機構人と乙女たち~日光湯西川女子高校機構人部~ 作:鴨サラダ
その日の放課後、空はどこか頼りない、薄い群青色に染まっていた。
校舎の窓から差し込む斜陽は、廊下に長い影を落とし、埃の粒子を金色の砂のように煌めかせている。放課後の喧騒が遠ざかり、静まり返った廊下を歩く自分の足音だけが、耳障りなほどはっきりと響いていた。
私は、入学してからこの十日間、すっかり習慣となってしまった場所へ向かう。
校長室。
重厚な木製の扉を叩き、返事を待たずに中へ入ると、そこには案の定、書類の山に埋もれるようにして座るしょーこちゃんの姿があった。
「あ、ユウちゃん。ごめんね、もう少しで終わるから、そこで待ってて」
しょーこちゃんは顔を上げず、ペンを走らせながらそう言った。私は黙って頷き、部屋の隅にある革張りのソファに身を沈めた。
校長室という場所は、普通の生徒にとっては緊張を強いる聖域なのだろうが、私にとっては「家」の延長線上でしかない。漂う沈殿したような紙の匂いと、微かに香るしょーこちゃんの香水の匂い。それが、今の私にとって唯一、自分を偽らなくていい安息の地だった。
ふと、ポケットに差し込んだままの、あの白黒写真の感触が指先に触れた。
ガレージで見つけた、自分にそっくりの少女。
あそこにいた「機構人」は一体何なのか。なぜ、自分と同じ顔をした少女がその操縦席に座っているのか。
問いかけたい言葉は喉元まで出かかっていたけれど、仕事に没頭する翔子さんの横顔を見ていると、それを口にするのが酷く憚られた。
時計の針が刻む音が、やけに大きく聞こえる。
結局、しょーこちゃんが「お待たせ、帰りましょうか」と立ち上がったのは、窓の外が完全に夜の闇に飲み込まれた二十時過ぎのことだった。
「おつかれ、長かったね。今日は会議、大変だったの?」
「ん……まあ、ちょっとね。色々と立て込んでて」
しょーこちゃんは無理に作ったような笑顔を浮かべ、車のキーを取り出した。
校舎を出て、駐車場へと向かう。夜の山あいの空気は、昼間よりもずっと鋭く、肌を刺すように冷たい。
帰り道の車内は、エンジンの低い唸り音だけが響く静かなものだった。
いつもなら「今日、古代さんたちと何をお喋りしたの?」とか「授業はどうだった?」と、私のプライベートを抉るような質問を浴びせてくるしょーこちゃんも、今夜はハンドルを握る手に力が入り、どこか遠くを見つめているようだった。
私は助手席で深くシートに沈み込み、寝たふりをした。
こうしていれば、余計な言葉を交わさずに済む。
けれど、閉じた瞼の裏側には、あの片膝をついて沈黙する鉄の巨躯が、何度も何度も浮かんでは消えた。
家に着くと、しょーこちゃんは着替える間もなくキッチンへ立ち、手際よくエプロンを締めた。
今夜の献立は、冷蔵庫の残り物で作るソース焼きそばだ。キャベツを切るトントンという規則正しい音が、いつもの日常を繋ぎ止めているようで少しだけ安心する。
私は自分の役割として、洗濯物を取り込み、リビングで一枚ずつ丁寧に畳み始めた。
「さ、できたわよ。冷めないうちに食べちゃいましょう」
大皿に盛られた焼きそばをテーブルの真ん中に置き、私たちは向かい合って席についた。
立ち上る湯気とソースの焦げた匂い。テレビの音。
そんな穏やかな夕食の最中、しょーこちゃんが不意に私を見た。
「ねえ、ユウちゃん。今日、どうだった?」
やはり、その質問からは逃げられないらしい。私は箸を動かしたまま、なるべく抑揚のない声で答えた。
「……普通だよ。いつも通り」
「そ、そう? あ、そうそう。数学の徳川先生が褒めてたわよ。小テスト、余裕の満点だったんですってね! 校長室まで自慢しに来たわよ」
「あんなの、授業を聞いてれば誰でもできるよ。……古代たちと一緒にいる、真田……だっけ? あの子も満点だったし」
しょーこちゃんは「それでも自分の姪が褒められるのは嬉しいわ」と、どこか芝居がかった調子で笑った。
けれど、その瞳の奥には、拭いきれない疲れと焦りが隠れているのを、私は見逃さなかった。
