警察署を離れてから、すでに一時間近くが経過していた。
龍園チームを乗せた軍用車両は、崩壊した市街地の中を、
まるで死んだ巨大生物の体内を進むかのように、
瓦礫と放置車両と黒く焦げた道路の隙間を縫いながら走り続けていた。
窓の外には、かつて人の生活があった痕跡だけが、
ひどく不自然な形で残されている。
傾いた信号機。
横転したバス。
炎上したまま黒い骨組みだけになった乗用車。
歩道に散らばるバッグや靴や携帯電話。
割れたショーウィンドウの奥で、まだ整然と並んでいる服や靴。
そのすべてが、人間だけがこの街から剥ぎ取られたような、
奇妙な空白を生んでいた。
軽井沢は窓の外をあまり見ないようにしていた。
視線を向ければ、必ず何かが見える。
見たくないものが見える。
生きていたはずの人間が、もう人間ではない姿で歩いている光景が、
あまりにも当たり前のようにそこにある。
ひよりは、膝の上に置いた短く加工されたアサルトライフルへ視線を落としていた。
それはもともと石崎が使っていた銃だった。
警察署前の戦闘で彼が落とし、彼が二度と手に取ることのなかった銃。
高円寺が移動中に最低限の調整を施し、
小柄なひよりでも構えやすいようにストックを外して取り回しを良くしたものだ。
それでも重い。
腕にかかる重量も、肩に食い込む硬さも、
慣れない金属の冷たさも、すべてがひよりにとっては異物だった。
だが、彼女はそれを手放さなかった。
石崎の死を忘れないため。
自分が何もできなかったことを忘れないため。
そして、もう二度と同じように立ち尽くさないため。
龍園はそんなひよりの様子を横目で見ていたが、何も言わなかった。
慰めの言葉など、彼には似合わない。
そもそもひよりも、今は慰めを求めているわけではなかった。
必要なのは、進むこと。
武器を取ること。
生き延びること。
やがて、視界の先に巨大なフェンスと重厚なゲートが現れた。
自衛隊基地。
本来ならば、都市の混乱時にこそ機能するはずの施設。
災害時の救援、治安維持、避難誘導、物資輸送。
この国の最後の防衛線として存在するはずの場所。
だが、近づくにつれて、誰もが同じことを悟った。
ここもまた、すでに安全地帯ではない。
正門は半ば破壊されていた。
鉄製のゲートは内側から押し開けられたのか、
あるいは外側から強引に突破されたのか、
歪んだまま不自然な角度で止まっている。
周辺には横転した車両、焼け焦げた資材、
破壊されたバリケードが散乱し、地面には無数の薬莢が落ちていた。
何かが起きた。
それも、短時間で終わった小規模な混乱ではない。
組織的な防衛が行われ、それが破られた痕跡だった。
「……やっぱり、ここも駄目だったんだね」
軽井沢が小さく呟く。
龍園は口元を歪めた。
「駄目でも構わねぇ。俺たちが欲しいのは救助じゃねぇ。残ってる武器と弾だ」
「随分と頼もしい発想だね」
鬼龍院が皮肉混じりに言うと、龍園は肩をすくめる。
「綺麗事でゾンビが止まるなら、いくらでも言ってやるよ」
茶柱が車両を停止させる。
全員が降りる。
その瞬間、基地の奥から複数の影が現れた。
隊員ゾンビだった。
自衛隊員だった者たち。
装備の一部を身に着けたまま、重く、ぎこちなく、
それでも確実にこちらへ向かって歩いてくる。
通常のゾンビよりも体格がいい。
防護装備やヘルメット、厚手の戦闘服が残っている個体もいる。
腐敗していても、骨格と筋肉の基礎が違うのだろう。
ただの感染者よりも、明らかに厄介だった。
「来るぞ」
高円寺が言う。
その声音は相変わらず軽い。
だが、目だけは周囲の動きをきちんと捉えていた。
「撃て」
龍園の短い命令と同時に、銃声が基地内へ響いた。
アルベルトのアサルトライフルが先頭の隊員ゾンビへ弾丸を浴びせ、
龍園のカービンがその隙間を縫うように頭部へ照準を合わせる。
橋本も、まだ扱いに慣れきっていない銃を必死に構えながら発砲し、
茶柱はマグナムの重い反動を受け止めながら慎重に射撃する。
ひよりも撃った。
小柄な身体に対して大きすぎる銃を抱え、
肩に伝わる衝撃に耐えながら、足元へ向けて連射する。
だが、倒れない。
「硬い……!」
ひよりが思わず声を漏らす。
通常のゾンビなら、脚に数発撃ち込めば容易に破壊し、崩れる。
しかし隊員ゾンビは、弾丸を受けてもなお前へ進んでくる。
