Re:ゼロから始める異世界生活6章オットー同行if 作:樫ハット
「あ……エキ、ドナ」
「ナツキくん、何か見つけたのか?」
「これ……おかしい」
「――っ! 何があった?」
スバルの力ない呼びかけに気づいて近づいたエキドナは、『死者の書』を持って立ち尽くすスバルに気づき、血相を変えて走り寄ってくる。
「まさか、読んだのかい? 記憶は……ボクの名前は憶えていたようだが――」
「違う、これを……見てくれ」
「何を……あ」
エキドナはスバルがまた『死者の書』を読んで問題が起きたのかと思っていたようだった。その程度のことであったら、どれだけ良かっただろうか。
『死者の書』の表紙に目をやり、スバルの言わんとしていることを理解したエキドナは、悲しげに目を伏せる。
「エミリアって名前は、この世界なら一般的なんだろ? そうじゃなきゃ、こんなことあり得ない……」
「……エミリアという名前の人を、ボクは彼女以外に見たことがない。ボクの知る人はさほど多くないとはいえ、珍しい名前であることは間違いない。ましてや家名もない、ただのエミリアという名前は……」
エキドナの説明は、これが人違いである可能性は低いと告げていた。
だが、まだ可能性がないわけではない。
「確かめる方法なら、ある」
「ナツキくん!? それはダメだ!」
手に持ったエミリアの『死者の書』を開きかけたスバルの手をエキドナがはたき、止める。
「どうして止める!? これが全然違うエミリアのことだったら、俺はこれを読めないんだろ? 俺はそれを確かめたいだけだ」
「ナツキくん……」
「ここに残された俺らができることなんて、それくらいしかない。もしかしたら、生きてるやつの本っていう、新しいパターンかもしれない。それが、攻略のヒントになるかもしれない」
「ナツキくん!」
「……どうして、止めるんだ!」
追いつかない感情が、八つ当たりのように溢れ出る。スバルはエキドナを睨み、声を荒げて問いかける。そうしていなければ、何かに呑み込まれてしまいそうな気がして。
だがエキドナはあくまで冷静にこちらの目を見た。その冷たい強さに射すくめられ、スバルの勢いは雲散霧消した。
「ナツキくん――塔を、脱出しよう」
「――――」
「この塔は、もうダメだ」
ぐわんぐわんと、耳鳴りのような音が、どこかから聞こえてきた気がした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……準備はできた。そっちは?」
「ボクの方は問題ない。それより、荷物持ちは頼んだ。適材適所というやつだ」
「それは……別にいい」
スバルはもしものためにとオットーが用意していた非常袋にエミリアの『死者の書』を入れ、体に斜め掛けする。
非常袋とやらの中身は、どうやらスバルがセレクトしたらしい。ナイフにランプ、ロープ、水筒、非常食など、生存に必要な最低限のものはひとまとめにされている。相変わらず記憶は失ったままだが、なんとなく自分らしい準備に思えた。
「気になることと言えば、あの竜……えーっと」
「パトラッシュのことか。確かに彼女がいまどこにいるのかわからないな。オットーくんはどこかに待機させておくと言っていたが……見つからなければボクたちの足ではミルーラまでたどり着くことは困難だろう」
記憶喪失後のスバルが初めて目覚めたとき、その部屋にはパトラッシュがいた。なるほど、あいつは移動用の馬みたいな存在だったのか。
そしてパトラッシュは雌だったのかと場違いな驚きを感じている自分がいた。
「バルコニーで待っていてくれればいいのだが……」
「そういやそのバルコニーってとこ、俺は知らないから案内頼んだぞ。……一応、俺が先行するから、分かれ道とかで指示してくれ」
「……ああ、ならお言葉に甘えようか」
意地というかなんというか、ともかくスバルはエキドナを先に行かせることが憚られた。この非常事態でそんなことを気にしているのもなんだか場違いな気がするが、少なくともエキドナはそれに文句は言わなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「次、右だ」
