カーストルーム・オブ・ザ・デッド2   作:戦竜

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第8話 三人

重たい鉄のマンホールの蓋が内側からゆっくりと押し上げられ、

わずかに差し込んだ外光が円形の光となって暗闇を切り裂いた瞬間、

その光を背負うようにして最初に降り立った森下藍は、

足元の濁った水面に軽やかに着地すると同時に一度深く息を吸い込み、

そしてほんの一拍の間を置いてから、

どこか楽しそうに鼻をつまみながら口を開いた。

 

「くしゃいですね……これはもう空気が液体みたいな濃度ですよ。

こんなところに長居したらゾンビ化する前に汚物だけで進化しちゃいそうです」

 

その言葉とは裏腹に、彼女の足取りは軽く、

警戒というよりはむしろ探検でもしているかのような気配すら漂わせており、

暗く湿った下水道の空気の中で、

その異様なテンションだけが場違いなほど明るく浮き上がっていた。

 

続いて慎重に降りてきた山村美紀は、

両手でライトをしっかりと握りしめながら周囲を照らし、

ぬるりとした水の感触に一瞬肩を震わせたあと、

小さく息を吐いてから、どこか落ち着いた声で呟いた。

 

「……た、たしかに臭いですけど……でも、外よりは……

静か……人もいないし……見つかりにくい……かも……」

 

その言葉は弱々しいながらも、確かな現実認識に基づいたものであり、

恐怖と合理性が同時に存在している山村らしい判断だった。

 

最後に降りてきた白石飛鳥は、靴先で水面を軽く確かめるように踏み、

汚れや臭気に対して一切の嫌悪を示すことなく、

まるでそこが整備された通路であるかのように

自然な動作でMP5A5 サブマシンガンを構え、

柔らかな声で二人に告げた。

 

「ここはいい選択だと思います。視界が悪い分だけ相手も動きにくいし、

音を抑えれば気づかれにくいから、

私たちみたいに少人数で動くには向いてる場所ですね」

 

森下が振り返り、にやりと笑う。

 

「ほら見てください山村美紀、白石飛鳥もこう言ってますし、

ここはおしゃれ地下空間ってことで確定です、最近流行ってるじゃないですか、

無機質でちょっと危険な感じの隠れ家みたいなの」

「おしゃれでは……ないと思います……」

 

山村はそう言いながらも、ライトの角度を調整し、

進行方向の壁や天井の構造を細かく確認していく。

 

白石はその様子を見て、小さく微笑んだ。

 

「でも、ここならちゃんと生き延びられます、焦らずに行きましょう」

 

三人はゆっくりと歩き出す。

 

水を踏む音が、一定のリズムで響く。

その音がやけに大きく感じられるほど、周囲は静まり返っていた。

遠くで、何かが動く気配がある。

しかしそれは明確な敵ではなく、ただ存在している気配だけが漂う不気味さだった。

 

「いいですね、この感じ、見つかったら終わりっていうやつです。

個人的にはかなり好きです」

 

森下が軽口を叩く。

 

「わ、私は……あんまり好きじゃないです……」

 

山村が小さく返す。

 

白石はそのやり取りを聞きながら、周囲に視線を巡らせる。

 

「無駄な音は立てないで、ここは静かに動ける人が生き残る場所ですから」

 

その一言で、三人の歩き方が変わる。

 

森下は軽口を叩きながらも、先ほどまでより足の運びを浅くし、

靴底が水面を叩かないように歩幅を微妙に調整していたし、

山村はライトの光量を少し落として反射を抑え、

白石は二人の後方と前方を交互に確認しながら、

誰か一人が突出しすぎないよう自然に歩調を整えていた。

 

下水道は、地上とは違う意味で生き物のようだった。

 

流れる水の音。

配管の奥で鳴る低い反響。

どこからともなく落ちる水滴。

壁を伝って這う小さな虫の気配。

 

そして何より、どこか遠くで何か大きなものが動いたような、

はっきりとは分からない不快な振動が、時折足元から伝わってくる。

 

「……いま、揺れました?」

 

森下が少しだけ首を傾げる。

 

「揺れた……気がします……」

 

山村はモニターを見ながら小さく頷く。

 