装備のせいか、肉体の強度か、単に執着のようなものなのか、
明らかに通常個体よりも止まりにくい。
「頭を狙うな!弾を食いすぎる!」
龍園が即座に戦法を変えた。
「脚を壊せ!倒れたところを潰す!」
合理的な判断だった。
ゾンビは痛みで止まらない。
ならば、移動能力そのものを奪う。
脚を破壊し、倒れた個体を確実に処理する。
それなら弾薬の消費を抑えられる。
アルベルトが前へ出る。
銃撃で膝を崩した隊員ゾンビへ接近し、
巨体を活かして押し倒し、完全に動きを封じる。
高円寺は無駄のない動きで距離を取りつつ、
必要な時だけマグナムを撃ち込み、茶柱も確実にヘッドショットを決めていく。
軽井沢は後方で息を荒げていた。
彼女も銃を握ってはいる。
だが、撃つたびに手が震える。
狙う相手が元人間であることを、どうしても意識してしまう。
それでも撃たなければならない。
撃たなければ、自分が死ぬ。
隣の誰かが死ぬ。
「軽井沢、下がりすぎるな。死角になる」
龍園が鋭く言う。
「わ、分かってるわよ……!」
軽井沢はそう返しながらも、必死に位置を修正する。
その間にも、ひよりは黙々と撃ち続けていた。
以前の彼女なら、ここまで前に出ることはできなかっただろう。
だが今は違う。
石崎の銃を抱えている。
自分の中に芽生えた怒りを、
まだどう扱えばいいのか分からないまま、それでも引き金を引いている。
弾丸が脚部に命中し、隊員ゾンビの一体が前のめりに崩れる。
高円寺が素早く処理する。
「悪くないね、椎名ガール。
銃に振り回されるのではなく、銃を使う意識を持ちたまえ」
「……はい」
ひよりは短く答える。
その声は小さいが、以前よりも芯があった。
戦闘は長く続いた。
ゾンビの数は決して圧倒的ではなかったが、
一体一体が硬く、確実に処理しなければ後方へ回り込まれる。
弾薬の消費を抑えるためにも、龍園たちは脚を狙い、
倒し、止めを刺すという流れを徹底した。
やがて、基地入口周辺の隊員ゾンビは沈黙した。
「……ふぅ……」
軽井沢が壁にもたれかかる。
橋本も肩で息をしながら銃を下ろした。
「普通のゾンビより疲れるな、こいつら」
「当たり前だ。元が鍛えられてる」
龍園はそう言いながら、武器庫の方向へ視線を向ける。
「行くぞ。長居するほど面倒になる」
一行は基地内を進んだ。
敷地内には破壊の痕跡が多かった。
兵舎の窓は割れ、車両整備場には炎上した装甲車が残り、
倉庫の扉は内側からこじ開けられたように破損していた。
だが警察署と違い、敷地は広い。
物資がすべて持ち出されたとは考えにくい。
そして、武器庫へ辿り着いた時、その予想は当たった。
扉は破壊されていた。
内部もかなり荒らされていた。
それでも、そこには警察署とは比較にならない量の武器と弾薬が残されていた。
弾薬箱。
予備マガジン。
小銃。
ショットガン。
手榴弾に近い装備類。
重火器の一部。
もちろん、主要な装備の多くはすでに持ち出されている。
それでも、彼らにとっては十分すぎる量だった。
龍園が久しぶりに、心底楽しそうに笑う。
「これだけありゃ、まぁ及第点だ」
その笑みには、生き延びるための材料をようやく掴んだ者の獰猛な安堵があった。
アルベルトが奥のラックから一つの大型火器を持ち上げる。
M60E3 機関銃。
重く、長く、扱いにくいが、火力という一点では圧倒的な存在感を放つ武器だった。
それをアルベルトが持つと、驚くほど様になっていた。
巨漢の体格。
無言の威圧感。
そして重火器。
まるで最初からそういう役割を与えられていたかのような説得力がある。
軽井沢が思わず声を漏らした。
「うわぁ……凄い迫力……」
鬼龍院も珍しく少し楽しげに目を細める。
「似合うじゃないか。まるで要塞が歩いているようだ」
アルベルトは無言のまま、少しだけ困ったように頬を指でかいた。
その反応に、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
橋本がそこで手を挙げる。
「それ、アルベルトが使うならさ。
今まで使ってたアサルトライフル、俺に回してくれないか?」
合理的な提案だった。
アルベルトが機関銃を持つなら、今まで彼が使っていたアサルトライフルは余る。
橋本は銃器の扱いに熟練しているわけではないが、何も持たないより遥かにいい。
