海へ   作:A-TYA-TYA

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ベルナー大尉

 ベルナー大尉の部屋は、兵営本棟の二階、廊下のいちばん奥にあった。

 

 夜更けに呼び出されること自体は珍しくない。議会周辺の警備が強化されてからというもの、当直将校や伝令はいつもより忙しく、ちょっとした報告や配置変更で睡眠を削られるのは半ば日常になっていた。だが今夜の呼び出しには、そういう慌ただしさとは別の冷たさがあった。

 

 若い下士官は扉の前までエドアルトを案内すると、それ以上何も言わずに一礼して下がった。

 

 中からは紙をめくる音しかしない。

 

「入れ」

 

 短い声。

 

 エドアルトは扉を開けた。

 

 部屋は広くない。

 机、壁際の書棚、地図の掛かった衝立、簡素な暖炉。

 

 飾り気はほとんどなく、実務のためだけに整えられた部屋だった。窓辺には帝都全図と港湾図、それに鉄道路線図が重ねて広げられ、机の上には報告書の束が二山に分けて積まれている。ランプの光は強すぎず、部屋全体を平たく照らしていた。

 

 ベルナー大尉は椅子に座ったまま、書類から顔を上げた。

 

 四十代半ば。

派手さのない顔立ち。

いかにも現場を長く見てきた軍人という硬い輪郭。疲れているように見えるのに、目だけは少しも鈍らない。そういう男だった。

 

「座れ」

 

「失礼します」

 

 エドアルトは向かいの椅子へ腰を下ろした。

 大尉はすぐには話し始めなかった。代わりに机上の一枚を手に取り、なにか数字を確認するふうに目を落としたまま言う。

 

「旧市街南縁の巡察線を、今夜は誰が回っていた」

 

 胸の奥がひとつ、重く落ちた。

 

 やはりか、と思う。

 だが表情には出さないようにした。

 

「私と、二班の巡察兵です」

 

「憲兵と接触したな」

 

「はい」

 

 ベルナーはそこで初めて顔を上げた。

 

「報告は、旧市街南縁にて不審者追跡中の憲兵と遭遇、対象は西の抜け道へ逃走、憲兵隊が追跡継続。そうなっている」

 

「その通りです」

 

 

 嘘ではない。

 少なくとも、文章にした部分だけを見れば。

 

 大尉はしばらく黙っていた。

 その沈黙は、叱責の前に溜める間ではなく、相手がどこまで自分から話すかを測る間だった。 

 

 

「少尉」

 

「はい」

 

「おまえは、報告が下手だな」

 

 思いがけない角度の言葉に、エドアルトは一瞬だけ眉を動かした。

 

「は……」

 

「正確に書いているようで、肝心のところだけ綺麗に抜けている」

 

 ベルナーは書類を机に戻した。

 

「憲兵側の報告では、対象は若い女だ。上着は黒、身軽、旧市街裏の地理に通じている。追跡はもう少しで追いつくところだったらしい。なのに、おまえの記録だとその対象の特徴が一切ない」

 

 エドアルトは答えなかった。

 

「さらに言えば、その時間の西抜け道には巡察兵がいた。誰も女など見ていない」

 

 そこでようやく、大尉は背もたれから少し身を離し、肘を机についた。

 

「さて。ここまで揃えば、考えられる可能性は多くない」

 

 ランプの光が、ベルナーの横顔の線を硬くしていた。

怒っているようには見えない。むしろ冷静すぎる。

 

 それがかえって逃げ道をなくしていた。

 

 エドアルトは数秒だけ目を伏せ、それから顔を上げた。

 

「見逃しました」

 

 ベルナーは頷きもしなかった。

 

「理由は」

 

「……分かりません」

 

 それは正直な答えだった。しかし正直すぎる答えでもある。

 

 大尉の目がほんのわずか細くなる。

 

「分からん、で済ませるには若すぎるな」

 

「承知しています」

 

「では言い直せ」

 

 部屋の空気が少しだけ張る。

 エドアルトは喉の奥に残った渇きを飲み込み、言葉を探した。

 

「憲兵の追い方が乱暴でした」

 

「それだけか」

 

「対象が……ただの扇動屋には見えなかった」

 

「それで」

 

「軍に渡したくないと思いました」

 

 ベルナーはそこで初めて、ほんの少しだけ視線を和らげた。

 

 和らげたと言っても、優しくなったわけではない。ただ、ようやく部下の答えを本物として受け取ったという程度の変化だった。

 

「なるほど」

 

 短く言って、椅子にもたれる。

 

「私が期待していたよりはましな理由だ」

 

 叱責とも肯定ともつかない言い方だった。

 

「軍規違反です」

 

 エドアルトが先に言うと、ベルナーは鼻で息を抜いた。

 

「そうだな。だが、軍規違反にも質がある」

 

