名探偵はまだ闇の帝王を知らない 作:大根おろし
孤児院には色々な子どもがいる。萎縮していて大人しい子もいれば、我が物顔で傍若無人に振る舞う子もいた。
ビリー・スタッブズは、後者だった。
食堂では一番大きな声で文句を言い、パンが小さければ怒り、スープが薄ければ怒り、年下の子供が少しでも邪魔をすれば「どけよ」と肩で押す。ウール孤児院では、そういう子供は珍しくない。弱い場所で生きている子供ほど、少しでも強そうに見せたがる。
コナンがそんなビリーの裏の顔を見たのはつい先日のことだった。彼は裏庭の物置小屋に行くと、別人みたいに声を小さくした。
「ほら、食えよ、スノウ。今日はちょっとだけ多いぞ」
壊れかけた木箱の中に、白いうさぎがいた。
名前はスノウ。
ビリーが勝手につけた名前だった。
孤児院で動物を飼うことは禁止されている。餌代も世話もかかるし、何より衛生的ではない。けれどスノウは、いつの間にか物置小屋に住みついていた。最初に見つけたのがビリーで、それ以来、彼は自分のパンをほんの少し残しては、こっそりスノウにやっていた。
コナンは、その様子を少し意外に思った。捨て犬に優しいヤンキーのように、彼にもそういう一面があったのかと。
食堂で威張っているビリーが、物置小屋では膝を抱えて、うさぎに向かって話しかけていた。
「お前はいいよな。何も言わねえし」
スノウは返事をしない。鼻をひくひく動かしながら、ビリーの手からパンくずを食べるだけだ。
「お前は俺のこと、嫌いじゃねえだろ」
その声は、食堂で聞く怒鳴り声とはまるで違っていた。
だからコナンは、少しだけ驚いた。
この孤児院では、誰もが何かを隠している。
ビリー・スタッブズでさえ、そうだった。
*
ある日の昼、ビリーはトム・リドルと口論になった。
きっかけは、食堂の席だった。
「そこ、俺の席だぞ」
ビリーが乱暴に言うと、窓際に座っていたトムは、読んでいた本から目を上げた。
「名前でも書いてあるのかい」
「昨日も座った」
明らかな言いがかりだった。
近くに座っていたコナンはトムにこっちに来いと目配せしたが、それは無視された。
「じゃあ、昨日は君の席だったんだね。今日は違う」
トムの声は静かだった。
静かなのに、人を見下ろしているように聞こえる。そこが、ビリーには我慢ならなかったのだろう。
「気味悪いんだよ、お前」
ビリーが吐き捨てる。
「みんな言ってるぞ。お前がいると変なことが起きるって。物がなくなるし、すぐなにか壊れる。お前の母ちゃんも、気味悪いお前を産んだから死んだんじゃねえの」
食堂の空気が少し硬くなった。
トムは怒らなかった。
傷ついた顔もしなかった。
ただ、じっとビリーを見た。
「君は、うさぎを飼っていたね」
ビリーの顔色が変わった。
「……何の話だよ」
「白いうさぎ」
「知らねえよ」
「そう」
トムは薄く笑った。
「大事にしているのかと思っただけだ」
それだけだった。
声を荒らげたわけでもない。脅したわけでもない。
けれど、コナンはその一言に、嫌なものを感じた。
「おい、トム」
食堂を出たあと、コナンはトムを呼び止めた。
「さっきのはよくねえぞ」
「何が?」
「うさぎのことだよ。関係ねえだろ」
「彼が先に僕を侮辱した」
「だからって、人が大事にしてるものを引っ張り出すな」
トムは不思議そうにコナンを見た。
「大事なものだから、意味があるんじゃないか」
コナンは言葉に詰まった。
その答えは、あまりにも自然だった。
トムにとっては、本当にそれが当然らしい。
「……お前、そういうところあるぞ」
「どういうところ?」
「人が嫌がることをしたがる」
トムは少しだけ笑った。
「それは、悪いこと?」
「悪いことだ」
「そう」
トムはあっさり言った。
けれど、その目は少しも反省していなかった。
*
翌朝、ビリーの悲鳴で孤児院中が起きた。
悲鳴は裏庭の物置小屋から聞こえた。
朝のロンドンは冷えていて、地面には薄い霜が降りていた。子供たちが寝間着のまま廊下に飛び出し、コール院長が血相を変えて階段を下りる。
コナンも走った。
物置小屋の扉は開いていた。
天井近くの垂木から、小さな白い影がぶら下がっていた。
うさぎのスノウだった。
細い紐が首にかかっている。
白い体は、もう動かなかった。
ビリーは床に座り込んでいた。
顔から血の気が引き、口だけが開いている。声にならない息が、ひゅう、ひゅうと漏れていた。
「見ないで!」
コール院長が、小さい子供たちを外へ押し出した。
「全員、戻りなさい! 今すぐ!」
