ヘルメットを外すと、意外と汗をかいていたことに気付く。
夜とはいえ、今は梅雨。夏の準備期間である。むわりと肌に纏わりつく、ぬるい湿気がとても不快だ。
さっきまで小雨が降っていた。地面がまだらに濡れており、街灯の光を反射してチラチラと輝いている。下手くそが作った万華鏡みたいである。
僕らがやってきたのはうらぶれた住宅街で、ぎりぎり管理領域内の場所である。
最低限のインフラ管理、最低限の物品、そしてまともと言ってもよい最低限の住人達が暮らしている場所である。
現在の時刻は二十三時。辺りはシンと静まり返っており、住居から漏れだす光もない。まるで消灯管制が布かれているみたいであった。
僕たちは乗ってきたロイヤルエンフィールドミリタリーモデルを空き家の塀の裏に隠すと、目的地に向かって歩き出した。
前を歩くお嬢が、しきりに振り返って僕のことを見てくる。
お嬢の服装はのっぺりとした虎と『福』の字が書かれたトレードマークのベトジャン、涼しげな白いシャツ、ダメージジーンズである。背中にはギターケースを背負っており、どっからどう見ても休日の軽音楽部である。
お嬢が未だ、僕を見ながらもじもじとしているので、視線で先を促す。お嬢は僕から視線を外して、
「あのさ、晴臣……」と消え入りそうな声で言った。
僕は内心呆れながらも、なるべく優しい声で答える。
「どうしたの?」
お嬢の視線があちこちに飛ぶ。何かを言いあぐねている。そして、あーとかうーとか散々唸った後、
「やっぱいいや」と誤魔化すようなはにかみを浮かべて言った。
……またか。
暗殺の準備を終え、今に至るまでの間、この一連のやり取りを誇張なしに十回くらいは繰り返している。格ゲーしているときも、晩飯の買い出しに行っているときも、ガレージに案内されたときも、何がトリガーになっているのか、急に始まるのだ。そして勝手に終わる。諦める。
後に残るのは、気まずさだけである。
言いたいことがあるなら、早く言えばいいのに。いつもの闊達な態度が嘘みたいだ。
お嬢がちらちらと僕の顔色を窺っている気配を感じるが、無視をする。
僕はショルダーバックから資料を取り出し、目を通した。お嬢のもじもじはいずれ時間が解決するだろう。今は仕事だ。
「ターゲットは、
僕が仕事モードになったのを感じ取ったのか、お嬢も真剣な顔を作り、
「ふぅん。まあ、場所も割れてんだろ? 楽な仕事だな。掃除屋も使わなくて済むから、報酬も満額うちらのもんだ」
リーナの父親、
「これどこからの依頼なの? 嚴禅会通していないって言ってたけど、裏はとった?」
お嬢はふるふると首を振って、
「いんや」
「…………仲介してくれた人は知ってる人?」
「知らない奴だったが、知ってる奴の紹介ではあったぞ」
めちゃくちゃ怪しいな。
僕がさらなる可能性に思考を巡らせていると、お嬢が僕の背中をバンバンと叩き、
「おいおい、心配すんなって! 全部私に任せろ!」
「そんなこと言っても……」
「今日はなぁ、お前にいいとこ見せるために気合入れてんだ。晴臣、こないだサイバネに返り討ちに合うかもって心配してくれただろ。今日ので、そんなこと万に一つもあり得ないって証明してやるよ!」
うわ。それ気にしてたのか。
お嬢は何があっても腕っぷしでどうにでもなるかもしれないが、僕の方はそうはいかない。相手は軍人、それにここは管理領域。何かあればすぐに都市警察が飛んでくる。
──と、色々考えたって所詮は可能性、ここまで来たんだ、とにかくやるしかない。
「ほら、ここだ」
お嬢が指差した先、今回の目的地──ターゲットの潜伏場所は廃工場であった。
錆びたトタン、ひしゃげた鉄骨、ツタが這いに這った外壁。ガラクタを集めて、巨大な怪物を造りましたと言わんばかりの風体である。
半分崩れかかった門には『山陰製鉄所』と書かれてあった。改都が造られる前からある建物であろう。
「んじゃ、これ渡しとくわ」
お嬢が僕に長方形の小箱を渡してくる。中には注射器と中身入りのアンプルが入っていた。
「……何これ」
「
……なんで?
