機構人と乙女たち~日光湯西川女子高校機構人部~ 作:鴨サラダ
その日の夕方、校長室に届いた一通の封書は、私立日光湯西川女子高校の平穏な終焉を告げる、あまりに無機質な凶器だった。
混じりけのない白。簡潔すぎる印字。
そこには、これまで翔子が必死に隠し、繋ぎ止めてきた学校の未来を、根底から覆す最後通牒が記されていた。
《機構人運用意思確認、および技術評価試合(エキシビション)実施通達》
翔子は、校長室の重厚なデスクにその紙を置いたまま、微動だにできなかった。
窓から差し込む斜陽が、彼女の端正な横顔を深く、鋭く切り取っている。その瞳には、かつてないほどの疲労と、拭いきれない絶望の色が濃く沈んでいた。
「……一ヶ月。一ヶ月以内に、回答と試合の実施ですって……!?」
中の文面は、事務的ゆえの残酷さに満ちていた。
『本校が機構人技術教育の継続を希望する場合、初期評価として「練習試合」を実施する。対戦相手は競技連盟が選定し、期日までに準備が整わぬ場合は、即座に統廃合プロセスへと移行する』。
「半年という話はどうなったのよ……! 無茶苦茶だわ、こんなの!」
彼女は力なく椅子に座り込み、机を拳で叩いた。
机の上には、整理しきれないままの資料が、まるで断末魔の叫びを上げているかのように散乱している。
『予算試算表』『教育課程変更案』……。そして、その下に埋もれるようにして置かれた、あの裏山のガレージに眠る旧式機体――『日光丸』の古い図面。
現在、政府の急激な方針転換により、全国の高校が「駆け込み」で機構人の素体発注をかけている。市場の在庫は完全に枯渇し、納期は最短でも一年。潤沢な予算を持つ有名校ならまだしも、この山あいの小さな女子高に、わずか一ヶ月で機体を用意する術など存在しない。
唯一の、そしてあまりに絶望的な「希望」は、あの場所で埃を被っている、血塗られた骨董品だけだった。
「……やるしかない、のかしら。でも、誰が……。あんな機体を動かせる人間なんて、今さらどこに……」
翔子は天井を仰ぎ、声を殺して唸った。
頭をよぎるのは、亡き姉・凛子の顔。そして、その娘である祐奈の、冷めているようでいて危うい瞳。
彼女を巻き込みたくない。けれど、学校を、ここに通う生徒たちの未来を守らなければならない。その二つの巨大な義務が、彼女の心を悲鳴を上げさせながら引き裂いていた。
その時だった。
扉の向こう側で、微かな足音がした。
ノックの音さえ待たず、校長室の重厚な扉が、静かに、けれど拒みようのない確信を持って開かれた。
◆◆◆
「しょーこちゃ……じゃなかった。校長せんせー失礼しまーす」
カバンを肩にかけ、スカートを少し揺らしながら入ってきた私の姿を見て、しょーこちゃんの表情が強張った。彼女は反射的に、机の上の資料をガバッと両手で隠そうとしたが、もう遅かった。
「……。どうしたの、今日遅くなるから先に帰ってって――」
「隠さなくていいよ。……もう、全部知ってるから」
私は迷うことなく歩みを進め、校長室の巨大なデスクを挟んで、校長…しょーこちゃんと正面から向き合った。
しょーこちゃんの心臓の音が、こちらの鼓動とシンクロしているかのように激しく打っているのが伝わってくる。
「……どういう、意味?」
「学校、なくなるんでしょ? あの鉄の塊を動かして、試合をして……認められない限り。ニュースでも、教室でも、みんなその話でもちきりだよ。私だけ知らないフリしてるのは、もう無理」
しょーこちゃんは答えなかった。答えられなかった。
ただ、隠していた資料を握りしめる手に、さらに力がこもる。
「あの機構人。……私が、乗るよ」
その一言。
わずか数秒の沈黙の後、しょーこちゃんは弾かれたように立ち上がった。
「……ダメよ。何を言っているの?」
「ダメじゃない。他に方法、ないんでしょ?」
「あるわよ! 機体なんて、中古を何とか工面して、経験者を外部から呼んで――」
「そんな予算も時間もない。それは、しょーこちゃんが一番分かってるはずだよ。一ヶ月で何ができるっていうの? 外部のパイロットが、あんなボロに乗ってくれるわけないじゃん」
