ、うふふ」

 

 リーナがニヤニヤと僕を見下ろす。頬は紅潮し、もじもじと内股になっている。

 

 僕はそろそろとリーナのナイトソックスを脱がした。

 体が火照っていたのか、もわっとした熱気が立ち上る。それでも汗の臭いなんてのは一切せずに、甘ったるい香りが直に僕を満たした。僕は彼女のすべすべとした、バニラアイスの様な足を軽く曲げ、眼前へと持ってくる。

 

 リーナの期待と興奮と嫌悪がないまぜになった視線を受けながら、僕は彼女の足の指を咥えた。

 

「あ……ああっ!」

 

 リーナの婀娜とした短い嬌声が室内へと響いた。彼女は天を仰ぎながら、感じ入ったように小刻みに震えている。僕は戸惑い躊躇しながら、親指を丁寧に(ねぶ)った。

 

「先輩っ! 先輩ィ!」

 

 これもうセックスよりセックスなんじゃないか? 僕は指の間に舌を移動させながらそう思った。不味ったなぁ、なるべく彼女たちと付き合う時は性の臭いを感じさせず、そして感じずにいようと決めていたのに。

 

「ああ、先輩がッ! あの格好良かった先輩が、私に跪いてッ!」

 

 リーナが自身の体を抱くように震えた。ボルテージマックスである。

 

 やばいなこいつ。こいつに恥じらいとかはないのか? 

 ……あれ、ないんだっけ? 操造子(デザイナーズ・チャイルド)だから。

 

 リーナがもう片方の足をバタバタとさせる。それが肩に当たって少し痛い。

 でもこうしてすました天使みたいな女を自分の手(舌)で身もだえさせていると考えると、悪い気分じゃないな。性格と行動は完全にカスなんだけど。

 

 その後も、僕はリーナの足に口淫の様な愛撫を施した。そしてその最中に、一つだけ決心したことがある。

 

 この女を僕に完全に惚れさせた暁には、同じことをやらせよう。

 

 この鳶カタリナも、僕のカス女ハーレムの候補の一人なのである。

 

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