盗品蔵の分厚い扉の前に立った瞬間、レイジの背筋に冷たい氷の刃を押し当てられたような戦慄が走った。それは、先ほどスラムの住人たちに向けて放ったレイジ自身の殺気とは質の違う、もっとどろりとした、「純粋な殺戮の愉悦」が混じった気配だった。
「待て」
レイジは短く制し、エミリアを自分の背後に下がらせた。
「レイジ……? 急にどうしたの?」
「嫌な気配がする。……この先にいるのは、ただの泥棒じゃない。……『死』を愛してるタイプの化け物だ」
「ボクも同感だね。空気のマナが怯えてる。リア、ボクから離れちゃダメだよ」
パックもいつになく真剣な表情で、レイジの肩越しに扉を見据える。
レイジは腰のなまくら刀の柄を、今度は威圧のためではなく、文字通り「命を預ける相棒」として力強く握りしめた。
その時、懐の『愚者』のカードが、警告を発するようにドクンと一度、鼓動を打つ。
「おい、一つだけ約束しろ」
「……え?」
「何が起きても、俺の背中から離れるな。……たとえ俺が血塗れになっても、だ」
「レイジ、それって……」
「……あんたのその綺麗な髪を、赤い汚れで汚したくない。……俺が言いたいのは、それだけだ」
レイジはダウナーな視線のまま、けれど決して揺るがない決意を込めて、ギィ、と音を立てて盗品蔵の扉を押し開けた。
月の光が天窓から差し込み、蔵の中を不自然に照らしている。
その光の中に、巨体の男が、自らの血の海の中で倒れていた。
「ロム爺!?しっかりしろロム爺!」
金髪の少女の悲鳴、おそらく徽章を盗んだ張本人。
だが、レイジの視線はそこにはない。
もっと暗い、影が濃く落ちる部屋の隅。そこに、「それ」はいた。
月光が差し込む窓の下に座り、ククリ刀を愛おしそうに磨く、一人の女の影。
「あら……。ようやく届いたのかしら? 待ちくたびれて、はらわたが捩れそうだったわ」
闇の中から響く、甘く、それでいて吐き気を催すほど残酷な声。
レイジは折れた愛刀の鞘を僅かに鳴らし、その殺人鬼――『腸狩り』エルザを正面から見据えた。
(……マズいな。想像以上だ)
レイジの背筋に、冷たい汗が伝う。
今の自分は力の大半を封じられた「なまくら」だ。一方、目の前の女は、この世界の道理を外れた「怪物」。
だが、レイジは引かなかった。
背後で震えるエミリアの気配が、彼の魂を、無理やり戦場へと引き戻していた。
「パック。……あんたの飼い主を死なせたくなかったら、全力で合わせろ」
「……言われなくても! この子、ヤバすぎるよ、レイジ!」
パックが空中で毛を逆立て、戦闘態勢に入る。
エルザが、獲物を見つけた獣のような瞳で、不敵な笑みを深く刻んだ。
「さあ、見せてちょうだい。……あなたの内臓、どんな色をしているのかしら?」
シュンッ!
爆音と共に、エルザの姿が掻き消えた。
こうして、やり直しの効かない「死闘」の幕が上がった。
月光の差し込む盗品蔵。その静寂を切り裂いたのは、言葉ではなく鋼の衝突音だった。
エルザの踏み込みは、もはや「歩法」と呼べる代物ではない。影が伸びるよりも速く、彼女のククリ刀がレイジの首筋へと肉薄する。
レイジは微動だにせず、腰のなまくら刀を「鞘に入れたまま」水平に突き出した。
「キィィィイン!」
鋭い金属音が蔵に反響する。鞘の鯉口付近でククリ刀の腹を叩き、強引に軌道を数ミリ逸らした。首筋を熱い風が通り抜ける。
「あら、そんな棒切れで私の刃を? ……いい感触。もっと硬いのを見せて」
エルザの追撃は、重力を無視した逆立ちの姿勢からの回し蹴り。レイジはそれを左腕の甲で受け流すが、衝撃で腕の芯が痺れる。
(……チッ、重いな、どんな筋力してやがる)
レイジは舌打ちしながら、逆に一歩踏み込んだ。
相手が「刃」のリーチを活かそうとするなら、その内側――「懐」こそが最も安全な死角だ。
「——っ!」
