煉獄は歩みを止めず、前を見据えたまま口を開いた。その声には、かつて無限列車で聞いたような迷いのない響きがあったが、内容は救いようのない絶望に満ちていた。
「猗窩座。俺がいた場所は、君たちが羨む天国だ。そこには恒久的な平和があり、誰も傷つくことのない穏やかな時間が流れていた。だがな、それは表面を綺麗に取り繕っただけの、空虚な張りぼてだったよ」
煉獄の瞳に、かすかな侮蔑の色が宿る。
「住民たちは皆、一様に微笑んでいる。だが、その裏にあるのは地獄へ堕とされることへの異常なまでの恐怖だ。誰もが本音を殺し、外面だけを整えて生きている。そこには対立も葛藤もないが、同時に、高みを目指す情熱も、真実の言葉も存在しない」
猗窩座は息を呑んだ。戦いも痛みもない世界――それは彼が追い求めた「至高の領域」の正反対にある、停滞の沼だ。
「変化のない世界で、人は進化を止める。進化を止めた魂は、やがて思考を放棄し、緩やかな思考停止へと陥る。精神の摩耗だ。そうして自己を失い、空っぽの虚無になったものだけが、次の『資源』として転生を許される。……それが、この世界の言う魂の浄化の実態だ」
煉獄はそこでようやく足を止め、猗窩座を真っ向から見据えた。
「ここは肉体を焼く地獄だが、天国は心を腐らせる別の地獄だ。向上心も、魂の輝きも、あそこではただの不純物でしかない。俺は、魂が死んでいくのをただ眺めてはいられなかった! よもや、この地獄にこそ真実の生があると確信して降りてくるとはな!」
ハハハ、と煉獄は短く笑った。だがその笑みは、救いを見出した者のそれではなく、戦場へ向かう狂戦士のそれに近かった。
「猗窩座! 君もこの世界で使い回されるだけの部品になるのは御免だろう? ならば、この狂った理を壊すしかない!」
二人の会話を切り裂くように、背後から低く、愉悦に満ちた笑い声が響いた。
無惨だ。彼はいつの間にか二人のすぐ背後に立ち、満足げに目を細めていた。
「猗窩座。これで理解できたか? この理不尽な理を打破できるのは、地獄のただ中にあってさえ侵食を跳ね返し、個の領域を構築できる力を持つ、私だけだ。私という絶対的な指揮官がいなければ、お前たちはただ使い潰されるだけの無力な部品に過ぎない。……迷わずついてくることだ。私こそが、新たな世界の王なのだから」
無惨の言葉は、普段なら猗窩座が最も嫌う傲慢そのものだった。だが、今の彼にはそれを否定する言葉が出てこない。
脳裏に浮かぶのは、愛しい恋雪の姿だ。
彼女は今も、あの「虚無の楽園」で自分を待っている。……いや、待っているのだろうか。
自分が生前に殺害した人間の数は、あまりに多すぎる。平均的な人間に課せられる数十年、数百年の罰などでは、到底足りないほどの「罪」が自分にはある。
もし、自分が地獄で焼かれ、削られ続けている間に、恋雪の精神が摩耗してしまったら。
彼女が思考を止め、心を失い、自分という存在さえ忘れて、清らかな「無」として転生してしまったら。
――俺のいない、俺を知らない時代へ、彼女だけが行ってしまう。
それは、地獄のどんな拷問よりも恐ろしい結末だった。
「……クソが」
猗窩座は絞り出すように毒づいた。
無惨を信じているわけではない。だが、この地獄をぶち壊し、天国にいる恋雪を、彼女の心が死ぬ前に無理矢理にでも引きずり出すには、この男の力が必要だ。
「いいだろう、無惨。お前の駒になってやる。その代わり、この理を壊したあかつきには……俺が奪いたいものは、俺の好きにさせてもらうぞ」
その言葉を聞いた無惨の唇が、さらに深く、邪悪に吊り上がった。