「オーケー、確認してくるからここで待っててくれ」
現在スバルは、エキドナの指示の下、ステルス移動作戦を決行していた。視界が通りにくい曲がり角をスバルがそっと覗き込み、安全確認をしてからジェスチャーでエキドナを呼び寄せる。
「この様子だと、塔のルールのうち、『塔そのものへの破壊行為を禁ず』はとっくに破られていそうだね。次にシャウラと会ったときは、敵同士だと覚悟しておくことだ」
「今更だけど、塔から出ちゃいけない以外の禁止事項とかあったのかよ……」
周囲の壁は壊れ、塔を造る石レンガのようなものがいくつも散乱している有様だった。誰がやったのかは知らないが、塔の破壊に該当しないと判断するのは無理があるだろう。
その一方で、これだけ荒れ果てているのに周囲が妙に静かなのがなんだか恐ろしかった。依然として時折階下から腹に響くような低い振動は伝わってきていたが。
「にしても、案外冷静なんだな、お前」
「そうかい? これでも内心相当焦っているのだが。……むしろ、ボクからすると君の方が前向きに見えるよ」
「それは……なんつーか、取り繕ってるだけだよ。この際ぶっちゃけるけど」
「なんだ、そうだったのか。ならボクらは似た者同士だ」
そう言って、お互いに力なく掠れた笑いを交わしてみせる。そうしていると、少しだけ心が軽くなるような気がした。そうでもしていないと、暗い何かが迫って来そうな、そんな気がしたからかもしれない。
スバルはここまで、冷静で、時折少し冷徹にすら見えるエキドナの姿に内心救われている部分があった。スバルには彼女のように考えることができなかった。
……それに、その姿がどこかオットーに似ているような気がして――、
「――っ!」
そのとき、視界の端で何か小さなものが動いたのが見えた。スバルは反射的にエキドナを守るように手を伸ばす。
だが改めて動いたものに視線を向けるとそれは、
「……虫?」
そこにいたのは小さな虫だった。そのことを理解して、スバルは肩の力を抜く。緊張の瞬間を抜け、うるさい鼓動が再開する。
その虫の大きさは五センチくらいだろうか。日本では見たことがない虫だったが、スバルはそいつに見覚えがあった。
「ゾッダ虫、だね。もしかしたらオットーくんが配置してくれたものかもしれない」
「やっぱりそうか」
スバルもオットーがそいつに話しかけているのを見たことがあった。そのときはオットーって痛いやつなんじゃないかと一瞬疑ったが、後に本当に動物と話せる力があるのだと聞いて、なんて異世界ファンタジーだと感心したものだ。
じっと観察していると、ゾッダ虫は飛び上がり、通路の奥の方に向かっていった。それはバルコニーに向かう道とは別方向だった。
「ナツキくん、どうする?」
「……追いかけよう」
エキドナの問いかけに、一瞬迷いながらも、スバルはゾッダ虫を追いかけることを決める。その返答にエキドナが頷いたのを見て、スバルは音を殺しながら走り出した。
あれが本当にオットーが使役していたゾッダ虫なのかはわからない。それでもやはり、オットーと合流できるかもしれないという考えは魅力的だった。そうでなくとも、スバルとエキドナ以外の生物に出会えたことが、なんだか嬉しくて、手放したくないと無意識に判断したのかもしれないが。
時折エキドナの方を振り返りながら、スバルはゾッダ虫の行く先を追いかける。
こうして見ていると、エキドナはスバルよりも運動能力が低いようだ。時折瓦礫に躓きそうになり、見ていて危うい。これは、スバルが荷物持ちで正解だったようだ。
そして、ゾッダ虫が次の道を曲がる。流れ作業で、スバルが先にクリアリングすべく慎重に顔を突き出す。
そこの地面に、赤と緑がこぼれていた。
「――あ?」
「……ナツキくん?」
エキドナは、気の抜けたような声を上げてゆらゆらと曲がり角の先に歩き始めたスバルに訝しげに声をかける。だがその声はスバルには届いていないようだった。
