茶柱が踏み込んだ急ブレーキの衝撃は、単に車両を止めただけではなかった。
それは、ようやく学校という一つの地獄を抜けたと思っていた生徒たちの意識を、
もう一度、容赦なく現実の只中へ叩き戻す一撃でもあった。
車体が前のめりに大きく沈み込み、
座席に体を預けていた者たちは反射的に前方へ投げ出されそうになり、
シートや手すりや近くの仲間の肩へと咄嗟に手を伸ばす。
疲労が蓄積しきった身体には、その程度の揺れですら重く、
骨の芯にまで響くような負担だった。
「どうしたの!?」
最初に声を上げたのは堀北だった。
その声はいつものように張りがあったが、
そこにはわずかに隠しきれない焦燥も混じっている。
無理もない。
学校からの離脱は成功した。
それ自体が奇跡に近かった。
だからこそ、ここで再び何かに行く手を阻まれるという事態そのものが、
希望の芽を踏みにじるような悪質さを持っていた。
綾小路も、高円寺も、龍園も、坂柳も、ほとんど同時に前方へ視線を向けた。
それぞれ反応の仕方は違う。
堀北は緊張に肩を固くし、龍園はわずかに目を細め、
高円寺はどこか観察するような面白がり方を隠さず、
坂柳は静かに情勢を見極めようとしていた。
だが、誰の目にも、映るものは同じだった。
そこにいたのは、武装した兵士たちだった。
陸上自衛隊。
さらに、警察の特殊部隊と思われる装備の男たち。
防弾装備に身を固め、整然と配置され、
車両を中心にきれいな包囲陣形を形成している。
その銃口は、一切の迷いなくこちらへ向けられていた。
威嚇ではない。
牽制でもない。
必要ならば即座に制圧し、排除する。
そんな明確な意志が、その構え方一つから伝わってくる。
車内の空気が変わる。
つい先ほどまで、崩壊する学校からどうにか脱出し、
生き残ったことへの安堵がわずかに漂っていた。
誰もが極限まで消耗し切り、それでもまだ自分たちは終わっていないのだと、
半ば無理やりでも思おうとしていた。
だが、その薄い膜のような安堵は、この光景一つで一瞬にして消し飛んだ。
助かったわけではなかった。
地獄を出たと思った先に、別の地獄が口を開けていた。
ただそれだけだった。
「……冗談でしょ」
軽井沢が掠れた声で呟く。
その声には、怒りや苛立ちよりも先に、
もはや笑うしかないという種類の絶望が滲んでいた。
彼女だけではない。
誰もがすぐには言葉を発せなかった。
疲れ果てた精神に、これ以上の緊張を受け止める余力がないのだ。
それでも綾小路だけは、車両のドアを開け、静かに外へ降りた。
その動作に迷いはなかった。
もはやここで隠れる意味も、車内に留まる意味もないと判断したのだろう。
顔色は良くない。
服には土と埃と乾いた血がこびりつき、
戦闘と逃走の連続で生じた細かな傷もいくつも残っている。
それでも彼は、その疲弊を外には出さなかった。
足取りは揺れず、視線は前だけを見ている。
その姿は、疲労を超えて、どこか異様だった。
人間が極限まで追い込まれたなら、
普通はもっと呼吸が荒くなり、判断も鈍り、感情が表に出る。
だが綾小路清隆は、それを見せない。
極限の中でも、まるで一枚、
透明な膜を隔てたところにいるような無機質さを保っている。
兵士たちの列が、わずかに割れる。
その中心から、一人の男が現れた。
鬼島内閣総理大臣。
高度育成高等学校の創設者であり、この一連の惨劇の根幹にいる男。
テレビの中では、老獪だが温厚で、
国家運営に長けた理性的な指導者として映ることもあった。
だが、こうして目前に現れたその男から漂う印象は、
画面越しのそれとは明らかに異なっていた。
穏やかだ。
それも不自然なほどに。