「でも、地上の崩落かも……それとも、下水道内で何かが……」

「その何かって言い方、ホラー映画だとだいたい当たるんですよね」

 

森下が淡々と言う。

 

「や、やめて……」

 

山村が本気で嫌そうに呟くと、白石が柔らかい声で二人を制した。

 

「大丈夫。怖がるのは悪いことじゃないです。

怖いと思えるうちは、ちゃんと周りが見えてるってことですから」

 

その言葉に、山村はほんの少しだけ落ち着いたように息を吐く。

 

白石は決して大声を出さない。

強く命令することもない。

だが、彼女がそう言うだけで、不思議と場の重心が安定する。

 

森下はちらりと白石を見て、少し笑った。

 

「白石飛鳥、こういう状況でおっとりしてるの、逆に怖いですよね。

私が化け物だったら、最初に警戒します」

「ひどいですねえ……。私はただ、みんなで無事に帰りたいだけですよ」

「その言い方がもう、底が知れないんですよ」

「そうでしょうか?」

 

白石は本当に不思議そうに首を傾げる。

山村はそのやり取りを聞きながら、微妙に安心していた。

 

森下の軽口はうるさい。

白石の落ち着きは少し怖い。

けれど、その二人がいるから、

下水道の暗闇が完全な恐怖だけにならずに済んでいる。

 

「……ドローン、先に出しますね」

 

山村はリュックから小型ドローンを取り出し、手慣れた動作で起動させた。

小さなプロペラ音が、下水道の空気をかすかに震わせる。

 

「音、大丈夫ですか?」

 

白石が問う。

 

「かなり抑えてる……でも、近くにいたら気づかれるかも知れません……

だから先行距離は短めにします……」

「山村美紀、こういう時だけ急に頼もしいですよね」

 

森下が感心したように言う。

 

「こういう時だけって……」

「普段は薄暗いところが好きな陰キャさんなのに」

「そ、それは否定できませんけど……」

 

山村は頬を赤くしながら、モニターを覗き込む。

そこには、暗い通路の先が映し出されていた。

 

左右に分かれる分岐。

右は狭く、水位が浅い。

左は広く、奥に空間がある。

 

「……右は通路が狭いけど、水が浅い……左は広いけど、奥が見えない……」

 

森下は即答した。

 

「右ですね」

「早い……」

「広い場所は大きい生き物が入りやすいんですよ。

私たちは可憐で控えめな女の子なので、狭いほうがお似合いです」

 

白石が微笑む。

 

「可憐で控えめかはともかく、判断は賛成です」

「そこは可憐で控えめも肯定してください」

「森下さんは、可憐というより元気です」

「つまり褒めてます?」

「はい、褒めてます」

「なら許します」

 

そんな会話をしながらも、三人は油断していなかった。

 

右の通路へ入った瞬間、空気がわずかに変わる。

 

水の流れが弱くなり、代わりに壁面から染み出す湿気が濃くなる。

天井が低く、圧迫感があり、ライトの光が奥へ届きにくい。

 

山村のドローンが少し先を進む。

 

すると、モニターの映像が一瞬乱れた。

 

「……待って」

 

山村が足を止める。

 

森下も白石も、すぐに止まった。

 

「何か映った?」

 

白石が静かに問う。

 

「天井……何か、います……」

 

山村の声がわずかに震える。

 

モニターの中で、天井の影が動く。

 

最初は、配管かと思えた。

だが違う。

 

細長い脚が、一本、また一本と動いた。

 

大グモだった。

 

人間の上半身ほどもある異様なサイズの個体が、

天井に張り付いたまま、こちらをじっと見下ろしている。

 

「……クモですね」

 

森下が軽く言った。

 

「見れば分かります……」

 

山村は今にも泣きそうな顔になる。

 

「大きいけど、まあクモですね。

私、実はクモそんなに苦手じゃないんですよ。か弱い女の子なのに意外でしょう?」

「か弱い女の子は、こういう時にリボルバー構えないと思います……」

 

山村の指摘を聞きながら、森下はすでにリボルバーを抜いていた。

コルト・ローマンの2インチモデル。森下曰く、「ロマンある」らしい。

白石はサブマシンガンを構え、山村へ短く指示する。

 

「ドローンのライト、あの個体に向けられますか?」

「で、できます……!」

 

