「――ベベン」
無惨の傍らで、鳴女が琵琶を一段と高く掻き鳴らした。
その一音は地獄の理を歪ませ、足元の床が生き物のように蠢き始める。突然出現した無数の襖が口を開け、そこから覗くのは、地獄の赤黒い闇とは正反対の、眩しすぎるほどに白い光の世界――「天国」の入り口だ。
「軍を二つに分ける。黒死牟、妓夫太郎。貴様らは残存する獄卒を根絶やしにし、地獄の統治を完遂せよ」
無惨の冷徹な命が下る。
「……承知」
「ヒヒッ、任せときな……。汚ねェ番犬どもを、一匹残らず掃除してやるよォ!」
黒死牟と妓夫太郎を筆頭とした制圧部隊が、退路を断たれた獄卒たちへ牙を剥く。
一方で、鳴女の開いた空間へと真っ先に飛び込んだのは、煉獄、猗窩座、そして童磨の三名だった。
襖の先は、あまりに白かった。
雲のような地面と、どこまでも続く無機質な空。そこに住まう天人たちが、汚泥を纏った「地獄の侵入者」を排除せんと、白銀の武具を手に襲いかかる。
「不純物め、消え去れ!」
天人の一人が放つ光の矢が、童磨の肩を貫く。だが、彼は痛みなど感じぬように、真顔のままその矢を抜き取った。
「……あはは。やっぱりここ、すごく『つまらない』ね。空気に味がないんだよ」
童磨の扇がひと振りされると、清浄な空気は一瞬にして猛毒の氷晶に汚染され、襲いかかる天人たちを彫像へと変えていく。隣では、猗窩座が迷いのない拳で、天人たちの盾を粉々に粉砕していた。
「どけ。俺には捜さねばならん女(ひと)がいる!」
案内役を務める煉獄が、炎の刃で天国の分厚い「仕切り」を次々と切り裂いていく。
その先に広がっていたのは、さらに異様な光景だった。
窓一つない、真っ白な小部屋の群れ。
そこには、かつて人間だった者たちが、まるで死人のように座り込んでいた。摩耗し、感情を失い、自らの存在さえ忘却の彼方に追いやられた魂の残骸。
猗窩座は一軒の部屋の扉を、暴力的なまでに蹴破った。
そこにいたのは、今にも光に溶けて消えそうな、透き通った少女の姿。
「……恋雪」
震える声が、色を失った部屋に響く。
彼女は自分の名さえ聞き取れないのか、焦点の合わない瞳で、ただ白すぎる空を眺めていた。
煉獄は、その光景に拳を固める。
「天国での精神の摩耗に耐えられぬ者は地獄へと自ら行こうとする!しかしここはそういった者共を天人が捕まえ、収容する場所なのだ! 」
「……恋雪、恋雪……ッ!!」
駆け寄り、その細い肩を抱きしめる。かつて現世で抱きしめた時の、羽二重餅のような柔らかさも、確かな体温もない。腕の中にあるのは、今にも光の粒子となって霧散してしまいそうな、希薄で冷たい魂の残骸だった。
猗窩座の目から、溢れんばかりの涙がこぼれ落ち、恋雪の白い着物を濡らす。地獄の業火に焼かれても枯れなかった涙が、彼女の変わり果てた姿を見て、堰を切ったように溢れ出した。
だが、恋雪は応えない。猗窩座の顔を見つめ、その瞳に微かな驚愕の光が走った直後、彼女の体は糸の切れた人形のように崩れ落ち、深い昏睡へと沈んでいった。
「恋雪……!? おい、目を開けろ! 死んだのか? 魂まで、消えてしまったのか……ッ!!」