砂狼シロコは、冷静でなければならない。
そういうキャラクターだからだ。
無口。淡々。行動力がある。たまに突拍子もない案を出す。けれど根は仲間思いで、アビドスのためなら迷わず動く。
前世の自分が知っている砂狼シロコは、そういう少女だった。
だから、シロコは口を閉じた。
朝から何度も叫びそうになったが、全部飲み込んだ。鏡の前で自分の顔を見た時も、頭の上の輪を見た時も、教室の窓から砂に埋もれた街を見た時も、何も言わなかった。
シロコは叫ばない。
たぶん。
いや、原作でも叫んでいた場面が絶対にないとは言い切れない。自分の記憶は細かいところが怪しい。メインストーリーは読んだ。イベントは少し飛ばした。性能目当てで編成したことはある。だからキャラの雰囲気は知っている。
雰囲気だけで人生を乗り切れというのは、かなり乱暴ではないか。
「ん、落ち着こう」
声に出すと、思ったよりシロコだった。
それが怖かった。
身体はもう砂狼シロコとして動ける。歩幅も、呼吸も、銃の重さも、たぶん知っている。けれど中身は違う。昨日まで普通に日本で生きていた人間が、いきなりアビドスの借金と廃校危機を背負わされている。
しかも、原作開始前。
先生はまだ来ない。
シロコは通学路を歩きながら、頭の中で状況を整理した。
まず、アビドスは金がない。
次に、カイザーが絡んでいる。
そのうち先生が来る。
銀行強盗は、たぶん駄目。
ここでシロコは足を止めた。
駄目、なのか?
原作でそういうノリがあった。いや、あれは冗談半分というか、かなり本気というか、とにかくシロコらしい突飛な発想として扱われていたはずだ。なら、自分もそれを言うべきなのか。言わないとシロコらしくないのか。だが、実際に言えば周囲が引く可能性がある。
いや、引かれるのも原作通りかもしれない。
問題は、どの程度の引かれ方が正解なのか分からないことだ。
「……ん。難しい」
シロコは鞄の紐を握り直した。
ふと、向かいの歩道を歩くセリカが見えた。
黒見セリカ。
アビドスの後輩。素直ではない。怒りっぽい。けれどまっすぐで、誰より日常の重さを知っている。
セリカは店の前で立ち止まり、張り紙を見ていた。
アルバイト募集。
時給。
交通費。
勤務時間。
シロコは声をかけようとして、少し迷った。
昨日までの自分なら、何と言っただろう。いや、昨日までの自分はセリカの先輩ではなかった。セリカに気安く声をかける権利などなかった。
でも今は違う。
今の自分は、砂狼シロコだ。
「セリカ」
「ひゃっ!?」
セリカが飛び上がった。
想定より大きい反応だった。
「……驚きすぎ」
「べ、別に驚いてないわよ! 急に後ろから声かける方が悪いんでしょ!」
セリカは頬を赤くして怒った。
セリカらしい。
とてもセリカらしい。
だからこそ、シロコは安心しかけた。
その直後、セリカの視線が張り紙の時給欄へ戻った。
ほんの一瞬だけ。
そこにあったのは、キャラクターの表情ではなかった。生活費を計算する人間の目だった。借金と学費と食費と交通費を一気に思い浮かべて、どうにもならなさに息を詰まらせる人間の目だった。
もちろん、セリカはそういう子だ。
原作のセリカだって、バイトをしていた。アビドスの現実を知っていた。だから不自然ではない。
不自然ではない、はずだ。
「バイト、増やすの?」
シロコが聞くと、セリカは露骨に肩を揺らした。
「は? 別に。見てただけよ」
「そう」
「なによ、その目」
「ん。無理はよくない」
言ってから、シロコはしまったと思った。
優しすぎる。
