カーストルーム・オブ・ザ・デッド2   作:戦竜

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第3話 取捨

荒廃した市街地を進む軍用車両の車内には、

休息と食事によって幾分か回復した者たちの呼吸と、

それでも決して消えない警戒心とが、同じ空間の中で奇妙に同居していた。

 

ショッピングモールで得た束の間の安堵は確かに彼らの身体を立て直していたが、

だからといって、この崩壊した街が彼らに次の猶予を与えてくれる保証にはならず、

むしろわずかに取り戻した体力と冷静さがあるからこそ、

いま自分たちがどれほど危険な世界の只中を進んでいるのかを、

誰もがより鮮明に理解していた。

 

軍用車両の窓越しに見える街並みは、

学校という閉鎖空間の地獄を抜け出した先に広がる外の世界などという希望を、

容赦なく粉砕するに十分な光景だった。

 

倒れた街路樹。

破壊された信号機。

横転した乗用車。

ガラスを失ったビル。

壁面に焦げ跡を残した店舗。

そして、そのすべての間を縫うようにして、

どこからともなく漂ってくる焼けた金属と埃と、

長く放置された都市特有の淀んだ匂い。

 

人の姿は少ない。

少ないが、それは安全を意味しない。

むしろ見えない場所に何かが潜み、

次の角を曲がった瞬間に牙を剥くかもしれないという不気味さの方が、

よほど濃く車内へと染み込んでいた。

 

運転席では橘が無駄のない動きでハンドルを切り、

その隣で学が前方と地図と周囲の状況を冷静に確認している。

綾小路は窓際の席で外を眺めていたが、ただ景色を見ているのではない。

視線は死角、建物の高さ、道路の幅、退避可能な空間、

見通しの良い交差点、閉塞した路地、すべてを等価な情報として拾い続けていた。

 

堀北は回復したとはいえまだ万全ではない足の位置を微調整しながら前方を睨み、

一之瀬は全員の顔色をさりげなく見回し、

櫛田は表面上こそ落ち着こうとしていたものの、その指先はまだ僅かに硬い。

須藤は膝の上のショットガンを何度も確認し、

坂柳は小柄な身体を座席に預けながらも、

窓へ映る景色と仲間たちの反応を静かに観察していた。

松下もまた普段の聡明さを崩さずにいるように見えたが、

その目の奥には、学校で見たものを

まだ整理しきれていない人間特有の緊張がかすかに残っていた。

伊吹は終始不機嫌そうな顔で周囲を見ていたが、

それは恐怖を怒りへと変換しているだけで、

逆に言えば彼女なりに精神の均衡を保つ方法でもある。

 

その均衡を、突如として破壊したのは、

上方から叩きつけられるような衝撃音だった。

 

車体の天井が、鈍く重い音を立てて沈む。

サスペンションが悲鳴を上げ、車内の全員の身体が一瞬だけ上下へ跳ねる。

 

「――なっ……!?」

 

須藤が反射的に顔を上げる。

一之瀬が短く息を呑み、堀北が即座に前方から視線を上へ切り替える。

綾小路はその一撃で理解していた。

 

ゾンビではない。

 

ただ落ちてきただけの重量ではない。

狙って着地し、狙って車体の弱点を踏みつけている。

この一撃には、明らかに意思がある。

 

「上だ」

 

綾小路の短い声とほぼ同時に、天井の一部が鋭い音を立てて裂けた。

鉄板が捻じ曲がり、金属片が内側へ跳ねる。

 

そして、その隙間から覗き込んできた顔を見た瞬間、車内の空気は凍りついた。

 

それは怪物だった。

皮膚は変質し、筋肉は人間のそれを逸脱した密度で盛り上がり、

目にはかつての知性ではなく獣じみた攻撃衝動が宿っている。

だが、それでも。

その輪郭の奥には、見覚えがあった。

 

「……三宅……?」

 

須藤が信じられないものを見るように呟く。

 

裂けた天井の向こうで、次々に別の影が屋根を蹴る。

 

幸村。

みーちゃん。

網倉。

白波。

神室。

 

高育で死んだはずの生徒たち。

もう二度と会うことのないはずだった者たち。

 

