お父さんの話をしよう
夜の海は静かだった。
昼のあいだ強く吹いていた風も、いまは岬の向こうへ去って、窓の外には波が寄せては返す音だけが残っている。古い木枠の窓は少しだけ開いていて、塩の匂いを含んだ湿った空気が、薄いカーテンをゆらしていた。
小さな家だった。
白い漆喰はところどころ剥がれ、梁は古く、床板は歩くたびにかすかに鳴る。けれど、貧しくはあっても荒れてはいない。よく磨かれた食卓と、繕いの跡だらけの椅子と、壁に掛けられたランプ。それから部屋の隅には、小さな木の箱がひとつ置かれていた。鍵のかかったその箱を、彼女は何年も開けることなく、ただそこに置いたままにしている。
ベッドの上で、幼い男の子が毛布にくるまっていた。
まだ五つか六つ。金とも栗ともつかない柔らかな髪が額に落ち、眠気をこらえきれない目で母親を見上げている。
「まだ眠くない」
子どもはそう言ったが、半ば閉じかけた瞼が、その言葉を裏切っていた。
ルルシィは少し笑った。
「さっきから三回も同じことを言ってるわ」
「ほんとだ」
「ほんとよ」
彼女はベッドの端に腰を下ろし、毛布の乱れを直した。昔より細くなった指先は、けれど驚くほどやさしく、慣れた手つきで子どもの肩を包み込む。ランプの灯りは彼女の横顔を淡く照らしていた。若さの面影はまだ残っている。けれど、その目だけは年齢よりずっと遠くを見てきた人の目だった。
「お話して」
子どもが言った。
「また?」
「うん。父さんの」
その一言で、ルルシィの手がわずかに止まった。
窓の外で、波がひとつ、岩に砕けた。
父さん。
その言葉を、この子はためらいなく口にする。写真もない、顔も知らない、声も知らない人を、まるで当たり前のように。ルルシィは、それが少しだけ不思議で、少しだけ救いでもあった。
「今日はどこまで話したかしら」
「父さんが、まじめで、つまんない人だったところ」
思わず彼女は吹き出した。
「そんな言い方してないわ」
「でもそういう感じだった」
「……そうね。否定はできないわ」
ルルシィは苦笑して、子どもの髪を撫でた。
「でもね、つまらない人っていうのは、案外、悪いことじゃないの。世の中には、自分が正しいって大声で言う人がたくさんいる。自分が国を救う、自分が歴史を変える、自分が誰より立派だって、そういう顔をしてる人がね」
「父さんはちがったの?」
「ぜんぜん違った」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「あなたのお父さんは、自分が何か大きいことをできる人間だなんて、たぶん一度も思わなかった。少なくとも、わたしの知るあの人はね。いつも困ったような顔をしてた。いつも何かに遅れて気づいて、気づいたときにはもう引き返せなくなっていた」
「へんな人」
「ええ。へんな人だった」
その言葉のあとに、しばらく沈黙が落ちた。
ランプの火が小さく揺れ、壁に映る二人の影が伸び縮みする。遠くで、夜の船の汽笛がひとつ鳴った。静かな、もう戦の気配などどこにもない海だった。
けれど、ルルシィには、ときどき今でも聞こえることがある。
燃える油の臭い。
砲声。
崩れる石壁。
怒号。
泣き叫ぶ子どもの声。
そして、あの人が最後に見ていた、あの赤い海。
「母さん」
「なあに」
「父さんは英雄だった?」
まっすぐな問いだった。
子どもは何も知らない。ただ物語の決まりごととして、父というものは英雄であってほしいのだろう。剣を持って戦って、悪い敵をやっつけて、みんなに褒められて、きれいな音楽の中で死ぬ。そういう父を夢見ている。
ルルシィはすぐには答えられなかった。
自分の膝の上に置いた手を見つめる。そこには傷がある。若い頃についた、小さな火傷の跡。あの日、崩れた倉庫の下で、焼けた木片を素手で掴んだときのものだ。
「いいえ」
彼女は静かに言った。