いや、シロコは仲間思いだから問題ないかもしれない。けれど今の言葉は、自分の前世の実感が混じりすぎていた。セリカの過労を心配する、ただの人間の言葉になってしまった気がする。
セリカは黙った。
怒鳴り返してこない。
彼女は視線をそらし、小さく唇を噛んだ。
「……分かってるわよ」
その返事もまた、妙に生々しかった。
シロコの胸の奥に、嫌な予感が沈む。
まさか。
いや、違う。
自分だけだ。
転生者は、自分だけのはずだ。
◇
黒見セリカは、失敗した、と思った。
何が失敗かは分からない。分からないが、とにかく今の反応はたぶん黒見セリカではなかった。
もっと怒るべきだった。
もっと強く言い返すべきだった。
シロコ先輩に心配された時、原作のセリカならどう返しただろう。記憶が曖昧だ。アニメは見た。切り抜きも見た。シロコが銀行どうこう言っていたのは覚えている。ホシノ先輩が重いことも知っている。先生が来たら流れが変わることも知っている。
ただ、細かい台詞までは知らない。
なぜ自分は、よりによってそんな状態でセリカになっているのか。
セリカは店の裏でエプロンを結びながら、鏡に映る自分を睨んだ。
「しっかりしなさいよ、私」
鏡の中の黒見セリカが、同じ口で言い返す。
しっかりって何を。
アビドスを救うことか。
原作通りに怒ることか。
バイト代を計算することか。
世界を滅ぼさないことか。
全部一人に乗せるな。
前世の自分は、ただの高校生だった。飲食バイトの経験はある。だからこの店の仕事自体は、たぶんできる。むしろそこだけは助かった。レジの扱いも、客への声かけも、皿を運ぶ動線も、身体が覚える前に前世が覚えている。
だが、そのせいで余計に怖い。
自分がセリカとして自然なのか、ただバイト経験者として自然なのか、区別がつかない。
「セリカちゃん、今日もお願いね」
「はい!」
反射で返事をした。
明るすぎたかもしれない。セリカはもう少しつっけんどんかもしれない。いや、職場では普通に返事するだろう。するはずだ。分からない。
水を運ぶ。注文を取る。皿を下げる。体はよく動いた。
それなのに、頭の中だけがずっと止まらない。
借金。
廃校。
先生。
カイザー。
銀行。
銀行?
セリカは足を止めた。
まずい。
そういえば銀行強盗がある。いや、正確にはどういう流れだったか。いつだったか。誰が何を言い出したか。細部がぼやけている。
自分が間違えたらどうなる。
例えば、バイトを増やしすぎて倒れたら。
例えば、シロコ先輩の提案にうっかり現実的なツッコミを入れすぎたら。
例えば、先生が来る前に借金返済のための行動を変えてしまったら。
「セリカちゃん?」
「あ、す、すみません!」
客に水を出し忘れていた。
セリカは慌ててグラスを置く。水面が揺れる。手が震えていた。
客は笑って許してくれた。
その優しさが、なぜか怖かった。
この人も転生者だったらどうしよう。
そう考えた瞬間、セリカは自分で自分を叱った。
違う。
そんなわけない。
そんなことを疑い始めたら、もう誰とも話せない。
先生が来るまで、あと少し。
それまでは、自分が黒見セリカをやる。
できるだけ原作通りに。
できるだけ何も壊さないように。
◇
奥空アヤネは、数字の違和感を見つけてしまった。
見つけたくなかった。
できれば今日は、資料の整理だけで終わりたかった。ホシノ先輩がいつも通りに見えるか、シロコ先輩が変なことを言い出さないか、セリカさんが無理をしていないか、それだけ確認していたかった。
しかし、机の上の返済表は無慈悲だった。