私は箸を置いた。
心臓が、自分でも驚くほど激しく鼓動し始めている。
今、ここで言わなければならない。あのガレージで感じた、あの奇妙な「重力」の正体を知るために。
「ねえ、しょーこちゃん」
「ん? なぁに、おかわり?」
「……この学校の裏山のほうに、使ってない場所あるよね。めちゃくちゃでかいグラウンドみたいなところ」
しょーこちゃんの手が、目に見えて止まった。
口元に運びかけていた箸が、皿の上で宙に浮いている。
部屋の空気が、瞬時にして氷点下まで下がったような錯覚に陥った。
「でっかい倉庫…みたいなのがあってさ。……あの中に、大きい機械があった。あれ……機構人だよね?」
数秒、あるいは数十秒。
私たちの間に、耐え難いほどの沈黙が落ちた。
しょーこちゃんは、ゆっくりと、震えるような手つきで箸を置いた。カツン、という小さな乾いた音が、静かなリビングに不気味に響く。
「……そっか。見つけちゃったのね」
しょーこちゃんの声は、低く、湿り気を帯びていた。
それは、隠し通せなかったことへの諦めなのか、それとも。
彼女は顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。けれど、その瞳は私を見ているようでいて、もっと別の、ここにはいない誰かを見ているようだった。
「そこには……あまり、近づかないほうがいいわ」
理由は語られなかった。
ただ、その一言に込められた拒絶の意志は、どんな長文の説明よりも重く私にのしかかった。
「気づかれないまま卒業までいけるかなって思ったんだけど……。やっぱり、血は争えないのかしらね」
しょーこちゃんは自嘲気味に笑い、それから深く、深く溜め息をついた。
その表情には、私が今まで見たことがないほどの深い「痛み」が刻まれていた。
「いい、ユウちゃん。あの場所はね、この学校にとって……いえ、私たち家族にとって、触れてはいけない『傷跡』なの」
「傷跡……?」
「そう。だから、もう二度と近づかないで。校長として、そしてあなたの保護者として、これは命令よ」
命令。
普段の彼女からは想像もつかない、冷徹な響き。
私はそれ以上、言葉を継ぐことができなかった。
彼女の拒絶は、それほどまでに絶対的で、そして痛々しかった。
夕食は、そのまま通夜のような沈黙の中に沈んでいった。
焼きそばの熱気はいつの間にか消え失せ、冷めた麺が皿の上で固まっていく。
翔子さんは何も言わずに席を立ち、食器を片付け始めた。
キッチンの水音に紛れて、彼女が誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いたのを、私は確かに聞いた。
「……姉さん、母さん…どうして……」
母と、あのガレージに眠る機構人。そして写真の少女。
すべての断片が、私の中で一つの恐ろしい形を成そうとしていた。
私は逃げるように自分の部屋へ戻り、ベッドに倒れ込んだ。
窓の外では、夜の山がすべてを飲み込むように黒々と沈んでいる。
遠くで風の唸る音が、あの機構人の低い重低音のように聞こえて、私は耳を塞いだ。
近づくなと言われれば言われるほど、あの鋼鉄の感触が、油の匂いが、私を呼んでいるような気がしてならない。
「沈黙」が、音を立てて私の心に降り積もっていく。
その夜、私は、私の知らない誰かがコクピットから降りられないまま、真っ赤な炎に包まれる…そんな夢を見た。
翌朝、私たちの間に会話はなかった。
しょーこちゃんはいつもより三十分早く家を出て、私は独りで登校した。
学校に着くと、教室の空気は昨日までとは一変していた。
誰もがスマホの画面を食い入るように見つめ、不安げな表情で囁き合っている。
美雪も、咲も、そして志保までもが、重苦しい表情で一つのニュースを見ていた。
「……統廃合、だって」
美雪が絞り出すような声で言った。
私の物語は、私の意志など置き去りにして、加速していく。
あの鉄の塊が、再び動き出す理由を求めて。