僕が怪訝な顔をしていると、お嬢が後頭部を掻きながら答えてくれた。
「嚴禅会からの依頼の時、頼まれて若い奴連れていくことあるんだけどな、大体の奴が吐くんだよ。それか錯乱する。やっぱ同族が死ぬのを見るのって生理的な忌避感があるらしくてなぁ。だから、事前に
義勇軍と言っても半年でやったのは訓練と哨戒任務だけである。勿論、目の前で人が死ぬのには慣れていない。心の方はどうにかできるにしても、体がどう反応するかは分からない。
それに今日は多分、人が実弾で死ぬのだ。血が噴き出るだろう、脳が飛び出すかもしれない。精神安定剤を服用してはいるが、覚醒剤も打っておいた方が安心なのは確かだ。
しかし、それを話している間、お嬢の目に一瞬不安がよぎったのを僕は見逃さなかった。だから、
「僕はいいよ。これからも君の横に立つつもりなんだ。殺しくらいなんともないさ」
強がりである。
しかし、こう言う他なかった。
殺しに忌避感を覚え、覚醒剤に手を出すという事は、お嬢の仕事を否定することになる。それはお嬢自身の否定にもつながり、今は何でもなくても、いずれ歪を生んでしまうかもしれない。
お嬢はその言葉を咀嚼するのに少し時間がかかったのか、眉をひそめながら首を傾げた後、合点がいったのか彼女の顔は狙い通り、喜色に染まった。
「んじゃまあ、やりますかァ!」
お嬢がギターケースを地面に置き、藤の花が描かれた竹刀袋を取り出した。
お嬢はその包みを解き、緩く弧を描く
つやつやと鞘が黒光りする
近接戦闘におけるお嬢の得物である。
僕たちが工場に足を踏み入れると、お嬢はすぐに地面を検めた。足跡を見ているのだろう。雨が降ったのでぐちゃぐちゃになっているが、確かに痕跡はある。
足跡が明らかに工場横の寮のような建物に続いていたが、これは罠だろう。お嬢が視線を寄こしてきたので頷きを返す。
僕らは工場外周をぐるりと一周した。
手入れされずちょっとした森になった
土埃の積もり具合、雑草の折れ方、仕掛けられた警報装置の位置などから具体的な潜伏場所の当たりを付けていく。
ここまで慎重にやるのは、ターゲットが三人なこともあるが、それよりもここが管理領域だからである。何かあれば都市警察がすぐに飛んでくる。彼らは無能ではない。いくらお嬢でも都市警察相手では対処に難儀するのである。
僕らは息を殺し、ハンドサインで会話する。
別棟向かいにあるプレハブ小屋──おそらく休憩室に潜んでいる。それが僕ら二人の一致した見解だった。
お嬢が野太刀の鞘で、プレハブ小屋の外壁を殴った。
ごおおんと低く唸りながら、小屋は揺れる。もちろん、それに混じる「ひっ」と引きつるような悲鳴は聞き逃していない。
お嬢がハンドサインで「行くぞ」と伝えてくる。
お嬢はベルトに差してあったサイレンサー付きのベレッタを構えながら、ドアを蹴破った。
中には怯えた表情で片手をあげた女性と、もう片方の手で守られている少年の姿があった。僕は部屋中に視線を走らせる。成人男性がいた痕跡はあるが、今は留守らしい。ここに篠田本人はいない。
僕は二人をよく観察する。女性──篠田の妻だろう──は、家事の最中に飛び出してきたようなラフな紺のニットにスキニーパンツという服装だった。
顔は恐怖に歪み、歯はガチガチと鳴っていて、目からはさらさらと涙が流れていた。
「こ、この子だけは助けてください……っ」
彼女は震える声で言った。
それからお別れの挨拶をするかのように少年の背中を力強く押し、両手で降参のポーズを取った。
少年はたたらを踏みながらも、振り返って自身の母の顔を見た。女性が頷くと、少年もそれに返す。少年が振り返るのをやめ、一歩踏み出した。
少年の顔は意外なことに無表情だった。
覚悟を決めたわけでも、恐怖に歪むわけでも、悲嘆にくれるわけでもなく、表情に色がない。ただ、瞳の奥には憎悪が渦巻いている。ああ、これはダメだな。生かしておいたらきっと復讐しに来る。そういうタイプの人間だ。そして、お嬢はそれが分からない人間ではない。そもそも一度受けた依頼をお嬢が反故にするわけないのだが。
どうするんだろうかとお嬢の方を見ると、彼女は拳銃を下ろし、顎で自身の後ろを差しながら、
「ほら行けよ」と言った。
……は?