校舎が崩壊し、無数の生徒と教師が命を落とし、
生存者たちが文字通り命からがら逃げ延びてきた、その直後だ。
普通なら、どれほど冷静な人間でも、
少なくとも表面上の動揺や緊張くらいは見せる。
だが鬼島にはそれがなかった。
むしろ、その口元には柔らかな笑みすら浮かんでいる。
すべてが予定通りに進行しているとでも言いたげな、
あまりにも落ち着いた笑みだった。
「綾小路清隆くんをお迎えに参りました。大人しく投降して頂きたい」
その声は、優しい。
あまりに優しい。
それがかえって不気味だった。
その言葉に、誰もすぐには反応できなかった。
一之瀬も、軽井沢も、須藤も、櫛田も、松下も、橋本も、
ひよりも、石崎も、伊吹も、アルベルトも、鬼龍院も、茶柱も。
そして堀北も、高円寺も、龍園も、坂柳ですら。
全員が息を呑んだ。
綾小路一人を指名した。
それはつまり、ここまでの惨劇も、学校崩壊も、大量の感染者も、生存競争も、
そのすべてが、少なくとも鬼島の中では綾小路清隆へ繋がる工程の
一部にすぎなかった可能性を意味している。
終わっていない。
まだ。
この地獄は、まだ。
そんな沈黙の中で、ただ一人。
綾小路清隆だけが、無機質な無表情のまま鬼島を見ていた。
そして、静かに一言だけ言う。
「最後にオレが勝っていればそれでいい」
低く、静かで、感情の起伏をほとんど含まない声。
だがその一言は、この場にいる全員の神経を刃物のように切り裂いた。
それは反抗でも、虚勢でもなかった。
もっと乾いた、もっと確定的な宣言。
条件はただ一つ。
最後に勝てばいい。
途中で何を失おうと、どれだけの地獄を潜ろうと、
結末さえ支配できればそれでいい。
そんな綾小路らしい、冷え切った戦闘意思の表明だった。
鬼島の笑みが、ほんの僅かだけ深くなる。
まるで、その答えを期待していたかのように。
だが、その時だった。
遠くから、いや、上空から、低く重い音が響き始めた。
最初は誰も、すぐにはそれが何かを理解できなかった。
すでに神経が張り詰めすぎていたせいで、
新たな異音に対する認識が一歩遅れる。
だが次の瞬間、その音は急速に明瞭さを増し、
空気そのものを振るわせるような圧力を伴って全員の上へ降ってきた。
ヘリコプターのプロペラ音。
しかも、ただの輸送ヘリではない。
もっと重く、もっと攻撃的な響き。
兵士たちの顔色が変わる。
隊列の一部が上空を見上げ、誰かが叫ぶ。
「攻撃ヘリだ!」
その一言で十分だった。
鬼島のすぐ近くにいた自衛隊指揮官と思しき男が、
即座に鬼島の腕を取り、後方の車両へと押し込むようにして退避を始める。
それは、上空から接近する存在が味方ではないと、
彼ら自身が理解している証拠だった。
「総理を下がらせろ!全員撤退――」
命令は最後まで続かなかった。
攻撃ヘリが視界へ滑り込んでくる。
黒煙を裂くように現れた機体は、
まるで最初からこの場を見下ろしていた捕食者のようだった。
機体側面に搭載されたバルカン砲の砲身が、
明確な意志を持って地上の兵士たちへ向けられる。
ロックオン。
そうとしか表現しようのない、冷たい確定の気配が空間に走った。
次の瞬間、轟音が炸裂した。
バルカン砲の連射は、単に弾丸を撃ち出すという域を完全に逸脱していた。
それはもはや「射撃」ではなく、空間そのものを削り取る破壊の奔流だった。
回転する砲身から吐き出される弾丸は、直線ではなく帯となって走り、
空気を裂き、圧縮し、衝撃波を伴って地上へ叩きつけられる。
その瞬間、空気が悲鳴を上げた。
耳をつんざく轟音は音として認識される前に身体を殴りつけ、
肺の奥にまで振動が侵入し、呼吸すら一瞬で奪い取る。
地面が跳ねる。
