カーストルーム・オブ・ザ・デッド2   作:戦竜

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第9話 白光

三人は、巨大な大グモの死骸を背に、再び下水道の奥へと歩みを進めていたが、

その足取りは先ほどまでとは明確に変わっており、

単なる逃走ではなく「選択して進む」意志が、

三人それぞれの動きの中に滲み始めていた。

 

水の流れは次第に深くなり、足首までだった濁流は脛へ、

やがて膝へと達し、靴の中にまで冷たい水が入り込む不快感が広がるが、

それでも三人は歩みを止めることなく、一定のリズムを保ちながら進み続ける。

 

「……やはり、くしゃいですね。これもう下水じゃなくて発酵空間ですよね?

長くいたら私たちまで何かしら熟成されてしまいそうです」

 

森下が鼻を摘まみながら、いつもの調子で軽口を叩くが、

その声色にはほんのわずかに緊張が混じっていた。

 

「さっきより……水、深い……動きにくいです……」

 

山村が足元を見ながら慎重に進む。

 

「足を取られやすいので、転倒には気をつけてくださいね、

特にこの状況では一度倒れるだけで致命的になりかねませんから」

 

白石が落ち着いた敬語で注意を促しながら、

サブマシンガンを胸元で安定させ、視線を前後左右に滑らせる。

彼女の言葉は穏やかだが、その一つ一つが確実に状況を捉えている。

 

森下はふと壁を指で軽く叩きながら言った。

 

「でも不思議ですよね、下水道ってこんなに広いのに、

出口ってちゃんとあるんですから、人間ってやっぱりすごいです」

「か、感心するところ、そこ……?」

 

山村が呆れ気味に言う。

 

「こういう極限状況で文明を褒めるの、大事ですよ、精神衛生的に」

「それは……否定できないかも知れません……」

 

白石が小さく微笑む。

 

「前向きなのはいいことです、森下さん」

「ありがとうございます、褒められると伸びるタイプです」

 

そんな会話が続いていた、その時だった。

 

水面が、わずかに波打つ。

ほんの小さな揺れ。

だが、それは三人全員が同時に感じ取った異変だった。

 

森下の表情が一瞬で切り替わる。

 

「……来ますね」

 

山村が息を呑む。

 

「なに……が……?」

 

白石が静かに言う。

 

「音を抑えてください、何かが水の中を動いています」

 

次の瞬間、水面が大きく割れた。

そこから現れたのは、巨大な黒い塊。

 

いや、塊ではない。

それは蠢いていた。

 

甲殻。

触角。

節のある脚。

 

ラージローチだった。

 

通常のそれとは比べ物にならないほど巨大化した個体が、

濁流の中からぬるりと姿を現し、三人を見据える。

 

「……ゴキブリなど北海道にはいませんし、

みんな怖がらないっていうじゃないですか」

 

森下が言う。

 

「い、いや普通に怖いです……!」

 

山村が即座に否定する。

 

「でも、見た目はちょっとリアル寄りで……うーん、やっぱりちょっと嫌ですね」

「ちょっと、じゃない……!」

 

ラージローチが動いた。

水を跳ね上げながら、信じられない速度で距離を詰めてくる。

 

白石が即座に発砲する。

 

「胴体を狙ってください、動きを止めます」

 

森下もリボルバーを構える。

 

「了解です、こういうのはまず足からですよね、セオリーです」

 

山村は一瞬だけ後退しかけるが、踏みとどまる。

 

「……や、やります……!」

 

ハンドガンを構え、震える指で引き金を引く。

弾丸がラージローチの胴体に当たり、軋む音が響く。

 

だが止まらない。

 

二体目。

三体目。

 

水面の下から次々と現れる。

 

「あはは、増えましたね。これは困りました、数の暴力です」

 

森下が言う。

 

「わ、笑ってる場合じゃない……です!」

 

山村が叫ぶ。

白石が冷静に状況を見ていた。

 

「このままでは押し切られます、位置を変えましょう」

「どこに?」

「少し高い場所です、水の影響を減らします」

 

白石が指した先には、壁沿いに設置された点検用の細い通路があった。

 