何かを察しながら、エキドナはスバルの背中を追うように曲がり角の先へと歩み出る。
スバルは、目の前の光景を理解できなかった。理解することを、理性が拒んでいた。
だって、そうだろう? そんなこと、あるわけがない。あってはならないのだから。
「なんで?」
それでも目は閉じられなかった。それが徐々に侵食し、理解へと到達を始めてしまった。
「――は」
それの目の前に着いたとき、スバルは理解してしまった。
――オットーが、首と胴を切り離されて死んでいた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その光景は、あまりに凄惨だった。
胴体は血の海に倒れ、きれいな緑だった服が、血を吸ってどす黒い色に変わっていた。
切り離された首は、うつ伏せの胴体から少し離れたところに転がっている。鋭い刃物で一刀の下に切断されたのだろうか。固まった血で覆われていない部分は、剥き出しの筋肉が観察できるほどきれいな断面だった。
うっかり見てしまったその首には、恐怖と無理解の表情が張り付いていた。
「うぶ……っ」
さっきまで追いかけていたゾッダ虫が、オットーの亡骸に張り付き、肉にかじりつき始めた。よく見れば、既に体の数か所に、ゾッダ虫が群がりオットーをむさぼっている。
呆然と亡骸を眺めていたスバルはその場に膝をつく。
そして、堪え切れない嘔吐感のままに、胃袋の中身を一気に床に吐き出した。胃液と混ざり、ドロドロになった内容物が、酸っぱい臭いと共に体外へ溢れる。
「うっ、お……ごぇっ、げぇっ」
辛うじて、オットーにかからないように顔を背けて通路の端に吐き出した。目を逸らしても、瞼の裏でその光景が消えてくれなかった。
「うっ……あ?」
止まらないえずきに喉を痙攣させ、苦しげに体を丸めるスバルの背中に、小さな感触があった。やがてそれは、ゆっくりと優しく、スバルの背を撫でた。ゆっくりと、繰り返し。
その感触に促され、スバルは胃の中身が空っぽになるまで吐き続けた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「なあ、エキドナ」
「……なんだい?」
「これ、魔法で全部治るんだよな?」
全部吐ききって、目も虚ろなスバルが最初に口にしたのは、そんな言葉だった。
この世界には魔法がある。怪我を治してくれる緑部屋なんてものがあるくらいだ。どうにかして、死者蘇生くらいできてもいいはずだ。
だが、エキドナは首を振り、スバルに告げる。
「……残念だが、ボクの知る限りでは不可能だ。王国で最も優れた癒しの魔法の使い手でも、死は覆せない」
答えなんて、言われる前からわかっていたのに。もし死者が生き返せるのなら、皆はこんなに必死になっていなかっただろう。
それでも、スバルは問うことをやめられなかった。
「でも、『死者の書』なんてものがある。なら、それくらいあったって――」
「あるとしても、ボクは知らない。それにこの場で話し合っても解決することは決してない。ナツキくん、ここは――」
「なんでお前は、そんなに冷静なんだ?」
もはや悲しみからくるものなのか、嘔吐の反射で出たものなのかすらわからない涙を袖で乱雑に拭い、スバルはエキドナを睨む。
その冷静さが、引き裂かれたスバルの心には痛かった。理不尽だとわかっていても、感情を向けられる先が、そこしかなかった。
だが、あくまでエキドナは冷静だった。スバルの目を鋭く見据え、はっきりと言う。
「ボクたちはまだ生きているからだ。――彼らの死を、無駄にしたくないからだ」
「――――」
「行こう、ナツキくん。ボクたちだけでも助かることが、彼の遺言であり、望みだ」
「……悪ぃ」
もう一度だけ涙を拭い、差し出されたエキドナの手をとり、立ち上がった。
スバルは自分が情けなかった。でも、これでスバルが生き残れなければ、スバルは自分で自分を許せなくなる。そうした負の感情が、スバルを立ち上がらせた。
「――ッ!」
「あ」
スバルが立ち上がった直後、二人が来た道の方から、聞き慣れない鳴き声がこだまして聞こえた。