舗装されたアスファルトが爆ぜるように砕け、
破片が無数の弾丸とともに周囲へ撒き散らされる。
兵士たちの隊列は、反撃という概念に至る前に崩壊した。
銃を構えるという動作すら許されず、
立っていた場所ごと削り取られるようにして消し飛ばされていく。
防弾装備など意味をなさない。
衝撃は貫通ではなく文字通り「粉砕」であり、
当たった瞬間に肉体そのものが形を保てなくなる。
視界は土煙と火花と破片で埋め尽くされ、
どこに敵がいるのかすら判別できないまま、ただ一方的な破壊だけが降り注ぐ。
それは戦闘ではなかった。
ただの殲滅だった。
わずか数秒。
それだけで、完全包囲していたはずの戦力は跡形もなく消え失せ、
そこには抉り取られた地面と、焼け焦げた痕跡のみしか残らなかった。
銃声、悲鳴、怒号、金属音、破壊音。
あらゆる音が混ざり合い、しかし次の瞬間にはすべてが掻き消される。
攻撃ヘリの制圧は徹底していた。
一方的で、容赦がなく、時間すらほとんど与えない、圧倒的な暴力だった。
綾小路たちは、その光景をただ見ることしかできなかった。
堀北は目を見開いたまま言葉を失い、
坂柳はさすがに表情を曇らせ、龍園でさえ一瞬だけ口元を引き結ぶ。
須藤も石崎も、普段の勢いを失って完全に呆然としていた。
ひよりは小さく息を呑み、一之瀬は自分の見ているものが
現実なのか疑うように視線を揺らし、櫛田は唇を噛んで固まっている。
やがて、連射が止む。
耳に痛いほどの静寂が落ちる。
風が吹き、土煙が流れていく。
そこに残っていたのは、先ほどまで綾小路たちを取り囲んでいた
完全武装の部隊の、沈黙した残骸だけだった。
誰一人として立っていない。
誰一人として銃を構えていない。
包囲網は、ほんの十数秒前には確かに存在していたはずなのに、
今はもう跡形もなく崩されていた。
「……助かったの……?」
一之瀬が呟く。
だが、それは安堵の言葉ではなかった。
何が起きたのか理解できず、ただそう口にするしかなかっただけだ。
「いや、助かったっていうより……」
須藤が乾いた喉で続ける。
「……今度は何なんだよ、これ」
その疑問は、ここにいる全員のものだった。
攻撃ヘリはゆっくりと高度を下げ、綾小路たちのすぐ前に着陸した。
巻き上がる風が全員の髪と衣服を激しく煽り、地面の埃を舞い上げる。
それでも誰も逃げない。
逃げるという発想そのものが、もはや状況に追いつかなくなっていた。
ハッチが開く。
そこから姿を現した人影を見た瞬間、堀北の目が大きく見開かれた。
「……兄さん!?」
堀北学。
そして、その隣に立つ橘茜。
かつて高度育成高等学校を卒業し、すでにこの舞台から去ったはずの存在。
その二人が、攻撃ヘリと共に現れた。
しかも、鬼島の包囲網を強引に打ち破る形で。
学はゆっくりとこちらへ歩いてくる。
その歩みには焦りがなかった。
まるでこの状況そのものを、ある程度予測していたかのように。
橘もまた同様で、無駄な視線の揺れ一つなく周囲を確認しながらついてくる。
「どうやら間に合ったみたいだな」
学の声は落ち着いていた。
だが、その落ち着きは頼もしさというより、不気味さに近いものを感じさせた。
ここまでの壊滅を引き起こしておきながら、
まるで遅刻しかけた会合に滑り込んできた程度の軽さで言う台詞ではない。
綾小路が前へ出る。
「とりあえず助かった。ありがとう」
極めて簡潔な礼。
だが、そこに余計な感情はない。
綾小路にとって必要なのは、相手が味方かどうかではなく、
今この瞬間に利用できる存在かどうかだけだ。
学はメガネを指先で軽く押し上げた。
「あのままお前が連れ去られては、俺のプランの邪魔になるからな」