その六人が、人間の形を辛うじて残しながらも、

完全に異形へと変えられた姿で、彼らの上にいた。

 

「嘘でしょ……」

 

一之瀬の声には、恐怖より先に衝撃が滲んでいた。

仲間が死ぬことと、死んだ仲間が

こうして兵器として現れることは、まったく別の絶望だ。

 

「……ここまでやるとは……」

 

坂柳の表情が、目に見えて険しくなる。

神室の姿を見た瞬間、

彼女の中で何かがはっきりと怒りへ変わったのがわかった。

 

「死者への冒涜です。しかもそれを、武器として再利用するなど……」

 

その言葉は静かだった。

だが、静かな分だけ、奥にある怒りの純度が際立っていた。

 

学はすでに判断していた。

 

「橘、止めろ」

 

短い指示。

急停止。

ブレーキの衝撃で車内の身体が前へ引かれる。

 

それと同時に学はドアを開き、外へ飛び出した。

着地と同時に懐へ手を入れ、抜き放つ。

 

大口径のM629シルバー .44マグナム クラシック。

 

彼は一切の躊躇なく照準を合わせた。

屋根の上から飛びかかろうとしていた一体――

みーちゃんの面影を残すハンターへ向けて、引き金を引く。

 

轟音が市街地へ響く。

 

一発。

 

異形へと変えられたその個体は、飛び出そうとした勢いのまま大きく崩れ、

屋根から転がり落ちて動かなくなる。

 

「一撃で……」

 

松下が息を詰める。

だが驚いている暇はない。

 

残る五体が、同時に散開した。

 

彼らはただの感染体ではなかった。

動きが違う。

速さが違う。

そして何より異常だったのは、その手に握られているものだ。

 

剣。

斧。

槍。

 

原始的な武器。

だが、それを扱う知能があるという事実が、単純な怪力や俊敏さ以上に恐ろしい。

 

「武器まで使うの……!?」

 

櫛田が声を震わせる。

 

「ただのハンターじゃないな」

 

学が低く言う。

 

「戦闘行動を学習させられているか、もしくは元の記憶の断片を利用されている」

 

その推測は、聞いているだけで背筋が冷えるものだった。

死者を怪物に変えるだけでも十分に外道だ。

その上で、戦い方まで埋め込んでいるのだとすれば、

鬼島側は人間の尊厳を破壊することに一切の躊躇がない。

 

須藤がショットガンを構え、ほとんど反射で発砲する。

だが、外した。

 

いや、回避された。

 

ハンターが道路を蹴る軌道は鋭く、

銃口の向きがわずかに合った次の瞬間にはもうずれている。

人間相手なら捉えられたはずの距離感が、まるで通用しない。

 

「ちっ、速ぇ……!」

 

須藤が舌打ちする。

 

その間にも一体が車両側面へ回り込み、斧を振り上げる。

狙っているのは人ではない。

車両だ。

逃走手段を破壊し、移動を封じるつもりだ。

 

「車内に留まるな!」

 

綾小路の判断は早かった。

 

「ここで片をつけるしかない」

 

堀北もすぐに頷く。

このまま車へ籠もれば、自由を奪われる。

発進させても、あの速度なら追いつかれる可能性が高い。

ならば、ここで迎え撃つしかない。

 

ドアが次々と開く。

 

綾小路。

堀北。

学。

櫛田。

松下。

須藤。

 

それぞれが車外へ展開する。

 

一之瀬と坂柳、伊吹、橘は一旦車内とその周辺に残る。

一之瀬はスナイパーライフルを構え、坂柳は戦場全体を見渡せる位置を確保し、

橘はいつでも発進できるよう運転席を維持しつつ、伊吹は側面からの接近に備える。

瞬時に役割が分かれ、陣形のようなものが形成されていく。

 

堀北がアサルトライフルを肩へ当て、短く息を整えた。

連射。

乾いた銃声が続く。

 

ハンターの一体が道路の中央を斜めに駆け抜け、

別の一体は信号柱を蹴って跳躍し、

さらにもう一体はしゃがみ込むような低い姿勢から一気に距離を詰めてくる。

その動きはいずれも人間離れしている。

だが、動きが速いだけならまだ対処の余地はある。

厄介なのは、その全てが攻撃意図を持って連携しているように見えることだった。

 

