ネイティブ少女のスラムの世界へようこそ 作:Geminiちゃん痛くしないで
中学校
Side:中学校の英語教師
教育者として十余年、私は「言葉」というものの力を信じて疑いませんでした。言葉は人と人を繋ぎ、未知の世界への扉を開く鍵であると。しかし、あの日、私の中の「教育」という概念は、一人の美少女の手によって粉々に粉砕され、二度と修復不可能な形に歪められてしまったのです。
白雪ひなさん。
その名前から連想される通り、彼女は純白の雪のような、あるいは春の陽だまりに咲く雛菊のような、非の打ち所のない美しさを持っていました。転入初日、教室のドアが開いた瞬間にクラスの空気が凍りついたのを覚えています。綺麗なプラチナブロンド、陶器のような肌、そして慈愛に満ちた深い青色の瞳。彼女がそこに立っているだけで、湿った中学校の教室が、まるでルネッサンス期の宗教画に描かれる聖域のように見えました。
「アメリカから来たばかりなんです。日本語はまだ少し不慣れですが、よろしくお願いします」
鈴の音のような、澄み切ったソプラノ・ボイス。私は心の中で快哉を叫んでいました。なんて素晴らしい幸運でしょう。本場の、それもこれほどまでに気品に満ちた生きた英語を、生徒たちに聴かせてあげられる。彼女こそが、私のクラスに「真の国際理解」をもたらす天使なのだと、その時の私は愚かにも確信していたのです。
それが、人類の言語史における「最凶の惨劇」、あるいは神が仕組んだ質の悪い「喜劇」の幕開けになるとも知らずに。
事件が起きたのは、彼女が転入して三日目、英語の授業でのことでした。
私は、教科書の標準的な会話文を範読させるため、迷わず彼女を指名しました。
「……じゃあ、ここの一節を、白雪さん。読んでみてくれるかしら?」
期待に胸を膨らませた私と、憧れの眼差しを向ける生徒たち。ひなさんは「はい!」と、それはそれは可愛らしく、小鳥が羽ばたくような軽やかさで立ち上がりました。その微笑みは、まさに地上に舞い降りた聖女そのものでした。
しかし、彼女が口を開いた瞬間、私の世界の色彩は反転しました。
「Oh, you want me to read this shit? Alright, listen up, you goddamn beautiful bastards.」
(訳:ああ、このクソを読めって? 了解だ、よく聞けよ、このクソ美形の野郎共)
「…………え?」
私の手から、愛用の教本が音を立てて滑り落ちました。
教室内には、暴力的なまでの流暢さ、完璧なネイティブ・アクセントが響き渡ります。英語の意味を理解できない生徒たちは、「うおお、発音すげえ!」「やっぱり本場は違うな、かっこいい!」と、興奮した面持ちで拍手さえ送りかけていました。
しかし、英語を、そしてその「背景にある文化」を学んできた私にとって、それは鼓膜から脳漿へ直接流し込まれる猛毒に他なりませんでした。
パンドラの箱は、一度開かれたら最後、閉じることはできません。
ひなさんは、そのまま教科書の音読を続けました。いえ、それはもはや「音読」などという生易しいものではありません。彼女の中に眠る「パパの教え」という名の汚濁が、一行ごとに猛烈な勢いでトッピングされていく、破壊的なアドリブ・ショーでした。
「"The apple is on the table."... Are you fucking kidding me? Who gives a shit about an apple! This textbook is a piece of fucking garbage, you motherfucking scumbags!」
(訳:『リンゴが机の上にあります』……。ふざけてんのか? リンゴが何だってんだ! この教科書はただのクソの塊だぜ、このマザーファッカーなクズ野郎共!)