ついに魔獣が来たかととっさにエキドナの手を強く握り、走り出す覚悟を決めたスバルだったが、
「パトラッシュだ!」
「え?」
微かな歓喜がにじむエキドナの声に、動きかけた足を止める。彼女の言葉が、少し遅れてスバルの頭に届く。
つまり、生きた味方が来た。
「――ッ!」
曲がり角からひょっこりと、あの爬虫類のような首が飛び出す。二回くらいしか顔合わせしていない相手だったが、確かに見知った顔だ。
それがわかっただけで、スバルはまた泣きそうになってしまった。
「よく生きていてくれた……レムさんも無事か」
「ほんと、良かっ――ぶえっ!」
パトラッシュは二人に気づくと、様子を確認して声をかけたエキドナを無視し、スバルに突進するような勢いで向かってくる。そして目の前で止まると、スバルの顔に自分の頭を押し付けるようにじゃれついてきた。
ざらざらとしていて、少し痛い。だがこちらを傷つけない優しさが伝わってきた。スバルは笑いながら手を伸ばし、その頭を柔らかく抱きしめた。パトラッシュは優しく、それを受け入れてくれた。
少し目をやると、パトラッシュの背には一人の少女が括り付けられているのが見えた。レムだ。彼女は相変わらず眠ったままだったが、それでも生きていてくれた。そのことが、今のスバルには嬉しかった。
しばらくして、気が済んだのかパトラッシュは自ら離れる。それに少し寂しさを感じつつも、スバルも抱擁を解除する。
そしてパトラッシュは、スバルの後方に目を向け、悲しげな表情を見せた気がした。その視線の先にあるものは――、
「行こう、パトラッシュ」
スバルには、もう一度振り向く勇気がなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「バルコニーは、このすぐ先だ」
「よし、待ってろ」
ついに目的地は目前となった。パトラッシュとも無事に合流でき、上手く行けばこのまま三人と一頭でこの塔から脱出できる。
起きた悲劇はなくならないが、それでもスバルは生きるのだ。皆の願いを背負って。
エミリアに聞いた話だが、ずっと行けば、王都があるらしい。そこに行って戦力を集めて、スバルはまたこの塔に戻ってくるつもりだ。
皆の無念を晴らそう、なんてこの状態のスバルが言っても薄っぺらいと言われるかもしれないが。それでも、何かを救うためにスバルがここに来たと教えられたのだから、スバルはそれを叶えたいと思うべきだろう。
「……エミリア」
『死者の書』を見つけてしまってからも、どこかでエミリアはまだ生きているんじゃないかと期待していた。だが塔内のこの惨状を見れば、嫌でも理解させられる。
心なしか記憶より身軽になった体を動かし、スバルは瓦礫の道を通り抜けていく。作戦はさっきと同じ、スバルが安全確認をして、それから他の皆を呼び寄せる。
違うことと言えば、スバルの右手が腰に下げた鞭を握っていることだろうか。
さっきオットーが死んでいるのを目の当たりにして、スバルはようやく認識を改めた。ここはついさっきまでスバルがいたような現代日本ではない。殺し合いが日常的に起こる異世界なのだと。
自分でも覚悟を決めるのが遅すぎると思う。いや、実を言うと覚悟なんて決まっていない。ただ生存するために、扱い方も知らない武器を手に取るという行動をしているだけだ。
スバルの武器としてナイフを選ぶか鞭を選ぶかは迷ったところだが、鞭にした。記憶喪失以前のスバルが使っていたから、というのもあるが、少し前にエミリアとベアトリスに見守られながら多少なり練習できたのが大きい。リーチの長さというアドバンテージがあることも、ちょっとだけ心強い。
「ベアトリス……」
その名前を口にすると、申し訳なさが溢れ出してくる。少し大人びている部分がないではないが、あんなに幼い子供まで戦いに駆り出されてしまった。なのに、スバルは何もできなかった。
彼女はまだ生きているだろうか? その可能性は、残念ながら薄い気がする。
