名探偵はまだ闇の帝王を知らない   作:大根おろし

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第三話 トム・リドルは証拠を残さない

 孤児院には色々な子どもがいる。萎縮していて大人しい子もいれば、我が物顔で傍若無人に振る舞う子もいた。

 ビリー・スタッブズは、後者だった。

 食堂では一番大きな声で文句を言い、パンが小さければ怒り、スープが薄ければ怒り、年下の子供が少しでも邪魔をすれば「どけよ」と肩で押す。ウール孤児院では、そういう子供は珍しくない。弱い場所で生きている子供ほど、少しでも強そうに見せたがる。

 コナンがそんなビリーの裏の顔を見たのはつい先日のことだった。彼は裏庭の物置小屋に行くと、別人みたいに声を小さくした。

 

「ほら、食えよ、スノウ。今日はちょっとだけ多いぞ」

 

 壊れかけた木箱の中に、白いうさぎがいた。

 名前はスノウ。

 ビリーが勝手につけた名前だった。

 孤児院で動物を飼うことは禁止されている。餌代も世話もかかるし、何より衛生的ではない。けれどスノウは、いつの間にか物置小屋に住みついていた。最初に見つけたのがビリーで、それ以来、彼は自分のパンをほんの少し残しては、こっそりスノウにやっていた。

 コナンは、その様子を少し意外に思った。捨て犬に優しいヤンキーのように、彼にもそういう一面があったのかと。

 

 食堂で威張っているビリーが、物置小屋では膝を抱えて、うさぎに向かって話しかけていた。

 

「お前はいいよな。何も言わねえし」

 

 スノウは返事をしない。鼻をひくひく動かしながら、ビリーの手からパンくずを食べるだけだ。

 

「お前は俺のこと、嫌いじゃねえだろ」

 

 その声は、食堂で聞く怒鳴り声とはまるで違っていた。

 だからコナンは、少しだけ驚いた。

 この孤児院では、誰もが何かを隠している。

 ビリー・スタッブズでさえ、そうだった。

  

  

 

 ある日の昼、ビリーはトム・リドルと口論になった。

 きっかけは、食堂の席だった。

 

「そこ、俺の席だぞ」

 

 ビリーが乱暴に言うと、窓際に座っていたトムは、読んでいた本から目を上げた。

 

「名前でも書いてあるのかい」

「昨日も座った」

 

 明らかな言いがかりだった。

 近くに座っていたコナンはトムにこっちに来いと目配せしたが、それは無視された。

 

「じゃあ、昨日は君の席だったんだね。今日は違う」

 

 トムの声は静かだった。

 静かなのに、人を見下ろしているように聞こえる。そこが、ビリーには我慢ならなかったのだろう。

 

「気味悪いんだよ、お前」

 

 ビリーが吐き捨てる。

 

「みんな言ってるぞ。お前がいると変なことが起きるって。物がなくなるし、すぐなにか壊れる。お前の母ちゃんも、気味悪いお前を産んだから死んだんじゃねえの」

 

 食堂の空気が少し硬くなった。

 トムは怒らなかった。

 傷ついた顔もしなかった。

 ただ、じっとビリーを見た。

 

「君は、うさぎを飼っていたね」

 

 ビリーの顔色が変わった。

 

「……何の話だよ」

「白いうさぎ」

「知らねえよ」

「そう」

 

 トムは薄く笑った。

 

「大事にしているのかと思っただけだ」

 

 それだけだった。

 声を荒らげたわけでもない。脅したわけでもない。

 けれど、コナンはその一言に、嫌なものを感じた。

 

「おい、トム」

 

 食堂を出たあと、コナンはトムを呼び止めた。

 

「さっきのはよくねえぞ」

「何が?」

「うさぎのことだよ。関係ねえだろ」

「彼が先に僕を侮辱した」

「だからって、人が大事にしてるものを引っ張り出すな」

 

