自衛隊基地へと続く最後の道路に差し掛かった時、
綾小路たちを乗せた軍用車両の中には、走行音と車体の軋む音、
そして時折混ざる無線機の微かなノイズだけが響いており、
それ以外の言葉はほとんど存在していなかった。
誰もが黙っていた。
それは疲労のためでもあり、これ以上何かを言葉にすれば、
その瞬間に自分の中で辛うじて保っているものが
崩れてしまうと分かっていたからでもある。
松下を失った。
石崎を失った。
ひよりを失った。
須藤を失った。
櫛田を失った。
名前を並べるだけなら簡単だったが、その一つ一つにはそれぞれの声があり、
表情があり、最期の場面があり、生きていた時間があり、
それらすべてがまだ車内にいる者たちの胸の奥へ、鉛のように沈み込んでいた。
一之瀬は膝の上でスナイパーライフルを抱えたまま、ずっと俯いていた。
銃を手放すことはできない。
だが、その銃が自分を守る道具であり、仲間を救うための道具でありながら、
同時に人の形をした何かを撃ち抜かなければならない道具でもあるという事実が、
彼女の心を少しずつ削っていた。
伊吹はソードオフショットガンを握ったまま、窓の外を睨んでいた。
二丁拳銃を捨てた。
見栄や格好良さを捨て、現実に勝つための武器を取った。
それでも守れなかった。
櫛田も、須藤も。
その事実が、彼女の中で燻る苛立ちをさらに深くしていた。
堀北は、何も言わなかった。
彼女は車内の隅で背筋を伸ばして座っていたが、その姿勢の正しさとは裏腹に、
目の奥にはすでに以前のような揺らぎが薄くなっていた。
悲しみで震えているわけではない。
涙を必死に堪えているわけでもない。
ただ、何かが静かに削れ落ちた後のように、異様なほど静かだった。
学はそんな妹の様子を、わずかに横目で見ていた。
かつての鈴音であれば、他人の死にここまで心を乱すことはなかった。
だが今の彼女は違う。
仲間を知り、結束を知り、誰かと共に勝ち上がることを知ったからこそ、
失うことの痛みを真正面から受けてしまった。
そして、その痛みを受け続けた果てに、
今度は痛みそのものを感じなくなり始めている。
成長なのか。
崩壊なのか。
おそらく、その両方だった。
やがて、車両は自衛隊基地の入口付近へ到着した。
フェンスは破れ、ゲートは歪み、
敷地の内外には破壊された車両と散乱した装備品が点在している。
遠くの格納庫方面には、龍園グループが発見したという
大型軍用ヘリの影がぼんやりと見えていた。
それは、ここまで来た者たちにとって初めて現実味を帯びた脱出手段だった。
空へ逃げる。
地上の瓦礫も、ゾンビの群れも、封鎖線も飛び越えて、この死都から離脱する。
その可能性が、ついに目の前にある。
だが、彼らが最初に目にしたのは希望ではなかった。
入口付近の地面に、二つの亡骸が横たわっていた。
石崎。
ひより。
誰かがすぐに名前を呼んだわけではない。
だが、その姿を見れば分かってしまう。
一之瀬は息を呑み、反射的に目を逸らした。
伊吹も同じだった。
ひよりとは同じクラスだった。
特別に親しかったわけではない。
むしろ、ほとんど会話らしい会話もなかったかもしれない。
だが、それでも同じクラスで、同じ地獄を抜け、
同じ車両に乗り、同じ戦場を生きようとしていた仲間だった。
その彼女が、もう動かない。
それを真正面から見ることは、伊吹にとっても容易ではなかった。
軽井沢も口元を押さえた。
龍園は少し離れた場所に立っていた。
彼の表情は、いつものような嘲笑も、挑発も、怒りも浮かべていない。
ただ、冷えた顔でそこに立っている。
