カス女ハーレム   作:大豆亭きなこ

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第四話:鮎川晴臣

 駅前の饐えた臭いのする公衆トイレの、奥から二番目の個室トイレに、僕はすべてを吐き出した。

 

 胃の内容物と同時に、心にへばりつく不快感ごと吐き出した。

 

『なんで僕が』『朝に食ったプロテインバー』『あいつらには人の心がないのか』『昼食の出前ラーメン』『幻覚剤なんて正気じゃない』『もう嫌だ』『さっき食べたブルスケッタ』『ポートワイン』『人の人生を何だと思ってんだ』『精神安定剤(エチゾラム)』──を吐しゃ物として便器にぶちまけた。

 その際、跳ね返りが僕の服にかかったが、丁度外は雨なので気にしないことにする。

 

 濡れて帰ろう。そんなこと少しの罰にすらならないのだろうけど。どんな化学物質が混ざっているかわからない雨に打たれて帰ろう。そんで早い事死のう。

 僕は洗面器で口をゆすいだ。そして落書きされまくった鏡の隙間から、自分の顔を見た。

 

 ひどく、疲れた顔をしていた。

 

 だめだな、こんなんじゃ。僕はカバンから抗うつ剤を取り出して、ざらざらと流し込む。朝と昼にも同じように飲んでいる。明らかに一日に摂取していい量をオーバーしている。それでも今はこれに頼るしかない。

 

 十五分ほど、薬が効くまでじっと待ってから、僕はトイレを出た。

 

 公衆トイレ内で聞こえた音程、雨は降っていなかった。ミストの様な雨が、街を灰色に染め上げている。僕は雨の強さを手で確かめながら、空を見上げた。

 

 ぼんやりとした頭と視界に、雲で天辺が隠れた五つの摩天楼が像を結んだ。それらを半分に区切るように、改都をぐるりと囲っている環状モノレールが見えて、それをさらに複雑に絡み合った電線が細かく区切っている。そんな光景がまた僕に吐き気を催させた。

 

 最近、こういったことがよくある。

 何かに必要以上に感じ入ってしまって、終いには吐いてしまうという事がだ。

 

 三人のカス女を惚れさせるためにはこんなんじゃ駄目であるが、こういった精神の摩耗の表出が、僕を安心させているのもまた事実である。

 

 僕はまだ人間である。怪物ではない。いくら平静を保とうと心がけていても、こういった精神のほころびが、吐き気と言う形を伴って、僕に危険信号を送ってくれているのである。

 それが、僕がまだ人間であるという事の何よりの証明なのだ。

 

 少し、雨足が強くなってきた。

 蒸し暑くはあったが、雨に晒されたままだと、体が冷える。風邪を引くわけにはいかない。今日は折角早く帰れたのだ、家に帰ってゆっくりと休もう。そう決心し歩き始めた時である。

 

「よお」

 

 公衆便所の壁にもたれかかっていた、小柄な坊主の男が僕に話しかけてきた。

 僕は彼のことを知っている。

 

「……タケルさん」

 

 藤代尊(ふじしろたける)

 嚴禅会()会長、藤代雅(ふじしろまさし)の一人息子である。

 年は僕より一つ上で、僕の父の強化人間計画の第一世代。決して失敗ではないが、お嬢ほどの力を持ちえなかった、先天的サイバネティック・オーガニズム。

 

 ぶかぶかのエムエーワンジャケットとダメージジーンズ、坊主で小柄でまだ幼さを残した顔つきから、見ようによっては野球部に見えるが、彼の顔半分を埋める、民族的(エスニック)な幾何学模様のタトゥーがその印象を完全に塗り替えていた。

 

 タケルさんが僕に一歩近づいたかと思ったら、次の瞬間には彼の右腕が僕の鳩尾に突き刺さっていた。僕は衝撃を感じる前にどうにか威力を後方に逃がし、大げさに倒れこむ。

 

「チッ、化勁か。お前昔からそれだけは上手いよな」

 

 ばれてる。さすがにあの頃とは違うか。僕は起き上がり、濡れたシャツを絞った。

 