ドローンのライトが強く光り、大グモの頭部を照らす。

その瞬間、大グモが反応した。

脚を広げ、天井から剥がれるようにこちらへ動き出す。

 

だが森下の動きの方が早かった。

発砲。

下水道に乾いた音が響き、大グモの動きが一瞬止まる。

 

さらにもう一発。

 

天井に張り付いていた巨体がバランスを崩し、濁った水の中へ重く落ちた。

水が大きく跳ねる。

山村が「ひっ」と声を漏らして白石の後ろに半歩隠れる。

 

森下はリボルバーを軽く振って言った。

 

「どうですか、私の華麗なクモ退治。

これなら害虫駆除業者としてもやっていけそうです」

「やっていけないと思います……発砲音が大問題……」

「現実的なツッコミですね、山村美紀」

 

白石は倒れた大グモを少し見てから、周囲を確認する。

 

「一体だけとは限らないです。急ぎましょう」

 

その判断は正しかった。

 

ドローンの映像に、さらに奥の影が映る。

 

だがそれはクモではなかった。

 

人影だった。

複数。

 

揺れるライト。

震える足取り。

小さな声。

 

生存者だった。

 

「……人がいる」

 

山村が小さく呟く。

 

森下の表情が、少しだけ平坦になる。

 

「面倒ですね」

「助けないんですか……?」

 

山村が即座に聞く。

白石は少し考え、穏やかに答えた。

 

「助けるかどうかは、相手次第です。私たちの速度を落とすなら、厳しい」

「で、でも……放っておいたら……」

「山村さん」

 

白石の声は柔らかいが、そこに揺れはなかった。

 

「助けたい気持ちは大事です。でも、助けることで

私たち三人が死んだら、それは正しいとは言えないと思います」

 

森下が頷く。

 

「私はどっちでもいい派です。助けても面白いですし、

助けなくてもまあ合理的です」

「森下さん、それ一番ひどい……です……」

「公平と言ってください」

 

三人は慎重に生存者たちへ近づいた。

 

彼らは五人ほどの小集団だった。

 

年齢も服装もばらばらで、一般市民らしい者もいれば、

どこかの施設の職員らしき服装の者もいる。

顔色は悪く、疲弊しきっており、

手には工具や金属棒のような簡易武器を持っていた。

 

「助けてくれ……!」

 

一人の男が前へ出る。

 

「地上はもう駄目だ!どこへ行っても化け物だらけで……

下水道なら逃げられると思ったんだ!」

 

森下が鼻をつまんだまま言う。

 

「発想は私たちと同じですね。

つまり皆さん、なかなか優秀です。ただし匂い対策が甘い」

「森下さん、今それ言う場面じゃないです……」

 

山村が小声でたしなめる。

 

白石は生存者たちの状態を見ていた。

 

疲労。

恐怖。

怪我。

物資不足。

そして何より、統制のなさ。

 

危険だった。

 

ゾンビやクリーチャーそのものより、

パニックを起こす人間の方が、時に厄介になる。

 

「どこへ向かうつもりですか?」

 

白石が尋ねる。

 

「分からない……とにかく外へ……東京の外へ出たいんだ」

「地図は?」

「ない……」

「武器は?」

「これだけだ……」

 

男は金属棒を見せる。

 

森下が小さく呟く。

 

「うーん、弱いですね」

 

山村が困ったように森下を見る。

白石は続ける。

 

「私たちは少人数で移動しています。

あなたたち全員を連れていくと、速度が落ちます」

「見捨てるのかよ!」

 

別の男が声を荒げた。

 

その瞬間、下水道の空気が少し変わる。

山村がびくりと肩を震わせる。

白石は穏やかな表情のまま、しかし目だけは冷静だった。

 

「大きな声は出さない方がいいです」

「ふざけるな!こっちは助けを求めてるんだぞ!」

「助けを求めるのは自由です。でも、私たちがそれに応じる義務はありません」

 

白石の声は優しい。

 

優しいまま、冷たい。

 

生存者たちの間に動揺が走る。

 

「お、おい、頼むよ……俺たちだけじゃ無理なんだ……」

「だったらその金属棒を静かに構えて、私たちの指示に従ってください。

叫ぶ人、勝手に走る人、他人を押す人は連れていけません」

 

白石が言う。

森下が小さく拍手した。

 

