琥珀色の空すら届かない、底なしの静寂が支配する第五層。管理の網の目から漏れた「泥」が澱(よど)み、カビたような臭いが漂うその場所に、場違いな甘い香りが流れていた。
「……何の匂いだ、これは」
足を引きずるようにして歩いていた猗窩座が、不審げに鼻を鳴らす。その傍らには、彼の腕を痛ましそうに支える恋雪と、遠足にでも来たかのように軽やかな足取りの童磨がいた。
岩陰を曲がった三人が目にしたのは、燃え盛る小さな焚き火と、その前で端座する一人の男の背中だった。
「む! 来客か! 良いタイミングだ、ちょうど中まで火が通ったところだぞ!」
朗々とした声と共に振り返ったのは、煉獄杏寿郎だった。彼は、かつて第二層の最高幹部として全兵士を統率していた頃と何ら変わらぬ、陽炎のような笑顔を浮かべている。その手には、泥の熱でじっくりと焼かれた「芋」が握られていた。
「れ、煉獄……? お前、何をしている」
「見ればわかるだろう。焼き芋だ! ここの地熱は調理に最適でな、実に美味い!」
猗窩座は絶句した。かつての宿敵であり、無惨の懐刀として最も信頼されていた男が、世界の最下層で一人、芋を焼いている。そのあまりのギャップに、肩の力が抜けるのを感じた。
「……何故だ。お前なら、上の層でいくらでも贅沢ができたはずだろう」
猗窩座が問いかけると、煉獄は芋を二つに割り、立ち上る湯気の向こうから真っ直ぐに彼を見据えた。
「俺の『言葉』が無惨の下で歪められるのに耐えかねてな。あそこでは、心を燃やすことは『己を殺して歯車になれ』という意味にすり替えられてしまった。俺は、俺の言葉を、俺の魂を取り戻すためにここへ来たのだ」
煉獄は、隣に座るよう促した。促されるまま腰を下ろした猗窩座は、自嘲気味に笑う。
「……俺は、ただの落伍者だ。恋雪を守るために働いたが、気づけば規律と長時間労働の泥沼で、自分が何を守りたかったのかも忘れて暴力を振るっていた。無惨は俺を『優秀な道具』としてしか見ていなかった。……嫌気がさしたんだ」
「なるほど! 道具ではなく、一人の男として戻ってきたというわけだな! よもや君とここで芋を食うことになるとは、運命とは面白いものだ!」
煉獄が快活に笑い、恋雪に優しく焼き芋を差し出す。その様子を後ろから眺めていた童磨が、パチパチと扇を鳴らしながら割り込んだ。
「あはは! 素晴らしいね。天国よりも、地獄の反乱軍の時よりも、今が一番『人間臭い』じゃないか。俺も混ぜてよ、煉獄殿。上の層は規律ばかりで退屈すぎて死にそうだったんだ」
こうして、無惨の管理する完璧な秩序から最も遠い場所で、最も危険な「バグ」たちが一つの火を囲んだ。それは、「新世界」が産声を上げる前の、嵐の前の静けさのような時間だった。