高円寺もまた、珍しく余計な言葉を口にしていなかった。
その沈黙が、逆に事態の重さを物語っていた。
だが、その中で堀北だけは違った。
彼女は車両から降りると、石崎とひよりの亡骸を一瞥した。
それだけだった。
足を止めない。
息を呑まない。
目を逸らすこともない。
ただ見て、理解して、そのまま歩き出した。
軽井沢が思わず声をかける。
「あの……堀北さん……?」
その声には、責める響きはなかった。
むしろ戸惑いだった。
今の堀北の反応が、あまりにも普段の彼女から離れて見えたからだ。
堀北は少しだけ足を止めた。
そして、振り返らないまま、静かに言った。
「もう慣れたわ」
その言葉が落ちた瞬間、場の空気が凍った。
それは悲しみを乗り越えた言葉ではなかった。
悲しみを感じなくなった言葉だった。
声には震えがない。
怒りもない。
嗚咽もない。
ただ、乾いている。
乾ききっている。
軽井沢はそれ以上何も言えなかった。
一之瀬も、伊吹も、橋本も、鬼龍院も、アルベルトも、茶柱も、
誰もが堀北を見て動けなくなっていた。
龍園と坂柳ですら、口元をわずかに歪めただけで言葉を失った。
堀北鈴音という人間の中から、何か得体の知れないものが静かに湧き上がっている。
それは強さにも見えた。
だが同時に、壊れてしまった人間特有の空洞にも見えた。
堀北はゆっくりと綾小路の前まで歩く。
その歩みは迷いがなく、どこか機械的だった。
彼女は綾小路を真正面から見据える。
「これで、あなたと同じよ」
静かな声だった。
だが、その言葉には確かな断定があった。
自分はもう悲しみに足を止めない。
仲間の死にいちいち崩れない。
必要なら前へ進む。
だから、あなたと同じ。
そう言っているようだった。
しかし綾小路は、間を置かずに否定した。
「違うな」
堀北の瞳がわずかに動く。
「なにが違うの」
問いの声も、やはり平坦だった。
綾小路は彼女を見つめた。
その視線には同情も慰めもない。
ただ、観察と判断だけがある。
「お前は壊れながら前へ進んでいる」
一拍。
「オレは最初から、ホワイトルームにいた頃からそういう構造だ」
ホワイトルーム。
その言葉が発せられた瞬間、周囲の空気が変わった。
堀北の目がわずかに見開かれる。
軽井沢は息を呑む。
龍園は眉を上げる。
橋本が思わず声を漏らした。
「なんだよ、それ……?」
その反応は当然だった。
この場にいる多くの者にとって、ホワイトルームという単語は何の意味も持たない。
だが、綾小路の口から出たその響きは、ただの施設名ではないと誰もが直感した。
それは彼の異常な強さ、冷静さ、戦闘力、判断力、
そのすべての根に触れる言葉だった。
坂柳が静かに一歩前へ出る。
彼女だけは、その言葉の意味を知っている。
「よろしいのですか?」
坂柳は綾小路に問う。
それは確認だった。
ここで語れば、もう戻れない。
綾小路清隆という人間の背景を、これまで知らなかった者たちが知ることになる。
綾小路は淡々と答えた。
「ここまで来れば、もう隠す必要もないからな」
そして、周囲を見渡すでもなく、ただ事実を述べるように言う。
「端的に言えば、天才を人工的に作り出す教育機関だ」
誰もすぐには反応できなかった。
人工的に天才を作る。
教育機関。
その二つの言葉が並ぶだけで、まともな施設ではないことは分かる。
坂柳は小さく息を吐き、補足するように言った。
「彼はその中でもっとも優秀な成績を収め、最高傑作と呼ばれていました」
最高傑作。
その言葉は、綾小路という人間を説明するにはあまりにも不穏だった。
人間に向ける言葉ではない。