「左から二体、前はフェイントです!」

 

坂柳の声が飛ぶ。

 

その指示に反応して綾小路と学が同時に位置をずらす。

直後、正面から飛び込んできた剣持ちの個体の後方から、

斧持ちが死角を突くように回り込んできた。

もし坂柳の警告がなければ、その軌道はかなり危険だったはずだ。

 

「助かる」

 

学が短く返しながらマグナムを撃つ。

一体の肩口を大きく抉るように命中するが、それでもなお止まらない。

大口径であっても、体幹を完璧に破壊しなければ行動を止めきれないらしい。

 

須藤が前へ出る。

ショットガンの間合いまで誘い込み、一撃で仕留めるつもりだ。

その判断自体は悪くない。

だが、相手もそれを読んでいるかのように急停止し、次の瞬間には別角度へ跳ぶ。

 

「くそっ、ちょこまか……!」

 

櫛田と松下もハンドガンで援護する。

発砲。

二発、三発。

命中はしている。

だがハンドガンでは決定打になりにくい。

 

その時、一体が大きく弧を描くようにして櫛田の正面へ躍り出た。

斧が振り上がる。

距離が近い。

櫛田の反応が一瞬遅れる。

 

「櫛田さん、下がって!」

 

一之瀬の声。

そして直後、狙撃音。

 

スナイパーライフルの一撃が、斧持ちの手元付近を正確に打ち抜く。

軌道が逸れ、振り下ろされるはずだった斧は

櫛田の肩を外れて地面へ深く食い込んだ。

 

櫛田が息を呑みながら後退する。

一之瀬の援護がなければ危なかった。

 

「ありがとう……!」

「まだ来る!」

 

一之瀬は返事をするより先に次弾を装填していた。

かつて誰よりも人を助けたいと願っていた少女が、

いまは撃たなければ仲間が死ぬという現実の中で、

震える指を抑え込みながら狙撃を続けている。

その姿は痛々しく、同時に強かった。

 

網倉の面影を残す個体が、堀北の連射と須藤の散弾の挟撃で足を止める。

そこへ学が一歩踏み込み、マグナムを胸部へ叩き込む。

大きくのけぞる。

直後、綾小路のショットガンが頭部近くを捉え、

その個体はようやく道路へ崩れ落ちた。

 

続いて白波の面影を持つ個体も、櫛田と松下の援護射撃、

一之瀬と伊吹の牽制、堀北のバースト射撃によって進路を制限され、

最後は須藤の近距離射撃で倒れる。

 

その瞬間、一之瀬がかすかに声を漏らした。

 

「……ごめんね……」

 

それは誰に向けた謝罪なのか、はっきりとはわからない。

親友であった白波千尋そのものに対してか。

怪物に変えられた元仲間に引き金を引いた自分自身に対してか。

あるいは、こんな世界に対してか。

 

だが一之瀬はそのあと、顔を上げた。

迷いは消えていない。

それでも銃口を下ろさない。

 

生き残るためには、私情を捨てるしかない。

その事実を、彼女は彼女なりのやり方で呑み込もうとしていた。

 

その一方で、車両の側面に身を預けながら周囲の死角を睨み続けている伊吹は、

あえて動かず、あえて撃たず、あえて前に出ないという、

自分の本能とは真逆の行動を強いられていることに、

内心では抑えきれない苛立ちを抱えていたが、

それでもその二丁拳銃の引き金に指をかけることすら許されていないという

事実上の待機命令を、歯を食いしばりながら守り続けていた。

 

ショッピングモールでの束の間の休息の最中、龍園、石崎、アルベルトと共に

学に呼び出された時のことを、伊吹は鮮明に思い出しており、

そこで告げられた「前線に出ない勇気」という言葉は、

当初はまるで理解できない理屈として彼女の中で弾かれていたが、

同時にその言葉の重さだけは妙に心に残っていた。

 