その言葉で、空気がまた一段冷えた。
堀北が目を伏せる。
軽井沢が眉をひそめる。
一之瀬は困惑し、龍園は面白くなさそうに舌打ちした。
善意ではない。
救出ではあっても、救済ではない。
この男は自分の目的のためにここへ来た。
それを隠そうともしない。
「……それで?」
龍園が口を開いた。
口調はいつものように荒っぽいが、その声の芯には警戒があった。
「元生徒会長が、わざわざ攻撃ヘリまで持ち出して、
俺たちを助けた理由を聞かせてもらおうか」
学は一瞬だけ沈黙する。
その沈黙には、言葉を探している様子はなかった。
単に、今ここでどこまで話すべきかを選別しているような、計算の間だった。
「まずはここを離れたい」
結局、彼はそう言った。
「この場所は長居に向かない。鬼島が撤退したからといって、
それで終わったとは限らない」
それは正しい。
誰も反論できないほどに。
鬼島が引いたのは、勝てないからではなく、別の意図があるからかもしれない。
第二陣が来る可能性もある。
航空戦力や重武装部隊が後続しても不思議ではない。
この場所に留まることそのものが危険だった。
「俺たちも一緒に連れていってくれ」
そう言って、学は綾小路たちの車両に視線を向ける。
堀北が迷いなく頷いた。
「もちろんです。兄さん」
その即答には、兄への信頼と、再会による動揺と、
そして今は味方にしておきたいという打算が混ざっていた。
綾小路はそれを止めなかった。
止める理由も、今はない。
学と橘を切り捨てるより、同行させて情報を引き出す方が遥かに有益だ。
こうして、学と橘も軍用車両へ乗り込み、一行は再び動き出した。
車窓の外に広がる景色は、誰もが想像していた以上に酷かった。
東京の街。
つい昨日まで、あるいは少なくとも日常という言葉がまだ成立していた頃までは、
人の営みが隙間なく詰め込まれていた巨大都市。
そのはずの場所が、今はまるで別世界のように荒廃している。
道路には放置車両が何重にも折り重なり、
信号機は破壊され、電柱は傾き、ビルの窓ガラスはあちこちで砕け散っていた。
遠くでは黒煙がいくつも立ち上り、火災の痕跡が街のあちこちに残っている。
コンビニ、飲食店、住宅街、オフィスビル、歩道橋。
本来は人間の利便と生活のために整然と配置されていたものすべてが、
いまは逆に不気味な静けさを強調する背景に変わっていた。
そして、その静けさの中で、動くものがある。
人のようで、人ではないもの。
歩き方が不自然で、動きに生気がなく、それでいて確かにこちらへ反応する影。
道路脇をふらつく者。
倒れた看板の陰から現れる者。
割れた店の自動ドアの向こうで、鈍く揺れている者。
ゾンビ。
もはや誰も、その呼称を避けることはできなかった。
「酷い……」
ひよりが、窓の外を見たまま呟いた。
その声は小さく、けれどはっきりと、胸を締めつける種類の痛みを含んでいた。
彼女は争いを好まない。
本来なら、こんな景色を目にすること自体が似合わない少女だ。
その彼女が見ているものは、文明の終わりに近い光景だった。
「こんなことって……」
一之瀬も言葉を失っていた。
彼女の価値観は、人と人とが助け合うことを前提に組み立てられている。
だが、ここにあるのはその前提が完全に壊れた世界だ。
助け合い以前に、人間であることそのものが維持できていない。
「一体これからどうすれば……」
櫛田の呟きも、今回は取り繕いではなかった。
クラスの人気者としての仮面でも、裏の顔でもない。
純粋に、先の見えない状況に対する戸惑いと不安だった。
そんな中、須藤が拳を握って声を張る。
「お、おい、そんな暗い顔すんなって!これまでだって死線くぐってきたんだろ!?
