先生だけが知らないアーカイブ   作:三日月ノア

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自給自足です


1話 全員知ってます

 

 何もしていない。

 

 本当に、何もしていないのだ。

 

 昨日までの私は日本のどこにでもいる、たぶん名前を出されても読者が三秒で忘れるタイプの人間だった。学校に行って、コンビニで新作の菓子パンを買って、帰って、スマホを見て、寝る。たまにゲームを起動する。ログインだけして、イベントストーリーはあとで読もうと思って、その「あとで」はだいたい来ない。

 

 それくらいの人間だった。

 

 なのに、地面が割れるほどの揺れが来て、街の悲鳴が一つの音になって、次に目を開けたら、私は知らない天井を見ていた。

 

 いや、知らないは嘘だ。

 

 見たことがある。

 

 画面の向こうで。攻略サイトのスクリーンショットで。誰かの動画の背景で。二次創作の挿絵で。

 

 青春の輝きを放つ街。

 

 銃声が日常の一部みたいに遠くで鳴って、誰もそれに悲鳴を上げない街。

 

 キヴォトス。

 

 私は起き上がった。見慣れない制服の袖が揺れた。頭の上には、輪。鏡を見る前から分かった。最悪だ。よりによって名もなき一般生徒だ。誰なのか分からない。所属も、部活も、イベント出演の有無も分からない。

 

 でも、それより先に分かってしまったことがある。

 

 原作が始まる。

 

 たぶん、もうすぐ。

 

 たぶん七日後くらいに、先生が来る。

 

 その瞬間、喉の奥から変な声が出た。

 

「世界滅亡だけは防がないと……」

 

 言ってから、私は自分の口を押さえた。

 

 待て。

 

 なぜ今、それを言った。

 

 誰に聞かれた。

 

 廊下の向こうで、誰かが転んだ音がした。直後に「大丈夫ですわ」と妙に上品な声が聞こえた。その声は震えていた。上品なのに、震えていた。

 

 私は扉の隙間から外を見た。

 

 知らない生徒が、落とした教科書を拾っている。手つきが変だった。まるで初めて自分の指を使うみたいに、何度も本の角を掴み損ねていた。

 

 その顔を見た瞬間、ぞっとした。

 

 あの顔を、私は知っている。

 

 地震の後、目覚めた時の私と同じ顔だった。

 

 でも、そんなはずはない。

 

 転生なんて、普通は一人で起きるものだ。少なくとも、私が読んできた物語ではそうだった。

 

 だから私は、何も見なかったことにした。

 

 ここで騒いだら、原作がズレる。

 

 ズレたら何が起きるかなんて、誰も知らない。

 

 知らないから、怖い。

 

 私は教科書を拾うその生徒に、できるだけ自然な声で言った。

 

「だ、大丈夫?」

 

「ええ。もちろんですわ」

 

 相手は笑った。

 

 笑顔だけが、まるで貼り付けたみたいに綺麗だった。

 

     ◇

 

 奥空アヤネは、三分で自分の置かれた状況を理解し、五分で理解したことを後悔した。

 

 机の上にあった書類。廃校対策委員会の資料。アビドス高等学校の現状。借金。返済計画。砂漠化。生徒数。備品リスト。見れば見るほど、頭の中の知識と現実が嫌な音を立てて重なっていく。

 

 ここはアビドスだ。

 

 自分は奥空アヤネだ。

 

 そして、アビドスは詰んでいる。

 

 いや、詰んでいた。原作では、先生が来る。先生が来て、対策委員会に関わって、どうにかなる。どうにかなる、はずだ。

 

 アヤネは震える指で資料をめくった。

 

 日付。金額。校舎の使用状況。債権者名。細部が記憶と合っているのか、合っていないのか、分からない。そもそも自分の記憶は本当に正確なのか。攻略wikiを読んだ。ストーリーも読んだ。動画も見た。けれど、契約書の一行一行まで覚えているわけではない。

 

 もし一文字違っていたら?

 

 もし返済期限が一日早かったら?

 

 もし自分が気づかないうちに、もう原作から外れていたら?