その声は厳しかった。
けれど、震えていた。
コナンは動けなかった。
人間の死体ではない。
殺人事件でもない。
それでも、そこにははっきりと悪意があった。
ただ殺したのではない。
見せつけるように吊るしてある。
ビリーを傷つけるために。
ビリーが最初に見つけるように。
ビリーのいちばん柔らかい場所を、正確に刺すために。
昨日のトムの声が、頭の中で蘇った。
――大事にしているのかと思っただけだ。
コナンは奥歯を噛んだ。
違う。
まだ決めるな。
疑いたい相手を先に決めるな。
証拠を見ろ。
それが探偵だ。
コナンは物置小屋を調べた。
コール院長には「外に出なさい」と言われた。
だが、出なかった。
「コナン」
院長の声が低くなる。
「子供が見ていいものではありません」
「見なきゃ分からないことがあります」
「これは遊びじゃないのよ」
「分かってます」
そう答えた声が、自分でも驚くほど硬かった。
コール院長はしばらくコナンを見ていた。
それから、疲れたように息を吐いた。
「触ってはいけません。分かったわね」
「はい」
コナンはまず床を見た。
入口付近には足跡がある。ビリーの靴跡。院長の靴跡。それから、のぞき込んだ子供たちの乱れた跡。
だが、垂木の真下にはほとんど何もない。
埃が残っている。
誰かが椅子や木箱に乗ったなら、必ず跡がつく。
だが、壊れた椅子には積もった埃がそのまま残っていた。木箱も同じだ。動かされた形跡はない。
次に垂木。
高さは、七歳の子供の手では届かない。大人でも踏み台がいる。
投げ縄のように紐を引っかけたなら、木肌に擦れた跡が残るはずだ。だが、それもほとんどない。
紐。
荷造りに使う細い麻紐だった。孤児院ならどこにでもある。結び目は妙に整っている。子供の力任せの結び方ではない。大人の手慣れた結び方とも違う。
まるで、指で結んでいないみたいだった。
コナンはその考えを一度、頭から追い出した。
馬鹿な。
そんなはずがない。
けれど、この前トムは手を使わずに物を動かした。
コナンは移動して、今度は飼育箱に近づいた。
掛け金は外れている。壊されてはいない。
スノウが自分で出たとは考えにくい。外側から掛け金を外されたはずだ。
なら、そこに指の跡があるはずだった。
埃の乱れ。爪の傷。手袋の繊維。何かが。
ない。
うさぎが暴れた毛すらない。床に落ちていた毛は飼育箱の周辺だけ。
つまり、スノウはほとんど暴れず、箱の近くから垂木まで移動したことになる。
いや。
移動したのではない。
移動させられた。
足跡も残さず。
踏み台も使わず。
手で触れた痕跡も残さず。
物理的には、不可能だ。
だが、起きている。
なら、物理以外の手段がある。
「……魔法みたいだ」
小さく呟いた瞬間、コナンは自分の声にぞっとした。
未知の犯罪技術。
証拠を残さず、距離も高さも無視し、手を使わずに物を動かせる力。
それがもし本当にあるなら。
探偵は、何を手がかりに真実へ届けばいい。
昼前には、食堂でビリーが叫んでいた。
「トムだ! トムがやったんだ!」
子供たちは息を潜めていた。
コール院長はビリーの肩に手を置いていたが、彼の叫びを完全には止められない。
泣きすぎた目は赤く、声はかすれている。
「昨日、あいつがスノウのこと言った! あいつしかいねえだろ!」
トム・リドルは、窓際の席に座っていた。
いつも通りだった。
そこがいちばん異様だった。
「証拠は?」
トムが言った。
たったそれだけで、ビリーの顔が歪んだ。
「証拠なんか……!」
「ないんだね」
トムは静かに言った。
コナンは、思わず拳を握った。
その言い方は、責める声ではなかった。
むしろ、確認しているだけだった。
証拠はない。
だから君たちは何もできない。
そう言っている。
「コナン!」
ビリーが振り向いた。
「お前も昨日食堂で見ただろ? あいつだよな? あいつがやったんだよな?」
食堂の視線が、コナンに集まった。
コナンは口を開きかけた。
言いたかった。
たぶん、そうだ。
おそらく、トムがやった。
昨日の言葉。
現場の不自然さ。
証拠が消えすぎていること。
そして今の態度。
全部がトムを指している。
だが。
「……証拠がない」
絞り出した声は、自分でも嫌になるほど小さかった。
ビリーの顔が固まった。
「は?」
「トムがやったって証拠は、ない」
「昨日言ってたんだぞ!」
「動機はある。でも、証拠がない」
「じゃあ誰がやったんだよ!」
ビリーの声が裏返った。
「誰がスノウを殺したんだよ!」
コナンは答えられなかった。