作品や兵器や実験結果に向ける言葉だ。
軽井沢が震える声で言う。
「そんな施設みたいなの……聞いたこともないけど……」
綾小路は静かに返す。
「表沙汰にはされていない極秘裏の機関だからな」
軽井沢はそれ以上何も言えなかった。
彼女は綾小路の異常さを知っていたつもりだった。
冷静で、強くて、どこか人間離れしている。
だが、それが生まれ持った性格だけでなく、
そうなるように作られたものだと知れば、受け止め方が変わってくる。
伊吹が舌打ちする。
「つまり、あんたは最初からそういう場所で育ったってわけ」
「そうだ」
綾小路は否定しない。
龍園が低く笑う。
「なるほどな。化け物じみた実力は、そこの教育の賜物ってわけか」
その理解は早かった。
龍園は感情的に驚き続けるタイプではない。
情報を得れば、すぐに構造を組み立てる。
綾小路がなぜ異常なのか。
なぜあれほど冷静で、なぜあれほど強く、
なぜどの局面でも一歩引いた目で盤面を見られるのか。
理由があるなら、むしろ納得できる。
ただし、納得できることと受け入れられることは違う。
「胸糞悪い話だな」
龍園はそう吐き捨てた。
その言葉に、誰も反論しなかった。
その時、堀北学がゆっくりと前へ出た。
彼の表情は、ここまでの会話を聞いても大きく変わっていない。
しかしその静けさが、むしろ不自然だった。
学は綾小路を見る。
「お前は、そこに帰る気はあるのか?」
その問いは静かだった。
だが、その直後の動作は、場の空気を一変させた。
学の手が懐へ入る。
次の瞬間、マグナムが抜かれた。
銃口が、綾小路清隆へ向けられる。
誰かが息を呑んだ。
軽井沢が小さく悲鳴を漏らしかける。
堀北の表情が凍る。
龍園が一瞬で戦闘姿勢に入ろうとし、鬼龍院も目を細める。
だが、綾小路は動かなかった。
銃口を向けられても、表情一つ変えない。
「どういうつもりだ」
声も平坦だった。
学は銃口を下げない。
「悪いが、俺はお前の父の息がかかった人間だ」
その告白が、静かに落ちる。
堀北の目が見開かれる。
「兄さん……?」
学は妹を見ない。
視線は綾小路に固定されたままだ。
「お前を生きてホワイトルームに連れ戻すこと。それが俺に与えられた任務だった」
場の緊張が一段上がる。
銃口。
ホワイトルーム。
綾小路の父。
これまで断片的に見えていたものが、急に一つの線へ繋がっていく。
綾小路はわずかに息を吐いた。
「そうか……まぁ、薄々は気づいていた」
学の眉がわずかに動く。
「いつからだ」
「お前がオレを助けた理由が曖昧すぎた。
鬼島から守るためというには、行動の目的が別に見えた」
「なるほどな」
学は薄く笑う。
「やはりお前相手に完全な隠し事は難しい」
銃口はまだ綾小路を向いている。
だが、学の声には敵意だけがあるわけではなかった。
むしろそれは確認に近い。
この男をどう扱うべきか。
ここで本当に連れ戻すべきか。
その最終確認。
「このままお前を連れ戻すことも、俺には可能だ」
学は言う。
「だが……もう一度問う。お前は本当に帰る気はあるのか」
綾小路は即答した。
「悪いが、オレはホワイトルームには帰らない」
迷いはなかった。
「これから先の人生で、その考えが変わることもないと確信している」
その言葉に、学は少しだけ目を伏せた。
「元々お前は父の反対を押し切って、あの学校へ入学した」
静かに言う。
「問うまでもなく、既にお前の中で結論は出ていたようだな」
そこで学は薄く笑った。
しかし、その笑みはすぐに消える。
「だが、それでも一つだけ言っておく」
銃口がわずかに上がる。