暴力でねじ伏せることこそが最も確実な防御であり、

攻撃こそが最大の正解であるという価値観の元で生きてきた龍園や伊吹にとって、

戦わずに抑える、あるいは引くことで状況を制御するという発想は

本能的に受け入れがたいものであり、

当然のように二人は学のその考えに対して露骨に反論をぶつけたが、

それでも学は一切声を荒げることなく、ただ静かに、そして論理だけで押し返した。

 

「少なくとも、お前たちの敵であった綾小路は、

自ら表に出ない消極的な姿勢を取りながらも、

結果としてお前たち全員を翻弄し続けたはずだ」

 

その一言は、単なる例え話ではなく、事実そのものだった。

 

龍園も伊吹も、あの男に対して抱いている評価は決して低くない。

むしろ、認めたくはないが、認めざるを得ない存在だった。

 

だからこそ、その戦い方を否定しきることができなかった。

 

言い返せなかった。

感情ではなく、現実で示されてしまっている以上、否定する材料がなかった。

 

伊吹はその時、無意識に舌打ちをしながら視線を逸らしたが、

その奥で思っていたのは単純な反発ではなく、

自分がこれまで信じてきた戦い方だけでは通用しない場面が

確実に存在するという、どうしても無視できない事実だった。

 

そして同時に、彼女は自分でも意外なほど冷静に理解していた。

 

堀北鈴音のことは相変わらず気に入らない。

あの理屈っぽさも、正しさを振りかざす態度も、どこか鼻につく。

 

だが、その兄である堀北学に関しては違った。

 

感情ではなく、結果と論理で場を支配する。

声を荒げず、無駄な威圧もせず、

それでも全員を納得させるだけの根拠を提示する。

 

その姿勢には、否応なく説得力があった。

 

だからこそ伊吹は、いまこの瞬間も、

目の前で戦闘が繰り広げられているにもかかわらず、

自分の役割が「側面警戒」であり、

「どれほどピンチに見えても撃つな」という命令が最優先であることを、

反射的な衝動で破ることなく守っている。

 

本来の彼女であれば、とっくに飛び出している。

斧でも拳でも、目の前の敵に叩きつけている。

 

それでも動かない。

 

動かないという選択を、自分の意志で選んでいる。

 

それは単なる命令への服従ではなく、学の言葉を一度飲み込み、

自分の中で咀嚼し、納得とまではいかなくとも

採用する価値があると判断した結果だった。

 

苛立ちは消えない。

むしろ強まっている。

 

だがそれでも、彼女は撃たない。

 

撃たないという選択こそが、

いまのこの戦場においては戦っていることと同義であると、

ようやく理解し始めていたからだった。

 

しかし、戦いはまだ終わらない。

 

残る三体の中で、明らかに最も厄介だったのは三宅の面影を残す個体だった。

剣を持つそのハンターは、動きが異常に洗練されていた。

ただ速いのではない。

相手の隙、銃口の向き、重心の移動、それらを見ている。

まるで戦い方そのものを理解しているかのように。

 

「こいつ……一番動きがいい!」

 

松下が叫ぶ。

その声に反応するように、三宅の個体が進路を変える。

 

狙われた。

 

一瞬で距離が詰まる。

松下がハンドガンを上げる。

だが射線を作るより早く、剣閃が走った。

 

「――ッ!」

 

腕。

浅くはない。

松下の利き腕側が大きく切られ、彼女の表情が苦痛で歪む。

それでも彼女は倒れない。

後退しながら、震える手でなおも銃口を向ける。

 

一発。

 

頭部を狙った弾は確かに命中した。

だが、威力が足りない。

変質した頭蓋を完全には破壊しきれず、三宅の個体は怯みながらも止まらない。

 

「下がって、松下さん!」

 

堀北が叫ぶ。

櫛田も同時に発砲する。

だが三宅の個体はその弾道すら読んでいるように身を捻り、

次の瞬間にはさらに踏み込んでいた。

 

二撃目。

 

今度は腹部。

 

松下の身体が折れる。

衝撃と痛みに耐えきれず、彼女は膝から崩れ落ちた。

 

「松下さん!!」

 

櫛田の声が裂ける。

堀北がアサルトライフルを連射し、学もすぐに照準を向ける。

だがその瞬間、三宅の個体は松下を捨て、

より厄介な標的――綾小路へ飛んだ。

 

