名探偵はまだ闇の帝王を知らない 作:大根おろし
工藤新一は、死ぬ瞬間まで、自分が死ぬとは思っていなかった。
黒ずくめの男たちを追っていた。遊園地で怪しい取引現場を見たからだ。証拠を押さえようとして、背後に気配を感じたときには遅かった。鈍い衝撃が後頭部を叩き、視界が傾く。地面に手をつく間もなく、誰かが冷たい声で何かを言った。
「生きていても面倒だ」
無理やりこじ開けられた唇の隙間から、喉の奥へ何かが流し込まれる。薬品めいた苦味が焼きつくように広がった。
意識が沈んでいく。
遠のく視界の端で、街灯の光だけがやけに白かった。
くそ、こんなところで──。
そこで、工藤新一の時間は一度、途切れた。
*
ベッドで目覚めたときに、前世の記憶を思い出した。工藤新一という日本の高校生だった記憶だ。
頭が混乱して自分がどこにいるのか、誰なのか分からなくなる。
薄く黄ばんだ天井に、雨染みがある。窓の外は灰色で、ガラス越しにロンドンらしい湿った光がにじんでいた。鼻につくのは消毒液の匂いではなく、石鹸と煮込みと石炭の混ざった匂いだ。
何よりおかしかったのは、手だった。
布団の上に出した自分の手が、あまりにも小さい。細くて、白くて、子供の手だった。
「……は?」
声まで高い。喉を押さえ、飛び起きようとして、体が思ったよりずっと軽いことにまた混乱した。
そのとき、部屋のドアが開いた。
「あら、起きたのね」
入ってきたのは、痩せぎすの中年女性だった。きっちりまとめた髪に、古びたエプロン。厳しそうな顔つきだが、目元にだけ疲れたやさしさが残っている。 話している言語はロンドン訛りの英語だった。
「三日も熱を出したんだから、もう少し寝ていなさい、コナン」
「……コナン?」
女性は眉をひそめた。
「そうよ、コナン。コナン・ホームズ。自分の名前くらい忘れないでちょうだい」
工藤新一は、いや、コナンは、しばらく口を開けたまま固まった。
コナン・ホームズ?
なんだその、悪ふざけみたいな名前は。
「ここは……」
「ウール孤児院よ。まったく、熱って嫌ねえ。七歳の子が急に哲学者みたいな顔をするんだから」
女性──コール院長は、額に手を当てて熱が下がっていることを確かめると、ふうと息をついた。
「お腹がすいたなら、下でスープくらいはもらえるわ」
「……俺は」
「妙な子ね」
さらっと言われて傷つきそうになったが、それどころではなかった。
ウール孤児院。
ロンドン訛りの英語。
七歳。
どう考えてもおかしい。夢にしては感触が生々しすぎる。頬をつねると痛い。窓の外の雨音も、廊下を走る子供たちの足音も、現実そのものだった。
「……なんで、ホームズ?」
「は?」
「なんで、俺の名前、コナン・ホームズなんですか。ひょっとして、親戚にシャーロック・ホームズって人いませんか?」
コール院長は一瞬ぽかんとしたあと、なぜか少しだけ得意そうな顔になった。
「いい名前でしょう、私がつけたのよ」
いや、名付けた本人がそういう顔をするな。
「あなたね、赤ん坊のころから不思議だったのよ。泣き止まないくせに、シャーロック・ホームズの本を読んで聞かせると急におとなしくなるの」
「……は?」
「うちに寄付で入ってきた古い本があってね。『緋色の研究』だの『四つの署名』だの。ほかの子はすぐ飽きるのに、あなただけじっと聞いてたのよ。それで、ホームズにちなんだ名前にしたの」
工藤新一は言葉を失った。
意味がわからない。だが、妙な納得もあった。前世の記憶がいつ戻ったのかは曖昧だが、少なくともこの体の中には、ずっと“事件”や“推理”に惹かれる何かがあったのかもしれない。
「院長先生……シャーロック・ホームズ、好きなんですか」
「好き、なんてものじゃないわ。あれは人生の教養よ」
きっぱり言い切られた。
どうやら本物のシャーロキアンらしい。
「院長せんせー、いい名前をつけてくれてありがとう!」
少し子どもぶってそう言うと、コール院長は少し目を丸くし、それから吹き出した。
「ほんとに熱で頭が変になったんじゃないでしょうね」 「バーロー……」
「何か言った?」
「なんでもない」
口をついて出た前世の癖に、自分で少しだけ安心した。 どうやら、工藤新一は完全には消えていないらしい。