「お前は自由でいていい存在ではない」
その言葉に、空気が再び鋭くなる。
綾小路の目が細くなる。
「それを決めるのはお前じゃない」
「お前を放置できない」
学は即座に返す。
「お前は自由でいるには危険すぎる。誰かが制御しなければならない」
その言葉は、父である篤臣の思想に近いようで、完全には同じではなかった。
篤臣は清隆を所有物として見ている。
自分の作品、自分の成果、自分の手で作り上げた最高傑作。
だから取り戻す。
だが学の言葉は、所有ではない。
危険だから制御する。
社会に放てば何をするか分からない存在として、管理が必要だと言っている。
そこには、学なりの理屈があった。
だが綾小路にとっては、どちらも同じだった。
自分の意思を、他人が決めるという点において。
「その制御をするのは、お前だと?」
綾小路が問う。
学は答えようとした。
「俺は――」
その瞬間だった。
基地全体を揺らすような轟音が響いた。
誰もが反射的に視線を向ける。
遠くの外壁付近で、破壊された車両が弾き飛ばされ、金属の破片が宙を舞った。
次の瞬間、黒い影が跳躍する。
大きい。
速い。
そして見覚えのある異形。
七瀬だった。
あの大型クリーチャーと化した七瀬が、再び彼らの前に現れたのだ。
巨体が地面へ着地する。
アスファルトが砕け、土煙が巻き上がる。
全身に浮かぶ無数の目が、まるで一斉に全員を観察するように動いた。
その口腔が開く。
巨大な牙が覗く。
場の全員が、一瞬で理解する。
話し合いの時間は終わった。
綾小路は学の銃口から視線を外し、七瀬を見た。
「どうやら話し合いはここまでのようだな」
学もまた、綾小路へ向けていた銃口をゆっくりと七瀬へ向ける。
その動作だけで、今この瞬間の優先順位は明確だった。
綾小路を連れ戻すか。
自由を認めるか。
その結論はまだ出ていない。
だが七瀬を放置すれば、全員が死ぬ。
それだけは確かだった。
龍園がカービンを構えながら、低く笑う。
「話がややこしいところに、もっとややこしい化け物が来やがったな」
伊吹がソードオフショットガンを握る。
「ちょうどいいわ。今はあいつを撃つ方が分かりやすい」
軽井沢は怯えながらもハンドガンを握り直し、
橋本はアルベルトから受け取ったアサルトライフルの安全装置を確認する。
アルベルトはM60E3を構え、鬼龍院は静かに戦闘姿勢を取る。
茶柱は無線機をしまい、マグナムを抜いた。
坂柳は一歩下がりながらも、七瀬の動きを観察する位置へ移動する。
堀北は無表情のままアサルトライフルを構えた。
その姿は、先ほど「もう慣れたわ」と言った彼女そのものだった。
だが、綾小路には分かっていた。
これは平静ではない。
麻痺だ。
壊れながら前へ進むための、危うい安定だ。
七瀬が咆哮する。
その音は獣の声でありながら、どこか人間の名残のような歪みを含んでいた。
一之瀬が一瞬だけ目を伏せ、それでもライフルを構える。
「七瀬さん……」
小さな声だった。
しかし、もう届かない。
そこにいるのは、七瀬翼だったもの。
鬼島に奪われ、歪められ、兵器として再利用された存在。
坂柳が冷たく言う。
「死者を使い、生者を試す。実に醜悪な趣味ですね」
龍園が鼻で笑う。
「同感だな。だが今は感想文書いてる場合じゃねぇ」
七瀬が動く。
速い。
巨体からは考えられない速度で横へ跳び、
瓦礫の上を蹴り、戦車の残骸を盾にするように動く。
「撃て!」
学の声と同時に、全員が発砲した。
銃声が基地内に反響する。
アサルトライフル、マグナム、ショットガン、機関銃。
火線が七瀬へ集中する。