 トムは不思議そうにコナンを見た。

 

「大事なものだから、意味があるんじゃないか」

 

 コナンは言葉に詰まった。

 その答えは、あまりにも自然だった。

 トムにとっては、本当にそれが当然らしい。

 

「……お前、そういうところあるぞ」

「どういうところ?」

「人が嫌がることをしたがる」

 

 トムは少しだけ笑った。

 

「それは、悪いこと?」

「悪いことだ」

「そう」

 

 トムはあっさり言った。

 けれど、その目は少しも反省していなかった。

 

   

 

 

 翌朝、ビリーの悲鳴で孤児院中が起きた。

 悲鳴は裏庭の物置小屋から聞こえた。

 朝のロンドンは冷えていて、地面には薄い霜が降りていた。子供たちが寝間着のまま廊下に飛び出し、コール院長が血相を変えて階段を下りる。

 コナンも走った。

 物置小屋の扉は開いていた。

 

 天井近くの垂木から、小さな白い影がぶら下がっていた。

 うさぎのスノウだった。

 細い紐が首にかかっている。

 白い体は、もう動かなかった。

 ビリーは床に座り込んでいた。

 顔から血の気が引き、口だけが開いている。声にならない息が、ひゅう、ひゅうと漏れていた。

 

「見ないで!」

 

 コール院長が、小さい子供たちを外へ押し出した。

 

「全員、戻りなさい! 今すぐ!」

 

 その声は厳しかった。

 けれど、震えていた。

 コナンは動けなかった。

 人間の死体ではない。

 殺人事件でもない。

 それでも、そこにははっきりと悪意があった。

 ただ殺したのではない。

 見せつけるように吊るしてある。

 ビリーを傷つけるために。

 ビリーが最初に見つけるように。

 ビリーのいちばん柔らかい場所を、正確に刺すために。

 昨日のトムの声が、頭の中で蘇った。

 

 ――大事にしているのかと思っただけだ。

 

 コナンは奥歯を噛んだ。

 違う。

 まだ決めるな。

 疑いたい相手を先に決めるな。

 証拠を見ろ。

 それが探偵だ。

    

 

 コナンは物置小屋を調べた。

 コール院長には「外に出なさい」と言われた。

 だが、出なかった。

 

「コナン」

 

 院長の声が低くなる。

 

「子供が見ていいものではありません」

「見なきゃ分からないことがあります」

「これは遊びじゃないのよ」

「分かってます」

 

 そう答えた声が、自分でも驚くほど硬かった。

 コール院長はしばらくコナンを見ていた。

 それから、疲れたように息を吐いた。

 

「触ってはいけません。分かったわね」

「はい」

 

 コナンはまず床を見た。

 入口付近には足跡がある。ビリーの靴跡。院長の靴跡。それから、のぞき込んだ子供たちの乱れた跡。

 だが、垂木の真下にはほとんど何もない。

 埃が残っている。

 誰かが椅子や木箱に乗ったなら、必ず跡がつく。

 だが、壊れた椅子には積もった埃がそのまま残っていた。木箱も同じだ。動かされた形跡はない。

 次に垂木。

 高さは、七歳の子供の手では届かない。大人でも踏み台がいる。

 投げ縄のように紐を引っかけたなら、木肌に擦れた跡が残るはずだ。だが、それもほとんどない。

 紐。

 荷造りに使う細い麻紐だった。孤児院ならどこにでもある。結び目は妙に整っている。子供の力任せの結び方ではない。大人の手慣れた結び方とも違う。

 まるで、指で結んでいないみたいだった。

 コナンはその考えを一度、頭から追い出した。

 馬鹿な。

 そんなはずがない。

 けれど、この前トムは手を使わずに物を動かした。

 