三人はそこへ移動する。

ラージローチが追う。

だが水中より動きは鈍る。

 

「今です」

 

白石の声と同時に、三人は一斉に発砲した。

集中射撃。

胴体を破壊し、動きを止め、頭部へ撃ち込む。

 

ラージローチの一体がひっくり返る。

森下が一歩前に出て、至近距離から撃ち抜いた。

 

「はい一匹、駆除完了です」

 

山村も続く。

 

「もう一体……!」

 

弾を撃ち込む。

 

白石が冷静に仕留める。

最後の一体が壁をよじ登ろうとした瞬間、森下の弾が命中し、落下する。

 

水面に沈む音。

 

静寂。

 

山村が肩で息をする。

 

「……終わった……?」

「はい、とりあえずゴキブリ退治は完了です、もう出てこないでほしいですね」

 

森下が言う。

白石は周囲を確認し、ゆっくり頷く。

 

「一時的には安全です、進みましょう」

 

三人は再び歩き出す。

だがその先で、空気が変わった。

 

湿気が増す。

そして、微かな粉のようなものが漂う。

 

山村が顔をしかめる。

 

「……なんか……粉っぽい……」

 

森下が指で空中をなぞる。

 

「花粉みたいですね、でもここ下水道なんですよね、どこの花ですかこれ」

 

白石の表情がわずかに変わる。

 

「……警戒してください、これは自然なものではありません」

 

その直後だった。

 

天井の奥で、巨大な影が羽ばたいた。

 

風が起きる。

水面が揺れる。

そして現れた。

 

巨大な蛾。

 

翼を広げれば通路いっぱいになるほどの異形の存在が、

ゆっくりと羽ばたきながら三人の前に降り立つ。

 

山村が思わず後ずさる。

 

「む、無理……!」

 

森下もさすがに引きつった笑いを浮かべる。

 

「これは……ちょっとサイズが規格外ですね、さすがに可愛げがないです」

 

白石は一歩前に出る。

 

「大丈夫です、落ち着いてください」

 

その声はいつも通り穏やかで、しかし確かな芯を持っていた。

 

「この個体は視覚と振動に反応しています、むやみに動かないでください」

 

蛾が羽ばたく。

粉が舞う。

視界が曇る。

 

白石はゆっくりと腰のポーチに手を伸ばした。

 

「森下さん、山村さん、少しだけ時間をください」

「なにするんです?」

「片付けます」

 

その言葉は、あまりにも静かだった。

巨大な蛾が羽ばたくたびに、

腐った鱗粉のようなものが下水道の空気へ舞い上がり、

ライトの光をぼんやりと濁らせていく中で、

白石だけはまるで雨上がりの庭先に立っているかのような落ち着きで、

腰のポーチから手榴弾を一つ取り出した。

 

山村はその動作を見た瞬間、息を呑んだ。

森下も一瞬だけ軽口を止める。

 

白石の指先は震えていない。

巨大な蛾の羽ばたきが作る風で髪が揺れ、足元の水が波立ち、

視界がどんどん悪くなっていく状況にもかかわらず、

彼女はただ正確に、静かに、必要な手順だけをなぞっていた。

 

「森下さん、山村さん」

 

白石は、柔らかな声のまま言う。

 

「私が投げたら、すぐに伏せてください」

「……白石飛鳥、さらっとすごいこと言ってますね」

 

森下がそう返すが、その声にもわずかに緊張が混じっている。

山村は喉を鳴らし、小さく頷いた。

 

「わ、分かりました……」

 

巨大蛾が再び羽を大きく広げる。

その瞬間、周囲の空気が一気に吸い込まれるように動き、鱗粉が渦を巻いた。

 

白石は待った。

撃たない。

投げない。

焦らない。

ただ、巨大蛾が口腔を開く瞬間を待つ。

 

森下は横目でそれを見ながら、思わず呟いた。

 

「……やっぱり白石飛鳥、可憐な花というより、花畑に紛れた地雷ですね」

「褒め言葉として受け取っておきますね」

 