「英雄じゃない」
子どもは少しだけ驚いたように瞬きをした。
「じゃあ、悪い人?」
「……それもちがう」
「じゃあ、なに?」
ルルシィは顔を上げた。窓の向こう、暗い海の彼方を見るように。
「あの人はね、最後まで、人間でいようとした人だった」
子どもには、まだその意味がわからなかっただろう。けれど彼は黙って母の言葉を待った。
ルルシィは息をついた。
「あなたのお父さんは、軍人だった。帝国の少尉。きれいな制服を着て、剣を提げて、まっすぐ歩く人だった。昔のわたしが、いちばん嫌いだった種類の人」
「嫌いだったのに、好きになったの?」
「……そういうものなのよ」
「ふうん」
納得したのかしていないのか分からない返事だった。
彼女はまた少し笑った。笑ってから、その笑みが自然にほどけて消えるのを、自分でも感じていた。
「最初に会ったとき、あの人は二十歳だった。今のあなたの四倍も生きてたのに、たぶん心の中はあなたとあまり変わらなかった。信じていたのよ。国のことを。軍のことを。正しいことをすれば、正しい結果になるって」
「ちがったの?」
「ちがったわ」
即答だった。
「この島ではね、そのころ、誰もが何かを信じていたの。帝国を。革命を。自由を。秩序を。民族を。皇帝を。共和国を。未来を。みんな、自分の旗だけはきれいだと思ってた」
彼女の声は穏やかだったが、その穏やかさの奥には、燃え尽きた炭のような熱があった。
「でもね、旗は人を守ってくれない。旗の下で死ぬのは、いつも名前のない人たちだった。港で働く人、工場で煤だらけになる人、畑を耕す人、何もわからないまま連れてこられた若い兵隊。……そして、あの人みたいな、遅すぎるくらいにやさしい人」
「父さん、やさしかったの?」
ルルシィは少し黙り、それからゆっくりとうなずいた。
「ええ。だから、たくさん傷ついた」
子どもはそれ以上うまく言葉にできなかったのか、毛布を指でつまんで少しだけ考え込んだ。
「母さん」
「なあに」
「父さんは、母さんを助けたの?」
「助けたわ」
「母さんも父さんを助けた?」
その問いには、ルルシィは答えられなかった。
喉の奥に、昔の血の味が蘇る。
助けたかった。何度も。
でも救えなかった。帝国からも。革命からも。彼自身の正しさからも。
「……どうかしらね」
そう言うのが精いっぱいだった。
子どもは眠たげに目をこすった。もう限界だった。けれど物語の入り口だけは聞いてから眠りたかったらしい。
「それで、どこで会ったの?」
ルルシィはランプの火を少し絞った。
部屋の明るさがやわらかく沈む。海の音が少し近くなる。彼女は子どもの額にかかった髪をかき上げ、遠い昔の春を思い出した。
石畳に雨のにおいが残っていた夜。
帝都セント・アルヴァ。
工場街と兵営のあいだの、細い裏路地。
憲兵の怒号。
走る足音。
破れた地下新聞。
そして、街灯の下に立っていた、まだ何も知らない若い少尉。
「春だったわ」
彼女は囁くように言った。
「帝都で、はじめて会ったの。わたしは憲兵に追われていて、お父さんはその夜、はじめて人を守るために命令を破った」
子どもの目は、もうほとんど閉じている。
「それが、はじまり?」
「ええ。ぜんぶの、はじまり」
ルルシィは身をかがめ、子どもの額にそっと口づけた。
「だから聞かせてあげる。あなたのお父さんが、どういう人だったのか。どうしてわたしが、あの人を忘れられないのか。どうしてこの島はあんなふうに燃えたのか」
子どもはもう返事をしなかった。眠りの底へ落ちかけている。
それでもルルシィは、静かな声で語り始める。
かつて帝国と呼ばれた国の、最後の春のことを。
若すぎた少尉エドアルト・ヴァレンのことを。
革命家になるにはまだ幼かった、一人の少女のことを。
そして、誰も勝たなかった戦争のことを
乞うご期待!(改訂を行いました