名探偵はまだ闇の帝王を知らない 作:大根おろし
ウール孤児院の子どもたちはセント・バーソロミュー初等学校というところにに通っていた。
セント・バーソロミュー初等学校の授業はコナンにとってひどく退屈だった。
子どもに合わせた足し算や綴りを、工藤新一の記憶を持つ頭で聞いているのだから当然だ。それが英語でも何も変わらなかった。退屈を隠しきれずに先のページや授業に関係ない本を読んでは教師に注意され、そのたびに隣の席のトム・リドルが小さく笑った。
「退屈をしのぐのが下手だね」
「うるせえ。お前はうますぎるんだよ」
学校でのトムは、孤児院にいる時以上に静かで孤立していた。成績はよく、字も綺麗で、教師の前では模範的な生徒の顔をしている。授業中にサボることもない。けれど大人たちは、彼を褒めながらもどこか気味悪がっていた。
その理由は、コナンにも少し分かった。
トムは子供らしくなかった。
そして、それはたぶん自分も同じだった。
不思議とコナンはトムと過ごすことが多くなっていた。
「授業なんて何も分からない子どもだけがやってればいいのにね」
トムの発言にどきりとしなからもコナンは曖昧に頷いた。トムの目がじっとコナンの反応を確かめるように覗き込んでいる。
たまにこいつ気づいてるんじゃないかと思うんだよな。
コナンはトムの見透かすような目が少し苦手だった。
休み時間、コナンはトムを連れて図書室へ向かった。小さな部屋だった。古い紙と埃の匂いがして、壁際には本棚が並んでいる。
「何を探しているの?」
図書係のハーパー先生が聞いた。
「シャーロック・ホームズの本はありますか」
先生は少し驚いた顔をして、それから古びた合本を一冊出してくれた。
「大事に読むのよ。古い本だから」
背表紙は傷んでいたが、文字は読めた。
シャーロック・ホームズ。
コナンは思わず目を輝かせた。
「ただの古い本だよね」
トムが横から覗き込む。
「ただの本じゃねえよ。シャーロック・ホームズだぞ」
「違いが分からないな」
「お前、今かなり危ないこと言ったぞ」
ハーパー先生は苦笑し、机の上の小箱を開けた。中には、青いガラス石のついた銀の栞が入っていた。
「読書感想文の一等賞に渡す賞品よ。値打ちはないけれど、この学校では大事なものなの」
その時、図書室にリード先生が入ってきた。副担任だ。
「また帳簿ですか、ハーパー先生」
彼の声は穏やかだったが、目は笑っていなかった。
「寄付金の記録に、確認したい点があります」
「校長先生に任せればいいでしょう」
「本の購入費に関わることです。図書係として、確認しておきます」
短いやりとりだった。
けれどコナンは、リード先生の笑顔に引っかかりを覚えた。
トムも見ていた。
本ではなく、二人の大人の顔を。
翌日、ハーパー先生は図書室で死んでいた。
机の横に倒れ、片手を本棚へ伸ばすような格好だった。机の上には紅茶のカップ、開かれた帳簿、散らばった貸出カード。
そして、本棚からは昨日のホームズ本が消えていた。
青い栞もない。
教師たちは子供たちを追い払った。だが、コナンはその数秒で現場を見た。
紅茶のカップは左側に置かれている。ハーパー先生は右利きだった。
皿には砂糖の粒が残っている。先生は図書室で甘い紅茶を飲まないと言っていた。
本棚の縁には、青いガラスの粉がついていた。
事故じゃない。
これは殺人だ。
他の子供たちは死体を見て怯えていた。
だがトムだけは、死体を見た人間たちの顔を見ていた。
警察が来る前に、コナンはもう一度図書室へ戻った。トムもついてきた。
「何も触るなよ」
「君に言われなくても」
コナンは机を見た。
紅茶は誰かが用意したものだ。砂糖を入れないハーパー先生のカップに、砂糖が残っている。
本棚には青いガラス粉。つまり青い栞はホームズ本の近くにあった。いや、おそらく本に挟まれていた。
さらに帳簿には、書き直された数字があった。寄付金の記録。昨日、ハーパー先生がリード先生に話していたものだ。