僕が戸惑っていると、女性が少年の手を取り、急いで僕たちの隣をすり抜けていった。──まさか、逃がすのか?
お嬢が二人の背中を見送りながら、顎でリズムを取っている。それは二人の歩数と連動しており、丁度二十回目に、彼女はふたたび拳銃を構えた。
ぱす、ぱす。
二つ、それで人が死ぬにしてはあまりにも間抜けな音が鳴った。
正確無比なヘッドショット。
二つの血しぶきが上がる。親子は同時に地面に伏した。
丁度外の街灯が照らす場所である。二人の様子がくっきりと見えた。
痙攣。ピンクの破片。水たまりに赤が交っていく。二人は手を繋いでいる。固く、固く。波紋が収まる。ピクリとも動かなくなる。まだ手を繋いでいる。まるで親子のように。いや親子だろ。
人が死んだ。目の前で。今まで生きていた人が。声を聞いたことがある人間が。死んだ。呆気なく。たった二つの小さな金属片で。人が死んだ。たかだか金のために。
胃酸と混迷がせり上がってくる。
僕は奥歯を噛みこんで、感情を殺した。
お嬢が構えを解いて、得意げに言った。
「こうすると楽だろう? 抵抗されないし、残心を取らなくてもいい。それに顔を見ないで済む」
そんな、日常のちょっとしたコツみたいに……。
僕は震える息を吐き出して、
「……流石、プロだね」
「ふふん」
お嬢がぐるりと肩を回す。
「よし、次だ次。次が本命だからな。さっさと終わらせちまおう」
僕らがプレハブ小屋から出ると、すぐに違和感に気付いた。
二つの死体の隣、佇んでいる人のシルエットがある。
ガタイの良い長身の男。野球帽を目深に被り、サイズの合っていないパツパツのパーカーを着ている。立ち姿から、それなりにやれる人間であるというのが分かった。
男はじっと二つの死体を見ながら、
「殺したのか。俺の、妻と息子を。……俺のすべてを」
男がこちらを見た。ごつごつと角ばった、生真面目そうな顔立ち。無精ひげ。目の下には深いクマ。資料の写真よりも少々老けていたが、篠田本人である。彼の瞳には静かな怒りが宿っていた。
お嬢が発砲する。
それは篠田の眉間に命中したが、彼は少し揺らめいただけで倒れない。血すら出ていない。
その後お嬢は正確に心臓、鳩尾、腹部、股間、太腿に銃弾を放ったが、そのどれもが貫通せずに弾かれてしまった。
お嬢が
「
サイバネティクスの一種でその名の通り、皮膚を銃弾などを通さないように強化する改造である。全身に施すのは、かなりの激痛かつ、かなりの金額がかかるはずだが、そこは流石軍人、お国のために涙を呑んだのだろう。
篠田が一歩踏み出した。明確な意思の宿った力強い一歩である。
お嬢がぬらりと太刀を抜いた。青白く物々しい刀身が世闇に輝く。
篠田がなおも距離を詰めてくる。
よほど自信があるのか、錯乱しているのか分からないが、素手のままで。拳を強く握りしめているので、殴るつもりなのだろうか。
お嬢が深く息を吐くと、周囲の温度が少し上がった。
『加速』を使ったのであろう。『加速』とはお嬢の脳幹に取り付けられた
これによりお嬢は常人が理解できない速度、深度での戦闘を行うことができる。
お嬢が太刀を肩に担ぐように構えた。それから腰をかがめ、道を繋ぐ。
術、法、理、道を組み合わせ、それぞれがそれぞれの方法で戦うのが、箕土路流である。
今のお嬢は刀術、銃術をメインに据え、「
ぎちぎちとお嬢の筋肉が鳴っている。それはまさに矢が番われた射出寸前の弓のようである。
二人の視線が交差する。
篠田が歩みを止めた。その場所はお嬢の一足一刀の間合いから少し外れている。そこで篠田はゆっくりと腕を持ち上げ、見せつけるかのように拳を開いた。
篠田の腕の筋肉が不自然に隆起している。
次の瞬間、僕は左に吹っ飛んでいた。
二の腕に衝撃と痛みを感じる。お嬢に蹴飛ばされたのであろう。僕は全身に走る五つの線を慎重に操作しながら、衝撃を地面へと流した。同時に、体をひねって、地面を三回ほど転がり、立ち上がる。
もともと僕がいた位置、その後方にあるプレハブ小屋には直径三センチほどの穴が開いていた。──攻撃。皮膚収縮で生じる
美しい風切り音と、苦悶の声が響く。