だったら今回だって何とかなるって!」
石崎もすぐに続いた。
「そうそう!今さらビビってもしょうがねえ!
俺らは生き残ってきたんだ、まだやれる!」
アルベルトも頷く。
言葉の勢いは強い。
だが、その勢いが必要な時点で、
本人たちも不安を抱えていることは明らかだった。
それでも、こういう時に声を出せる者がいることは大きい。
沈黙だけが車内を支配すれば、精神はそれだけで崩れていく。
龍園が窓の外を眺めながら言う。
「気合いだけじゃどうにもなんねえよ。まず必要なのは弾薬と武器の補充だ。
今の状態じゃ、この都市を歩くことすら危険すぎる」
現実的な判断だった。
今までの戦闘で、多くの武器は消耗し、弾薬も減り、全員が満身創痍だ。
ここが校舎内のような限定空間ならまだしも、
都市規模となれば脅威の総量が違う。
だが、そこへ高円寺が割って入る。
「いや、違うな」
その声は妙に余裕に満ちていた。
周囲の重苦しい空気に対して、
彼だけは本気で息苦しさを感じていないようにすら見える。
「君たちは戦い通しだ。ここで更に動けば判断も体力も落ちる。
そんな状態で武器を集めに行くなど、自殺行為に等しい」
高円寺は肩をすくめ、どこか芝居がかった仕草で続ける。
「何より、私ほどではないにせよ、人間には休息が必要だ。
ちなみに私は45分でも寝れば完全回復する超ショートスリーパーだがねぇ」
そして女子たちへ向けて、妙に爽やかなウインクを飛ばした。
伊吹は露骨に顔をしかめ、鬼龍院は呆れたように鼻を鳴らし、
櫛田はどう反応していいかわからない微妙な笑みを浮かべる。
ひよりだけは疲れすぎていて、そのやり取りにさえ反応しきれなかった。
それでも、高円寺の言っていること自体は正しかった。
休息が必要だ。
それもできるだけ早く、できるだけ安全な場所で。
さもなければ次の戦闘で本当に足が止まる。
学校脱出という極限を越えた直後の今、精神も身体も、限界の縁に立っていた。
綾小路が短く言う。
「休める場所を探そう。食料と寝具、それと遮蔽物がある場所がいい」
その言葉に、学が頷いた。
「この先にショッピングモールがある。
完全ではないが、比較的物資は残っているはずだ。
内部構造も複雑で、防衛線を張りやすい」
「兄さん、知ってるんですか?」
堀北が問う。
学は窓の外を見たまま答えた。
「ある程度はな。外はお前たちが思っている以上に、もう長く持たない」
その言い方に、綾小路は僅かに視線を向けた。
ある程度という曖昧な言い回し。
だが、その裏には明らかに何かを知っている者の重さがあった。
橘もまた口を挟まない。
否定も補足もせず、ただ静かに周囲を警戒している。
この二人は情報を持っている。
それだけは間違いなかった。
やがて車両は、大型のショッピングモールへとたどり着いた。
外観からして、すでに平時の施設ではない。
正面ガラスは広い範囲で割れ、
入口付近には散乱したカートや倒れた看板が放置され、
駐車場には乗り捨てられた車両が何台も斜めに停まっている。
一部は衝突したまま動かず、クラクションが鳴りっぱなしだった名残なのか、
バッテリーの尽きた静けさだけが残っていた。
「……随分荒らされてるな」
橋本が呟く。
確かにその通りだった。
店内は暴動でも起きた後のように乱れ、商品棚は倒れ、
床には包装や食べ物や生活用品の残骸が散乱している。
人々が理性を失い、我先に物を奪って逃げた痕跡。
あるいは、もう少し後になって、略奪そのものが目的になった者たちの痕跡。
いずれにせよ、この場所にもまた、崩壊が通り過ぎていったことがよくわかった。
だが、それでも。
「休息するだけなら十分ですね」
坂柳が言う。
実際、内部にはまだ使える寝具や衣類、保存食、水の類が点在している。
完全に無事な施設ではなくとも、今の彼らにはそれで足りた。