「犯人は、ハーパー先生が横領に気づいたから殺した。証拠は青い栞か、ホームズ本に隠されていた」
コナンが呟くと、トムは少し笑った。
「そこまで分かるんだね」
「お前、何か知ってるだろ」
「少しだけ」
「言えよ」
「嫌だ」
「死人が出てるんだぞ」
「探偵がどうやって突き止めるのか興味があるんだ」
コナンは息を止めた。
トムは本気でそう思っている。
この事件を、コナンを観察する材料として見ている。
「性格悪いぞ」
「よく言われる」
「言われてんのかよ」
今は責めている場合ではなかった。
コナンは大人たちの前で、わざと声を上げた。
「あれれ〜、おかしいなあ。なんで先生の本がないんだろ〜?」
校長先生が眉をひそめる。トムが吹き出すのを堪えるような顔をして耐えていた。
「コナン、今は子供が口を出す場面では――」
「僕、知ってるんだ! ハーパー先生は、何かを本に隠してたんだよ。だから犯人は本を持っていった。学校のどこかにあるんじゃないかな?」
その瞬間、リード先生の目が動いた。
廊下の奥。
掃除用具入れの方へ。
コナンは見逃さなかった。
トムも見ていた。
「たとえば、掃除用具入れとか?」
コナンが言うと、リード先生の顔がこわばった。
「馬鹿な。子供の思いつきです」
「なら、調べても問題ないですよね」
掃除用具入れから、本が見つかった。
雑巾の下に隠されていた。
そのページの間には、青い栞が挟まっていた。青いガラス石は端が欠けている。裏側の金具の隙間には、小さく折りたたまれた紙。
寄付金横領の記録だった。
リード先生は否定した。だが袖口には、青いガラスの粉がついていた。掃除用具入れの取っ手にも、彼の万年筆と同じ黒インクの染みが残っていた。
ハーパー先生は、証拠を青い栞に隠した。
リード先生はそれを奪おうとして、紅茶に毒を入れた。
そしてホームズ本ごと栞を隠した。
事件は解けた。
けれど、ハーパー先生は戻ってこなかった。
帰り道、トムはコナンの隣を歩いていた。
「君は本当にすごい。名探偵だった」
「当たり前だ」
コナンは立ち止まった。
「お前はどこまで知ってたんだ?」
「リード先生が掃除用具入れに本を隠したところは見た」
あっけらかんとして言うトムにコナンは驚く。
「見てたのかよ!」
「うん」
「なんで言わなかった!」
「君がどう見つけるか、見たかった」
コナンは言葉を失った。
「……人が一人死んでるんだぞ」
「知っている。だから、君は本気だった」
トムは悪びれていなかった。
それが一番、腹立たしかった。
トムは、まっすぐコナンを見た。
「君は真実を見つける。でも、見つけて終わりじゃない」
「普通だろ」
「普通じゃないよ。真実は力だ。力なら、使えばいい」
コナンは睨んだ。
「人を壊すために真実を使う奴は、探偵じゃねえ」
トムは黙った。
納得したわけではない。
理解できないものを、面白がっている顔だった。
数日後、本は学校に戻った。
ハーパー先生がコナンに読ませたがっていた本だから、と校長先生はその本を一時的に預けてくれた。
その日の夕方、コナンは孤児院の食堂の隅で本を読んでいた。
トムが隣に座る。
「またシャーロック・ホームズの本を読んでいるの?」
「悪いか」
「悪くはない」
コナンは少し迷ってから、本をトムの方へ傾けた。
「一緒に読むか?」
「いいの?」
「もちろん」
二人は同じ本を読んだ。
しばらくして、トムの指がある名前で止まった。
「この男は?」
「モリアーティ教授。ホームズ最大の敵。犯罪界のナポレオンって呼ばれていて、迷宮入り事件は全て彼が仕掛け人だ」
トムの目が、わずかに動いた。
「いい名前だね」
「そうか?」
「僕の平凡な名前よりね」
「ジェームズ・モリアーティのジェームズは割とありふれてるぞ」
「まあね」
トムは頷いたが、モリアーティ教授のことが気に入ったようだった。