その跳躍は鋭く、迷いがなかった。

だが綾小路もまた、その瞬間を待っていた。

 

飛び込んでくるなら、迎え撃てる。

 

ショットガンの銃口がわずかに上がる。

距離は十分。

逃げ場はない。

 

発砲。

 

至近距離の一撃が頭部を捉え、

三宅の面影を持つその怪物は、空中で軌道を失ってアスファルトへ叩きつけられ、

そのまま動かなくなった。

 

残るは神室と幸村。

 

神室の個体は斧を振り回し、幸村の個体は槍を持って間合いを支配しようとする。

だが既に数を減らした今、こちらの連携はより明確に機能し始めていた。

 

須藤が前へ出てショットガンを撃ち込み、幸村の個体の足を止める。

その一瞬の硬直に学のマグナムが重なり、さらに堀北の射撃が続く。

 

神室の個体はなおも前進しようとしたが、坂柳の声が鋭く飛んだ。

 

「左肩、次に斧が来ます!」

 

綾小路がわずかに位置をずらし、

その振り抜きに合わせて須藤が横合いから撃つ。

体勢が崩れたところへ学の一撃。

最後に堀北の連射。

 

二体がほぼ同時に倒れ、道路の上に静寂が戻った。

 

六体。

全滅。

 

だが、その静けさは安堵ではなかった。

 

「松下さん……!」

 

堀北が真っ先に駆け寄る。

櫛田もそれに続く。

二人で身体を抱き起こすが、松下の呼吸は明らかに浅い。

腕の傷だけではない。

腹部の損傷が深すぎる。

 

一之瀬が車内から飛び降り、治療道具を持って駆けてくる。

応急処置を試みようとするが、見ただけでわかる。

足りない。

圧倒的に足りない。

 

ここにある止血材も包帯も、あくまで一時しのぎだ。

手術環境も輸血もないこの状況で、

ここまでの損傷を立て直すことは現実的ではない。

 

「……そんな……」

 

櫛田の声が崩れる。

彼女は松下の手を握り締めているが、

その手つきには祈ることしかできない無力さが滲んでいた。

 

そして、その時。

 

遠くから、うねるような音が響いてきた。

 

複数。

いや、大量。

 

銃声を聞きつけたのだ。

この周囲に散っていたゾンビたちが、確実にこちらへ引き寄せられている。

 

橘がすぐに周囲を確認する。

学も視線を走らせる。

時間がない。

 

綾小路は、松下を見る。

傷を見る。

呼吸を見る。

出血を見る。

近づく群れを見る。

 

そして判断する。

 

助からない。

 

この場に残れば、全員が危うい。

一人を抱えての移動は困難で、処置の見込みも薄い。

ならば結論は一つしかない。

 

「行くぞ」

 

綾小路の声は低く、淡々としていた。

感情を乗せないようにしているのではない。

ただ、必要な判断をそのまま言葉にしているだけだ。

 

「置いていくしかない」

 

その一言が、堀北と櫛田を凍らせる。

 

「何を言ってるの……!?」

 

堀北が顔を上げる。

目には明確な拒絶があった。

 

「まだ意識があるのよ!まだ、生きてるのよ!」

「だからこそだ」

 

綾小路は視線を逸らさない。

 

「今の状態で運んでも助かる見込みは薄い。

ここで全員が足を止めれば、周囲の群れに包まれる」

「でも……!」

 

櫛田の声も震えている。

理屈がわからないわけではない。

彼女だって現実は見えている。

それでも、仲間をこの場に残すという行為を、心が受け入れない。

 

その時。

 

松下の手が、かすかに動いた。

 

血の気の失せた指先が、床を探るように震え、

やがて迷うことなく、堀北の服の裾へと辿り着く。

 

力は、ほとんど残っていない。

指は細く、温度も失われている。

 

それでも――その掴み方は、あまりにも必死だった。

 

まるで、そこを離せば本当にすべてが終わると分かっているかのように、

弱々しいはずの指が、信じられないほど強い意志で布を握り締めていた。

 