「久しぶりですね。……それで、僕は何で殴られたんですか?」

 

 タケルさんが僕の髪を掴み、至近距離でねめつけた。

 

「俺のことは、タケルじゃなく『無制限(アンリミテッド)』って呼べって言ったよなァ!」

 

 知らない。初耳である。そもそも彼とは久しぶりに会うのである。──というかなんだその名前。

 

 僕がそのあまりの意味不明さに顔を顰めていると、額を押され後方へと姿勢を崩される。フラットに戻ろうと後ろ脚を踏ん張ったところで、タケルさんに襟をつかまれ、投げ飛ばされた。

 

 雨で滑り上手く力を流せない。

 僕はそのまま地面を回転し、節々に痛みを感じながら体をひねって膝立ちまで体勢を戻した。

 

「次、俺のことタケルって呼んだら殺すぞ」

 

 僕がタケル──アンリさんを睨むと、彼は不気味に口角を吊り上げ、ファイティングポーズを取った。

 

「お、やるか! お前そういえば裏いくつか使えたよな! ほらこい、相手してやる」

 

 嬉しそうにテンポを作るアンリさんを横目に、僕はゆっくり立ち上がる。もちろん構えは取らない。そもそも徒手空拳で、しかも何の準備もなしに勝てるわけがない。それにここで喧嘩する理由も意味もない。

 

 僕にやる気がないのを悟ったのか、アンリさんは肩を落として、

 

「つまんねぇな。それでも、三人の女を手玉に取ろうとしている男かよ」

 

「──ッ!」

 

 なんでこの人! 

 ……いや待て違う。カマをかけられたのか。

 僕は誰かに確証を与えるものを残していない。相変わらずの勘の良さ。そう気づいた頃にはもう遅く、アンリさんは僕を見据えて、にやにやといやらしい笑みを作っていた。ああ、クソめんどくさい。僕は舌打ちをした。

 

「お、いい表情(かお)

 

 アンリさんが手でカメラを作り、その中に僕を入れる。

 しかし、しまったな。うかつだった。ブラフでも何でも使えたのに、あからさまに反応してしまった。油断と向精神薬のせいである。

 

「僕は、借金を返すために奔走しているだけですよ」

 

 僕はごまかしを開始した。しかしアンリさんは詰まらなさそうな表情を作って、

 

「表面的にはな」

 

「表面もクソも、僕が高校出るまでに借金返せなかったから、アンリさんとこの組に首輪付けられるんですよ。借金を返して、兄を救う、それがすべてです」

 

「俺の組じゃない、親父のだ。……それじゃあ聞くが、なぜ蒼青に全部任せない? あいつの力使って、全部解決すればいいじゃねぇか」

 

 だめか。この人に、対等になりたいから、なんていう建前が通用するはずない。

 

「……何が言いたいんです?」

 

「俺にも一枚かませろよ」

 

 アンリさんの瞳がギラリと光った。

 

「別に俺に何かしてくれって言ってんじゃない。俺もこの街にいる、それを覚えておけと言ってるんだ。お前が何を企んでいるかは知らんが、あの頃……ガキの頃と同じようにこの街全部を巻き込んだ、戦争が起こるのは分かる。あの時みたいにガキだけじゃなく、今度は大人も巻き込んだ、飛び切り大きいヤツだ」

 

「なりませんよ」

 

「い~や、なるね。……なぁ晴臣、お前は起爆剤なんだよ。一つの銃弾なんだよ。お前はオーストリア皇太子夫妻を殺した凶弾で、盧溝橋で放たれた最初の弾丸。そんな人間が欲望と暴力と承認欲求で爆発寸前のこの街に戻ってきたんだ。期待すんなと言う方が無理な相談さ」

 

 アンリさんは狂ったように笑いながら、壊れたようにくるくる回る。

 

「あの戦争は楽しかった。ヤクザもんの俺が孤児たちと組んで、企業側のお前がヤクザのお嬢様丸め込んで仲間にして、めちゃくちゃのぐちゃぐちゃだった。お前はそれをまた再現してくれんだろ、リメイクしてくれんだろ、しかもボリュームもクオリティもスケールアップして! 楽しみだ、楽しみだなァ!」