 コナンは移動して、今度は飼育箱に近づいた。

 掛け金は外れている。壊されてはいない。

 スノウが自分で出たとは考えにくい。外側から掛け金を外されたはずだ。

 なら、そこに指の跡があるはずだった。

 埃の乱れ。爪の傷。手袋の繊維。何かが。

 ない。

 うさぎが暴れた毛すらない。床に落ちていた毛は飼育箱の周辺だけ。

 つまり、スノウはほとんど暴れず、箱の近くから垂木まで移動したことになる。

 いや。

 移動したのではない。

 移動させられた。

 足跡も残さず。

 踏み台も使わず。

 手で触れた痕跡も残さず。

 物理的には、不可能だ。

 だが、起きている。

 なら、物理以外の手段がある。

 

「……魔法みたいだ」

 

 小さく呟いた瞬間、コナンは自分の声にぞっとした。

 

 未知の犯罪技術。

 証拠を残さず、距離も高さも無視し、手を使わずに物を動かせる力。

 それがもし本当にあるなら。

 探偵は、何を手がかりに真実へ届けばいい。

   

 昼前には、食堂でビリーが叫んでいた。

 

「トムだ! トムがやったんだ!」

 

 子供たちは息を潜めていた。

 コール院長はビリーの肩に手を置いていたが、彼の叫びを完全には止められない。

 泣きすぎた目は赤く、声はかすれている。

 

「昨日、あいつがスノウのこと言った! あいつしかいねえだろ!」

 

 トム・リドルは、窓際の席に座っていた。

 いつも通りだった。

 そこがいちばん異様だった。

 

「証拠は?」

 

 トムが言った。

 たったそれだけで、ビリーの顔が歪んだ。

 

「証拠なんか……!」

「ないんだね」

 

 トムは静かに言った。

 コナンは、思わず拳を握った。

 その言い方は、責める声ではなかった。

 むしろ、確認しているだけだった。

 証拠はない。

 だから君たちは何もできない。

 そう言っている。

 

「コナン!」

 

 ビリーが振り向いた。

 

「お前も昨日食堂で見ただろ? あいつだよな? あいつがやったんだよな?」

 

 食堂の視線が、コナンに集まった。

 コナンは口を開きかけた。

 言いたかった。

 たぶん、そうだ。

 おそらく、トムがやった。

 昨日の言葉。

 現場の不自然さ。

 証拠が消えすぎていること。

 そして今の態度。

 全部がトムを指している。

 だが。

 

「……証拠がない」

 

 絞り出した声は、自分でも嫌になるほど小さかった。

 ビリーの顔が固まった。

 

「は?」

「トムがやったって証拠は、ない」

「昨日言ってたんだぞ!」

「動機はある。でも、証拠がない」

「じゃあ誰がやったんだよ!」

 

 ビリーの声が裏返った。

 

「誰がスノウを殺したんだよ!」

 

 コナンは答えられなかった。

 喉の奥が焼けるようだった。

 証拠がない。

 だから言えない。

 それが正しい。

 正しいはずなのに、ビリーの泣き顔を見るたびに、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。

 トムは、黙ってコナンを見ていた。

 ビリーではない。

 コール院長でもない。

 周囲の子供たちでもない。

 ただ、コナンを見ていた。

 その瞬間、コナンは気づいた。

 これはビリーへの報復だ。

 でも、それだけじゃない。

 トムは見ている。

 自分がどこまで疑うか。

 どこまで気づくか。

 そして、証拠がないとき、どこで立ち止まるか。

 これは、試されている。

    

 午後、コナンはもう一度、物置小屋へ戻った。

 外はまた雨になっていた。屋根を叩く雨音が、狭い小屋の中で低く響いている。

 スノウはもう下ろされ、裏庭の隅に埋められていた。小屋にはまだ湿った木と埃の匂いが残っている。

 コナンは膝をついた。

 何かあるはずだ。

 床板の隙間。

 垂木のささくれ。

 紐がかかっていた場所。

 飼育箱の掛け金。

 窓の留め金。

 椅子の脚。

 石炭袋の埃。

 調べた。

 調べ続けた。

 だが、何も出ない。

 何も出ないこと自体が、異常だった。

 普通の犯罪なら、犯人は痕跡を残す。

 焦れば焦るほど残る。子供ならなおさらだ。

 だが、物に触れず、遠くから動かせるなら。

 犯人が現場に入らなくてもいいなら。

 証拠は、最初から存在しないのかもしれない。

 コナンは垂木を見上げた。

 推理の前提が、崩れている。

 