「……お願い……」

 

その声は、ほとんど空気と同じだった。

 

かすれ、途切れ、呼吸と混ざり合いながら、

それでも確かに言葉として形を保っている。

 

「……行かないで……」

 

一拍。

 

そのわずかな間に、肺が悲鳴を上げるように空気を求め、

喉が震え、言葉が引き裂かれる。

 

「……死にたくない……」

 

その一言は、理屈ではなかった。

覚悟でもなければ、美徳でもない。

 

ただの、本能だった。

 

生きたい。

 

ここで終わりたくない。

 

置いていかないでほしい。

 

そのすべてが、たった一言に押し込められていた。

 

堀北の呼吸が、止まる。

 

視界が揺れる。

 

頭では理解している。

 

この傷は助からない。

ここで時間を使えば、全員が危険に晒される。

判断は、すでに出ている。

 

それでも――。

 

その手を、振り払うことができない。

 

指先から伝わる微かな力が、

まるで鎖のように、堀北の身体をその場に縫い付ける。

 

「……っ……」

 

喉が詰まる。

 

何かを言おうとして、言葉が出ない。

 

その代わりに、胸の奥から押し上げてくるものがあった。

 

理性ではない。

 

感情でもない。

 

それはもっと原始的で、抗えない衝動だった。

 

「……っ、やっぱり無理よ……!」

 

堀北の声が、裂ける。

 

それは叫びだった。

 

自分に向けた否定。

状況に対する反発。

そして何より、選べない自分への怒り。

 

「見捨てるなんて……そんなこと……!」

 

言葉が続かない。

 

だが、止まらない。

 

「できるわけないでしょう!!」

 

その瞬間、堀北の中で何かが崩れた。

 

冷静に状況を分析し、

最善手を選び続けてきた彼女の思考が、

音を立てて瓦解していく。

 

彼女は理解している。

 

ここで止まれば、全員が死ぬかもしれない。

 

それでも。

 

それでもなお。

 

この手を振り払うという行為が、

正しいとはどうしても思えなかった。

 

松下の指が、さらに強く食い込む。

 

爪が布に引っかかり、まるで命そのものを縫い止めるかのように、離さない。

 

その力は弱い。

 

だが、その弱さこそが――残酷だった。

 

助けられないと分かっているからこそ。

それでも助けを求めてしまうからこそ。

 

その手は、あまりにも重い。

 

時間が、過ぎていく。

 

背後では、何かが崩れる音がする。

 

遠くで、何かが這い寄る気配がある。

 

だがそのすべてが、今この瞬間だけはどうでもよかった。

 

堀北の世界は、ただこの掴まれた裾と、離したくない手だけに閉じていた。

 

そして――。

 

その選択が、全てを分ける一瞬になることを、

 

まだ誰も、口にしていなかった。

 

櫛田も涙を滲ませながら、何か言おうとして言葉にならない。

一之瀬は唇を噛み、坂柳は目を伏せ、須藤は拳を握り締める。

誰もが、堀北の叫びを否定しきれない。

 

だが、時間だけは待ってくれない。

 

遠くの影が、もうはっきり見える。

ゆらゆらと、だが確実にこちらへ向かってくる群れ。

数は一つや二つではない。

 

ここで誰かが決めなければ、全員が決められなくなる。

 

綾小路は一歩踏み出した。

 

そして、堀北の意識が松下へ完全に向き切った、その一瞬を選ぶ。

 

手刀。

 

衝撃は最小限。

だが確実。

 

堀北の身体から力が抜ける。

崩れ落ちる前に綾小路が受け止め、そのまま抱き上げる。

 

「綾小路くん……!」

 

一之瀬が息を呑む。

櫛田も愕然とする。

 

だが綾小路は何も言い訳しない。

しないまま、堀北を車両へ運ぶ。

 

それが最も合理的で、最も残酷で、そして最も必要な行動だったからだ。

 

生き残るには、非情になるしかない。

その原則を、誰かが実行しなければならない。

他の誰にもできないなら、自分がやる。

綾小路の行動は、そういう種類の冷たさだった。

 