喉の奥が焼けるようだった。
証拠がない。
だから言えない。
それが正しい。
正しいはずなのに、ビリーの泣き顔を見るたびに、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。
トムは、黙ってコナンを見ていた。
ビリーではない。
コール院長でもない。
周囲の子供たちでもない。
ただ、コナンを見ていた。
その瞬間、コナンは気づいた。
これはビリーへの報復だ。
でも、それだけじゃない。
トムは見ている。
自分がどこまで疑うか。
どこまで気づくか。
そして、証拠がないとき、どこで立ち止まるか。
これは、試されている。
午後、コナンはもう一度、物置小屋へ戻った。
外はまた雨になっていた。屋根を叩く雨音が、狭い小屋の中で低く響いている。
スノウはもう下ろされ、裏庭の隅に埋められていた。小屋にはまだ湿った木と埃の匂いが残っている。
コナンは膝をついた。
何かあるはずだ。
床板の隙間。
垂木のささくれ。
紐がかかっていた場所。
飼育箱の掛け金。
窓の留め金。
椅子の脚。
石炭袋の埃。
調べた。
調べ続けた。
だが、何も出ない。
何も出ないこと自体が、異常だった。
普通の犯罪なら、犯人は痕跡を残す。
焦れば焦るほど残る。子供ならなおさらだ。
だが、物に触れず、遠くから動かせるなら。
犯人が現場に入らなくてもいいなら。
証拠は、最初から存在しないのかもしれない。
コナンは垂木を見上げた。
推理の前提が、崩れている。
「まだ調べているんだ」
入口から声がした。
トムだった。
雨に濡れてはいない。
いつからそこにいたのか分からないほど、静かに立っていた。
「入ってくんな」
「ここは君の部屋じゃない」
「事件現場だ」
「うさぎの?」
コナンはトムを睨んだ。
トムは少しだけ首を傾げた。
「トム」
「何?」
「お前がやったのか」
言ってから、コナンは自分の言葉に気づいた。
証拠がない。
それでも聞いてしまった。
トムはしばらく黙っていた。
それから、ほんの少し笑った。
「嫌だなあ、ホームズ君。君は警察じゃなくて、探偵でしょう?」
「質問に答えろ」
「証拠は?」
コナンは唇を噛んだ。
証拠がない。
それが、どうしようもなく重い。
トムは一歩だけ小屋の中に入った。
足元の埃に、薄く靴跡がつく。
普通に歩けば、跡は残る。
なのに事件の時は残らなかった。
それが何よりの証拠に見える。
だが、証拠としては弱すぎる。
「もし」
トムが静かに言った。
「もし本当に僕がやっていたら、君はどうする?」
コナンは息を止めた。
トムの顔には、恐れも焦りもなかった。
ただ、好奇心があった。
君は僕をどう裁く?
そう尋ねる目だった。
「証拠を見つける」
「見つからなかったら?」
「見つけるまで探す」
「それでも?」
コナンはトムを睨みつけた。
「次は絶対に見逃さねえ」
トムは黙った。
それから、ひどく満足そうに微笑んだ。
「よかった」
「何がだよ」
「君は、思った通りだ」
その言葉の意味を、コナンはすぐには理解できなかった。
理解したくもなかった。
トムはそれ以上、何も言わなかった。
余計なことは言わない。自分から証拠になるような言葉は残さない。
だからこそ、怖かった。
その夜、コナンは眠れなかった。
寝室には、子供たちの寝息が並んでいる。薄い毛布の中で、コナンは天井を見つめていた。
事件は解決していない。
犯人を捕まえていない。
ビリーに何も言えなかった。
スノウを殺したのが誰か、心の中ではほとんど分かっている。
けれど、証明できない。
それは探偵にとって、敗北だった。
証拠がなければ犯人とは言えない。
それは正しい。
そのルールを捨てたら、探偵ではいられない。
けれど、証拠を残さない力があるなら。
自分は、何を武器にすればいい。
隣の寝台で、トム・リドルは目を閉じていた。
眠っているように見える。顔だけなら、ただの子供だ。
だが、コナンはもう知っている。
あの少年は、人のいちばん大事なものを見つける。
そして、そこを簡単に壊せる。
ビリーのうさぎを殺したのは、ただの報復ではない。
コナンに見せるためでもあった。
証拠がなければ裁けない。
コナンは毛布の中で拳を握った。
なら、調べるしかない。
灰色のロンドンの夜に、雨音だけが続いていた。
この日、コナン・ホームズは初めて知った。
この世界には、証拠を残さない犯罪がある。
そしてトム・リドルは、そのことを誰よりも早く理解し、誰よりも静かに利用する少年だった。