一箇所、数字が合わない。
大きな差ではない。端数だ。普通なら誤差として処理してもいい程度の額。だが、アヤネにはそれができなかった。
原作と違うのか。
それとも、自分の記憶が間違っているのか。
この差額は、誰かが善意で調整した結果なのか。
カイザー側の処理ミスか。
アビドス側の記録漏れか。
それとも、自分が転生した時点でもう世界はズレ始めているのか。
「アヤネちゃん?」
ノノミの声がして、アヤネは反射的に書類を伏せた。
伏せてから、しまったと思う。
怪しすぎる。
「どうかしましたか?」
「ううん。アヤネちゃんこそ、大丈夫? 顔色、ちょっと悪いかも」
ノノミは優しく笑っていた。
その笑顔が眩しい。
眩しすぎて、アヤネは目を逸らしたくなった。
「大丈夫です。少し、計算が合わない箇所があっただけで」
「計算?」
「はい。いえ、大したことではありません」
大したことではない。
そう言い聞かせる。
だが、アヤネにとって数字は現実だった。資料は嘘をつかない。いや、嘘をつく場合もある。だからこそ確認する。照合する。根拠を探す。
しかし今、自分が照合したい相手は原作の記憶だ。
曖昧で、偏っていて、前世の自分の感情に汚染された記憶。
そんなものと現実の書類を比べて、世界の命運を判断しようとしている。
正気ではない。
正気ではないが、やめられない。
「アヤネちゃん」
ノノミが少し声を落とした。
「無理しないでね」
その言い方に、アヤネは顔を上げた。
あまりにも普通だった。
普通に心配している声だった。
原作のノノミなら、こう言うだろう。仲間を見て、笑って、支えようとするだろう。
けれど、アヤネはその言葉の奥に別のものを聞いた気がした。
無理しないで。
あなたも、私と同じように無理をしているのではないですか。
そんなはずはない。
アヤネはノノミから視線を外し、伏せた書類をもう一度開いた。
端数は、そこにあった。
世界が滅びるには小さすぎる数字。
けれど、アヤネの手を震わせるには十分すぎる数字だった。
◇
銀行強盗予定のモブは、銀行の前で泣きそうになっていた。
正確には、まだ強盗予定ではない。
まだ何もしていない。銃も出していない。脅してもいない。そもそも今日この銀行に下見に来たのは、前世の記憶と原作知識が最悪の形で噛み合った結果である。
ここ、たぶん原作イベントの場所だ。
そう気づいてしまった。
気づかなければよかった。
男、いや今はキヴォトスのどこかの不良生徒である彼女は、帽子を深く被り直した。自分の所属も、名前も、立場も、まだ完全には飲み込めていない。ただ一つ分かっているのは、自分がたぶん「やられ役」側にいるということだった。
最悪だ。
主人公側ではない。
人気キャラでもない。
なんなら名前も出ない可能性がある。
でも、原作を成立させるためには、誰かが悪役をやらなければならない。
やらないとどうなる?
先生が活躍する機会が消える?
アビドスの流れが変わる?
シロコたちの選択が変わる?
世界が滅ぶ?
「いや、規模おかしいだろ……」
小さく呟く。
通行人が振り向いたので、慌てて咳払いした。
悪役らしく振る舞う練習をしなければならない。だが前世の自分は、コンビニで年齢確認ボタンを押すだけでも少し緊張する人間だった。銀行強盗など、できるはずがない。
でも、やるしかない。
たぶん。
いや、まだ時間はある。今日は下見だけ。下見だけなら罪は軽い。軽いのか? キヴォトス基準ではどうなのか? そもそもこの世界の法はどの程度機能しているのか?