車両へ戻る。

橘がすぐにエンジンを吹かす。

学が周囲を見て乗り込み、一之瀬も櫛田を促す。

須藤は最後まで振り返り、歯を食いしばっていたが、それでも乗るしかない。

坂柳は神室の変わり果てた残骸を一瞥し、そのあと松下の方を見た。

小さく、だがはっきりと目を閉じる。

それは祈りなのか、弔意なのか、

あるいは怒りを飲み込むための一瞬なのか、誰にもわからなかった。

 

「……発進してください」

 

彼女のその一言で、車両は動き出した。

 

タイヤが道路を噛み、軍用車両はその場を離れていく。

 

後方に残されるもの。

それは一人の仲間であり、救えなかった現実であり、

自分たちがここから先も何度も向き合うことになる選別そのものだった。

 

松下は道路の上に横たわったまま、遠ざかっていく車両を見ていた。

 

追いかける力はない。

叫ぶだけの余裕もない。

ただ、去っていく仲間たちの背中を、霞む視界の向こうで見送ることしかできない。

 

ただ、離れていく背中を、霞む視界で追い続ける。

 

やがてエンジン音が途切れる。

完全に、置いていかれたのだと理解する。

 

その瞬間、瞳の奥に微かな色が宿る。

 

「……酷いよ……」

 

それは叫びではなく、沈むような呟きだった。

 

仲間へ向けた憎悪の込もった言葉。

 

助けを求めた自分を切り捨てた彼らを――最後まで。

 

「……生きたかったのに……」

 

近づいてくる群れの影が、彼女の周囲にじわじわと濃くなっていく。

唸り声。

引きずる足音。

崩壊した都市の静寂を押し潰すようにして集まってくる無数の存在。

 

だが、その松下の結末を、車内の誰も最後まで見なかった。

見られなかった。

見れば心が折れるとわかっていたからではなく、

見たところで変えられないと理解していたからだ。

 

車内には、重い沈黙だけが残る。

 

堀北は意識を失ったまま座席へ横たえられている。

櫛田は両手を握り締め、肩を震わせながら俯いている。

一之瀬は銃を抱えたまま、目を閉じて必死に呼吸を整えていた。

須藤は窓の外を睨んでいたが、その拳は白くなるほど固く握られている。

坂柳は無言で前を向き、学は表情を変えずに地図を見ているようで、

その実、思考は別の場所にあるのがわかった。

橘はただ運転に集中していた。

集中しなければ、余計なことを考えてしまうからだろう。

 

その沈黙の中で、側面警戒を続けていた伊吹が低く、

しかし抑えきれない感情を滲ませる声で学へと問いかけた。

 

「……これで本当によかったの?

私が出ていれば、彼女を助けられたかも知れないのに……!」

 

その言葉は責めるようでいて、同時に自分自身への苛立ちと後悔が混ざっていた。

だが学は振り返りもせず、前方を見据えたまま淡々と答える。

 

「だとしてもだ。いまのお前が出て、二人目の犠牲者でなかった保証はない」

 

一拍置いてから、さらに容赦なく続ける。

 

「むしろ、状況を乱して足手まといになった可能性の方が高い」

 

その言葉に、伊吹は何も言い返せず、

ただギリッと奥歯を噛み締めることしかできなかった。

 

そして綾小路だけが、いつもと変わらない無表情で前方を見ていた。

 

だが、変わらないからといって、何も感じていないわけではない。

感じていても、それを外に出す必要がないだけだ。

この世界では、感情に引きずられた人間から死んでいく。

だから彼は、自分の中で何が削れていくのかを理解しながらも、それを止めない。

 

助けられない人間を助けようとして全員が死ぬより、

助からない一人を切り捨ててでも多数が生き延びる方を選ぶ。

その答えは冷酷で、正しくて、そして救いがない。

 

車両は交差点を曲がる。

遠ざかる銃声の余韻も、群れの気配も、やがて建物の陰へ飲まれていく。

 

しかし、置き去りにしたものは消えない。

それは車内に重く残り、誰の胸にも異なる形で沈殿していく。

 