「処分を受けますか」

 

「受けたいのか」

 

「……」

 

 答えられない。

 受けたいわけではない。だが、何もなしで済むとも思っていなかった。

 

 ベルナーはしばらくエドアルトを見ていたが、やがて立ち上がり、背後の地図のところへ歩いた。帝都全図の前で止まり、旧市街から東港、中央駅、議事堂へ伸びる線を目でなぞる。

 

「おまえが見逃した女は、たぶんただの密売人や煽動屋ではない」

 

「……はい」

 

「憲兵が自分の巡察域を越えてあそこまで深く追う対象なら、もっと面倒な類いだ」

 

 ベルナーは振り返らないまま言った。

 

「最近、旧市街と東港、それに中央駅のあいだで妙な人の動きが増えている。印刷物の押収件数、港湾荷の再点検、行方不明届けの増加。個別に見れば小さいが、並べると気味が悪い」

 

 エドアルトは黙って聞いた。

 これは単なる尋問ではない。大尉はすでに、その少女を今夜の小事件より先の線で見ている。

 

「見逃したこと自体を褒める気はない」

 

 ベルナーが続ける。

 

「だが、その判断をした自分を、明日には忘れるような人間でも困る」

 

 そこで初めて、彼はエドアルトのほうへ向き直った。

 

「次に会ったら接触を保て」

 

 その命令は、あまりに予想外で、エドアルトはすぐには理解できなかった。

 

「……は」

 

「聞こえなかったか」

 

「いえ。しかし」

 

「次にその女と会ったら、捕まえるな。逃がすな。接触を保て」

 

 ベルナーの声は平坦だった。

命令書を読み上げるときの声に近い。だが内容は、正規の軍務から見れば危うすぎる。

 

「大尉、それは」

 

「私は、おまえが今夜気まぐれで女を見逃したとは思っていない」

 

「ですが私は」

 

「気まぐれなら、ここへ呼ぶ前に憲兵へ引き渡している」

 

 その言い方に、エドアルトは口をつぐむしかなかった。

 

 ベルナーは机へ戻り、抽斗から小さな封筒を一つ出した。中身は空らしい。薄い。

 

「正式命令ではない」

 

「はい」

 

「だから紙にも残らん。残さない」

 

 封筒を机の上に置く。

 

「帝都のどこかで、その女とまた接触できたら、これを使え。中は空だ。だが、向こうがもし本当に何らかの連絡線を持つ人間なら、"渡そうとする意思"そのものを見て反応する」

 

「向こうが接触を拒んだら」

 

「そこで終わりだ。追うな」

 

「受け取ったら」

 

「まず身元を聞き出そうとするな。信頼される前に問い詰めれば、二度と線は繋がらない」

 

 ベルナーはそこで少しだけ言葉を切り、目を細めた。

 

「おまえは真面目すぎる。真面目な人間は、こういう相手を前にするとすぐに“正しい質問”をしたくなる。だが地下の人間は、正しい質問からいちばん先に逃げる」

 

 エドアルトは封筒を見た。触れれば、今夜の嘘がただの一回の過ちではなく、次の行動になる。

 

「なぜ私に」

 

 気づけば口にしていた。

 

 ベルナーは答えた。

 

「見逃したからだ」

 

「それだけですか」

 

「それだけで十分だ」

 

 あまりにも簡潔だった。

 だが、そこで嘘をついていないのは分かった。

 

「憲兵や硬派の将校なら、その女を捕まえる。私の手の者でも、器用な連中なら相手を値踏みして失敗する。おまえは一度、命令より先に目の前の相手を見た」

 

 ベルナーは封筒をエドアルトのほうへ押しやった。

 

「そういう人間にしか、繋がらん線がある」

 

 部屋の外で、遠く誰かの靴音が通りすぎた。

 

 夜の兵営は静かだ。だがこの静けさの下で、帝都じゅうの何かが少しずつずれているのだという感覚が、エドアルトにはあった。

 

 彼は封筒を取った。

 

「了解しました」

 

 ベルナーは頷きもしない。それがこの人の承認の仕方だと、エドアルトはもう知っている。

 

「それから」

 

 と大尉が付け加えた。

 

「憲兵には今後も知られるな。今夜の件は、私のところで止めてある。二度目はないと思え」

 

「はい」

 

「下がれ。明朝は議会周辺の外巡察だ。寝不足の顔で来るな」

 

「失礼します」

 

 立ち上がって敬礼する。

 ベルナーも形式だけ返し、すでに別の書類へ目を落としていた。

 

 扉を閉めて廊下へ出たとき、エドアルトはようやく浅く息を吐いた。

 処分されなかった安堵よりも、いま自分が受けた命令のほうがずっと重い。

 

 次に会ったら接触を保て。

 

 まるで、その少女と再び会うことが決まっているみたいな言い方だった。

 




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