レイジは鞘を盾にしながら、エルザの胸元に掌打(しょうだ)を叩き込む。合気の要領で彼女の勢いをそのまま返し、心臓へ衝撃を浸透させる「浸透勁」。
ドォォン、と重い打撃音が響き、エルザの体が僅かに浮く。
だが、彼女は空中で無理やり体を捻り、折れた肋骨の痛みすら悦びに変えたような笑みを浮かべた。
「ふふ、心臓が止まるかと思ったわ。お返しに、あなたの指でも貰おうかしら!」
エルザのククリ刀が、レイジの握る「鞘」の隙間、指の関節を狙って精密に奔る。
レイジは瞬時に刀を垂直に立て、柄頭(つかがしら)でククリ刀の平を打ち据えた。火花がレイジの瞳を焼き、鋼の擦れる嫌な匂いが鼻を突く。
二人の動きは、もはや常人の動体視力を超えていた。
レイジは「見ている」のではない。かつて幾多の強敵と渡り合った経験が、空気の揺らぎからエルザの次の「殺意」を逆算し、体が勝手に最適解を導き出していた。
エルザが跳ね、壁を蹴り、天井から糸を引くような斬撃を繰り出す。
レイジはそれに対し、一切の無駄を排した足運びで、最小限の回避と同時にカウンターの肘打ちを彼女の顔面へ放つ。
「ガッ……!」
鼻腔から血を噴き出しながら、エルザはさらに笑いを深くした。
レイジの服はあちこちが切り裂かれ、その隙間から覗く肌に赤い線が刻まれていく。一方、レイジの放つ打撃は確実にエルザの肉を潰し、骨を断っているはずだった。
だが、彼女は止まらない。
傷を負うたびに再生し、速度を増す怪物。
対して、レイジの「なまくら」は、衝突のたびに鞘に亀裂が入り、中にある錆びた刀身が断末魔のような軋み声を上げていた。
「……ハァ、ハァ……。しぶとい、おい。あんた、本当に人間か?」
「失礼ね。私、これでも乙女なのよ? ……さあ、次はどの部位を壊し合いましょうか」
レイジは血の混じった唾を吐き捨て、再び低く構えた。
腕は重く、視界は僅かに霞み始めている。だが、その瞳に宿る冷徹な光だけは、エルザの狂気に一歩も引けを取っていなかった。
「――そこまでだよ!」
パックの叫びと共に、数十、数百という極小の氷の礫が、弾丸のような速度でエルザに襲いかかる。
「あら……!」
エルザは空中に跳び避けようとするがパックの放つ「氷の弾幕」は執拗に彼女を追い詰めていく
「レイジ、今だ! ボクが道を拓くよ!」
レイジは、パックの放つ魔法の軌道を瞬時に読み取っていき、氷の礫が作る「弾幕の隙間」をまるであらかじめ知っていたかのように迷いなく駆け抜ける。
それは、マナの波長すらも見切っているかのような、異次元の連携。
「すごい……! 君、ボクの魔法を完全に読んでるね!」
「喋る暇があるなら、もっと弾を増やせ、猫!」
レイジは踏み込みと同時に、エルザの着地地点を先読みして、なまくら刀の鞘を彼女の脇腹へ叩き込む
「ドォォン!」と重い衝撃音が響き、骨が砕けるような鈍い音を立てながらエルザの体が壁際まで吹き飛んでいき、パックが追撃の巨大な氷塊を叩きつける。
物理的な打撃と、超常の魔法。二人の「格」が噛み合った波状攻撃に、さしもの殺人鬼も初めて防戦一方となった。
「あはは! 素敵……精霊と、名もなき死神の共演。最高にぞくぞくするわ!」
エルザは自らの肉体が砕ける音を楽しみながら、空中で姿勢を立て直し、ククリ刀で氷弾を切り裂いていく
レイジは一瞬の隙も与えず、再び彼女の懐へと潜り込み、パックが上空から冷気の渦でエルザの動きを鈍らせ、その鈍った瞬間をレイジが確実に、冷徹に「技術」で抉り取る
(……だが、長くは持たない)
レイジは、背後で震えるエミリアの気配と、パックの消耗を感じ取ってた。
「レイジ、あの子、再生速度が上がってる。ボクのマナが尽きる前に、決めないと……ッ!」
「……あぁ。わかってる」
レイジは血の混じった息を吐き、右手の「鞘」を握り直す、連携は完璧。だが、エルザという「怪物」を仕留めるには、この世界の道理を超えた「何か」が、あと一押し足りない