「さすが白石飛鳥、言い方がやわらかいのに内容がシビアです。

綿で包んだ刃物みたいですね」

「褒めてます?」

「すごく」

 

山村は小さく息を吐いた。

 

このままなら、もしかすると一緒に進めるかもしれない。

 

そう思った矢先だった。

天井の奥から、低い振動が伝わってきた。

先ほどとは違う。

 

もっと大きい。

もっと重い。

 

森下の表情から軽さが少し消える。

 

「……来ますね」

 

白石もサブマシンガンを構え直す。

 

山村はドローンを旋回させ、奥の天井へライトを向ける。

 

映ったのは、巨大な脚だった。

先ほど倒した大グモとは比べものにならない。

通路の幅いっぱいに脚を広げ、天井と壁を使って這うように進んでくる大型個体。

 

「……さっきの、親玉……?」

 

山村の声が震える。

森下はリボルバーを構えながら言う。

 

「親玉かどうかは分かりませんが、サイズ感は店長クラスですね」

「何の店長……?」

「クモ屋さんです」

「そんなお店ない……」

 

だが、その軽口を聞いている余裕は生存者たちにはなかった。

 

一人が悲鳴を上げる。

 

それに釣られて別の者が後退する。

 

「走らないで!」

 

白石が鋭く言う。

 

しかし遅い。

 

一人が仲間を押しのけるようにして逃げ出し、別の一人がそれに怒鳴り返す。

 

「お前だけ逃げるな!」

「うるさい!死にたくないんだよ!」

「し、静かにして……!」

 

山村が叫ぶが、その声は混乱に飲まれる。

 

大グモが動く。

 

その巨体は水を跳ね上げながら、信じがたい速度で距離を詰めてきた。

 

白石が即座に発砲する。

サブマシンガンの連射が大グモの脚へ集中する。

 

森下もリボルバーで眼に近い部位を狙う。

山村はドローンを操作し、ライトを大グモの正面へ向けて視界を撹乱する。

 

「山村美紀、いいです、そのまま目くらまし!」

 

森下が言う。

 

「や、やってます……!」

 

ドローンが大グモの前を横切る。

大グモの動きがわずかに乱れた。

 

その隙に白石が一歩前へ出る。

 

「森下さん、右脚」

「はいはい、右の脚ですね、脚が多すぎてどれが右か一瞬悩みますけど」

 

森下が撃つ。

大グモの脚が一本、力を失う。

巨体が傾く。

だが止まらない。

 

生存者たちは完全にパニックに陥っていた。

一人が逃げようとして水に足を取られ、

別の一人がそれを助けようとして転び、

さらに別の者が二人を置いて走ろうとして、通路の狭さで詰まる。

 

その混乱は、大グモにとって絶好の獲物だった。

 

三人は彼らを助けようと動かなかった。

正確には、動けなかった。

その混乱に踏み込めば、自分たちも巻き込まれる。

 

白石は一瞬だけ生存者たちを見た。

 

そして判断した。

 

「下がります」

 

山村が息を呑む。

 

「で、でも……!」

「もう無理です」

 

白石の声は穏やかだった。

 

だが断定だった。

 

森下も即座に後退を始める。

 

「山村さん、ドローンを左へ、ライトで誘導してください。私たちは右へ抜けます」

「……っ、わ、わかりました……!」

 

山村は震える手で操作する。

ドローンが大グモの注意を引きつけるように左へ動く。

大グモの頭部がそちらへ向く。

 

その一瞬、三人は右側の狭い通路へ滑り込むように移動した。

 

背後で悲鳴が上がる。

山村の肩が跳ねる。

だが白石は進ませる。

 

「振り返らないで」

「……っ」

「振り返ったら、足が止まります」

 

山村は唇を噛み、前を見る。

森下はその横で、あえて軽い声を出した。

 

「大丈夫です、山村美紀。私たち、今かなり映画の主人公っぽいですよ。

下水道で巨大グモから逃げる女子三人、絵面としてはかなり強いです」

「ぜ、全然うれしくない……」

「じゃあ生還してから文句言いましょう」

 

狭い通路を抜けた先で、三人は再び足を止める。

 

大グモはまだ追ってくる。

 

生存者たちの混乱で一度足止めされたが、完全には止まっていない。

 