 

「落ち着いてください、奥空アヤネ」

 

 自分で自分の名前を呼んで、余計に気持ち悪くなった。

 

 声がアヤネだった。手がアヤネだった。眼鏡の重さまで、まるで最初から自分のものだったみたいに馴染んでいる。

 

 でも中身は違う。

 

 昨日までの自分は、こんな借金を背負っていなかった。こんな学校を守る覚悟もなかった。ホシノ先輩の過去を、画面越しに知ってしまっているだけの人間だった。

 

 扉が開いた。

 

「おはよー、アヤネちゃん」

 

 小鳥遊ホシノが入ってきた。

 

 その瞬間、アヤネの呼吸が止まりかけた。

 

 ホシノ先輩だ。

 

 だるそうな声。ゆるい歩き方。眠そうな目。画面の向こうで何度も見た、あのホシノ。

 

 けれど、ほんの一瞬だけ。

 

 彼女の視線が、壁の古い写真に吸い寄せられた。

 

 そこには、今はもういない人の気配があった。

 

 ホシノはすぐに笑った。

 

「んー? どうしたの、アヤネちゃん。そんな顔して」

 

「い、いえ。少し、資料を確認していただけです」

 

「そっかぁ。えらいねぇ」

 

 いつもの調子。たぶん、完璧なホシノ。

 

 でもアヤネは見てしまった。

 

 笑うまでに、半拍遅れたことを。

 

 ホシノ先輩ほどの人なら、当然だ。夢先輩のことを思い出したのだろう。原作の痛みは、キャラクター本人の痛みなのだから。

 

 そう考えれば説明はつく。

 

 つく、はずだ。

 

 なのに、アヤネの胃の底で別の考えが小さく息をした。

 

 今の遅れ方は、まるで。

 

 まるで、演技を思い出してから笑ったみたいだった。

 

 アヤネはその考えを握り潰した。

 

 駄目だ。

 

 疑うな。

 

 自分だけが異物なのだ。自分だけが前世を持っている。だからこそ、自分が原作通りにしなければならない。

 

 ホシノ先輩を、アビドスを、先生が来るところまで運ばなければならない。

 

「先輩」

 

「んー?」

 

「今日の予定ですが、いつも通りでお願いします」

 

 ホシノの目が細くなった。

 

 それは眠そうにも見えたし、泣きそうにも見えた。

 

「うん。いつも通り、ね」

 

     ◇

 

 桐藤ナギサは茶器を落とさなかった。

 

 落とさなかった自分を、まず褒めるべきだと思った。

 

 目覚めてから、記憶が一気に流れ込んだ。日本。地震。スマホ。ブルーアーカイブ。トリニティ。ティーパーティー。エデン条約。ミカ。セイア。補習授業部。アリウス。

 

 そして、自分が桐藤ナギサであるという現実。

 

 詰んでいますわね。

 

 内心でそう呟きながら、ナギサは優雅にカップを持ち上げた。

 

 指先は震えていない。すばらしい。さすが桐藤ナギサの身体。前世の自分なら、すでに膝から崩れ落ちていた。政治劇など、画面の外で眺めるから楽しいのであって、当事者になった瞬間ただの胃痛である。

 

「ナギサ様?」

 

 側近の生徒が心配そうに声をかけてきた。

 

 ナギサは微笑んだ。

 

「なんでもありません。少し、考え事をしていただけです」

 

 完璧。

 

 たぶん完璧。

 

 今の言い方はナギサらしかったはず。いや、ナギサらしさとは何か。自分の解釈は本当に正しいのか。二次創作で見たナギサと原作のナギサが頭の中で混線している。待ってください。ここで解釈違いを起こすと、ミカに疑われる。セイアに見抜かれる。トリニティが割れる。エデン条約が壊れる。世界が滅ぶかもしれない。

 

 話が大きすぎる。

 

 茶葉の蒸らし時間ひとつに、なぜ世界の命運が乗っているのか。

 

「本日の予定を確認します」

 

 ナギサは資料に目を落とした。文字が読める。読めてしまう。読めるから、現実だと分かる。

 

 ミカに会わなければならない。

 

 どの顔で?