だがその可能性を思うと、スバルたちが今塔を脱出するのが正しいのか、自信がなくなってくる。これはまだ誰かが生きていてどうにかなると思いこもうとしている、スバルの弱さでしかないのだろうか。
「……いや、エキドナが正しい。俺より現実を見ている、エキドナを信じよう」
ここまで選択を間違え続けたスバルにできるのは、情けないが誰か信じられる人に頼ることだった。情けないが、情けなさ程度でまた何かの可能性を不意にしてしまうことの方が、もっと恐ろしい。
パトラッシュの手綱はエキドナに任せてある。スバルが先行しようとしたときパトラッシュがそれを止めようと立ちふさがったときには驚いた。だがダメ元で言葉とジェスチャーで宥めたところ思ったより素直にスバルの言うことを聞き、また驚かされた。どうやらパトラッシュは動物ながら賢くスバルへの愛情にあふれているらしい。
……本当に、以前のスバルはどうやって皆からこれだけの信頼を勝ち取ったのだろうか。それが、今のスバルには不思議でならない。
「オーケーだ」
先の通路を覗き込み、スバルは一行を手招きする。
どうやらこの先にバルコニーがあるのは本当だったらしい。明らかに、塔の外から来ていると思われる月明かりが差し込んでいた。
「あれならパトラッシュも通れそうだな」
「……以前来たときと様子が変わっているな。そもそも認識阻害の魔法によって通路は見えないはずなのだが」
「そうなのか?」
「ああ。おそらくだが、誰かがパトラッシュも通れるように通路を破壊したのだろう」
「それで認識阻害ってやつも壊れたのかもな」
追いついたエキドナも通路を覗き込むが、どうやらここも様変わりしているらしい。
というか、そのままではパトラッシュが通れないほどだったのか。本当に、綱渡りの作戦だったのだと理解させられる。
だが、ここまではその賭けに勝ってきた。
エキドナと顔を見合わせ、一つ頷くと、スバルは通路に向かって歩き出す。
その後ろを、手綱を握ったエキドナが、右手にはナイフを持ち、ついてくる。鞭を握るスバルの右手も、じっとりと汗ばんでいく。
バルコニーの入り口は、石レンガの壁が崩れ、扉くらいの大きさの穴が空いていた。これならパトラッシュも通り抜けられそうだ。
この角度から月は見えないが、月明かりに青白く照らされた通路が、場違いに幻想的だった。
「……行くぜ」
我知らず声を潜め、スバルはついにバルコニーへと歩みを進める。
ゆっくりと、一歩ずつ。周囲を伺いながら、慎重に進む。
視線の先、まず目についたのは血痕だった。ここでも激しい戦闘があったのだろうか。 人の身体くらいに広がった乾いた血だまりの周りに、点々とした血痕が散らばっていた。
死体が見当たらないあたり、どうにかこの場からは逃げ切ることができたのだろうか。放置すれば死ぬような怪我でも、治癒の魔法があればどうにかなるのかもしれない。スバルはそんな淡い期待を抱きつつも、心のどこかでそうした戦いの結末だけは理解してしまっていた。
「氷……滑り台か」
次に目についたのは、透明で巨大な氷の塊だった。月の光を反射し、つやつやと光って見える。
バルコニーを囲む柵は、スバルの胸までくらいの高さがある。だからだろうか、氷でできていたのは滑り台だけでなく――、
「階段?」
ご丁寧に簡易的な手すりまでつけられた、上りやすそうな氷の階段があった。それは多分、その先にある滑り台へとつながっている。
そうした気遣いはそれを作り出した人が、この滑り台を利用する人のことをどれだけ案じていたか、その性格を反映しているかのようだった。
戦いの激しさは想像を絶するものだっただろうに、その最中でも、彼女の生き方は変わらなかったのだ。
「エミリア……」
「ああ、彼女もまた、君とボクたちのために、最後まで戦ったということだ」
後ろから、エキドナが恐る恐るといった様子でバルコニーに入ってくる。彼女はナイフを両手で握り、周囲を警戒しながらもスバルに並ぶ位置まで歩いてくる。
「血痕……?」
大きな血痕が目に入ると、彼女は疑問符を浮かべる。
スバルは氷の階段に近づき、その先にあるはずの滑り台を確認しようとする。
