路地裏の嘘
夜の帝都セント•アルヴァは、遠くから見れば美しかった。
沖へ向かって緩やかに開く湾には、港の灯が帯のように連なり、中央市街の白い大理石の壁には月明かりが薄く張り付いている。議事堂の尖塔は夜空へ細く伸び、北の高台にある宮城の窓はいくつか、まだ眠らずに光っていた。中央駅のほうからは汽笛が短く風を裂いて届き、路面電車の鈴がときどき、どこか現実離れした規則正しさで鳴る。
繁栄する帝国の心臓は夜になるとかえって輪郭を整える。
暗闇は見たいものだけを浮かび上がらせるからだ。
だが、灯の届かないところへ入れば、帝都は別の顔をしていた。
旧市街南縁。
石畳はところどころ欠け、排水溝には昼の汚れが流れ残り、煉瓦壁のあいだに挟まれた裏路地には潮と煤と安酒と腐りかけた野菜の匂いが淀んでいる。昼間には市場の喧騒や洗濯物のはためきに紛れてしまう臭気も、夜半を過ぎるとはっきり鼻についた。帝都の腹の底は、こんなふうに湿っている。
エドアルト・ヴァレン少尉は、その湿った裏路地を巡察していた。
外套の下の軍服はまだ新しく、少尉章も夜目に白く浮いて見える。二十歳。将校としては若すぎると、初対面の相手によく思われる年齢だった。自分でもそれは分かっている。分かっているからこそ、歩き方と声だけは年齢より硬くする癖がついていた。
今夜の巡察線は、本来ならもう少し表通り寄りの区域だった。
だが議会周辺の警備強化の余波で、帝都の見回りはここ数日ずっと乱れている。
皇帝の病。
継承問題。
秘密の夜会。
皇太子派と皇弟派。
そういう言葉は、下の兵の噂話としてさえ最近は珍しくなくなっていた。もっとも、少尉の階級で正式に知るのは断片だけだ。けれど断片だけでも十分に空気は悪い。上で何かが動いている時ほど、下では妙な取り締まりや見せしめが増える。現にここ数週間、旧市街と東港では「不審者の確保」だの「扇動紙の押収」だのという名目で、憲兵が以前より露骨に歩き回るようになっていた。
エドアルトは、角をひとつ曲がったところで足を止めた。
前方で、誰かが走る音がした。
軽い。
兵靴ではない。荷運びの男とも違う。もっと切迫した、逃げるためだけの足音だった。
反射的に腰の銃へ手がやりかける。だが次の瞬間、暗がりから飛び出してきた影を見て、その手は止まった。
少女だった。
黒に近い上着。
細い身体。
髪は乱れ、息は荒い。
それでも目だけが異様にはっきりしていた。恐怖で曇るというより、追われながらなお次の角を計算している目だった。
その目が、エドアルトを見た。
軍服。少尉章
逃げ場のない路地の正面に立つ、帝国軍将校
少女は一瞬だけ動きを止めた。
その停止は怯えではなく、判断だった。引き返すか、脇へ飛ぶか、何か武器になるものはあるか、あるいはここで終わりか。そういうものを一拍で量る、鋭く短い沈黙。
エドアルトは、その顔を見た。
若い。
自分とそう変わらない歳だろう。
頬は少しこけている。
美しいというより、削られたような顔立ちだと思った。だが奇妙なくらい印象に残る。夜の湿気の中でも、その視線だけが冷たい火みたいに立っていた。
背後から怒声が響く。
「いたぞ!」
憲兵だった。
青黒い制服の影が、ひとつ前の角を乱暴に曲がってくる。人数は三。先頭の男は抜き身の短警棒を持ち、後ろの一人は拳銃の鞘に手をかけていた。
少女の目が変わった。
エドアルトではなく、その脇の物置きの陰を見たのだ。そこへ飛び込めば一瞬は隠れられる。だが軍服の男が正直に指させば終わる。僅かな逡巡の末、エドアルトの体を陰にして、少女はそこに飛び込んだ。
ほんの一拍。
その短さの中で、エドアルトは何をするべきか考えたわけではなかった。考えるには短すぎた。
ただ、先に口が動いた。
「そっちじゃない!」
わざと憲兵のほうを向いて怒鳴る。そして反対側の路地を顎でしゃくった。
「西の抜け道へ行った!」
憲兵が足を止める。
物陰の少女も、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
「確かか、少尉殿!」
「見失うか。急げ!」
語気を強める。若い顔に似合わぬほど鋭い声が出たのは、自分でも少し驚いた。
憲兵たちは舌打ちし、示されたほうへ走っていく。
革靴の音が遠ざかる。怒声も、やがて別の通りへ吸い込まれた。
路地に、急に静けさが落ちた。
少女はまだ動かなかった。エドアルトも、すぐには何も言わなかった。
どこか遠くで市電の鈴が鳴る。港のほうから潮の匂い。そういうものだけがやけにはっきりしている。
やがて少女が、低く言った。
「‥‥どうして」
その問いに、エドアルトは答えられなかった。自分でも分からなかったからだ。
どうして見逃したのか。
どうして憲兵へ嘘をついたのか。どうして目の前の知らない少女を、軍の手から外してしまったのか。
だから彼は、ひどく間の抜けたことを言った。
「早く行け」
少女は数秒だけ彼を見ていた。
