機構人と乙女たち~日光湯西川女子高校機構人部~ 作:鴨サラダ
その朝、空気は前日までとは明らかに違っていた。
空はどんよりとした雲に覆われ、春の麗らかさはどこかへ消え失せている。日光湯西川の山々は深く霧に煙り、校舎全体が巨大な灰色の怪物に飲み込まれたかのように沈み込んでいた。
職員室の空気は、それ以上に冷え切っていた。
普段は生徒たちの成績や行事の相談で騒がしいはずの場所が、今はただ、重苦しい静寂と、時折漏れる教師たちの荒い呼吸音だけに支配されている。
「……政府からの、正式な通達です」
中央の長机に置かれた一通の封筒。
スーツを無機質に着こなした政府の職員が、感情の欠落した声で告げた。
翔子はその封筒を見つめたまま、微動だにしない。彼女の指先が、机の端を白くなるほど強く握りしめているのが、誰から見てもはっきりと分かった。
封筒の中から取り出された書類には、あまりに簡潔で、それゆえに暴力的な文言が並んでいた。
『機構人技術教育導入義務化 対応不備校は統廃合対象とする』
それは紙という形態を借りた、死刑宣告に近い。
近年、深刻な人手不足に陥っている日本の機構人産業を支えるため、政府は高等学校レベルからの強制的な人員育成に踏み切ったのだ。実績のない、あるいは設備を整えられない弱小校を切り捨て、リソースを集中させる。
この日光湯西川女子高校は、真っ先に「切り捨てられる側」のリストに載っていた。
「……期限は」
「半年以内です。それまでに、競技連盟への登録、機体の確保、そして最低一回の公式評価試合を行うこと。それが叶わぬ場合は、来年度の募集停止、および近隣校への吸収合併となります」
短い返答。事務的な宣告。
職員室のあちこちから、「そんな馬鹿な」「半年でなんて無理だ」「うちはもう機構人なんて……」と、悲鳴に近い声が上がる。
けれど、黒縁眼鏡をクイと押し上げた職員は、それ以上の言葉は不要とばかりに、冷たく踵を返した。
職員が去った後も、翔子はしばらく席を立てなかった。
椅子に深く沈み込み、一点を見つめる彼女の背中は、いつもよりずっと小さく見えた。
「……校長、私たち、どうなるんですか?」
誰かの震える問いかけにも、彼女は答えられなかった。
校長として学校を守る責任と、一人の女性として「あの鉄の塊」を拒絶したいという私情。その二つの巨大な力が、彼女の中で悲鳴を上げていた。
◆
その日。
校内にはすでに不穏な噂が広まっていた。
昼休みの喧騒は、どこか焦りを含んだざわめきへと変わっている。
「ねえ、ニュース見た? うちらの学校、なくなっちゃうかもしれないんだって……」
「マジで? せっかく入学したばっかりなのに、ひどくない?」
廊下ですれ違う生徒たちの顔は一様に暗い。
私は独り、教室の隅の自分の席で息を潜めていた。
けれど、そこにも「彼女たち」はやってくる。
「祐奈! 祐奈も聞いたでしょ、今日のニュース!」
美雪が、いつになく真剣な、それでいて縋るような表情で私の前に現れた。
後ろには、心配そうに眉を下げた咲と、いつもの専門書を閉じて眉間に皺を寄せた志保が並んでいる。
「……聞いた。学校がなくなるかもしれないって話でしょ」
「そうだよ! どうにかならないのかな? 祐奈の叔母さん……校長先生なんだよね? 何か言ってなかった?」
美雪の声が上ずっている。活発な彼女がここまで余裕を失っている姿を見るのは、初めてだった。
「……さー何も。ただ、忙しそうだっただけ」
「そんな……」
咲が、力なく呟く。
志保は、眼鏡のブリッジを押し上げながら、低い声で言った。