むしろ、あまりに整いすぎた場所の方が怪しい。
荒れているということは、一度は人が雪崩れ込み、
そして去っていったということでもある。
今、逆に人の気配が薄いことは、一時的な休息には都合が良かった。
全員が車両から降りる。
その動き一つ一つが重い。
無理もない。
緊張が解けかけた途端、
これまで抑え込んでいた疲労が一気に表面へ出てきたのだ。
須藤やアルベルトですら肩で息をし、石崎は足を引きずり気味で、
軽井沢も表情を保つので精一杯に見える。
一之瀬は仲間たちの様子を見て回ろうとしていたが、
その本人も相当に消耗している。
堀北は気丈に立っていたが、頬の色は良くない。
ひよりは静かに呼吸を整え、櫛田は場を保とうとしつつも、
目の奥に疲弊が隠せていなかった。
高円寺だけは、なぜか妙にしゃんとしていた。
「では、ここからは私が見張り役を引き受けよう。
安心したまえ。眠れる時に眠るのが一流の流儀だ」
その自信たっぷりな宣言に、誰も素直に安心はしなかったが、
今は反論する気力もなかった。
「信用できるの?」
伊吹がぼそりと漏らす。
鬼龍院も腕を組みながら、半ば同意するように肩をすくめた。
「少なくとも、自信だけは世界一だろうね」
だが、それでも。
見張り役を名乗り出る者がいること自体は意味がある。
休息とは、自分の無防備を誰かに預ける行為だ。
この極限状況でそれを成立させるには、
たとえ完全な信頼でなくとも、誰かが前へ出なければならない。
学はモール内部の地図を確認しながら言った。
「二階の生活用品売り場と従業員用スペースを使うといい。
遮蔽物が多く、出入口も絞れる。休憩と物資確保を同時に行いやすい」
龍園が横目で見る。
「やけに詳しいじゃねえか」
学はわずかに目を細めただけで、すぐには答えなかった。
その一拍が、逆に不自然だった。
知らないのではなく、知っていることを隠している沈黙。
綾小路はそれを聞き逃さない。
「この施設を前にも使ったのか?」
綾小路が問うと、学は短く答える。
「似たような場所をな」
ぼかした。
だが否定はしない。
つまり、外の世界で既に何らかの生存活動、
あるいは戦闘経験を積んでいることになる。
卒業生がただ逃げ延びていた、というだけでは説明しきれない準備の良さだ。
橘が初めて口を開いた。
「今は詮索より先に体力の回復を優先した方がいいです。
あなたたち、見ているだけでも限界に近いですし」
その指摘は事実だった。
誰も言い返せないほどに。
こうして、一行はショッピングモール内部へ拠点を移し、
まずは簡易的な安全確保と休息の準備を始めることになった。
毛布、マットレス、飲料水、保存食、応急処置用品。
使える物を手分けして集めるだけでも、
普段なら何でもない作業がひどく重労働に感じられた。
それでも全員が黙々と動く。
止まれば、そのまま動けなくなってしまいそうだったからだ。
やがて、最低限の寝床が整う。
一之瀬が座り込むように毛布へ腰を下ろし、
軽井沢はその場でふっと肩の力を抜いた。
ひよりは小さく息を吐き、坂柳の頬の汚れを濡れたハンカチで拭き取る。
坂柳は短く「ありがとうございます、椎名さん」と微笑み返している。
櫛田は誰かの手当てを終えたところでようやく自分も壁に寄りかかる。
須藤はまだ気を張ろうとしていたが、それでも瞼の重さは隠せない。
石崎は「少しだけだからな」と言い訳のように呟きながらその場に座り込み、
橋本は苦笑しつつ周囲を見回す。伊吹も鬼龍院も、警戒を完全には解いていないが、
それでも今すぐ戦闘になるとは考えていなかった。
綾小路は少し離れた場所に立ち、モールの吹き抜け越しに暗い館内を見渡した。
電力は完全には生きておらず、ところどころ非常灯の薄い明かりが残る程度だ。
外から差し込む光も、割れたガラス越しに弱々しく床へ落ちているだけで、
