スターリンの娘に転生したけど、周りの男が消えていくのですが   作:rune

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中庭の男

 

 

 

 

アレクセイは、結局その日も来なかった。

 

 

 

次の日も、その次の日も来なかった。

 

 

 

図書館のいつもの机には、別の学生が座っていた。

 

 

 

機械工学の本ではなく、法律の本を開いている学生だった。

 

 

 

私は、その背中を見て、少しだけむっとした。

 

 

 

いや、別にその席がアレクセイ専用だったわけではない。

 

予約席でもない。

 

 

 

ましてや、私たちは付き合っていたわけでもない。

 

 

 

ただ、なんとなく。

 

 

 

なんとなく、その席には、歯車と配管と、真面目すぎる横顔があるべきだった。

 

 

 

法律の本ではない。

 

 

 

歯車。

 

配管。

 

耳まで赤くなる機械工学男子。

 

 

 

そこまで考えて、私は本を閉じた。

 

 

 

重い。

 

来ないだけでここまで思っているのは、かなり重い。

 

 

 

現代日本でもまあまあ重い。

 

ソ連基準だと、たぶん反革命的に重い。

 

 

 

私はため息をつき、図書館へ行くのを少し控えることにした。

 

 

 

別に逃げたわけではない。

 

 

 

冷却期間である。

 

 

 

恋愛感情にも、政治思想にも、冷却期間は必要だ。

 

たぶん。

 

 

 

問題は、図書館に行かないと本当に暇なことだった。

 

 

 

部屋にいると息が詰まる。

 

 

 

廊下にはいつも誰かがいる。

 

 

 

護衛なのか、使用人なのか、監視なのか。

 

たぶん全部だ。

 

 

 

この「たぶん全部」という判断に慣れてきている自分が怖い。

 

 

 

慣れとは恐ろしい。

 

 

 

人間は、監視にも慣れる。

 

 

 

そして慣れたころに、たぶん大きな失敗をする。

 

 

 

私は大きな失敗をしたくなかった。

 

 

 

したくなかったのだが、退屈には勝てなかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

数日後、私は地味な外套を羽織り、髪をスカーフで隠して、内庭へ出た。

 

 

 

正面からではない。

 

厨房に近い、使用人たちが出入りする通路のほうからだった。

 

 

 

ここは比較的人が少ない。

 

 

 

いや、人はいる。

 

いるけれど、偉い人はいない。

 

 

 

偉い人がいない場所は、少しだけ空気が軽い。

 

 

 

この家に来てから覚えた、かなり実用的な生活知識である。

 

 

 

クレムリンの内庭は、広い。

 

 

 

広いけれど、自由ではない。

 

 

 

どこへ行っても視線がある。

 

 

 

門の近く。

 

建物の影。

 

回廊の柱のそば。

 

 

 

兵士たちが立っている。

 

 

 

彼らは私を見ない。

 

見ないようにしている。

 

 

 

でも、見ていない人間ほど、見ている。

 

 

 

これはこの家に来てから覚えた、かなり嫌な生活知識だった。

 

 

 

私は雪の上を歩いた。

 

 

 

足跡が残る。

 

自分がここを歩いた証拠。

 

 

 

この国では、足跡すら報告書になりそうで怖い。

 

 

 

いや、さすがに考えすぎか。

 

考えすぎだよね?

 

 

 

その日、私は若い将校と目が合った。

 

 

 

年は、たぶん二十代前半。

 

背が高い。

 

軍服がよく似合っている。

 

 

 

でも、どこかぎこちない。

 

というか、寒そうだった。

 

 

 

軍人なのに寒そう。

 

そこは頑張ってほしい。

 

 

 

彼は私に気づくと、すぐに姿勢を正した。

 

 

 

「おはようございます」

 

 

 

硬い。

 

声も姿勢も硬い。

 

 

 

雪の中に鉄の棒が一本立っているみたいだった。

 

 

 

私は少し笑いそうになった。

 

 

 

「寒くないの?」

 

「問題ありません」

 

 

 

絶対寒い返事だ。

 

 

 

「鼻、赤いよ」

 

 

 

若い将校は一瞬だけ固まった。

 

 

 

それから、真面目な顔で言った。

 

「任務に支障はありません」

 

「鼻の赤さに任務関係ある?」

 

「ありません」

 

「じゃあ、寒いんじゃない」

 

「……多少は」

 

 

 

正直。

 

よろしい。

 

 

 

この国では、正直な返事は貴重品である。

 

配給制かもしれない。

 

 

 

「あなた、名前は?」

 

 

 

聞いた瞬間、彼の表情がさらに硬くなった。

 

 

 

しまった。

 

 

 

この国で名前を聞くのは、思ったより重い行為なのかもしれない。

 

 

 

でも、もう聞いてしまった。

 

 

 

彼は敬礼した。

 

「セルゲイ・ニコラエヴィチ・ヴォルコフ中尉です」

 

「セルゲイ」

 

 

 

私が名前を呼ぶと、彼はわずかに目を伏せた。

 

 

 

軍人なのに反応が純朴である。

 

 

 

この国の若者、どうしてこうも分かりやすいのか。

 

 

 

いや、もしかすると私が分かりやすい人を引き寄せているのかもしれない。

 

 

 

それはそれで危険な才能だ。

 

 

 

「私はラーナ」

 

 

 

私はいつものように言った。

 

 

 

スヴェトラーナとは言わない。

 

アリルーエワとも言わない。

 

 

 