「ホームズは彼だけは特別に追ったの?」
「まあな」
トムは静かに言った。
「なら、彼はホームズに選ばれたんだ」
コナンは眉をひそめた。
「そういう言い方すると、変だぞ。犯罪者だろ」
「でも、特別だ」
トムはそれだけ言って、ページをめくった。
古い紙が、かさりと鳴る。
トムはしばらく黙って文字を追っていた。
食堂の隅では、子どもたちが薄いスープをすすっている。誰かがパンの端を取り合い、別の誰かが職員に叱られていた。いつも通りの孤児院だった。ハーパー先生が死んだことなど、この場所には関係ないと言わんばかりに、明日の朝にはまた同じように起きて、同じように学校へ行く。
コナンは少しだけ、本から目を離した。
事件は解けた。
犯人も見つかった。
けれど、あの図書室で「本は大事に読みなさい」と言った先生は、もういない。
それが、どうにも腹の底に残っていた。
「ホームズは」
トムが不意に言った。
「モリアーティを捕まえるの?」
「まあ、捕まえるっていうか……最後は止める」
「止める」
「犯罪を続けさせないためにな」
「殺すの?」
コナンは顔を上げた。
トムの声は、ごく普通だった。夕飯の中身を聞くのと同じくらい平坦で、だからこそ少し嫌だった。
「普通、そこから聞くか?」
「敵なんだろう?」
「敵だからって、殺せばいいって話じゃねえよ」
「でも、彼が生きていたら、また誰かが死ぬかもしれない」
トムは本の上に視線を落としたまま言った。
「なら、早く殺した方が合理的じゃない?」
コナンは眉をひそめた。
「お前、そういうところだぞ」
「どういうところ?」
「すぐ殺す方に話を持っていくところ」
「違う。僕は合理的な話をしている」
「人を殺すのは合理じゃねえ」
「場合によるんじゃない?」
「よらねえよ」
トムは不思議そうにコナンを見た。
本当に、不思議そうだった。
叱られたから黙るのではなく、なぜそれが即座に否定されるのか分からない、という顔だった。
コナンはため息をついた。
「探偵は犯人を殺すんじゃない。証拠を集めて、罪を暴いて、裁かせるんだよ」
「誰に?」
「警察とか、裁判所とか」
「信じてくれなかったら?」
コナンは言葉に詰まった。
トムは続ける。
「今日だって、大人たちは君の言うことを最初は聞かなかった。君が見つけなければ、リード先生は逃げたかもしれない」
「だからって、俺が勝手に裁いていい理由にはならねえ」
「なぜ?」
「俺が犯人になっちまうだろ」
トムは瞬きをした。
その答えは、彼の予想と違ったらしい。
「君は、犯人になりたくないんだ」
「当たり前だろ」
「変なの」
「どこがだよ」
「力があるのに、使わないところ」
コナンは本を閉じかけた手を止めた。
「力?」
「真実を見つける力。人を動かす力。大人たちを黙らせる力」
トムは、静かに言った。
「君はそれを持っているのに、ずいぶん遠慮して使う」
「遠慮じゃねえ。線引きだ」
「線引き」
「越えたら戻れない線ってのがあるんだよ」
トムはその言葉を、しばらく考えているようだった。
けれど、やがて小さく笑った。
「君は大人みたいなことを言うね」
コナンの背中に、ひやりとしたものが走った。
何気ない言い方だった。
だが、トムの目は笑っていない。
探っている。
そう直感した。
「子ども扱いされるのって、嫌にならない?」
トムは続けた。
「大人は何も分かっていないのに、君を子どもとして扱う。君が見つけた真実も、子どもの思いつきだと思う。退屈じゃない?」
コナンは一瞬、返事に詰まった。
本当に一瞬だった。
けれど、トムはそれを見逃さなかった。
「……別に」
「そう?」
「七歳なんだから、子ども扱いされるのは普通だろ」
トムは楽しそうに目を細めた。
「でも、君は子どものふりが下手だ」
コナンは黙った。
こいつ、どこまで気づいている。
自分が本当は七歳ではないことか。
それとも、もっと別の何かか。
「……人のこと観察しすぎなんだよ」