空間全体を照らすには足りない。
静かだ。
静かすぎる。
人の気配が消えた大型商業施設というのは、
これほどまでに不気味なものなのかと、誰もがどこかで感じていた。
その綾小路の近くへ、学が歩み寄ってくる。
「少し話せるか」
「今ここで?」
「ああ」
短いやり取りだった。
綾小路は拒まない。
学の方も、無駄な前置きはしない。
「鬼島はお前を回収するつもりだった。
おそらく、学校の一件もまだ前段階にすぎない」
「そうだろうな」
「外は既に崩壊を始めている。だが完全な無秩序ではない。
まだ運営側が管理している区域がある」
綾小路は黙って聞く。
学の声は低く抑えられていたが、その内容は軽くない。
「管理している区域?」
「そうだ。隔離、回収、実験、選別。呼び方は色々あるだろうが、
本質は一つだ。鬼島はこの混乱すら利用している」
綾小路の目がわずかに細まる。
「生存者もか」
「もちろんだ」
その断言には迷いがなかった。
「そして死者もだ」
その一言だけで、空気の温度が変わった気がした。
綾小路は表情を変えない。
だが、その無表情の奥で思考が一段深く沈んだことが、逆にわかった。
「……なるほど」
学はそれ以上を今は語らなかった。
おそらく、まだここで全情報を開示する気はないのだろう。
死者すら利用する。
もしそれが事実なら、この先に待つものは単なる市街地サバイバルではない。
学校で死んだ者たちさえ、もう一度別の形で戦場へ引き戻される可能性がある。
少し離れたところで、堀北が兄の方を見ていた。
その視線には複雑な感情が混じっている。
再会の喜びだけでは済まない。
今の学は、彼女の知る兄でありながら、
同時に何かを背負い込みすぎて別人のようにも見えたからだ。
そしてその時、モールの奥の暗がりから、かすかな物音がした。
誰かが息を止める。
高円寺が視線だけを向ける。
龍園が反射的に武器へ手を伸ばす。
綾小路も同時に身を低くした。
だが、次の瞬間、それは天井近くの配線が揺れただけだと判明する。
強張っていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
それでも誰も理解していた。
ここは安全地帯ではない。
ただ、今この瞬間だけ、少し横になれる場所にすぎない。
綾小路は毛布の一つへ視線を落とし、そこで眠りに落ちかけている仲間たちを見た。
堀北。
一之瀬。
軽井沢。
龍園。
坂柳。
高円寺。
ひより。
櫛田。
須藤。
松下。
石崎。
橋本。
伊吹。
アルベルト。
鬼龍院。
茶柱。
そして、学と橘。
よくここまで生き残った。
だが、それは終わりを意味しない。
むしろ、ここから先に生き残る者こそが、本当の意味で選別されるのかもしれない。
モールの外では、風が壊れた看板を軋ませていた。
遠くで何かが倒れる音がした。
さらに遠くでは、まだ黒煙が空へ昇り続けている。
街は死んでいる。
だがその死は静止ではなく、ゆっくりと、確実に拡がり続ける種類のものだった。
学校は終わった。
だが、戦いは終わらない。
この荒廃した都市そのものが、次なる試験会場なのだと告げるように。
そして綾小路清隆は、その静まり返ったショッピングモールの薄暗い空間で、
ただ一人、眠ることなく目を開いたまま考えていた。
鬼島。
堀北学。
死者の再利用。
管理区域。
都市の崩壊。
そして、自分がこの盤面のどこに置かれているのか。
答えはまだ出ない。
だが一つだけ確かなことがある。
ここから先は、学校という檻の中で行われた試験とは違う。
ルールの輪郭すら曖昧な、本物の死都だ。
その入口で、彼らはようやく、束の間の休息を手に入れたにすぎなかった。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると助かります。