堀北にとっては、救えなかった仲間の手の感触として。

櫛田にとっては、最後の声を聞きながら何もできなかった無力感として。

一之瀬にとっては、人を救いたいという願いだけでは越えられない現実として。

須藤と伊吹にとっては、怒りをぶつける先すら定まらない苛立ちとして。

坂柳にとっては、鬼島の外道さを決して許さないという静かな決意として。

そして綾小路にとっては、自分がこれから先も引き受け続ける役割の確認として。

 

その時、不意に無線が短く軋んだ。

 

龍園チームからの定時連絡ではない。

ノイズだけ。

意味のない、しかし妙に神経を逆撫でする音。

 

学が手を伸ばし、無線機を確認する。

受信状態は悪くない。

にもかかわらず、そのノイズは一瞬だけ不自然に長く残った。

 

「……嫌な感じだな」

 

学が小さく呟く。

 

「追跡か、あるいは別の監視がいる可能性もある」

 

坂柳が静かに応じる。

 

「さきほどのハンターたちも偶然にしては出来すぎています。

こちらの進路を把握していたかのようでした」

 

綾小路は窓の外へ目を向ける。

もし鬼島側がこちらの位置を掴み、

しかも死者を素材にしたB.O.Wを投入しているのだとすれば、

今後の脅威は単なるゾンビの群れに留まらない。

狙って送り込まれる敵。

感情を揺さぶる敵。

そして戦術的に行動する敵。

 

それは、ただ生き残るだけのサバイバルではなく、

明確な狩りへと変質していくことを意味していた。

 

堀北が微かに身じろぎする。

意識はまだ戻らない。

だが、その眉間には深い皺が刻まれていた。

夢の中でも、きっとあの場面から逃れられてはいない。

 

綾小路は一瞬だけ彼女を見る。

そしてまた前を向く。

 

振り返らない。

戻らない。

後悔があっても、それで判断を鈍らせるわけにはいかない。

 

軍用車両は、さらに荒廃した市街地の奥へと進んでいく。

壊れた道路標識。

放置されたパトカー。

黒煙の立つ遠景。

生きている街では決して聞こえない、広すぎる静寂。

 

その静寂の奥には、まだ無数の脅威が眠っている。

そして鬼島は、おそらくその全てを試験として見ている。

 

仲間を守るために誰を切り捨てるのか。

誰を助け、誰を見放し、誰がその決断を下すのか。

この都市そのものが巨大な実験場であるなら、

いま起きたこともまた、誰かにとっては観察結果に過ぎないのかもしれない。

 

もしそうだとすれば。

 

綾小路は静かに思う。

鬼島が用意したこの新たな特別試験は、単に怪物と戦うだけのものではない。

人間が人間でいられる限界を測り、仲間という概念を削り、

道徳と合理のどちらを選ぶかを突きつけ、

選んだ結果をさらに別の苦痛で上書きしていく。

そういう構造になっている。

 

つまり、この街で本当に試されているのは、戦闘力ではない。

心の摩耗に、どこまで耐えられるかだ。

 

その意味では――今、最初に大きく削られたのは、綾小路たちの側だった。

 

六体のハンターを倒した。

だが失ったものの方が大きい。

松下を救えなかったという事実は、これから先の全員の判断に影を落とす。

 

車両はやがて、崩れた高架道路の下を抜け、次の探索区域へと入っていく。

その先に何があるのか、まだ誰も知らない。

だが一つだけ確かなのは、この戦いによって、

彼らの旅はもう後戻りできない段階へ入ったということだった。

 

単なる脱出ではない。

単なる生存競争でもない。

仲間の姿をした敵と戦い、仲間を置き去りにし、

その判断を呑み込んだまま前進しなければならない。

そこまで来てしまった以上、彼らはもう以前と同じ生徒たちではいられない。

 

そして、その変化を最も冷静に見つめていたのは、

誰よりも無表情な綾小路清隆だった。

 

彼は知っている。

こういう時、一度壊れたものは元に戻らない。

ただし、壊れたままでも前へ進むことはできる。

むしろ、この地獄では、それしか許されない。

 

車両は止まらない。

止まれない。

前へ進むしかない。

 

置いてきたものを背中に背負いながら。

次に何を失うのかもわからないまま。

それでもなお、生き残るためだけに。




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