「……あ?」
――滑り台は、鋭い断面で切断され、その先がなかった。
「っ! ナツキくん、罠――」
焦った声を上げたエキドナに反射的に振り返ったスバルは見た。
エキドナの胸から鋭い刃物が突き出しているところを。
「――がっ」
エキドナは一度苦しげな声を漏らし、鮮やかな血を吐いた。苦痛に見開かれた目は、胸から飛び出す刃物を信じられないように見ていた。血が、じわじわと彼女の白い服を赤く彩っていく。
やがてその目から、徐々に生気が失われていく。
「は?」
するりとその刃物が抜き取られると同時、エキドナは力なくドサリと倒れこむ。その音が、やけに遠く聞こえた気がした。
倒れた先に、新たな血だまりが作り出されていく。じわりじわりと、血が広がっていく。
「なんなんだ……なんなんだよお前は!」
今まさにエキドナを死傷せしめた下手人は、卑下た笑いを浮かべ、恍惚とした表情で舌なめずりする。そいつが腕に取りつけた刃物の先は、べっとりと血で濡れている。
小柄な、少年のような見た目だ。だがそいつの表情は、明らかに常人のそれではない。精神に常軌を逸したものを抱えている者の目をしていた。
――そうでなければ、この状況でスバルを親しげに見つめていることに説明がつかない。
「あれ? ピンとこないの、お兄さん? せっかく――僕が色々教えてあげたはずなんですけどねえ」
「――――」
半ば無意識に鞭を解き放ったスバル。そのとき、明確な敵対心を持って相対したはずのそいつの声色が、急にどこか見覚えがあるものに切り替わったような気がした。
俺は今、こいつから何を感じ取ったんだ?
「――っ!」
瞬間、そいつの姿がぶれたように見えた。スバルは慌てて鞭を振るおうとするが、何かがおかしい。
「……あ?」
視界がぐるりと周る。目に映ったのは塔、そして空だ。スバルの体は、後ろ向きに倒れているのだ。
それに気づいたスバルは、反射的に床に手を伸ばし、身体を支えようとする。
「いっ……」
うまく受け身をとれず、軽く手首を痛めた感触がある。
それがどうした。相手はどこに行った?
果たして、そいつはさっきと同じところに、同じような、否、さっきにも増して卑しい笑みを浮かべて立っていた。
「お前、何を……」
そう問いかけるスバルは、答えを聞く前に気づく。
――スバルの両足首のアキレス腱が、ぱっくりと切断されていた。
「――ぎ、があぁぁ!」
気づいた瞬間、思い出したかのように痛みの信号が脳に殺到する。
痛い、痛い、痛い、痛い。
ただ痛みだけが、そこにあった。痛みだけが、思考の全てを支配していた。
これまで生きてきて経験したどんな痛みも所詮偽物でしかなかったとあざ笑うような、激痛。
「いっ、あぁぁぁぁ――!」
自分の意思とは関係なく、スバルの喉は自らの絶叫で塞がれる。だがいくら叫びのたうち回ったところで、痛みは消えない。喉をからすように乱暴に叫んでも、歯を食いしばって呻くように叫んでも、痛みは、ずっとスバルにまとわりついて離れてくれなかった。
恐怖から辛うじて開かれた瞼は、涙で覆われていて景色を正しく映し出さない。
「――ッ!!」
「邪魔しないでほしい、なァ!」
鋭く勇ましい嘶きが響く。勢いよくパトラッシュがそいつに突っ込む。
だがそいつは、少し苛立ちつつも飛び上がり、こともなげにその突進をかわす。構うものかと、パトラッシュは尻尾で追撃を目論む。しかしその攻撃が相手に当たることはない。
「――ッ!!」
パトラッシュの柔らかい腹部に鋭い刃が突き刺さり、内臓が抉られる。苦鳴を上げるパトラッシュは、勢いよく血を流しつつも、なおもそいつに噛みつこうとする。かわされる。
「頑張るなァ、ここじゃあ『風除けの加護』も使えないってのにさァ!」
いたぶるように、地竜の体が切り刻まれる。だがパトラッシュはそれを顧みず、ただ主人を守るため、血を吐きながらその場で暴れ続ける。
「でも、地竜じゃ僕たちの腹は膨れない」
その抵抗は、無慈悲な一言とともに振りぬかれた一撃で、終わりを迎える。