アルベルトのM60E3が低く唸り、七瀬の移動先へ弾幕を張る。
しかし、七瀬はそのすべてを真正面から受けるわけではない。
飛ぶ。
潜る。
跳ねる。
隠れる。
全身にある眼が、戦場全体を捉えている。
弾幕の薄い場所を選び、視線の集中を避け、最も脆い位置を探す。
「くそ、こいつ、ただの化け物じゃねぇ!」
橋本が叫ぶ。
龍園が舌打ちする。
「見えてやがるんだよ、全部な」
その時、七瀬が軽井沢の方へ向かった。
軽井沢は反応したが、身体が追いつかない。
「軽井沢さん!」
一之瀬の狙撃が七瀬の進路をずらす。
同時に伊吹が横から飛び込み、ソードオフショットガンを至近距離で撃ち込む。
七瀬の巨体が揺れる。
「こっち見なさいよ!」
伊吹が叫ぶ。
七瀬の目のいくつかが、伊吹を捉える。
その一瞬を、綾小路と学が逃さない。
二人の銃声が重なる。
綾小路のショットガン、学のマグナム。
七瀬の肩口と頭部付近に弾が叩き込まれ、異形の身体が大きく後退する。
だが、倒れない。
全身から液体のようなものが滲み、損傷部が塞がっていく。
龍園が険しい顔をする。
「再生持ちか。面倒くせぇな」
坂柳が即座に言う。
「一撃で完全に破壊するか、
再生が追いつかないほど火力を集中する必要があります」
「それができりゃ苦労しねぇよ」
龍園が返す。
七瀬は再び動く。
今度は直線ではない。
基地内の障害物を利用し、視界を切り、複数方向から攻めてくるように見せる。
だが、実際にいるのは一体。
問題は、その一体がまるで複数いるかのように速いことだった。
堀北が撃つ。
表情はない。
ただ引き金を引き、照準を修正し、再び撃つ。
そこに怒りはない。
悲しみもない。
あるのは、敵を止めるための動作だけだった。
綾小路はそれを一瞬だけ見た。
そして思う。
壊れている。
だが、止まってはいない。
むしろ、壊れたことで動けている。
それはある意味で、今の状況には適応していた。
だが、長く続けば取り返しがつかない。
その時、学が綾小路の横に並ぶ。
先ほどまで銃口を向け合っていた二人が、今は同じ敵へ銃を向けている。
学が低く言う。
「話は後だ」
「そうだな」
「お前を連れ戻すかどうかは、まずここを生き残ってから決める」
「連れ戻されるつもりはない」
「それも後だ」
短いやり取り。
だが、その間にも二人は撃ち続ける。
七瀬が跳ぶ。
アルベルトの機関銃が火線を張る。
鬼龍院が別角度から牽制する。
伊吹が接近して撃つ。
一之瀬が狙撃で動きを止める。
堀北と龍園が連射で圧をかける。
そして綾小路と学が、わずかな隙に重い一撃を叩き込む。
少しずつ、七瀬の動きが鈍り始めた。
「効いてる!」
軽井沢が叫ぶ。
だが坂柳は首を振る。
「いえ、まだです。あれは追い詰められているというより、
こちらの動きを学習している可能性があります」
その言葉通りだった。
七瀬は突然、動きを変えた。
これまでのように前衛へ突っ込むのではなく、後方の指示役へ向かう。
坂柳。
「坂柳!」
橋本が叫ぶ。
七瀬が一気に距離を詰める。
坂柳は逃げられない。
だが、彼女は動じなかった。
「右です」
その声に、綾小路が反応する。
坂柳の言葉は、自分を救えという意味ではない。
七瀬が来る角度の指示。
綾小路はその軌道へ先回りし、ショットガンを撃つ。
同時に学がマグナムを重ねる。
七瀬の頭部が弾けるように揺れ、坂柳への突進が逸れる。
そこへ龍園が連射を叩き込む。
「調子乗ってんじゃねぇぞ、化け物」
七瀬が咆哮する。
だが、まだ倒れない。
むしろ、その咆哮は怒りのようにも聞こえた。