ウール孤児院は、寒くて、古くて、思ったよりずっと騒がしかった。
食堂には薄い粥の匂いが漂い、階段はきしみ、窓の桟には細かい埃がたまっている。子供たちはみな痩せていて、けれど目だけは妙に鋭かった。物の少ない場所では、子供だって早く大人びる。
事件は、その日の午後に起きた。
コール院長の部屋から、銀のブローチがなくなったのだ。
それは小ぶりな古い品で、虫眼鏡を模した奇妙なデザインをしていた。コール院長いわく「安物だけど、いちばん気に入ってる」のだという。孤児院の子供たちからすれば、そんなもの一つで大騒ぎするのかと思わなくもないが、物の少ない場所では、小さな私物ほど大事なのだろう。
子供たちは一列に並ばされ、順番にポケットを確かめられた。
「最後に院長先生の部屋の前にいたの、トムだよ」
誰かが言った。
「見た。階段のところにいた」
「いつも変だもん、あいつ」
「前もビリーのヨーヨーなくなったし」
ざわざわと、子供たちの視線が一斉に黒髪の少年に集まる。
トムは壁際に立ったまま、何も言わなかった。
言い返さない。怒りもしない。泣きもしない。
ただ、冷たい目で周囲を見返している。
その沈黙が、余計に彼を“犯人らしく”見せていた。
「トム、あなた、本当に知らないの」
コール院長が低い声で問う。
「知りません」
返ってきた声は平坦だった。
怯えも、媚びもない。
「でも、あんた院長室の前にいた!」
赤毛の少年が叫ぶ。
「見たんだよ!」
「いただろうね。廊下はみんな通る」
トムが言い返すと、その口調が生意気だと言わんばかりに空気がさらに険しくなった。
コナンは列の後ろから、そのやりとりを見ていた。
正直、かなり怪しい。
だが、だからといって犯人とは限らない。
むしろ、ここまで“怪しいやつ”があっさり犯人扱いされる状況は、探偵としては警戒すべきだ。人は疑いたい相手を見つけると、証拠を雑に扱う。
コナンはそっと視線を巡らせた。
院長室の扉。真鍮のノブ。廊下の赤茶けた絨毯。階段下の籠。壁際のコート掛け。子供たちの靴。手。袖。
そして、ふと足元にしゃがみこんだ。
絨毯の端に、細い青い糸が引っかかっている。
青い糸?
この孤児院でそんな鮮やかな色は珍しい。
コナンは顔を上げ、列の中を見た。ほとんどがくすんだ灰色や茶色の服だ。その中で、ひとりだけ、小さな女の子が腕に抱えている古びた人形に青い毛糸のマフラーが巻かれていた。
エルシー。たしか五歳くらいの子だ。
人形を抱く手が、少しだけ強い。
「院長先生」
コナンは手を上げた。
「なに、コナン。今は──」
「トムじゃないよ」
食堂よりも静かになった。
赤毛の少年が鼻で笑う。
「なんでわかるんだよ」
「だって、これ」
コナンは絨毯から青い糸をつまみ上げた。
「院長室の前に落ちてた。トムの服にはこんな糸、ついてない」
「糸くらい、誰でも──」
「それだけじゃない」
コナンはことことと歩いて、コール院長の部屋の前まで行った。背伸びして真鍮のドアノブを見せる。
「ここ、少し曲がってる」
大人にはわからない程度だが、低い位置から見ると、金具の先端がわずかに外向きに反っていた。
「ブローチの針を無理に引っかけたんだ。大人の手なら外せるけど、小さい子だと難しい。だから、ぐいっとやって、ここに引っかかった」
コール院長が目を細める。
「それで?」
「トムは取ってない。だってトムぐらいの年齢なら、こんな下手な取り方はしない」
言ってから、トム本人をちらりと見る。
少年は面白そうに片眉を上げた。
「……ずいぶんな言い草だね。同い年なのに」
「バーロー。褒めてんだよ」
くすり、と誰かが吹き出した。張りつめた空気がわずかに緩む。
コナンはエルシーの前にしゃがみこんだ。
「エルシー、そのお人形見せて」
小さな女の子はびくっとして、首を横に振った。
「や」
「大丈夫。怒られないようにしてやるから」
そう言っても、エルシーはますます人形を抱きしめる。その動きで、青い毛糸のマフラーの下から、銀色がちらりと覗いた。
無理やり取るわけにもいかないしな。
コナンが悩んでいると、隣の本が突然落ちて、人形も一緒になって床にころがる。