アルベルトは少しだけ龍園を見る。
龍園が顎で許可を出す。
するとアルベルトは、無言のままアサルトライフルを橋本へ渡した。
「助かる」
橋本は受け取ると、すぐに操作を確認しようとする。
だが当然ながら、完全には分からない。
「龍園、ざっくりでいいから教えてくれ」
「安全装置、弾倉、装填、照準、撃つ。以上だ」
「ざっくりにも限度あるだろ」
橋本が苦笑する。
だが龍園は面倒そうにしながらも、必要な操作だけは説明した。
その説明は雑だったが、実戦で必要な点だけに絞られていたため、
ある意味では分かりやすい。
橋本は何度か動作を確認し、どうにか最低限扱える程度には覚える。
茶柱はその間に無線機を取り出していた。
「こちら龍園チーム。自衛隊基地で武器・弾薬を確保した」
短いノイズの後、橘の声が返ってくる。
「こちら橘。確認しました。
可能であれば、そのまま基地内に10人以上乗れるヘリコプター、
もしくはティルトローター機が残っていないか確認できますか?」
龍園は周囲を見回した。
武器は手に入れた。
次は脱出手段。
当然の流れだった。
「聞こえたな。格納庫と飛行場だ」
茶柱が無線機へ返す。
「了解した。こちらで確認する」
彼らは再び武器庫を出た。
今度は格納庫と飛行場へ向かう。
途中にも隊員ゾンビがいた。
先ほどほどの数ではないが、散発的に物陰から現れ、彼らへ向かってくる。
しかし今の龍園チームは、警察署に向かった時とは違っていた。
火力がある。
弾薬がある。
そして、戦い方にも慣れ始めている。
アルベルトの機関銃は圧倒的だった。
連射すれば弾の消費は激しいが、
必要な場面で短く撃つだけでも隊員ゾンビの足を止めるには十分であり、
橋本も受け取ったアサルトライフルで後方支援を行う。
高円寺と茶柱は相変わらず精度重視で頭部を狙い、
鬼龍院は接近戦を避けつつ、隙を見て確実に処理する。
ひよりも撃った。
今度は無理に頭を狙わない。
龍園の指示通り、脚。
動きを止める。
倒れたら、他の誰かが処理する。
連携というには荒い。
だが、機能していた。
そして彼らは、格納庫へ到着する。
広い空間。
薄暗い内部。
整備用の足場。
工具。
燃料の匂い。
そして、奥に鎮座する巨大な影。
最初にそれを見つけたのは、ひよりだった。
「……あれ」
彼女の声に、全員が視線を向ける。
格納庫の奥に、比較的損傷の少ない大型軍用ヘリがあった。
外装には小さな傷や汚れこそあるが、
他の破壊された機体と比べると明らかに状態がいい。
ローターも大きく、機体内部も広い。
少なくとも、彼ら全員を乗せるだけの余裕はありそうだった。
龍園が口元を吊り上げる。
「……当たりだな」
茶柱がすぐに無線を取る。
「こちら龍園チーム。全員が搭乗可能と思われる大型軍用ヘリを発見した。
こちらは基地で待機すればいいか?」
少しの間。
橘の声が返る。
「こちらも任務を終えたところです。そちらへ向かいます。
合流後、機体の状態と燃料を確認しましょう」
ようやく、具体的な脱出路が見えた。
空へ。
この死都から抜け出せる可能性。
もちろん、まだ安心はできない。
機体が本当に飛ぶかも分からない。
燃料が十分かも分からない。
操縦できるかも、敵が妨害してこないかも分からない。
だが、それでも。
初めて、逃げられるかもしれないという感覚が生まれた。
「よし」
龍園が言う。
「綾小路たちと合流するまで入口付近を押さえる。ゾンビの群れが来ても面倒だ」
万一に備えて、三人が入口方面へ向かうことになった。
龍園。
高円寺。
ひより。
アルベルトたちは格納庫周辺の防衛と機体確認に残る。
三人は基地の入口近くまで戻った。
空は濁っていた。
黒煙が遠くで細く立ち上っている。
風はあるが、生温く、どこか焦げたような匂いを運んでくる。
龍園はゲート付近の遮蔽物を確認し、
高円寺は壁にもたれかかるようにしながらも周囲を見ていた。
ひよりは二人から離れた場所で、銃を抱え直しながら警戒に立った。
静かだった。
あまりに静かだった。
その静寂の中で、ひよりは自分の呼吸を聞いていた。
石崎の銃。
短くなったとはいえ、まだ重い。
けれど、さっきよりは少しだけ馴染んでいる気がした。
撃てた。
隊員ゾンビを相手に、自分は撃てた。