「理屈は簡単だ。機構人を導入し、競技に参加する意志を示せばいい。だが、この学校にそんな予算はない。素体一台を用意するだけで、今の物価高では地方の弱小校なら予算が吹き飛ぶ。……詰んでいるんだ、実質的には」
志保の冷徹な分析が、さらに空気を重くする。
私は何も言えなかった。カバンの中に隠した、あの白黒写真の感触が、熱を持ったように重く感じられる。
裏山のガレージ。そこに眠る、あの機体。
あれを使えば、学校は救われるのだろうか。
けれど、昨夜のしょーこちゃんの、あの悲痛な表情を思い出すと、言葉が喉の奥でつかえて出てこない。
私は逃げるように立ち上がり、教室を後にした。
向かった先は、校長室だ。
扉の前に立つと、中から微かな声が聞こえてきた。
私は無作法だとは思いつつも、ノックをせずに扉をわずかに開けた。
そこには、机に両肘をつき、頭を抱えるしょーこちゃんの姿があった。
机の上には、散乱した資料。
『機構人導入計画案』『予算試算表』……そして、束ねられた古い資料の隙間から見えたのは、裏山のガレージの間取り図だった。
「……国も、簡単に言ってくれちゃって。今さら、どうすればいいのよ……」
絞り出したような声。
彼女は、かつてないほどに追い詰められていた。
その時、やっと私の足音がしょーこちゃんに届いた。
しょーこちゃんは弾かれたように顔を上げ、大慌てで机の上の資料を両手で隠した。
「…ッ…ユウちゃん。どうしたの、こんな時間に」
努めて冷静を装おうとしているが、その声は微かに震え、瞳には涙の膜が張っていた。
「……しょーこちゃん。学校、なくなるの?」
私の問いかけに、しょーこちゃんは息を呑んだ。
沈黙が長く、重く、校長室を満たしていく。
沈黙が長ければ長いほど、それが肯定であることを、私は知っている。
「……まだ、決まったわけじゃないわ」
そう言いながらも、しょーこちゃんは視線を逸らした。
その顔には、絶望と、強烈な葛藤が刻まれていた。
「新しいのが買えないならさ。……あの機構人を使えばいいんじゃないの?」
私の何気ない一言。
それが、しょーこちゃんを限界まで追い詰めていた「何か」を決壊させた。
「簡単に……言わないで!」
しょーこちゃんの珍しい鋭い叫びが、部屋中に響いた。
私は思わず肩を竦める。
しょーこちゃんは、すぐに自分の失態に気づいたように口を抑え、座り直した。
「ごめんなさい……。でも、ユウちゃん。あれだけは、ダメなの。あれを動かすことだけは……絶対に、許されないのよ」
机の下で、彼女の手がぎゅっと握られている。
「お母さんが亡くなったから?」
私が核心を突くと、しょーこちゃんは幽霊でも見たかのような顔で私を凝視した。
「……っ…」
もはや、隠し事は不可能だった。
「祐奈。あなたは、何も知らなくていいの。あなたはただ、普通の高校生として、平和に過ごしてくれれば……。それが、私の……姉さんとの、約束だったのに……」
しょーこちゃんは顔を覆い、泣き崩れた。
校長室の大きな窓の外では、風が木々を激しく揺らしている。
その音は、まるで地下で眠る巨人が、目覚めの産声を上げようともがいている咆哮のように聞こえた。
私は、泣き続ける叔母を前にして、ただ立ち尽くしていた。
けれど、私の心の中では、自分でも驚くほど冷徹な決意が芽生え始めていた。
学校がなくなる。居場所がなくなる。
そして、何より、私の目の前で、たった一人の家族が壊れようとしている。
――だったら、やることは一つしかないじゃない。
カバンの中の写真の少女が、私を嘲笑っているような気がした。
物語は、私の平穏な日常を容赦なく踏み潰し、鋼鉄の轍を描きながら進んでいく。
会話の終わりを告げるように、遠くで放課後の予鈴が鳴り響いた。
それは、私の平穏な時間が、完全に終焉を迎えた合図だった。