 

 推しだった人もいるだろう。救いたかった人もいるだろう。ナギサ自身がどう思っていたかなんて、前世の自分には想像するしかなかった。

 

 だが、今は違う。

 

 自分はナギサとして、ミカを疑わなければならない。

 

 セイアを守らなければならない。

 

 原作通りに進めなければならない。

 

 それが本当に正しいのかは、知らない。

 

 知らないが、外れた時に何が起きるかも知らない。

 

 ナギサはカップを口元へ運んだ。紅茶は香り高く、少しも味がしなかった。

 

「世界を滅ぼすわけには、いきませんもの」

 

 小さく漏れた声に、側近が首を傾げる。

 

「何か仰いましたか?」

 

「いいえ。独り言です」

 

 ナギサは笑った。

 

 上品に。柔らかく。何も知らない人間のように。

 

     ◇

 

 早瀬ユウカは数字を信じていた。

 

 少なくとも、昨日までは。

 

 数字は嘘をつかない。計算は感情に左右されない。予算は泣いても増えないし、支出は祈っても消えない。だからこそ、数字は頼れる。そういうものだった。

 

 しかし、目の前の端末に並ぶ情報は、ユウカの信仰を真正面から殴ってきた。

 

 ミレニアムサイエンススクール。

 

 セミナー。

 

 予算管理。

 

 本人認証、早瀬ユウカ。

 

 ここまではいい。いや、よくないが、まだ処理できる。

 

 問題は、自分が知っている未来の情報だった。

 

 ゲーム開発部。アリス。リオ。エリドゥ。廃墟。名もなき神々。最終編。

 

 変数が多すぎる。

 

 ユウカはホワイトボードに数式を書いた。

 

 原作維持の必要度。逸脱時のリスク。自分の知識精度。周囲への介入可能性。先生到来までの日数。

 

 書いて、止まった。

 

 世界滅亡フラグ、という項目に数値を入れられない。

 

 そもそも、それが本当に存在するのか分からない。分からないものは計算できない。計算できないものを前提に動くのは非合理だ。非合理だが、無視して世界が滅んだ場合、責任を取る手段が存在しない。

 

「最悪……」

 

 ユウカは額を押さえた。

 

 声までユウカだった。自分で聞いて、少し笑いそうになった。笑えなかった。

 

 端末に通知が入る。

 

 ノアからだった。

 

 文面はいつも通りに見える。穏やかで、丁寧で、少しだけ含みがある。けれど、ユウカはその句読点の位置を凝視してしまった。

 

 この人は、本当にノアなのか。

 

 いや、ノアがノアらしい文を送ってきただけだ。疑う理由はない。疑ってはいけない。仮に相手も転生者だったとして、それを確認する行為そのものが原作を壊す可能性がある。

 

 可能性、可能性、可能性。

 

 嫌いな言葉になりそうだった。

 

 ユウカは深呼吸し、ホワイトボードの「世界滅亡フラグ」の横に大きく書いた。

 

 観測不能。

 

 その下に、もう一行。

 

 ただし無視不可。

 

 完璧に不愉快な結論だった。

 

「先生が来るまで、七日」

 

 その言葉だけが、妙に重かった。

 

 先生。

 

 原作を知らないはずの人。少なくとも、この世界ではそうであってほしい人。

 

 もし先生まで転生者だったら?

 

 ユウカはその仮定を即座に消した。

 

 そこまで疑い始めたら、もう何も始まらない。

 

     ◇

 

 空崎ヒナは、ペンを握り潰した。

 

 正確には、握り潰してしまった。

 

 金属製のペンが、軽い音を立てて曲がった。手のひらは痛くない。痛くなさすぎて、逆に怖い。

 

 ヒナは曲がったペンを見下ろした。

 

 強い。

 

 この身体は、知っている通りに強い。

 

 けれど、中身がそれに追いついていない。

 

 昨日までの自分は、戦闘などしたことがなかった。体育の授業ですら持久走の日は少し憂鬱だった。なのに今、自分はゲヘナの風紀委員長で、空崎ヒナで、誰もが頼る最強格で、問題児だらけの学園を抑える立場にいる。

 

 無理では?