白石が周囲を見る。

 

通路の上部に古い配管。

壁際に錆びた金属扉。

足元には深めの水路。

 

「ここで倒す」

 

白石が言った。

 

森下が眉を上げる。

 

「お、リーダーがやる気です」

 

山村はモニターを確認する。

 

「ドローン……まだ使える……でもバッテリー少ないです……」

「十分。あの配管の近くまで誘導してください」

 

白石の指示に山村が頷く。

ドローンが再び飛ぶ。

大グモがそれを追うように天井へ這い上がる。

 

森下がリボルバーを構えた。

 

「私、脚を狙いますね。脚が多い敵は脚を減らすに限ります。

すごく当たり前のことを言ってます」

 

白石がサブマシンガンを構える。

 

「私は胴体。山村さんはドローンを配管の真下へ」

 

「は、はい……!」

 

大グモが迫る。

 

ドローンが配管の近くでライトを点滅させる。

大グモの頭部がそちらへ向く。

 

その瞬間、森下が連射するようにリボルバーを撃ち、脚の関節部を狙う。

白石のサブマシンガンが胴体を抑える。

 

大グモが暴れる。

配管に巨体がぶつかる。

錆びた固定具が悲鳴を上げる。

 

「今……!」

 

山村が叫んだ。

 

ドローンが配管へ接触し、内蔵していた小型の発光装置を過負荷で破裂させる。

 

大きな爆発ではない。

だが、暗い下水道では十分な閃光だった。

 

大グモの動きが一瞬止まる。

白石がその隙を逃さない。

 

「森下さん、目」

「了解でーす」

 

森下が最後の弾を撃つ。

大グモの頭部が大きく揺れる。

同時に白石がサブマシンガンを撃ち込み、

山村も震える手で予備のハンドガンを構え、続けて発砲した。

 

弾丸が集中する。

 

大グモは数歩よろめき、天井から剥がれるように落下し、

水路へ大きな音を立てて沈んだ。

 

しばらく、誰も動かなかった。

 

水面が揺れる。

濁った波紋が広がる。

やがて、それが静まる。

 

森下がゆっくりと息を吐いた。

 

「……勝ちましたね。いやあ、私たち、もしかしてかなり強いのでは?」

 

山村はその場に座り込みそうになりながら、かろうじて壁に手をつく。

 

「つ、疲れた……ドローン、壊れた……」

「大丈夫。山村美紀がいなかったら、たぶん全員クモの餌食でした」

 

森下の言葉に、山村は少し驚いたように顔を上げる。

 

「……ほ、褒めてます?」

「すごく褒めてます。私、こういう時はわりと素直です」

 

白石も山村の肩にそっと手を置いた。

 

「本当に助かりました。怖かったのに、ちゃんと動けてました」

 

山村は俯きながら、小さく頷いた。

 

「……はい……怖かったけど……できました……」

 

その声には、わずかな実感があった。

 

自分は逃げるだけではなかった。

恐怖に震えながらも、役割を果たした。

 

それは山村にとって、小さくない変化だった。

 

背後の通路からは、もう生存者たちの声は聞こえない。

 

山村は一度だけそちらを見た。

 

白石は何も言わない。

 

森下も、今度は軽口を挟まなかった。

 

ただし、長く立ち止まることもしなかった。

 

白石が静かに言う。

 

「行きましょうか。ここに残っても、できることはありません」

 

山村は唇を噛んだが、頷いた。

 

森下はリボルバーの弾を込め直しながら言った。

 

「では、地下の大冒険続行ですね。

次はもう少し可愛い敵がいいです。スライムとか」

「スライムも嫌……」

「山村さん、守備範囲が狭いですね」

「ふ、普通だと思います……」

 

白石がくすっと笑う。

 

三人は再び歩き出す。

 

下水道の奥へ。

暗闇の先へ。

 

生存者たちの悲鳴も、大グモの巨体も、

壊れたドローンの残骸も、すべて背後に置いて。

 

彼女たちは進む。

 

戦うためではない。

 

誰かを救うためでもない。

 

ただ、生き残るために。

 

そしてそのためには、軽口も、臆病さも、おっとりした冷静さも、

すべてが武器になるのだと、三人は少しずつ理解し始めていた。




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