篠田の方を見ると、お嬢が太刀を振り切っていた。篠田の腕はすでに絶たれている。
篠田が後方に飛び、立て直そうとするが、お嬢がそれを許さない。
足が伸び切るくらい大きな踏み込み、左足を支点に半円を描いた足払い、篠田のもう片方の手が開こうとしているのをベレッタにて牽制。そのすべての動作が流麗に繋がっている。
篠田が尻もちをつき、両足が飛んだ。
直ぐに皮膚が収斂し、傷が塞がるが足が短くなったのには変わりがない。篠田は後方に転がるが、そこには工場の外壁があって、逃げ道がなくなった。
お嬢がベレッタを投げ捨て、太刀を両手で大上段に構える。篠田の顔が恐怖と諦観に歪む。
示現もかくやの力強い振り下ろしは、篠田が防御に使った腕ごと彼の体を、きれいに断ち切った。
お嬢が下段に構えて残心。
篠田が臓物をまき散らしながら左右に崩れる。どさり。お嬢が気を抜くように肩を上下させると、短く空を切って血ぶりを行い、太刀を肩にかけた。
振り返ると笑顔を見せてくれる。空気が弛緩した。
「うい、終わり。大したことなかったな。な、心配ないだろ? あ、蹴っちゃったけど大丈夫だったか?」
僕は腕をさする。痛みはない。そういう風に蹴ってくれたのだろう、流石に力の使い方がうまい。僕が「大丈夫」と言って頷くと、お嬢がニカっと笑って、
「一仕事終えたし、なんか甘いもんでも食べてから帰るか」
もうすでに三人を殺したことなんか、頭から抜けているのだろう。多分彼女は自分と自分の近しい人間以外、人間として認めていない。思考が違うのだ、意味は分かっても会話にならないのだ、根底にある価値観が違い過ぎて。
それはかつての奴隷や
僕は引きつらないように、呆れた笑顔を作って、
「この時間からぁ? 太るよ」
「大丈夫大丈夫。さっきカロリー使ったから、問題なし!」
お嬢が鞘を拾って、太刀を収めた。
「それなら、アーケードに最近できた喫茶店が遅くまでやっていていいよ。パフェがおすすめなんだ」
僕とお嬢は急いでその声の出所を探った。
僕らの声ではない、知らない声だ。篠田はもう完全に静止している。お嬢の顔がピクリと動く。
お嬢は再び太刀の柄に手を掛けながら、工場建屋の方に視線をやった。
パチパチパチと、緩慢な動作で拍手しながら現れたのは長身痩躯の男であった。
品の良い三つ揃えに、六月にしては分厚すぎる生地のロングコート。男は中折れ帽に手をやりながら無防備にも近づいてくる。年は二十台中盤くらいだろうか、線の細い顔立ちに、亜麻色の髪を三つ編みにして肩口に垂らしている。
「一部始終見てたよ。サイバネ同士の戦いは見ものだった。私の目にはほとんど追えなかったけどね。流石、箕土路流の現当主なだけあるなぁ」
お嬢が腰からガネイシャを取り出して、男に照準を合わせる。すると男は慌てて両手を上げた。
「うおい。私に敵対の意思はないよ。君、箕土路蒼青と、そっちの鮎川晴臣君に話を聞きたいだけなんだ」
こいつ、僕のことを知っているのか。こうなってくるとますます怪しい。こうもタイミングよくに姿を現したのだから、待ち伏せていたのだろう。そうなってくるとこの依頼だってこの男が仕組んだ可能性すらある。
男は懐から携帯を取り出して、
「それにここで君が私を撃ったなら、すぐにでも──」
お嬢が何憚ることなく発砲した。
放たれた超大口径の弾丸は、吸い込まれるように、男の眉間に命中し、まるで果物みたいに彼の顔面を破裂させた。
ふわりと舞う中折れ帽。飛び散る肉片。ぴゅうぴゅうと噴き出る血潮。
男は綺麗に後方へと倒れた。
え、えぇ……。
お嬢が篠田の死体の近くにあったベレッタをひょいと拾い上げる。
「先に拾っとくんだったな。ガネイシャは音がうるさい」
「ちょ、え? お嬢? すごい重要なこと話そうとしてたよ? 僕らのことも知ってるみたいだったし……な、何で撃っちゃうの?」
お嬢はきょとんとして、
「ん? いやだって、めんどくせえし。ああいった手合いはまともに相手するだけ損なんだ。それよりもパフェだってさ、行ってみるか」
全くそれどころではない。
僕は小走りで男の死体の方へ向かい、持ち物を検めることにした。