白石は微笑む。

次の瞬間、巨大蛾が三人へ向かって飛び込んできた。

白石の腕が動く。

手榴弾が、低く鋭い軌道を描く。

それは狙いすましたように、巨大蛾の開いた口元へ吸い込まれていった。

 

「伏せてください!」

 

白石の声が飛ぶ。

三人が同時に身を低くする。

一拍。

そして、爆発。

下水道全体が揺れた。

 

狭い空間に閉じ込められた爆風が壁を叩き、

濁った水面が激しく跳ね上がり、天井から錆びた破片と水滴が一斉に降ってくる。

巨大蛾の胴体が内側から弾けるように崩れ、腐った羽が裂け、

重い肉塊が通路の中央へ叩きつけられる。

 

山村は耳を押さえ、目を閉じていた。

森下は壁に背中をぶつけながらも、すぐに顔を上げる。

 

「……生きてます?私たち、生きてます?」

 

白石はゆっくりと立ち上がり、銃を構えたまま巨大蛾の残骸を見つめる。

 

「はい、少なくとも今は」

 

その言い方に、森下が苦笑する。

 

「そこで今はを足すところ、本当に白石飛鳥ですよね」

 

山村も震えながら顔を上げる。

巨大蛾はもう動かない。

その巨体は水路の中に沈みかけ、裂けた羽だけが水面に浮かんでいる。

 

「……倒した……」

 

山村が呟く。

その声は、信じられないものを見たように掠れていた。

白石は彼女へ振り返る。

 

「山村さんも、よく耐えましたね。怖かったでしょうに」

「こ、怖かった……すごく……でも……」

 

山村は壊れたドローンの残骸を抱え直す。

 

「逃げなかった……です……」

 

森下が軽く手を叩いた。

 

「えらいです、山村美紀。今日はもう陰キャ卒業記念日ですね」

「そ、卒業はしない……薄暗いところは好きですし……」

「そこは譲らないんですね」

 

その会話に、白石が小さく笑う。

だが、その笑みはすぐに消えた。

 

「長居はできません。爆発音で何かが寄ってくるかもしれません」

 

その言葉に、三人はすぐに動き出した。

巨大蛾の死骸を避けながら、さらに奥へ進む。

通路の空気は変わり始めていた。

先ほどまでの腐ったような湿気に、外気の乾いた匂いが混ざっている。

水の流れも少しずつ浅くなり、壁の苔が減り、足元に細かな砂利が混じり始める。

 

「……出口、近いかも」

 

山村が小さく言う。

森下が目を輝かせた。

 

「本当ですか。ついに下水道観光ツアー終了ですね。

いやあ名残惜しいです。嘘です。二度と来たくないです」

「わ、私も……もういいです……」

「次はせめて地下街くらいにしましょう。トイレの匂いがしないところで」

「地下街も危なそう……」

 

白石は先頭で通路の先を確認しながら言った。

 

「危なくても、地上へ出ないと何も始まりません。

ここで生き残れたなら、次も生き残れます」

 

その言葉には、軽い励まし以上の力があった。

森下の軽口。

山村の慎重さ。

白石の冷静な判断。

この三つが、下水道という静かな地獄を抜けるための武器だった。

やがて、通路の先に光が見えた。

 

薄い。

白い。

地上の光。

山村が立ち止まる。

 

「……本当に、出口……」

 

森下がその横に並ぶ。

 

「感動的ですね。ここで泣いたらかなり映画っぽいですよ」

「泣かない……と思います……たぶん……」

 

白石が二人の背中を見て、穏やかに言った。

 

「行きましょう。最後まで油断しないでくださいね」

 

三人は出口へ向かう。

錆びた梯子を登り、外へ繋がる重い鉄蓋を押し上げる。

森下が先に顔を出した。

 

「……外です」

 

彼女はそう言って、一度深く空気を吸い込んだ。

そしてすぐに顔をしかめる。

 

「うーん、外も焦げ臭いですね。でも下水道よりはだいぶ上品です」

 