 

 かなり無理では?

 

 机の上には報告書が積まれていた。万魔殿。美食研究会。温泉開発部。便利屋。風紀委員会。どれもこれも、文字だけで頭が痛い。

 

 だが、ヒナは知っている。

 

 自分が崩れたら、ゲヘナはもっと崩れる。

 

 そして原作も崩れる。

 

「委員長、よろしいでしょうか」

 

 アコの声がした。

 

 ヒナの背筋が伸びた。

 

 アコだ。

 

 まずい。アコは鋭い。少しでも変なことを言えば疑われる。いや、アコ本人も原作通りならヒナをよく見ている。前世の知識などなくても、今の自分の異常に気づく可能性が高い。

 

 ヒナは曲がったペンを素早く書類の下に隠した。

 

「入って」

 

 声は静かに出た。よかった。震えていない。

 

 アコが入ってくる。完璧な所作。完璧な表情。完璧にアコらしい。

 

 だからこそ怖い。

 

「本日の巡回予定について確認を」

 

「ええ。そこに置いて」

 

 ヒナは短く答えた。

 

 空崎ヒナなら、これくらいでいいはずだ。多く語らない。疲れている。けれど必要な時には動く。そういう人だ。そういう人として、皆が見ている。

 

 アコの視線が一瞬、書類の端に向いた。

 

 曲がったペンの先が、少しだけ見えていた。

 

 ヒナの心臓が跳ねる。

 

 しかしアコは何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ眉を寄せた。

 

 心配されたのか。

 

 疑われたのか。

 

 分からない。

 

 分からないまま、ヒナは頷いた。

 

「予定通りに進める。余計な変更はしないで」

 

 その言葉は、風紀委員長としての指示に聞こえただろう。

 

 実際は、祈りだった。

 

 お願いだから、今日は何も変わらないで。

 

     ◇

 

 放課後、私は廊下の隅で自分の所属を確認していた。

 

 学生証には、知らない名前が書かれている。いや、今の私の名前なのだろう。けれど、前世の記憶が強すぎて、まだ自分のものだと思えない。

 

 スマホらしき端末には、いくつかの連絡先が入っていた。部活のグループ。クラスの連絡。購買の割引通知。平和すぎる。世界滅亡がどうとか考えている人間の端末ではない。

 

 私は壁にもたれた。

 

 七日。

 

 七日後、先生が来る。

 

 それまでに、私は何をすればいいのか。

 

 何もしないのが正解かもしれない。一般モブが妙に動いたせいで原作が壊れたら、笑い話にもならない。いや、原作に出ないモブなら何をしてもいいのか。駄目だ。分からない。分からないから怖い。

 

 廊下の向こうから、朝の生徒が歩いてきた。

 

 教科書を落とした、あの上品な喋り方の子だ。

 

 彼女は私を見ると、にこりと笑った。

 

 完璧な笑顔だった。

 

 私は反射的に笑い返した。

 

 その時、彼女の手元から紙が一枚滑り落ちた。私は拾おうとして、そこに書かれた文字を見てしまった。

 

 原作開始まで、七日。

 

 たったそれだけ。

 

 それだけの文字が、丁寧な字で、何度も何度も書き直された跡と一緒に残っていた。

 

 私は顔を上げた。

 

 彼女も、私を見ていた。

 

 お互い、何も言わなかった。

 

 言ったら終わる気がした。

 

 だから私は紙を差し出し、できるだけ普通の声を作った。

 

「落としましたよ」

 

「ありがとうございます」

 

 彼女は受け取った。

 

 指先が、少し震えていた。

 

 私の指先も、たぶん同じくらい震えていた。

 

 それでも私たちは笑った。

 

 まるで最初から、この世界の住人だったみたいに。

 

 まるで何も知らないみたいに。

 

 まるで、自分だけが知っているみたいに。

 

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