赤毛の少年が「あっ」と声を上げた。
コール院長がゆっくり人形を拾い、マフラーをほどく。胸のところに、無理やり縫い付けられた銀のブローチがあった。歪んだ針には青い毛糸が絡んでいる。
「エルシー」
コール院長の声は厳しかったが、怒鳴りはしなかった。
エルシーは今にも泣きそうな顔で、ぽつりと言った。
「おにんぎょうに……きれいだと、おもって、ちょっとこわしちゃって」
「返さなきゃだめでしょう」
「……ごめんなさい」
しんとした沈黙のあと、コール院長は長く息をついた。
「今回は返してもらうだけにします。次はだめよ」
エルシーはこくこくと何度も頷いた。
それで事件は終わった。
少なくとも、表向きは。
夕方、子供たちが夕食の支度でばたつく中、コナンは廊下の窓辺でひとり座っていた。
ロンドンの空は相変わらず鉛色で、窓ガラスには細かな雨粒がついている。事件を解いた達成感よりも、妙な疲労の方が大きかった。死んで、転生して、初日に事件解決。自分の人生ながら落ち着きがない。
「君、変わってるよね」
声がして顔を上げると、トム・リドルがいた。
気配が薄い。足音もほとんどしなかった。
コナンは窓枠に肘をついたまま、じっと相手を見る。
「みんな、僕を疑ってたのに」
「証拠が違うって言ってただけだ。庇ったわけじゃねえよ」
「それでも同じことだよ」
トムは窓辺に寄りかかり、雨の向こうを見た。
「普通は、怪しい方を犯人にしたがる。君はそうしなかった」
「探偵がそれやったら終わりだろ」
「探偵?」
「……なんでもない」
しまった、と思ったが、トムはむしろ興味深そうにこちらを見た。
「おもしろい言い方をするね。ホームズだから?」
「推理して犯人を見つける方に決まってるだろ」
トムは少しだけ笑った。
初めて、子供らしい顔に見えた。ほんの一瞬だけ。
「ありがとう」
「礼を言われるほどじゃない」
「いや。礼は言うよ」
そこで言葉が切れる。
けれど、トムは去らなかった。何かを確かめるように、じっとコナンの指先を見ている。
「……なに」
「さっき」
トムが静かに言った。
「本がひとりでに落ちたように見えた」
コナンは思い返す。
人形の横にあった本のことだろうか。
たしかにあの本はいいタイミングで落ちた。
「見間違いだろ」
「そうかな」
トムは首を傾げた。
「僕は見間違えない」
そう言ったあと、彼は自分の足元に落ちていた木片に視線を落とした。
次の瞬間、その木片が、誰にも触れられていないのに、からりと転がった。
コナンは息をのむ。
トムは満足そうでも、自慢げでもなく、ただ事実を確かめるようにそれを見ていた。
「君は僕と同じだ」
窓の外で、雨が少し強くなった。
工藤新一だった記憶が告げている。
これは手品じゃない。偶然でもない。説明のつかない何かだ。
そして目の前の少年は、それを当然のように受け入れている。
「……同じ、ね」
コナンは小さく息を吐いた。
「そりゃどうだか」
トムはくすりと笑う。
「じゃあ、確かめていけばいい」
「何を」
「君が何者か。僕が何者か」
その言い方が、妙に気に障った。
けれど同時に、少しだけ胸が躍ったのも事実だった。
目の前のこいつは危ない。
そう、本能が告げている。
それでも。
誰も信じないこの場所で、たったひとり自分の“おかしさ”を見つけた相手がいるという事実は、七歳の小さな体には思ったよりも大きかった。
「……友達いねえだろ、お前」
「いないね」
「だろうな」
「君もだろう」
「うるせえ」
トムがまた笑った。
今度は少しだけ、さっきより自然に。
「じゃあ、友達になろうか、ホームズ君」
「含みを持たせるな」
「だって、ぴったりじゃないか」
「勝手に決めるな」
言い返しながらも、胸のどこかでその名が少しだけしっくりきている自分に気づいて、コナンは内心で舌打ちした。
窓の外、灰色のロンドンに雨が降り始める。
古い孤児院の廊下には、まだ夕食の匂いと子供たちの笑い声が漂っていた。
このときのコナンは、まだ知らない。
目の前の少年が、いつか多くの人間に恐れられる闇の帝王になることを。
いまはただ、ウール孤児院の窓辺で、二人の七歳が並んでいただけだった。
突然思いついて書いてみました。