 

「…………」

 

 あの頃だって僕は必死だった。結果的にうまくいっただけで、もう一度やれって言われてもできない。

 

「最近つまんなかったんだよ。親父連中はヤクザの真似事辞めたがってるし、企業だって裏との繋がり切ってクリーンになろうとしてる」

 

「……群れ(フロック)はどうなんですか。退屈なら、若い連中引き連れて潰しに行けばいい」

 

 アンリさんは眉を顰め、何かを考えるように頭をひねった。

 

「ああ、群れ(フロック)って最近幅利かせ始めた半グレ集団か。梶尾がトップやってるっていう。……あれもなぁ、いまいち燃えないんだよなァ。だってあいつら金稼いでばっかで全然腕力に訴えないんだもん。しかもクスリとか詐欺ばっか。梶尾も孤児ども率いてた時みたく、苛烈にやってくれたらなぁ」

 

 それが何より恐ろしいのだが、彼にはそれが分からないらしい。

 

「とにかくだ、晴臣。俺は自由に動くぜ。より楽しくなるように動く。そのことをよーく心に留めておけ」

 

 アンリさんは僕の鼻先をかすめるようにびしりと指を差した。

 

「……それだけを言いに来たんですか」

 

 アンリさんは肩を竦め、

 

「まさか。晴臣、親父が呼んでたぜ。……今夜あたり顔を出せってさ」

 

 本格的に土砂降りになりつつある天気模様の中、アンリさんはくるりと踵を返して、ぼやりと光るネオンの中へと消えていった。

 

    ◇

 

 猥雑な街並みには全くふさわしくない、江戸時代からそのままワープしてきたような武家屋敷のインターホンを鳴らすと、一瞬ノイズが走った後、すぐに門が開いた。

 

 門を潜り抜けると二人のスーツ姿の若い男が、深く頭を下げていた。僕が立ち止まると二人は顔を上げ、笑顔を見せてくれた。

 

「晴臣」

 

「よお、部屋住みは大変だな」

 

 二人とも昔馴染みである。──というより同じ門弟であると言った方が良いかもしれない。昔、僕の父がヤクザとの交流の一環として、僕を箕土路流に入門させたのだ。

 

「まあな。……今日は借金の件か?」

 

「どうだろう、一応用意したけど、用件は聞いていない。アンリさんに会長が呼んでたって言われたから来たんだ」

 

「アンリさん? ……ああ、アンリミテッドか」

 

 二人がうげと嫌そうな顔をしたので、僕は二人の耳に顔を近づけ、小声で、

 

「……あれ、マジでどういうこと?」

 

「俺らにもわかんねぇんだよ。ある日急にそう呼べって言われて、呼ばなかったら殴られる。正気じゃねぇよ」

 

 僕は顎に手を当て考える。

 あの人の言動や態度を見るに、酔狂には思えなかった。道化でも傾奇でもなさそうだ。……という事はアンリミテッドなんて胡乱な名前自体に意味はなく、名前を捨てることに意味があるのか? ──変身願望。そう考えれば一応道理が立つ。

 

「なあ晴臣、あれ、どうにかならないかな。俺、あんな奴の下につきたくねぇよ」

 

「どうにかって言われてもなぁ」

 

「あの頃は正面からやって、勝ててたじゃん。今回もそれでどうにか……」

 

「無理だよ。身体能力でも技でも、今の俺には手の届かない相手だ」

 

 あの頃だって正面からやっているように見せていただけで、その実前準備とハッタリによる勝利であった。今それをやるとあの頃よりも入念な準備がいる。そして、それだけの労力をかけたとしても、リターンが少ない。いや、ないと断言してもいいだろう。

 

「じゃあさ、お嬢に頼んで折檻してもらうとか。晴臣お前。お嬢のこと従えてんだろ」

 

「……ほんとに言ってる?」

 

 僕が呆れて二人を睨むと、彼らは青い顔をして、

 