山村が次に出る。

眩しさに目を細める。

最後に白石が出て、周囲を確認した。

そこは東京の外縁部だった。

完全に安全とは言えない。

遠くではまだ黒煙が立ち上り、建物の輪郭は崩れ、

道路には放置された車両が点在している。

だが、中心部とは違ってゾンビの数は少なく、何より空が見えた。

閉じ込められた暗闇ではなく、逃げ道を探せる広さがあった。

山村はその場に座り込みそうになりながらも、なんとか踏みとどまる。

 

「……生きてる……」

 

森下が両手を上げて伸びをする。

 

「はい、生きてます。しかも女子三人で下水道を抜けて東京脱出です。

これはもう武勇伝として語れますね。

問題は、語る相手が生き残っているかどうかですが」

「そ、そこは笑えない……」

「では、ちょっとだけ笑えない話として保存しておきましょう」

 

白石は二人を見た。

服は汚れ、髪は乱れ、疲労は濃い。

けれど、三人とも立っている。

生きている。

それが、この世界では何より重い結果だった。

 

「森下さん、山村さん」

 

白石が静かに声をかける。

 

「ここから先も安全ではありません。

けれど、私たちは抜けました。ちゃんと、自分たちの足で」

 

山村は小さく頷いた。

 

「……うん」

 

森下も、珍しく少しだけ真面目な顔をした。

 

「ですね。私たち、なかなかやります」

 

白石は微笑む。

 

「はい。とても頼もしかったです」

 

その言葉に、山村は少し照れたように俯き、

森下はいつもの調子を取り戻すように胸を張った。

 

「もっと褒めてください。私は褒められて伸びるタイプなので」

「では、歩きながら褒めますね」

「白石さん、そ、それ絶対途中で忘れるやつです」

「忘れませんよ、たぶん」

「た、たぶんって言いましたね」

 

山村が小さく笑った。

その笑いは弱々しかったが、確かに本物だった。

三人は歩き出した。

背後には下水道の暗闇。

その奥には大グモも、ラージローチも、巨大蛾も、

助けられなかった生存者たちも置いてきた。

 

だが、三人は振り返らない。

振り返れば、足が止まる。

足が止まれば、また暗闇に引き戻される。

 

それは、この地獄のような状況で生き残るための、ほとんど絶対に近い原則だった。

 

過去に目を向けることは簡単だ。

失ったものを思い出すことも、後悔に浸ることも、

立ち止まる理由はいくらでもある。

 

だが、その一瞬の停滞が命取りになる。

 

立ち止まれば、追いつかれる。

躊躇すれば、囲まれる。

振り返れば、その隙を喰われる。

 

「……つまり、振り返ったら負けってことですね、分かりやすくて助かります」

 

だから、前を見る。

 

どれだけ理不尽でも。

どれだけ納得できなくても。

どれだけ置き去りにしたものがあっても。

 

歩き続けるしかない。

 

それが、生き残るということだった。

だからこそ前を見る。

荒れた地上を。

遠くに続く道を。

まだ何が待つか分からない外の世界を。

 

森下が先頭で言う。

 

「さて、次の目的地はどこにします?できれば温かいお風呂と、

まともなご飯と、あと消臭スプレーがある場所がいいです」

 

山村が小さく返す。

 

「……贅沢……」

 

白石が穏やかに答える。

 

「贅沢でも、目標は大事ですよ。まずは安全な場所を探しましょう」

 

森下が笑う。

 

「さすがリーダー、現実的です」

 

三人の足音が、崩壊した街の端に響く。

それは小さな音だった。

だが、確かに生きている者の音だった。

彼女たちは、戦場を制圧したわけではない。

誰かを救い抜いたわけでもない。

強大な敵を正面から打ち倒し、英雄のように脱出したわけでもない。

ただ、選び、避け、時には見捨て、時には笑いながら、

最も生き残れる道を進み続けただけだった。

 

それでも、それは立派な勝利だった。

この崩壊した世界で、生きて外へ出るということ。

それ以上の勝利など、今は存在しなかった。

 

そして、東京の外へ続く灰色の道を、

森下藍、山村美紀、白石飛鳥の三人は、ゆっくりと歩いていった。




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