童磨から溢れ出す虹色の霧。それに触れた瞬間、猗窩座の脳内に、自分のものではない「記憶の断片」が雪崩のように流れ込んできた。
それは、音も色も体温もない、どこまでも透き通った地獄。
誰かに触れても、誰かを殺しても、指先から実感がこぼれ落ちていく絶望。鬼たちが彼を忌み嫌い、無視して去るたびに、童磨が感じていたのは「怒り」ですらなかった。
(……寒いんだ)
凍えるような虚無の海で、童磨はただ、自分の存在を証明してくれる「反応」を求めていた。猗窩座に向けられたあの苛立たしいまでの馴れ馴れしさは、彼がこの極寒の世界で凍死しないために、必死に誰かの体温を求めて伸ばした手だったのだ。
「……お前、こんな……。こんな冷たい場所に、一人でいたのか」
猗窩座の目から、自然と涙が溢れ出した。
自分には恋雪がいた。師範がいた。憎むべき無惨がいて、戦うべき煉獄がいた。自分の心には、常に何かがあった。
だが、この男は天国の「無」よりも深い空虚の中で、微笑みながら消えかけていたのだ。
「反吐が出るほど嫌いだったが……。そんな顔で笑われたら、もう拳の振るいようがないではないか……」
猗窩座は震える手で、虹色に輝く童磨の肩を、壊れ物を扱うように抱き寄せた。
初めて、拒絶でも暴力でもなく、「他者の体温」として触れたその感触に、童磨の瞳が大きく揺れる。
「……ああ、温かいね、猗窩座殿。君の涙は、こんなに熱いんだ」
童磨が初めて零したその言葉には、虚飾も皮肉もなかった。
二人の間にあった20年、そして100年以上の確執が、虹色の霧の中で溶けて混ざり合っていく。
「和解」などという生ぬるい言葉では足りない。それは、システムから棄てられた二つの魂が、初めて「個」として互いを認め合った、新世界の産声だった。
無惨が「洗浄」を試みた第五層は、もはや存在しなかった。
そこに広がっていたのは、虹色の霧が結晶化し、見たこともない巨木や異形の獣たちが跋扈(ばっこ)する、命の熱量に満ちた未知の領域である。
童磨がその身を捧げて紡ぎ出した「無限の可能性」というキャンバスに、猗窩座が刻み込んだのは「闘争」と「生死」という名の魂の鼓動だった。
「あはは! 見てよ猗窩座殿、あの極彩色の鳥! 綺麗だねえ、次の瞬間には大蛇に喰われてしまうけれど!」
「……ああ。命を懸けて奪い合い、喰らい、繋ぐ。これこそが、俺たちが忘れていた『生』の真実だ」
二人はもはや、無惨の駒ではない。この新しき世界の理を司る、幼き神々であった。
かつて人間が闇を恐れ、同時に火の温もりに涙した原初の時代。そこにはカーストも、一貫性のない神の命令も、魂の磨耗を恐れる停滞もない。ただ「今、この瞬間を生きる」という残酷で眩い自由だけがある。
その神域の境界に、煉獄杏寿郎は立っていた。
彼はもはや剣を抜く必要も、誰かを導く必要もない。ただ、燃えるような瞳で、この生命の爆発を「観測」し続けている。
「……天国でも、地獄でもない。これこそが、魂が本来あるべき姿だ」
煉獄は、咆哮を上げる幻想種たちの群れを見つめ、満足げに微笑んだ。
「無惨。君が作り上げた砂の城は、この命の奔流には耐えられまい。秩序という名の檻に閉じ込められた魂たちが、今、この『真の自由』を求めて牙を剥き始めているぞ」
煉獄の視線の先――上層では、無惨が築き上げた20年の帝国が、下層から突き上げてくる「原初の生命力」によって、音を立てて崩壊し始めていた。