「ま、まさか」と頭を振った。

 

「……それで、僕はどこに向かえばいいの?」

 

 それから二人はしっかりと仕事をしてくれた。

 僕が会長の部屋に入る前の「お前が組を引っ張っていってくれたらいいのに」と言う呟きを除けば。

 

 案内された部屋は和式の応接間であった。

 床は畳張りで、真ん中には大きな机があり、床の間には掛け軸と日本刀が飾られている。

 

「まあ座れや」

 

 机の向こう側、熊の様な大男がしゃがれた声でそう言った。乱暴に撫でつけられた白髪交じりの髪に、顎をぐるりと繋ぐ硬そうな髭。着崩した着物から覗く繁茂した胸毛。暴力的ながら洗練された雰囲気を持つ彼こそが、嚴禅会現会長にして、アンリさんの父親でもある藤代雅である。

 

 少し疲れたように見えるのは見間違いではないのだろう。昔はあれだけでっぷりと肥えていた腹は、すっかりしぼんでおり、がはがは笑うような快活な陽気は見る影もない。

 大きな組織のトップと言うのはそれだけストレスがかかるという事か。

 

「……飯は」

 

 会長が僕に短く問う。

 

「食べてきました」

 

 実際にはすべて吐いたのだが、嘘はついてない。ここから食べる気力もないので遠慮する。

 

「……酒は」

 

 机の上に視線を走らせると、散らばった熱燗と綺麗に骨だけ残った長角皿。熱燗の数を見るに相当飲んでいる。酒に逃げるタイプか。

 

「……では、一杯だけ」

 

 僕は差し出されたお猪口を受け取り、両手で持ち上げ、恐縮しながら酒を注いでもらった。アルコールの臭気に一瞬吐き気が蘇りそうになったが、意を決して一気に呑み込んだ。

 

 桃だとか梨のようなエステル臭が、子供用の飲み薬みたいでおいしくない。これを何杯も飲むなんて正気じゃない。コーラとかの方が何倍もうまい。

 そんな感情おくびにも出さずに「くぅ」とかなんとか漏らしておく。

 

「ん」

 

 会長は、僕が空になったお猪口を勢いよく机に置く様子を、満足そうに見ながら「お前はよう分かっとるな」と言って、うんうんと頷いた。

 

 僕はいえいえとか言って曖昧に笑いながら、懐にしまっていた封筒を差し出した。

 

「これ、このひと月で稼いだ分です」

 

「ん、ああ」

 

 会長が封筒の中を検める。

 

「……たしかに、受け取った。受領書は後で用意させる」

 

「ありがとうございます」

 

「わかってると思うが──」

 

「はい。僕が高校を出るまでに借金を返し終えることができなければ、嚴禅会に入って、死ぬまで働きます」

 

 僕が被っている借金の取り立ては嚴禅会が大方担っている。

 僕ら家族がこの街から逃げた後、ヤクザたちも分裂を始め、債券はかなり散らばってしまったらしいが、嚴禅会が代行業者となり、防波堤となってくれている。

 そのせいで兄は人質となってしまったが。

 

「折角、お前の兄が自らを犠牲にして、時間を作ったんだ。有効に使えよ」

 

「心得ています」

 

 会長が自分でお猪口に酒を注ごうとしていたので、熱燗を取り上げて注いでやる。

 会長はそれを一気にあおって、ぶふぅと酒臭い息を吐き出した。

 

「……本当は、お前とお前の父がうちに入ってくれるのが、一番いいんだがな」

 

「それは……」

 

 勿論、御免被りたい。

 

 会長は気分がいいのか、赤ら顔をぐらりと揺らして、語り始めた。

 

「お前の父親、総一郎はそりゃあもうすごかったよ。企業の人間なのに俺たちに分け隔てなく接してくれて、さらには尊敬までくれた。志があって、それを実現できるだけの力もあった。俺たちは博徒でも的屋でもない、どこまでいっても武闘家(モノノフ)なんだ。仕えるべき主人がいるならその方が良い。……この街ではヤクザなことしなきゃ生きていけんがな」