「まだ調べているんだ」

 

 入口から声がした。

 トムだった。

 雨に濡れてはいない。

 いつからそこにいたのか分からないほど、静かに立っていた。

 

「入ってくんな」

「ここは君の部屋じゃない」

「事件現場だ」

「うさぎの?」

 

 コナンはトムを睨んだ。

 トムは少しだけ首を傾げた。

 

「トム」

「何?」

「お前がやったのか」

 

 言ってから、コナンは自分の言葉に気づいた。

 証拠がない。

 それでも聞いてしまった。

 トムはしばらく黙っていた。

 それから、ほんの少し笑った。

 

「嫌だなあ、ホームズ君。君は警察じゃなくて、探偵でしょう?」

「質問に答えろ」

「証拠は?」

 

 コナンは唇を噛んだ。

 

 証拠がない。

 それが、どうしようもなく重い。

 トムは一歩だけ小屋の中に入った。

 足元の埃に、薄く靴跡がつく。

 普通に歩けば、跡は残る。

 なのに事件の時は残らなかった。

 それが何よりの証拠に見える。

 だが、証拠としては弱すぎる。

 

「もし」

 

 トムが静かに言った。

 

「もし本当に僕がやっていたら、君はどうする?」

 

 コナンは息を止めた。

 トムの顔には、恐れも焦りもなかった。

 ただ、好奇心があった。

 君は僕をどう裁く?

 そう尋ねる目だった。

 

「証拠を見つける」

「見つからなかったら?」

「見つけるまで探す」

「それでも?」

 

 コナンはトムを睨みつけた。

 

「次は絶対に見逃さねえ」

 

 トムは黙った。

 それから、ひどく満足そうに微笑んだ。

 

「よかった」

「何がだよ」

「君は、思った通りだ」

 

 その言葉の意味を、コナンはすぐには理解できなかった。

 理解したくもなかった。

 トムはそれ以上、何も言わなかった。

 余計なことは言わない。自分から証拠になるような言葉は残さない。

 だからこそ、怖かった。

    

 その夜、コナンは眠れなかった。

 寝室には、子供たちの寝息が並んでいる。薄い毛布の中で、コナンは天井を見つめていた。

 事件は解決していない。

 犯人を捕まえていない。

 ビリーに何も言えなかった。

 スノウを殺したのが誰か、心の中ではほとんど分かっている。

 けれど、証明できない。

 それは探偵にとって、敗北だった。

 証拠がなければ犯人とは言えない。

 それは正しい。

 そのルールを捨てたら、探偵ではいられない。

 けれど、証拠を残さない力があるなら。

 

 自分は、何を武器にすればいい。

 隣の寝台で、トム・リドルは目を閉じていた。

 眠っているように見える。顔だけなら、ただの子供だ。

 だが、コナンはもう知っている。

 あの少年は、人のいちばん大事なものを見つける。

 そして、そこを簡単に壊せる。

 ビリーのうさぎを殺したのは、ただの報復ではない。

 コナンに見せるためでもあった。

 証拠がなければ裁けない。

 

 コナンは毛布の中で拳を握った。

 なら、調べるしかない。

 

 灰色のロンドンの夜に、雨音だけが続いていた。

 この日、コナン・ホームズは初めて知った。

 この世界には、証拠を残さない犯罪がある。

 そしてトム・リドルは、そのことを誰よりも早く理解し、誰よりも静かに利用する少年だった。

 

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