「えー、何してんのー、早く帰ろうぜ」
背後から聞こえる呑気なお嬢の声を無視する。
お嬢が殺してしまったのは仕方ない。諦めろ。自然災害みたいなもんだ。しかし、この男の目的くらいは知っておきたい。身元も。なぜ、僕たちに接触して来ようとしたのか、それを知らねばなるまい。
お嬢の場合は、向かってくる敵のすべてを返り討ちにすればいいのかもしれないが、僕の方はそうもいかないのだ。まずもって人に知られてはいけない秘密が多すぎるし、抱えているものが多すぎる。不確定要素はなるべく排しておきたい。
手に持っていた携帯。ロックが外れない。網膜認証式である。すでに眼球は破裂している。僕はそれを上着のポケットに突っ込んだ。
お嬢がつかつかと僕に近づいてくる。
しばらくの間、僕の手元を不思議そうに覗き込んでいたのだが、退屈になったのか近くの柱にもたれかかった。それからまた、もじもじし始めて、
「なー晴臣ー、今聞くことじゃないかもしれないんだけどさぁ……」
「なに?」
切羽詰まっていて、少し言葉にとげが出てしまった。
懐には携帯がもう一つ。こっちは旧式のものでロックが掛かっていない。急いで着信履歴をさかのぼる。知らない名前と番号で埋めつくされている中、一か月ほど前の履歴に知っている名前を発見した。
──藤代。
ああくそ。
多分アンリさんの方だ。あの人がいろいろ知っていたのはこの男に探らせていたからなのか。しかし履歴は一か月前に一度きりである。じゃあ今日の接触も彼に指示されたからなのか?
いや違うな。アンリさんは面白いことは全部自分でやりたい人間だ。そして地道な調査なんてことを一番嫌う人物である。それをこの男に委託したのだろう。それにもし今日のことを知っていたのならちょっかいをかけてきていたに違いない。
だから公衆電話などの可能性を棄却すると、アンリさんとの繋がりはそこで切れているのだろう。──じゃあ、そもそもこの男が僕らに接触してきた理由は何だ。
「……なんか怒ってる?」
不安そうな声色でお嬢が尋ねてきた。僕は振り返って、お嬢に対して笑いかける。
「ううん、ちょっと急いでただけ。それで、どうしたの?」
財布。現金はあまり入っておらず、様々な喫茶店のポイントカードばかり。レシートの束の中、数枚の同じ名刺を発見した。『乃木探偵事務所』。おそらくこの男の名刺だろう。本業か。
お嬢が僕の服をついと摘みながら、
「今日の昼に一緒にいた女、本当に何でもないんだよな?」
マジで今聞くことじゃなさ過ぎる!
ああもう。
「誓って違う! 僕は身も心もお嬢に捧げるって決めている!」
「…………へ?」
不味い。焦って、言い過ぎた。今はまだこの段階ではないのに!
お嬢が顔を真っ赤にして、俯く。何か言い訳を紡ごうにも、思考回路がうまくつながらない。
一か月ほど前に探偵がアンリさんに依頼されて僕のことを探っていた。アンリさんが僕にカマをかけてきたのが大体二週間前。時期的には説明が通る。しかしその後は連絡を取っていない。
この探偵が別の依頼か、個人的な興味の元、僕らを追っていた?
その上でお嬢と僕が今日ここに来ることを知っていて、待ち伏せ、何かを聞こうとしていたのだ。──わからないことが多すぎる。
さらなる情報を得ようと手を伸ばした時である、遠くからうっすらとサイレンの音が聞こえた。
この探偵とやらが手を打っていたのか、お嬢の発砲音かはわからないが、タイムリミットである。逃げなければ。
立ち上がり、探偵に最後の一瞥をくれてやると、違和感があった。
彼の胸元に巻かれた、ループタイのデザイン。光の反射の具合によって、ビーバーが浮かび上がるようになっていた。あの動物のビーバーである。川にダム作って流れを変えるやつ。
……これは何だ。他の三つ揃えやコートと趣味が全くあっていない。調和していない。もう少し詳しく調べたかったが、これ以上は無理だ。
後ろ髪を引かれる思いであったが、どうにか振り払い、未だにうろうろしながら手で顔を仰いでいるお嬢の腕を引っ掴んで、僕らは工場を後にした。
たくさんの評価、感想ありがとうございます。
私は、本当に、皆様のことをお慕い申しております。