仲間の足を引っ張らずに戦えた。
そう思いたかった。
石崎くん。
心の中で、名前を呼ぶ。
あなたの銃、ちゃんと使います。
私は、もう見ているだけじゃありません。
みんなで生きて帰るために、ちゃんと戦います。
その時だった。
物陰から、一体のゾンビが現れた。
ゆっくりと。
足を引きずるように。
こちらへ向かってくる。
数は一体。
タフな隊員ゾンビではない。
普通なら問題にならない相手だった。
今のひよりなら、距離を保って頭を撃ち、動きを止めることができる。
落ち着いて狙えばいい。
これまでと同じように処理すればいい。
だが。
その顔を見た瞬間、ひよりの世界が止まった。
「……え……?」
喉から漏れた声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。
石崎だった。
警察署前で死んだはずの石崎。
さっきまで仲間だった石崎。
龍園が「よくやった」と声をかけた石崎。
ひよりが目を閉じてやった、あの石崎。
その彼が、いま、歩いていた。
人間ではない形で。
ひよりの指が震える。
銃口は向いている。
引き金に指もかかっている。
撃てばいい。
分かっている。
これはもう石崎ではない。
石崎の身体を使っただけの、感染した死体だ。
放っておけば、自分が襲われる。
仲間が危険になる。
頭では分かっている。
それでも、撃てない。
「……石崎、くん……」
声が震える。
ゾンビは答えない。
ただ、ゆっくりと近づいてくる。
その顔に、石崎の面影が残っている。
だからこそ残酷だった。
完全に別物なら撃てたかもしれない。
見知らぬゾンビなら撃てた。
隊員ゾンビなら撃てた。
でもこれは、石崎だった。
彼の銃を持っている。
彼の死を無駄にしないと決めた。
彼を忘れないために戦うと決めた。
なのに、その銃で彼を撃つことだけはできなかった。
「撃たなきゃ……」
ひよりは自分に言い聞かせる。
「撃たなきゃ、駄目……」
銃口が揺れる。
視界が滲む。
指が動かない。
ゾンビはさらに近づく。
もう距離がない。
龍園と高円寺は離れた位置にいる。
まだ気づいていない。
ひよりは一歩下がろうとした。
足が動かない。
声が出ない。
怖い。
だが、その怖さは死への恐怖だけではなかった。
撃つことへの恐怖。
石崎の形をしたものを、自分の手で終わらせることへの恐怖。
その一線を越えたら、
自分の中の何かが完全に変わってしまうのではないかという恐怖。
石崎だったものが、ひよりへ手を伸ばす。
その瞬間、ひよりの身体が硬直した。
「――っ」
近すぎた。
避けられない。
ひよりの口から小さな悲鳴が漏れる。
反射的に引き金が引かれ、銃声が基地の入口に響いた。
だが、遅かった。
弾丸は狙いを外し、石崎だったものの動きを止めるには至らない。
噛みつかれて、ひよりは倒れた。
銃が手から滑り落ちる。
それでも彼女は、最後まで石崎の顔を見ていた。
撃てなかった。
自分は撃てなかった。
あれだけ決意したのに。
石崎の銃を持ち、彼の死を背負ったつもりでいたのに。
いざ目の前に彼が現れた時、自分は引き金を引けなかった。
その事実だけが、薄れていく意識の中で、ひどく重く残った。
銃声を聞きつけ、龍園と高円寺が駆けつけた。
二人が見たのは、倒れているひよりと、その傍らに立つ石崎だったものだった。
状況を理解するのに、時間は必要なかった。
龍園は一瞬だけ目を細めた。
そして、迷わず銃を構えた。
発砲。
石崎だったものは倒れた。
もう動かない。
高円寺は無言だった。
いつもの芝居がかった口調も、余裕の笑みも、その瞬間だけは影を潜めていた。
龍園はひよりへ近づく。
彼女はもう動かなかった。
小柄な身体のそばに、短く加工されたアサルトライフルが落ちている。
石崎の銃。
ひよりが手放さなかった銃。
龍園はそれを見た。
そして、ひよりを見た。
死んでいる。
判断は一瞬だった。
龍園は銃口を下げる。
高円寺は何も言わない。
龍園も何も言わない。
だが、やるべきことは分かっていた。
ひよりを、石崎と同じ姿にはしない。
それがこの世界で許された、最後の処置だった。
乾いた銃声が一つ響いた。
その後、基地入口には沈黙だけが残った。
龍園はしばらくその場に立っていた。
高円寺も、同じく無言だった。