パックのマナが底を突き、蔵を支配していた極寒の渦が霧散した――その一瞬の空白。
「――隙あり、ね」
エルザの瞳が、狂気的な悦びに細まる。彼女は疲弊したレイジを無視し、最も「壊しがいのある」獲物へと牙を剥いた。
標的は、背後で祈るように戦いを見守っていたエミリア。
エルザが床を蹴り、弾丸のような速度で肉薄する。ククリ刀の銀光が、無防備なエミリアの喉元へと吸い込まれていく。
「リア、あぶな――!」
パックの警告さえ、その速度には追いつかない。
(……あぁ、クソ。結局、身体が先に動いちまう)
レイジは思考を放棄した。
かつて何度も繰り返した、あの「愚かな選択」を。
「——っ、させねぇよッ!!」
エミリアが悲鳴を上げる暇さえ与えず、レイジは彼女の視界を塞ぐように割り込んだ。
回避も、防御も間に合わない。レイジは迷わず、自らの左腕を「肉の盾」として差し出した。
――ズぶり、と。
肉を断ち、骨を削る、吐き気を催すような生々しい音が静かな蔵に響き渡る。
ククリ刀がレイジの左腕を半ばまで引き裂き、噴き出した鮮血がエミリアの頬を熱く濡らした。
「レイジ……っ!? あなた、どうして……!」
「……黙ってろ。……かすり傷だ」
レイジは痛みで白濁しそうになる視界を、強靭な精神力で繋ぎ止める。
だが、エルザの猛攻は止まらない。獲物の「はらわた」の代わりに「腕」を斬らされた彼女は、狂ったように笑いながら、レイジが構えていたなまくら刀へ渾身の力で斬りつけた。
――パキン。
絶望的な音と共に、鞘が弾け飛び、錆びついた刀身が中央から無残に粉砕される。
折れた刃の破片が、スローモーションのように宙を舞った。
「さようなら、勇敢な殿方。……その腸、じっくり見せてもらうわね」
エルザのククリ刀が、レイジの眉間へと振り下ろされる。
パックはマナ切れで動けず、エミリアは絶望に目を見開く。
だが、その極限の「死」の淵で、レイジの魂が吼えた。
(……誰かが目の前で『叫ぶ』のは、もう見飽きたんだ)
レイジは血塗れの左腕を無造作に下げ、懐から取り出した真っ白な『愚者』のカードを、指先で粉々に叩き割った。その瞬間。
『――おかえりなさい、最高のお客様。更生の続きを、始めましょうか』
脳裏に響く、懐かしくも凛とした少女の囁き。
世界の音が消え、静寂が訪れる。折れた刀の破片が、レイジの周囲で青い精神の炎となって爆発した。
「——因果を断ち切れ、『天羽々斬』!」
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カードを粉砕した瞬間、エルザの振り下ろした刃が、レイジの鼻先数ミリで「停止」した。
いや、止まったのではない。レイジを取り巻く青い精神の炎が、物理的な干渉を拒絶する絶対的な領域を形成したのだ。
世界の音が、遠のく。
代わりに、レイジの脳裏にだけ劇場の幕が上がるような重厚な旋律が響き始めた。
レイジが血塗れの左腕を振り払うと、盗品蔵のボロボロの床が、ひび割れたベルベット色の劇場の舞台へと塗り替えられていく。
宙に舞っていた「折れた刀の破片」が、重力に逆らってレイジの手元へと吸い寄せられた。
「――目覚めろ」
レイジの声は、低く、冷徹に響く。
背後に立ち昇る炎が、巨大な影を形作った。武者鎧を纏い、背後には後光のように幾振りもの刃を円環状に浮かべた、救世の化身。
化身がその豪奢な腕を伸ばし、レイジの持つ折れた刀の「柄」を握る。
その瞬間、破片が光の粒子となって結合し、かつて神を討ち果たした伝説の霊剣が、青き精神の刃として再構築された。
「な、に……これ……!?」
エルザが初めて、その瞳に「未知への恐怖」を浮かべた。
彼女が回避を試みるより早く、天羽々斬が巨大な霊剣を一閃させる。
それは肉を斬るための刃ではない。
そこに存在する「破滅の運命」そのものを切り裂く、概念の断罪。
ズドォォォォンッ!