 

 酔っているにしても喋り過ぎである。

 それとも、目の前のガキにそんなこと話すくらいには参ってしまっているのか。

 

「知っていると思いますが、父は……」

 

「わかってる。お前たちがこの街に戻ってきてから一度、部屋を訪ねたことがある。お前がいない間にだ。……あの様子を見るに、奴はもうだめだな」会長が僕に憐れみの視線を向けた。「いつからだ?」

 

「母が死んでからです」

 

 一年前に母が死んでから、父は廃人同然となった。

 

「……女、か。呑み込むつもりが呑み込まれていたというわけだ。すべての人間は女から生まれる。さもありなん」

 

 会長が熱燗を傾けて、最後の一滴を舌で迎えに行く。酒はもういいのか、熱燗を机に転がして、懐から煙草を取り出し口にくわえた。さすがにライターは携帯していない。

 

「いや、いい。これくらい自分でやる。……それでお前はどうすんだ?」

 

 質問の意図が掴めない。とりあえず表面的な目標を答えることにした。

 

「ですから、まずは借金を返しまして」

 

 会長が僕に鋭い視線を寄こした。

 

「それから」

 

「兄を街に呼び戻して」

 

「その後は」

 

 会長は僕に何を聞きたいんだ? アンリさんと同様、何かを掴んでいるのか? そんなわけがない。会長は僕が群れ(フロック)企業(カンパニ)から仕事を受けていることすら知らないはずである。

 

 この人も息子同様勘が鋭いので、カマをかけてきている可能性もある。同じ手は食うまい。

 

 僕は唇を食いしばって、俯いた。

 

 会長はそんな様子に焦れたのか机をバンと叩き、

 

「父親の負債を返した後も人生は続くんだぞ。考えていないのか」

 

 ただの心配か。息子への教育の失敗を、僕で慰めようとしているのだ。ならば、何ら害はない。

 

「父の夢をついで、人類全体の進化を目指すか。それとも新しい事業を始めるか。……お前になら、なんだってできるだろう。蒼青にもうちの倅にも勝ったことのあるお前ならな」

 

 買い被り過ぎである。

 確かに子供のころの僕は恐れ知らずだった。だから出来たことも多い。

 今は現実を知った。限界を知った。痛みが怖くなった。敗北が嫌になった。入念な準備とマインドセットを持ってしか、動けなくなってしまった。

 

「もちろんうちに入ってくれてもいい。倅を組の顔にして、お前が若頭だ。それで、蒼青と籍入れて……これで安泰だ。俺も安心して隠居できる」

 

「……厄介者の引き取り先を探しているだけでしょう」

 

 会長はバツの悪い顔をした。それから二本目の煙草に火を付け、軽い微笑を浮かべる。

 

「あれも見てくれだけはいいからなぁ、それにお前にもよく懐いている。……正直だな、あれの扱いには困ってんだよ。気まぐれで暴力をふるう、仕事も気分次第でほったらかす、それで誰も逆らえない。こっちだって秩序あっての極道だ。あれじゃあ、締まるもんも締まらん。会長が今でも生きていてくれたらって何度思ったか」

 

「アンリさ……タケルさんには任せないんですか?」

 

 会長は飛び切り大きなため息を吐いた。

 

「そうなってくれたらどんなにいいか。……と言うか、本当はそうするつもりだった。あれが女だって分かってから、会長とはうちの倅と番わせようと約束してたし、本人にもそう言い聞かせていた。だが、うちの倅には器量も度量に腕っぷしも何もかもが足りん。お前に負けている。だからああなる。ああなってしまった。わが息子ながら哀れだと思うよ。……だから、お前にちょっかい掛けてきたとしても大目に見てやってくれ」

 

 その妙に擦れた言い回しが、武闘家、組織の長、人の親、という三つの顔を持つ男の折衷案なのだろう。僕が神妙に頷くと、会長は少しだけ口角を上げた。

 

「……それで、今日僕をここに呼んだのは」

 

「ああ、そうだ。忘れるところだった」

 