私の言葉は、鋭いメスのように、しょーこちゃんが必死に築き上げてきた防壁を切り裂いていく。
私はカバンのポケットから、あの白黒写真を取り出し、デスクの上に置いた。
「この写真のおばあちゃんの顔見てよ、不機嫌そうな顔。……私にそっくりだよ。なら、私にもできるはず。血がそう言ってる気がするんだよね。理屈じゃなくて、もっと嫌な感じの確信なんだけどさ」
しょーこちゃんは、写真の中のおばあちゃんの瞳と、今の私の瞳を交互に見た。
驚くほど似ている。意志の強さも、どこか世の中を見限ったような冷めた光も。
「……向いてないわ。あなたは、こういうことに一番向いてない。……危なすぎるのよ。母さんも、姉さんも……みんな、あの鉄の塊に呑み込まれた。……祐奈、あなたまで失ったら、私は……!」
しょーこちゃんの声は悲鳴に近かった。
けれど、私は一歩も引かなかった。
「私はさ、今までずっと、何に対しても本気になれなかった。学校も、友達も、将来も……。どうせ、いつかは終わるものだって、どこかで冷めてた。期待しなきゃ、傷つかないから」
私は窓の外、闇に沈み始めた裏山のシルエットを見据えた。
「でも、あの機体を見た時、初めて思ったんだ。……ああ、これは『私』だって。誰にも必要とされずに、暗闇の中で独りで眠ってる、あの鉄の塊。……あれを動かせるのは、たぶん今、この学校で私だけだよ。あの子が私を呼んだんだ。昨日、ガレージでね」
根拠なんてない。ただの、傲慢な予感。
けれど、その予感こそが、今の私を支える唯一の骨組みだった。
「私が乗れば、学校は潰れない。……そうでしょ?」
しょーこちゃんは崩れ落ちるように椅子に座り直した。
その瞳には、抗いがたい運命への絶望と、私に対する――初めて一人の人間として認めたかのような――複雑な光が混じっていた。
「……本当に、姉さんにそっくりね。頑固で、一度言い出したら聞かなくて……」
彼女は天井を仰ぎ、長く、深い溜め息をついた。
その溜め息は、長く続いた彼女の「孤独な戦い」の終わりを告げる音だったのかもしれない。
「……分かったわ。ただし、一つだけ約束して」
「約束?」
「無理はしないこと。機体に異常を感じたら、すぐに降りる。……何があっても、あなたの命が一番なの。学校よりも、私のプライドよりも」
しょーこちゃんの言葉に、私は小さく頷いた。
「わかったよ」という返事は、どこか上の空だったが、その瞳はすでにここではない場所、あのガレージの暗闇を見据えていた。
「明日から、機体の点検に入るわ。古い機体よ、動くかどうかもわからない……。それに、パイロットだけじゃダメ。機体を整備し、数値を管理する人間が必要よ。……祐奈、あなた一人じゃ無理だわ」
「……分かってる」
しょーこちゃんは再び、書類を整理し始めた。その手つきには、先ほどまでの迷いは消え、冷徹な「理事長」としての決意が戻っていた。
「祐奈」
「……なあに」
「……ありがとう。でも、ごめんなさい」
その矛盾した言葉の意味を、私は深く考えなかった。
校長室を出ると、廊下はもう完全に夜の闇に包まれていた。
教室の方向からは、居残って噂話に花を咲かせる生徒たちの微かな声が聞こえる。美雪や咲たちの笑い声も、その中にあるのかもしれない。
けれど、今の私にとって、その日常はひどく遠い場所の出来事のように感じられた。
自分は、あの鉄の巨獣と共に、別の道を行く。
その道がどこへ続いているのか、それが幸福なのか破滅なのかはわからない。
カバンの中の写真をそっと撫でる。
写真の中の少女は、相変わらず不機嫌そうな顔をしていた。
「さぁて、と……後戻りはできないもんね」
独り言のように呟いた言葉は、誰にも届かなかった。
けれど、私の胸の奥では、名もなき決意が、鋼のような冷たさと確信を持って、根を張り始めていた。
物語の歯車が、今、完全に噛み合った。
一人の少女と、一機の鋼鉄の巨人が、日光湯西川の霧の中で再び巡り合う。
夜が明ければ、すべてが変わり始める。
私は一度も後ろを振り返ることなく、暗い廊下を歩き去った。
百合書きたい。
大学生くらいのお姉様と高校生くらいの百合。
わかるかい?わかれ。