人間の名残か。
兵器としての反応か。
誰にも分からない。
その瞬間、七瀬の全身の眼が一斉に一点を向いた。
綾小路。
「来るぞ」
綾小路が言う。
七瀬が直線で突っ込む。
これまでとは違う。
撹乱ではない。
狙いを完全に絞った突撃。
鬼島は清隆を生物兵器として欲しがっている。
もしこの個体にその命令が入っているなら、狙いは当然、綾小路になる。
学が前に出ようとする。
綾小路がそれを制した。
「下がれ」
「お前を死なせるわけにはいかない」
「死ぬつもりはない」
七瀬が迫る。
綾小路は動かない。
銃口を構えたまま、最後の一瞬まで待つ。
七瀬の口腔が開く。
その瞬間。
堀北が横から飛び込んだ。
アサルトライフルの銃口を七瀬の開いた口へ向け、至近距離で連射する。
七瀬が大きく仰け反る。
堀北は表情を変えない。
ただ撃つ。
撃ち続ける。
「堀北、下がれ!」
綾小路が言う。
堀北は一拍遅れて後退する。
その隙に、アルベルトの機関銃、龍園のカービン、
学のマグナム、伊吹のショットガンが一斉に火を吹いた。
七瀬の巨体がついに大きく崩れる。
だが倒れ切る直前、七瀬は壁を蹴り、信じがたい力でその場から跳躍した。
「逃げる気か!」
伊吹が追おうとする。
綾小路が止める。
「追うな」
「また逃がすの!?」
「今追えば分断される」
伊吹は歯を食いしばったが、止まった。
彼女ももう理解している。
感情だけで前に出れば、死ぬ。
七瀬は基地の外壁を越えるように跳び、黒煙の向こうへ消えた。
場に残ったのは、焼けた匂い、薬莢、破壊された地面、そして重い沈黙だった。
倒せなかった。
しかし、生き残った。
誰もすぐには話し始めない。
全員が肩で息をし、武器を下ろせないまま周囲を警戒している。
やがて学が、ゆっくりとマグナムを下げた。
だが、完全にはしまわない。
綾小路もそれを見ている。
先ほどの話は終わっていない。
ホワイトルーム。
篤臣。
学の任務。
清隆の自由。
そのすべては、七瀬の襲撃によって中断されただけだ。
解決したわけではない。
堀北は綾小路の方を見た。
「……あなたは、帰らないのね」
「ああ」
「誰に命令されても?」
「ああ」
「誰に銃を向けられても?」
綾小路は学を見る。
そして答える。
「変わらない」
堀北は少しだけ目を伏せた。
「そう」
その声は、もう以前のような揺れを含んでいない。
悲しみを感じなくなった声。
だが同時に、完全に空っぽになったわけでもない。
その奥には、何か新しい芯のようなものが生まれ始めていた。
学は妹を見る。
「鈴音」
堀北は兄へ視線を向ける。
「兄さんは、綾小路くんを連れ戻すつもりなの?」
学は答えない。
堀北は続ける。
「それなら、私が彼を止めるわ」
静かな宣言だった。
学の目がわずかに細まる。
「お前がか」
「ええ、私が綾小路くんを制御する」
「今のお前に、オレを止められると思うのか」
「分からないわ」
堀北は即答した。
「でも、止めると決めたなら止める。今は、それだけで十分よ」
学はしばらく妹を見つめた。
そして、ほんのわずかに息を吐く。
「本当に変わったな」
「壊れただけかもしれないわ」
堀北は淡々と言う。
「でも、それでも前には進める」
その言葉を聞いて、綾小路はわずかに視線を向けた。
生まれつき壊れている男。
壊れてしまった女。
二人は似ていない。
到達点が似て見えるだけで、そこへ至る過程がまったく違う。
綾小路は最初から感情を切り離すように作られた。
堀北は失い続けた果てに、感情を感じなくなり始めている。
それでも、彼女はまだ自分の足で立っている。