「君が分かりにくいのが悪い」
「分かりにくい?」
「読めそうで、読めない」
トムはまっすぐコナンを見た。
「そこが面白い」
「やっぱりお前、言い方が気持ち悪いぞ」
コナンは乱暴に本へ視線を戻した。
心臓が少し速くなっている。
トム・リドルは危ない。そう思う。
けれど同時に、奇妙なことに気づいていた。
この時代に来てから、自分をここまでまともに見てくる相手はトムだけだった。
大人たちは自分を子どもとして見る。
子どもたちは変わり者として見る。
だがトムだけは、そのどちらでもない。
まるで、ページの奥に隠れた文字まで読もうとするみたいに、こちらを見てくる。
気味が悪い。
油断できない。
「モリアーティは」
トムがまた本へ視線を落とした。
「ホームズに見つけてもらえて、よかったんだと思う」
「は?」
「誰にも見つけられないまま終わるより、ずっといい」
「犯罪者として見つかるんだぞ」
「それでも、特別だ」
トムは静かに言った。
「ホームズにだけは、自分が何者か分かってもらえる」
コナンは眉をひそめた。
その言葉には、妙な重さがあった。
七歳の子どもが読んだ物語への感想にしては、あまりにも切実だった。
「……お前、モリアーティに肩入れしすぎだろ」
「君がホームズに肩入れしているのと同じだよ」
「全然違う」
「どう違うの?」
「ホームズは事件を止める側だ」
「モリアーティは事件を作る側」
トムは少し笑った。
「釣り合っているね」
「釣り合わせるな」
「でも、君は追う相手がいないと退屈するだろう?」
「しねえよ」
「本当に?」
トムの声は柔らかかった。
「今日の君はとても生き生きしていた」
コナンは言い返せなかった。
人が死んでいる。
事件を楽しいと思ったわけではない。
けれど、証拠を拾い、違和感をつなげ、犯人へ迫っていく時、頭が冴えていたのは事実だった。
その事実を、トムに見られていた。
「……事件なんか、起きない方がいいに決まってる」
「でも、起きたら君は止まらない」
「当たり前だろ」
「うん」
トムは、どこか満足そうだった。
「だから君は面白い」
コナンは返事をしなかった。
食堂のざわめきが、少し遠く聞こえた。
古い紙の匂い。薄いスープの匂い。石炭の煙。孤児院の湿った空気。
その中で、トムは本に目を落としたまま、ぽつりと言った。
「ねえ、コナン」
「何だよ」
「もしモリアーティが、証拠を一つも残さなかったら、ホームズはどうするの?」
コナンは顔を上げた。
トムは笑っていなかった。
ただ、純粋な疑問のように見せかけた目で、こちらを見ていた。
「証拠は必ず残る」
「残らないとしたら?」
その言葉に、コナンは息を止めた。
トムは、ほんの少しだけ口元を上げた。
「たとえばの話だよ」
コナンはしばらくトムを見つめた。
「……残る」
やがて、低く言った。
「どんな方法でも、何かをしたなら、どこかに痕跡は残る。見えないなら、見方を変えるだけだ」
「そう」
トムは満足そうに頷いた。
「じゃあ、いつか見せて」
「何を」
「君が、証拠のない事件をどう解くのか」
コナンは嫌な予感がした。
それは、まだ形にならない予感だった。
けれど、灰色の空の下で降り続く細い雨みたいに、静かに胸の奥へ染み込んできた。
「……変なこと考えるなよ」
「まだ考えていない」
「“まだ”って言ったな、今」
「言ったかな」
「言った」
トムは本へ視線を戻した。
コナンはその横顔を見た。
整った顔。静かな目。子どもらしくない落ち着き。
自分が特別だと信じたい、子ども扱いされると傷つく、けれど傷ついたことを認めない子ども。
大人びている。
危うい。
でも、まだ子どもだ。
だからこそ、余計に怖かった。
この日、トム・リドルはモリアーティ教授を知った。
そしてコナン・ホームズはまだ知らなかった。
隣に座る少年が、遠くないうちに本当に、証拠を残さない事件を用意することを。