衝撃波が盗品蔵を揺らし、エルザの持つククリ刀が、その「圧」だけで飴細工のように粉々に粉砕された。
彼女の体は、修復不能なダメージを精神に刻まれながら、蔵の厚い壁を紙細工のように突き破って外へと吹き飛んだ。
「更生の時間だ。席を外すのは、……まだ早いだろ?」
立ち昇る青い炎の中で、レイジは相変わらずダウナーな、けれど底知れぬ威圧感を湛えた瞳で、エルザの消えた闇を見据える。
背後のエミリアとパックは、あまりの神々しさと異質さに、言葉を失って立ち尽くしていた。
劇場の旋律が静かに消えていき、再び王都の夜の静寂が戻ってくる。
そこへ、壁の崩落音を聞きつけた「最強の騎士」が駆け込んでくるのは、その数秒後のことだった。
「そこまでだ。……少し、騒ぎが大きすぎるようだね」
月光を背負って現れたのは、燃えるような赤毛の騎士――ラインハルト・ヴァン・アストレア。
その場にいる全員が、彼の放つ圧倒的な「正義」の気配に息を呑んだ。ラインハルトの澄んだ瞳が、一瞬で場を支配する。彼は倒れたロム爺、怯えるフェルト、そして――レイジの背後に立つ、異質な威圧感を放つ『天羽々斬』に視線を止めた。
「……君は」
「騎士様。いいところに来たな」
ラインハルトの驚愕を遮るように、レイジは短く息を吐いた。
レイジは指を弾き、あんなに圧倒的だった『天羽々斬』を、名残惜しそうに揺れる青い霧へと変えて消散させる。粉砕したカードの残滓もまた、夜の闇に溶けていった。
レイジは戦いなど最初からなかったかのような足取りで、ラインハルトの横を通り過ぎ、呆然とするエミリアの方へと歩き出した。
「え……レイジ、あなた?」
「仕事だろ、あんたの。そこのイかれ女はまだピンピンしてる。……あとは任せた」
肩越しに投げた言葉は、信頼というよりは面倒事を押し付けたという響きが強かった。
ラインハルトは一瞬、虚を突かれたように目を丸くしたが、すぐに状況を理解してエルザの方へと向き直す
「承った。あとのことは心配いらない、勇敢な騎士よ。……名前を伺っても良いかい?」
「レイジだ。あと、そいつはしぶといぞ。根元から『因果』を絶たない限りな」
レイジは振り返りもせず、座り込んで震えていたエミリアの前に膝をついた。
「……怪我はないか」
「え、ええ……大丈夫。でも、レイジ、あなたの腕!」
エミリアがレイジの血塗れの左腕を見て、顔を青くして手を伸ばす。レイジはそれを煩わしそうに手で制し、代わりに自分の服の裾を使って、彼女の頬に飛び散っていた自らの血を、乱暴に、けれど丁寧に拭った。
「俺はいいから、自分の心配をしてろ。あんたの綺麗な顔が台無しだ」
「……レイジ……」
「……まったく、お節介を焼くのも楽じゃないな」
背後でラインハルトが振るった一撃が盗品蔵を揺らし、凄まじい衝撃波が吹き荒れる。だが、レイジは眉一つ動かさず、ただ目の前の少女が震えていないかだけを確認していた。その瞳は相変わらず冷めているが、エミリアに触れる手だけは、彼女の震えを止めるように静かに添えられていた。
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ラインハルトは、逃げようとするエルザの前に、音もなく立ち塞がった。
「逃がしはしないよ。……これ以上、彼に血を流させるわけにはいかないからね」
対峙したエルザの顔に、いつもの余裕はない。レイジが天羽々斬で放った「因果を断つ一撃」は、彼女の魂に深い亀裂を入れていた。
「……変ね。傷が塞がらない。あの死神は……私に何をしたのかしら」
「はああああッ!」
エルザが最後の一振りを繰り出す。折れたククリ刀の残骸をマナで補強し、執念の一撃を放つが、ラインハルトは避けることすらしない。
彼は腰にある伝説の剣『龍剣レイド』には手をかけず、そこらへんに落ちていた「手頃な鉄屑」を拾い上げた。
ラインハルトがその鉄屑を振るった瞬間、大気が絶叫を上げ、盗品蔵に残っていたすべての空気が押し出される。
「——一撃で、終わらせる」
ラインハルトが放ったのは、ただの素振りだ。だが、その一振りによって生じた衝撃波は、エルザの再生能力を上回る密度で彼女の肉体を「概念ごと」粉砕した。
「……あぁ、なんて。……なんて無慈悲な、光なのかしら」
エルザの体は背後の壁を突き破り、王都の夜の闇へと吹き飛んだ。
本来なら死に至る一撃。だが、彼女は執念でその崩壊を食い止め、夜の帳の中へと姿を消した。
「仕留め損ねたか。いや……」
ラインハルトは、自分の振るった剣の感触に違和感を覚えていた。
「彼女の『死』は、既に彼によって半分以上確定していた……。僕はただ、背中を押したに過ぎないのか」
ラインハルトは手に持っていた鉄屑が粉々に砕け散るのを見届け、ゆっくりと振り返った。
そこには、自分に関心すら示さず、エミリアの介抱を続けるレイジの背中があった。