もともと、二人は仲が良いわけではない。
むしろ、価値観も性格も、まるで違う。
互いに慰め合うような関係でもなければ、傷を分かち合うような間柄でもない。
だからこそ、言葉は不要だった。
「かわいそうだった」などという言葉は、ひよりを軽くする。
「仕方なかった」などという言葉は、現実を薄める。
「大丈夫だ」などという言葉は、嘘になる。
何も大丈夫ではない。
石崎は死んだ。
ひよりも死んだ。
そしてその二人を、龍園は自分の手で完全に終わらせた。
それだけだった。
やがて、龍園は落ちていたアサルトライフルを拾い上げる。
石崎の銃であり、ひよりが受け継ごうとした銃。
短く加工されたそれは、まだひよりの体温を残しているように見えた。
龍園はしばらくそれを見つめ、それから無言で肩にかけた。
高円寺が静かに言う。
「報告は必要だろうね」
「分かってる」
龍園の声は低かった。
怒鳴らない。
笑わない。
皮肉も言わない。
ただ、低い。
無線を取る前に、龍園はもう一度だけ、ひよりの方を見た。
椎名ひより。
本が好きで、争いを嫌い、龍園のクラスにいながらも静かで優しくて、
暴力とは遠い場所にいるような少女だった。
その彼女が、石崎の銃を持った。
戦うと決めた。
それでも、最後に石崎を撃てなかった。
龍園は、その甘さを笑えなかった。
笑うには、あまりにも重すぎた。
「……くだらねぇ世界だ」
ぽつりと、龍園が呟いた。
高円寺は返事をしない。
龍園は無線機を握る。
まだ全員には伝えなければならない。
綾小路たちにも。
茶柱たちにも。
武器は手に入れた。
ヘリも見つけた。
脱出の道は、ようやく見えた。
だがその直前に、また一人が消えた。
それがこの世界の悪意だった。
希望を見せてから、奪う。
出口が見えた瞬間に、足元を崩す。
龍園は無線の送信ボタンへ指をかける。
そして、いつものような余裕も芝居もない声で、短く告げた。
「こちら龍園。入口付近で椎名が死亡した」
少しの沈黙。
「石崎の感染体と接触した。処理は済ませた」
それ以上、何も付け加えなかった。
説明すればするほど、薄っぺらくなる気がした。
無線の向こうで誰かが息を呑む気配があった。
だが、龍園は返事を待たずに通信を切った。
高円寺は静かに空を見上げていた。
格納庫の向こうには、軍用ヘリがある。
脱出の可能性がある。
全員が乗れるかもしれない空への道が、ようやく見つかっている。
だが、その空は少しも明るく見えなかった。
龍園は歩き出す。
高円寺も続く。
背後には、二つの亡骸が残る。
石崎だったもの。
そして、ひより。
敵だった。
仲間だった。
面倒な連中だった。
守るべき駒だった。
そして、もう戻らない者たちだった。
龍園は振り返らない。
振り返っても何も変わらない。
変わらないなら、前を見るしかない。
だが、その手には、ひよりが最後まで抱えようとした銃があった。
それだけが、彼が何も感じていないわけではないことを示していた。
格納庫へ戻る道は、来た時よりも長く感じた。
遠くで、ヘリの機体が薄暗い光を受けて鈍く光っている。
それは確かに希望の形をしていた。
だが、その希望へ辿り着くまでに、彼らはまた二人を失った。
脱出は近い。
だが、その近さが救いになるとは限らない。
最後の一歩の前にこそ、人は最も大きな代償を支払わされることがある。
龍園はそれを、今さらのように理解していた。
そして同時に、こうも思っていた。
ここまで来た以上、もう止まれない。
石崎も、ひよりも、松下も。
失われた者たちの名を背負うつもりなど、龍園にはない。
だが、無駄にするつもりもなかった。
「行くぞ」
龍園が短く言う。
高円寺はわずかに目を細める。
「もちろんだとも」
二人は格納庫へ戻る。
言葉は少ない。
慰めもない。
励ましもない。
誓いもない。
ただ、次にやるべきことだけがある。
ヘリを守る。
綾小路たちと合流する。
鬼島の手から逃げる。
この死都を出る。
それが今、生き残った者に許された唯一の答えだった。
そして基地の上空では、黒煙を含んだ風がゆっくりと流れていた。
まるで、この街そのものが、まだ彼らを逃がすつもりなどないと告げるように。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると助かります。