 会長は傍らの鞄を漁り、白い封筒を取り出して、僕に差しだした。

 

「これを渡そうと思ってな」

 

 それは兄からの手紙だった。

 

    ◇

 

『晴臣へ

 

 本当はここに季節の挨拶を書くらしいけど、よくわからないから省く。こっちの空はずっと汚らしく曇っていて季節もくそもないし、そっちだって同じようなもんだろ。

 

 あと先に断っておくが、手紙なんてのを書くのは初めてだから、なにか変なところがあっても勘弁してくれ。あと字が汚いのも勘弁してくれ。

 

 俺だって別にお前に手紙を書こうなんざ、思っちゃいなかったがよ、こっちじゃみんな、手紙を書くことを楽しみにしてるんだ。月に一度来る移動販売で便箋を買ってさ、返事が来ることなんかほとんどないのに、それでもこれが外との唯一の繋がりだからって、皆頭ひねって一生懸命文面考えて手紙を書いている。

 

 こっちで働き始めてまだそんなに経っちゃいねぇが、そんな周りの様子を見ていると、俺も書いてみようって気になるんだから不思議だよな。

 

 お前の方はどうだ? 元気か? 親父は相変わらずか?

 

 こっちで俺はそれなりにやってるよ。周りの奴らがここに辿り着いた経緯を聞くと、碌なもんじゃねぇが、それでも仕事は親切に教えてくれるし、殴られたりすることもない。

 

 それにさ、まずいけど飯は食えるんだ。飢えることはないわけだ。山にいた時みたいに、毒かどうかわからないもん食べなくていいんだぜ。どうだ、羨ましいだろ。

 

 だから、お前は何も心配しなくていいんだ。

 

 そりゃあ、タイムリミットまでに、借金返せて、俺もそっちに行ければいいんだがな。別にそうならなくたって、俺はお前を恨まない。

 

 お前はお前で好きにやりゃあ良いんだ。俺は俺で好きにやるからさ。

 

 晴臣、楽しめよ。

 

 こっちでもたまに出る甘いもんなんかを賭けてさ、ポーカーとかチンチロリンとかで戦ってんだ。これがまた面白くてさ、皆顔を真っ赤にして真剣にやるんだ。

 

 どんな場所でも、どんな状況でも楽しもうと思えば楽しめる。

 

 不出来な兄からお前に教えられるのは、それくらいだ。

 

 なんだが、よくわからなくなってきたのでこの辺で終わることにする。

 

 じゃあな、晴臣。気負い過ぎるなよ。

 

 PS.(追記のことをこう書くらしい)

 

 返事は書かなくていいよ。宛先が分からないだろうからな。

 

 海星より』

 

 アパートの外付け階段に腰を掛けて、僕は声を押し殺して泣いた。

 

 消しゴムの跡が残る手紙から、土に汚れた便箋から、震えた手で書いたであろう文字から、兄の気づかいが嫌と言うほど伝わってきたからだ。

 

 きっと楽しい事ばかりではないのだろう。手紙に書かれていることの半分は嘘であろう。

 それでも僕を励ましてくれている。心配するなと言ってくれている。もし、立場が逆だったとしたら、僕に同じことはできないだろう。

 

 僕はずっと兄のことを見下していた。

 

 学校の勉強に付いて行けず、かといって運動神経がいいわけでも、誰もが振り返るような容姿でもない。弁も立たず、言葉の裏も読めず、良いところと言えば底抜けの明るさだけ、そんなのもビジネスのシーンでは必要がない。

 

 早々に父に見捨てられ、社会からドロップアウトした兄のことを僕は見下していた。

 それを兄も知っていたはずだ。それでもこうして僕に手紙をくれた。僕に時間を作ってくれた。ひどく、心が痛む。

 

 僕は効きもしないだろうに鎮痛剤(アスピリン)を一錠飲み下し、大きく深呼吸をして、立ち上がった。

 

 階段を上ってすぐの部屋、スレッジハンマーか何かで叩かれ、ボコボコに歪んだ扉の部屋が、今の僕の家である。中からうっすらと聞こえる女の嬌声に顔を顰めながらも、僕はノブをひねった。