疑っているのか、覚えようとしているのか、そのどちらともつかない目だった。それから一歩、二歩と後ずさりし、物置きの陰を回って脇道へ滑り込むように消えた。
最後まで足音は軽かった。
エドアルトは一人、裏路地に残された。
胸の鼓動が妙に大きい。
巡察中に規定違反をしたからか。憲兵へ虚偽報告をしたからか。それとも、あの少女の目がまだ視界の奥に残っているからか。
彼は深く息を吐き、帽子の鍔を少し押し下げた。この場を離れなければならない。誰かが戻ってくる前に。
だが歩き出したあとも、どうしても一つの感覚だけが消えなかった。
たったいま、自分は小さな規律違反をしたのではない。
もっと別の何かに、靴の先を踏み込んでしまったのだという感覚だった。
そしてその感覚は、後になって振り返れば、きわめて正しかった。
⭐︎
兵営へ戻る途中、帝都の表通りはまだ完全には眠っていなかった。
中央市街寄りの通りにはガス灯が並び、夜更けでも客を残した酒場の窓からは笑い声が漏れている。議会の夜会が長引いているのか、官吏用の馬車が何台か急ぎ足で北へ向かっていた。夜勤明けの工員たちが三人連れで歩いてくる。彼らはエドアルトの軍服を見ると、習慣のように道の端へ寄った。
その動きが、彼には急に嫌だった。
市民は軍人を見ると、敬意より先に距離を取る。
それが自然なことになっている都。つい先ほどの路地で、自分が見逃した少女もまた、最初に自分の軍服を見たのだ。
兵営の門が見えてきたところで、衛兵が敬礼した。エドアルトも応じ、記帳を済ませて中へ入る。
宿舎の廊下は静かだった。
数名の士官がまだ起きているらしく、奥の一室から小声の議論が漏れている。継承問題だろうか。軍の食堂でも最近はその話ばかりだ。皇太子アルベルトは議会と近すぎる、いや皇弟ダンダロスなら秩序が戻る、どちらも本人たちより周囲の人間が勝手に熱くなっているような議論だった。
エドアルトは自室の扉を閉め、ようやく軍帽を机へ置いた。
すると急に、先ほどの路地の静けさが戻ってきた。
少女の目。
憲兵の怒声。
「どうして」という掠れた声。
彼は椅子に腰を下ろし、両肘を膝に置いたまま、しばらく動かなかった。
どうして。
頭の中で同じ問いが反芻される。
どうして、あんなことをした。
軍人としては簡単だったはずだ。見つけた不審者を憲兵へ引き渡す。あるいは自分で拘束する。帝都はいま不穏で、扇動紙も地下組織も増えている。上官に言わせれば、少しの甘さが街全体を燃やすという時期だ。
なのに、あの一瞬、自分はそうしなかった。
エドアルトは拳を軽く握り、すぐに開いた。
疲れているのだ、と思おうとした。たまたまだ。若い女が相手で、憲兵のやり方が乱暴だったから気分を害しただけだ。
そう整理しようとしてみる。
だが、うまくいかない。
あの少女の目は、怯えだけの目ではなかった。
追われることに慣れていて、それでも折れていない目だった。それを見た瞬間、自分は軍服の内側で何かを誤魔化せなくなった気がした。
机の上には、今日の巡察記録簿が置いてある。
所定どおりなら、旧市街南縁にて不審者追跡中の憲兵と遭遇、結果見失う、くらいは書いておくべきかもしれない。
だが記録に残すのは危険だ。そもそも何を書けばいい。自分が見逃したことを、自分で記録するのか。
結局、彼は記録簿を閉じた。
「……馬鹿だな」
思わず独り言が漏れた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。少女にか、自分にか、それとも夜の帝都そのものにか。
窓の外では、どこか遠くでまた汽笛が鳴った。
中央駅だ。
この都では、夜でも列車が止まらない。港も工場も、皇帝の病も議会の争いも、そんなこととは関係なく、鉄と石炭と人間は動き続ける。
エドアルトは外套を脱ぎ、軍服の襟元を少し緩めた。
眠らなければならない。
明日もまた勤務だ。
ベルナー大尉の補佐で議会周辺の警備計画にも顔を出すし、旧市街の見回り強化も続く。あんな路地の一件を、いちいち心に留めている余裕はない。
そう思って、灯りを落としかけたそのときだった。
扉が二度、控えめに叩かれた。
「ヴァレン少尉、起きていますか」
宿舎付きの若い下士官の声だった。
「何だ」
「ベルナー大尉がお呼びです。いますぐ」
エドアルトは一瞬、息を止めた。
胸の奥に、嫌な予感が細く走る。まさか、と思う。
あの路地のことが、こんなに早く表へ出るはずがない。
だが帝都という街では、ときどきこちらの予感より先に、事態のほうが走っている。
彼は帽子を取り、再び軍服の襟を正した。
「すぐ行く」
返事をしながら、指先がわずかに冷えていくのを感じていた。
あの路地裏の嘘は、思っていたよりずっと早く、彼のほうへ戻ってくるのかもしれなかった。
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