首の大きな血管を狙うように刺し込まれた刃が引き抜かれると、膨大な血が流れる。そのダメージに、ついにその地竜は倒れる。
ドスンと、その質量にふさわしい音を立て、パトラッシュはやがて目を閉じる。
「質問の答えだけどさあ、自分で当ててもらわなきゃ面白くないよね?」
足首を両手で押さえ転げまわるスバルに、そいつは何でもないことのように会話を続ける。だが痛み以外の思考の自由を失ったスバルには、届くはずもなかった。
ただ、大きな黒い影がそいつを相手取っていたことだけは、理解できていた。
「だって――スバルくんは英雄なんですから」
瞬間、風音がして、スバルは後頭部に強い衝撃を感じたことに気づいた。
それ以外、何もわからなかった。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「――スバル! 起きたわ、オットーくん!」
「ナツキさん! 無事ですか!? どこかおかしいところはありませんか!?」
「ああぁぁ――ッ!」
「スバル!」
「ナツキさん!?」
「……あ?」
聞いたことのある声が脳に到達し、スバルはようやく絶叫していた理由をぼんやりと思い出す。
同時に、絶叫するだけの理由が失われていたことにも、気づく。
「スバル、何があったの!? どこか痛い? 苦しいの?」
「……え?」
「ベアトリス様、外傷は!?」
「さっきから確認しているけど何もないのよ! スバル、苦しいところがどこか言えるかしら?」
涙で覆われていたはずの視界は、今や鮮明になっている。というか、なぜかスバルは明るい部屋にいる。さっきまでの青く冷たい月明かりとは別世界だ。
極めつけは、目の前で焦ったように、真剣な目でこちらを覗き込む三人の姿だ。それは、さっきまで目の前に立っていた異常者とは似ても似つかない存在で――、
「……そうだ、足!」
スバルは突然ガバっと起き上がり、ズボンの裾をまくって自分の足首を確認する。
その行動に三人が驚き声を上げるが、スバルに気にしている余裕はない。
果たして、スバルの足首は――、
「あ?」
それは、何事もなかったかのように、健康的な足首だった。おまけに服にも血が滲んでいないどころか、斬られた跡すらない。
「痛いところは……もうなさそうだ。魔法で、治してくれたのか?」
どうやらここは相変わらず異世界のままで、病院のベッドの上ではなさそうだと理解したスバルは、三人の誰かが答えてくれることを期待して、そう問いかける。
それを受けたベアトリスは、安心と心配を合わせたような、気づかわしげな表情で答える。
「それは良かったかしら。けど、ベティーはどこも治療はしていないのよ。怪我なんて最初からなかったかしら」
そんなわけ、ないだろう。そうだとすれば、誰か別の人が治してくれたのか? あの状況で、誰がそんなことをできる?
そもそも――、
「ナツキさん、ゆっくりでいいですから、何があったか説明できますか?」
どうして、オットーがここにいるのか。
「うぷっ……」
「スバル!?」
瞬間、今のオットーと、あのときの凄惨な死体が重なり、フラッシュバックする。それが促す嘔吐感に、スバルはとっさに口を押さえる。
その背中を、三つの温かい感触が撫でる。急激にこみ上げた嘔吐感は、結局発散されず、もやもやした不快感を残しながら、ゆっくりと引いていく。
「わけが……わからねぇ……」
何があったか、説明してほしいのはこっちの方だ。
スバルはしばらく何も考えられないまま、肩で息をしていた。
【第31話での相違点】記憶喪失スバルが初めて誰かの死体を見るとき、一人じゃない。
今回もオリジナル展開です。
エキドナは、これだけ待っても誰も戻ってこなかったことから、作戦の失敗を予想していました。エミリアの死者の書が決定打になった形ですね。
この話を書いていて、襟ドナのヒロイン力の可能性に気づきました。某エキドナと違い、基本的に善人なんですよね。
バルコニーの入り口部分は破壊できるのかという部分は、色々ご意見あるかと思いますが、アニメの描写で塔の崩落が見えたのでおそらく破壊可能だと判断しました。