 

 真っ暗な部屋に四角く青白い光だけが灯っていた。

 画面にいくつも線が入った壊れかけのテレビジョン。そこに写るのは若さこそないが美しい女の痴態。中年の男にバックからつかれ、苦し気によがっている。

 

 またか。

 

 僕は衣服やペットボトルが散乱した部屋を慎重に歩き、リモコンを探り当て、テレビの電源を切った。すると暗闇から何かがのそりと起き上がる気配がした。

 

「消すなよぉ、見てんだからさぁ」

 

 僕が部屋の明かりをつけると、それはまるで朝日を浴びたドラキュラのように手で顔を覆った。それは、伸び切った長髪を軽くまとめ、荒れ地のような無精ひげと、覇気のない瞳を持つ、浮浪者のような男だった。

 

「息子も住んでる部屋でAVなんか見るな」

 

 その浮浪者のような男こそが僕の父、鮎川総一郎であった。

 父はへらへらと笑いながら、

 

「だってもう、これでしか母さんと会えないんだぞ。ばらばらになって世界中に散っちゃったんだから、あはは」

 

 僕はその言い草にカチンときたが、何を言っても無駄なので、無視して部屋に戻ることにした。ふすまを開けた瞬間、またテレビがついたので、僕は主電源を引き抜いて、プレイヤーからDVDを取り出した。

 

「やめろよぉ」

 

 父が情けなく縋ってくる。

 

 このまま、DVDをたたき割ってしまおうかと思ったが、それはできなかった。パッケージには『美人人妻、よがり狂う!』の文字と裸体を晒した僕の母の姿。

 これが、この品のないアダルトビデオこそが、僕の母が生きていたという事を示す唯一のものだった。

 

 僕は歯を食いしばりながらDVDを手に部屋に戻った。

 

 殺風景な部屋である。最低限の家具と拾ってきた書籍だけが積みあがった、空虚な部屋。今日は風呂に入る気力もない。僕は着替えもせずに、ベッドの横たわって、目をつむった。

 

 明日も早い。だからすぐさま眠ろうとしたが、妙に頭は冴えている。

 様々なことが頭をよぎり、去っていく。窓の外でチラチラ瞬く街の光が鬱陶しい。僕はカーテンを閉めて、深呼吸をした。

 

 母は、僕たち兄弟のことを愛していなかった。

 彼女が愛していたのは、父だけで、僕たちに与える愛情は父に嫌われない最低限の物だけだった。

 

 今だから分かる。母は狂っていた。

 

 父がこの街で失墜し、外で再起を図ろうとしたとき、資本になったのが母の体であった。違法な風俗店で働き、アダルトビデオに出演し、最終的には臓器を売るために、自ら命を絶った。

 

 父は母の盲目的な愛を利用していた。それを母は分かっていた。体も命も尊厳も人のために売り払えるなんて、とても正気じゃない。

 

 しかし、最終的には失敗したとしても、母の愛を消費して父が企業で成り上がっていったのも確かである。母は改都を作った主幹メンバーの一人の娘であった。

 

 ここで僕が学んだことは一つ。愛は役に立つという事だ。

 

 ただ、一つだけの愛では足りない。

 

 二つではバランスが悪い。

 

 だから、三つなのだ。

 

 暴力の化身『箕土路蒼青』。

 常人たちの王『梶尾水仙』。

 冷徹な資本家『鳶カタリナ』。

 

 この強大な力を持つ三人のカス女を、父が母にしたように、完膚なきまでに僕に惚れさせ、ハーレムを作る。

 

 カス女ハーレム。それが僕がなすべき目標である。

 

 そして、彼女たちの力を利用して、この街で成り上がる。借金を返し、兄を救出し、この街のルールを塗り替える。

 

 もう誰にも、僕から奪えないようにするために。




これで序章(セットアップ)は終わりです。
良ければ、評価、感想の方よろしくお願いします。
私はあなたたちを愛しています。
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