考えていると、銀行から出てきた客の一人と肩がぶつかった。
「あ、すみません!」
反射で謝った。
終わった。
悪役が、自然に謝ってしまった。
客は「こちらこそ」と頭を下げて去っていく。平和だった。あまりにも平和だった。
不良生徒は頭を抱えた。
駄目だ。
このままでは原作の悪役ムーブができない。
せめて言葉遣いだけでも荒くしよう。そう決めて顔を上げた瞬間、視界の端にアビドスの制服が映った。
白い髪。
獣耳。
シロコ。
心臓が止まるかと思った。
原作キャラがいる。
当たり前だ。ここは原作の世界なのだから。だが、画面越しに見ていた相手が現実の距離にいると、足が動かない。
しかも、そのシロコはこちらを見ていた。
見ている。
完全に見ている。
不良生徒は慌てて目を逸らした。
今の自分は何者だ。銀行強盗予定の不良か。まだ一般通行人か。どちらとして振る舞えばいい。
混乱しているうちに、シロコは通り過ぎた。
何も言わなかった。
それが逆に怖かった。
◇
シロコは銀行の前を通り過ぎながら、さっきの不良生徒を思い出していた。
怪しかった。
かなり怪しかった。
銀行の前で挙動不審。帽子を深く被っている。こちらを見て露骨に目を逸らした。状況だけ見れば、ほぼ何かを企んでいる。
だが、それが原作通りなのか分からない。
原作の銀行強盗は、いつ、どこで、どんな顔をしていたか。
覚えていない。
そもそも今の不良が該当者なのかも分からない。
もし原作イベントに必要な相手なら、今捕まえてはいけない。だが、本当に悪事をするなら止めるべきだ。アビドスのためにも、街のためにも。
シロコは足を止めた。
冷静に。
冷静に考える。
砂狼シロコならどうする。
仲間のために動く。
必要なら大胆なこともする。
銀行が絡むと、たぶん少し危ない案を出す。
シロコは小さく頷いた。
「ん。まずは資金計画を見直す」
銀行強盗ではない。
まだ違う。
もっと現実的な案だ。
クラウドファンディング。廃校危機の広報。砂漠化した校舎を逆手に取った観光資源化。OBへの寄付依頼。行政への補助金申請。債務整理。契約内容の再交渉。校舎の一部貸し出し。
考えれば考えるほど、どんどんシロコから遠ざかっていく。
シロコは頭を抱えた。
「……ん。銀行の方が、シロコらしい?」
小さく呟いた時だった。
背後で、誰かが息を呑む音がした。
振り返ると、セリカが立っていた。
バイト帰りらしい。制服の上に羽織った上着の袖を握りしめて、こちらを見ている。
「シロコ先輩、今、何て言ったの」
「資金計画の話」
「その後」
「銀行の方がシロコらしいかも、って」
言ってから、しまったと思った。
セリカの顔が引きつっていた。
だが、その引きつり方が、ただのツッコミ待ちではなかった。
まるで、知っている地雷が目の前で音を立てた時の顔だった。
「そ、それは駄目でしょ!」
「ん。まだ何もしてない」
「まだって何よ、まだって!」
セリカは怒った。
今度はちゃんとセリカらしく怒った。
シロコは少し安心した。
けれど、完全には安心できなかった。
セリカは一瞬だけ、銀行の方を見た。
その目は、場所を確認する目だった。
初めて知った場所を見る目ではなかった。
シロコの胸の奥で、朝から消そうとしていた考えがまた息をした。
セリカは、知っているのではないか。
いや、違う。
そんなはずはない。
自分だけだ。
自分だけのはずだった。
なのに。
銀行の前で挙動不審だった不良。
バイト先で疲れた顔を隠したセリカ。
端数に怯えるアヤネ。
笑うまでに半拍遅れたホシノ。
全部が、少しずつズレている。
少しずつ、原作に近すぎる。
シロコはセリカを見た。
セリカも、シロコを見ていた。
二人とも何も言わない。
聞けばいい。
あなたも転生者なのか、と。
でも、それを言った瞬間、何かが壊れる気がした。
だからシロコは、いつもの顔を作った。
「ん。冗談」
「冗談に聞こえないのよ!」
セリカが怒る。
夕方の銀行前に、その声が響く。
どこから見ても、いつものアビドスだった。
ただ一つ違うのは。
その場にいた二人とも、笑い方を少しだけ間違えていたことだった。