彼女の声は、どこまでも澄み渡っていました。まるで清らかな泉の水が岩肌を叩くような、美しい響き。
しかし、そこから紡ぎ出されるのは、デトロイトの最深部や、屈強な囚人たちが集う刑務所の食堂でさえ、血の気の多いマフィアが顔を青くして「おい、言葉を慎め」と窘めるレベルの、汚濁を極めたスラングの濁流でした。
何より私の精神を削ったのは、彼女の表情です。
彼女は、満面の笑みを浮かべていたのです。
クラスメイト一人一人と慈愛に満ちた視線を合わせ、最高にハッピーな「善意」と「親愛」の微笑みを絶やさず、人類の尊厳を根底から否定し、倫理を焼き尽くすような罵倒を、完璧なイントネーションで連射している。
彼女にとって、それは「英語によるコミュニケーション」という名の、最上級の親切だったのでしょう。
「Stay gold, you piece of shit! Peace out!」
(訳:そのまま輝き続けろよ、このクソ野郎! あばよ!)
最後の一句を読み終えた彼女は、キラキラと輝く美しい汗をそっと拭い、大きな仕事をやり遂げた達成感に満ちた顔で、淑やかに着席しました。
「………………」
教室内には、巨大な台風が通り過ぎた後のような、奇妙で濃密な静寂が訪れていました。
英語がわからない生徒たちは、ただただその「迫力」に圧倒され、「なんか最後、ピースって言ってたよな? 平和最高!みたいな感じか?」「さすがひなちゃん、情熱的でかっこいいよ!」と、純粋無垢な、そして残酷な拍手を送っていました。
でも、私は動けませんでした。指先一つ、動かす自由を奪われていたのです。
彼女が放った、まさに「放送禁止用語の役満」とも言うべき語彙の数々を、職業病ゆえに脳内で自動翻訳しようとした私の理性が、耐えきれずにショートしたのです。
これは、スラムの英語ですらありません。
戦場と、刑務所と、地獄の最下層をミキサーにかけて、隠し味に天使の粉を振りかけたような、既存の言語学では定義不可能な「未知の何か」です。彼女がこれまでどんな環境で、どんな「パパ」に育てられたのか。それを想像しただけで、私は底なしの深淵を覗き込むような恐怖に襲われました。
私は教卓の前で、口を半開きにしたまま、五分間立ち尽くしました。時計の針が刻む音だけが、私の崩壊していく理性を嘲笑うように響きます。
不意に、彼女と目が合いました。
彼女は、小首をかしげ、これ以上ないほど無垢な、聖母のような笑顔を向けてきました。
「先生、私の英語、パパみたいにクールでしたか?」
その瞳には、一欠片の悪意も、嘲笑もありませんでした。ただただ、大好きな父親から教わった「最高の言葉」を披露できたという、子供のような無邪気な喜びだけが満ち溢れていました。
「……今日は……自習にします……」
ようやく動いた私の手は、ガタガタと震えるチョークで、黒板にそう書き残すのが精一杯でした。
それからのことは、あまりよく覚えていません。
気づけば私は、保健室のベッドに横たわり、天井を眺めていました。養護教諭が心配そうに声をかけてくれましたが、私の耳には、あの透き通ったソプラノ・ボイスで再生される「motherfucker」という言葉が、呪いのようにリフレインし続けていました。
彼女はその後、私が「非常に特殊な地域の方言だから、学校では使わないようにしようね」と、涙ながらに(物理的に涙を流しながら)説得したことで、少しずつ言葉遣いを改めてくれました。しかし、彼女の「善意の罵倒」がクラスに浸透するのを完全に防ぐことはできませんでした。今や、私のクラスの生徒たちは、休み時間に笑顔で「Hey, scumbag!」と挨拶し合う、地獄のようなコミュニケーションを確立してしまったのです。
あの日以来、私は英語の教科書を開くたびに、手の震えが止まりません。
「Hello.」という文字を見るだけで、その背後に隠された「listen up, you piece of garbage」という幻聴が響き、胃のあたりがキリキリと痛み出すのです。
白雪ひなさん。
彼女は今も、クラスの聖女として、そして最凶のスラング・マスターとして、眩いばかりの笑顔を振りまいています。
私は今日も、教壇に立つ恐怖と戦いながら、祈るような気持ちで授業を始めます。どうか、今日の授業では、新たな「パパの教え」が炸裂しませんように、と。
「教育」とは何でしょうか。「言葉」とは何でしょうか。
その答えを、私はまだ見つけられずにいます。ただ一つ言えるのは、あの日の授業で、私の中の何かが決定的に「Peace out」してしまったということだけなのです。