その違いは大きい。
学はマグナムをしまった。
「今は、ヘリを飛ばすことが先だ」
その言葉に、全員がようやく少しだけ息をついた。
完全な和解ではない。
裏切りが消えたわけでもない。
だが少なくとも今この場で、学は綾小路を撃たない。
それだけは確定した。
龍園が鼻で笑う。
「やっと茶番は終わりか」
「茶番にしては、ずいぶん危険だったと思うが」
橋本が苦笑する。
龍園は綾小路を見た。
「お前の親父だのホワイトルームだの、
面倒な話が出てきやがったが、今はどうでもいい」
一拍置く。
「俺たちはこの街を出る。それだけだ」
綾小路は頷く。
「ああ」
坂柳が静かに言う。
「ですが、七瀬さんはまだ残っています。鬼島も総理も、
そして綾小路くんのお父様側の思惑も残っている。
脱出は、簡単には終わらないでしょうね」
「分かっている」
綾小路は格納庫の方を見る。
大型軍用ヘリ。
彼ら全員を乗せる希望。
だが、その希望の周囲には、
まだあまりにも多くの敵と疑念が渦巻いている。
学はホワイトルーム側の人間だった。
しかし、今は撃たなかった。
それが何を意味するのか。
裏切りの保留か。
任務の延期か。
あるいは、彼自身の中で何かが揺らぎ始めているのか。
まだ分からない。
堀北は石崎とひよりの亡骸の方を、一度だけ振り返った。
今度は立ち止まらなかった。
悲しみは湧いてこない。
それが恐ろしいことだと、頭では理解している。
だが、足は動く。
前へ進める。
今はそれでいい。
「行くわ」
堀北は言った。
誰に向けたものでもなく、自分自身へ言い聞かせるように。
「私は、もう止まらない」
その言葉に、誰も何も返さなかった。
ただ、それぞれが武器を持ち直し、格納庫へ向けて走り始める。
背後には死者。
前方にはヘリ。
そのさらに向こうには、鬼島と篤臣と、自由を巡る戦いがある。
綾小路清隆は走りながら、静かに考えていた。
ホワイトルームには帰らない。
鬼島の兵器にもならない。
学の管理下にも入らない。
そのためには、この基地を出るだけでは足りない。
ここから先、自分を欲しがるすべての者から逃げ切り、
あるいは退けなければならない。
それが本当の意味での自由だ。
そして、その自由の先に何があるのかは、まだ分からない。
だが少なくとも今は。
帰る場所を拒絶した。
戻るべき檻を否定した。
それだけで、綾小路にとっては十分だった。
格納庫の扉が近づく。
ヘリの巨大な影が、薄暗い基地の中に鎮座している。
その姿は希望にも見えた。
同時に、次なる戦場の入口にも見えた。
そして基地の外では、七瀬が消えたはずの方角から、
再び地面を揺らすような咆哮が響き渡った。
全員が反射的に振り返る。
黒煙の向こうで、巨大な影が跳ねた。
次の瞬間、七瀬はまだ傷の塞がりきらない異形の身体を引きずりながらも、
信じがたい跳躍力で瓦礫を飛び越え、再び彼らの前へと姿を現した。
逃げたのではない。
体勢を立て直し、再び襲いかかるために距離を取っただけだった。
綾小路は静かに銃を構え直す。
「……やはり、簡単には逃がしてくれないらしいな」
まだ終わっていない。
誰もがそれを理解していた。
だが、それでも彼らは進む。
壊れた者も。
壊れかけた者も。
最初から壊れていた者も。
まだ人間であろうと足掻く者も。
すべてを抱えたまま、ヘリへ向かう。
この死都を出るために。
そして、それぞれが選ぶ未来へ向かうために――。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると助かります。