ましてや、スターリンの娘です、などとは絶対に言わない。

 

 

 

そんな自己紹介、空気が死ぬ。

 

場合によっては、相手の人生も死ぬ。

 

 

 

いや、さすがにそれは比喩だけれど。

 

たぶん。

 

 

 

セルゲイは、私の外套とスカーフを見た。

 

それから、厨房へ続く通路をちらりと見た。

 

 

 

少しだけ納得したような顔をする。

 

 

 

あ。

 

 

 

たぶん、私は使用人か給仕係の誰かだと思われている。

 

 

 

それでいい。

 

むしろ、それがいい。

 

 

 

スターリンの娘より、給仕係の休憩中の女の子のほうが、会話相手としては百倍安全である。

 

たぶん。

 

 

 

「ラーナ……さん」

 

「うん。それでいい」

 

「ここで休憩を?」

 

「まあ、そんな感じ」

 

 

 

嘘ではない。

 

精神的には完全に休憩である。

 

 

 

セルゲイは納得したように頷いた。

 

 

 

この人、たぶん素直だ。

 

 

 

素直な軍人。

 

 

 

それは大丈夫なのか。

 

軍隊で生きていけるのか。

 

 

 

いや、私が心配することではない。

 

 

 

その日は、それだけだった。

 

 

 

寒いね。

 

寒いです。

 

立ってるの大変そう。

 

任務です。

 

真面目だね。

 

よく言われます。

 

 

 

そんな会話を少しして、私は建物へ戻った。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

翌日も、私は内庭へ出た。

 

 

 

別にセルゲイに会いに行ったわけではない。

 

 

 

空気を吸いに行っただけだ。

 

本当である。

 

 

 

ただ、昨日と同じ時間に、昨日と同じ通路から、昨日と同じ庭へ出た。

 

 

 

偶然にしては精度が高い。

 

自分でもそう思った。

 

 

 

セルゲイはいた。

 

 

 

昨日と同じ場所に立っていた。

 

鼻も赤かった。

 

 

 

「また寒そう」

 

 

 

私が言うと、彼は少しだけ困った顔をした。

 

「今日は昨日よりは暖かいです」

 

「雪降ってるけど」

 

「風が弱いので」

 

「軍人の暖かさ判定、厳しい」

 

「そうでしょうか」

 

「うん。一般家庭では不採用です」

 

「一般家庭……」

 

「なんでもない」

 

 

 

危ない。

 

うっかり前世っぽい言い方をした。

 

 

 

セルゲイは不思議そうに私を見たが、それ以上は聞かなかった。

 

 

 

いい人だ。

 

聞かない優しさがある。

 

 

 

この国では、それが優しさなのか、単なる生存戦略なのかは、まだよく分からないけれど。

 

 

 

三日目には、私は彼に黒パンを半分渡した。

 

 

 

厨房で余ったものを、こっそり持ってきた。

 

 

 

正確には、厨房で余ったものを私がもらった。

 

さらに正確に言うと、私が欲しいと言ったら、使用人が青ざめながら包んでくれた。

 

 

 

この家では、パン一つにも権力の匂いがする。

 

嫌すぎる。

 

 

 

「食べる?」

 

「勤務中です」

 

「じゃあ、勤務後に食べる?」

 

「いただけません」

 

「毒とか入ってないよ」

 

「そういう意味では」

 

「じゃあ、どういう意味?」

 

 

 

セルゲイは困った顔をした。

 

 

 

困った顔が板についてきた。

 

 

 

私はなぜ、知り合った若者をすぐ困らせてしまうのか。

 

 

 

よくない。

 

非常によくない。

 

 

 

「では、休憩の際に」

 

 

 

彼はそう言って、黒パンを受け取った。

 

 

 

その時、ほんの少しだけ笑った。

 

 

 

軍人の笑顔は分かりにくい。

 

 

 

特にこの国の軍人の笑顔は、発見難易度が高い。

 

雪原で白いうさぎを探すくらい高い。

 

 

 

でも、今のはたぶん笑った。

 

 

 

私は少し嬉しくなった。

 

 

 

四日目には、会話が少しだけ長くなった。

 

 

 

「セルゲイは、ずっとここに立ってるの?」

 

「勤務中は」

 

「足、疲れない?」

 

「多少は」

 

「多少ばっかり」

 

「問題ありません」

 

「出た。問題ありません」

 

「事実です」

 

「軍人って、同じ返事を使い回すんだ」

 

「有効な返答は繰り返されます」

 

「便利」

 

 

 

セルゲイは少しだけ口元を緩めた。

 

 

 

私は雪の積もった庭を見渡した。

 

 

 

塀の向こうに、街の気配がある。

 

 

 

見えない。

 

けれど、ある。

 

 

 

クレムリンの内側にいると、外の世界は音だけになる。

 

 

 

車輪の音。

 

遠くの声。

 

雪を踏む足音。

 

 

 

私はその音を聞きながら言った。

 

「休みの日くらいは、散歩したりするの?」

 

 

 

セルゲイは少し考えた。

 

「許可があれば」

 

「散歩にも許可がいるの?」

 

「場合によります」

 

「便利な言葉、また出た」

 

「実際に、場合によりますので」

 

「じゃあ、許可があって、任務がなくて、上官が怒らなくて、天気が良かったら?」

 

「条件が多いですね」

 

「軍人の散歩、大変すぎる」

 

 

 

セルゲイは今度こそ、はっきり笑った。

 

 

 

勝った。

 

 

 

何に勝ったのかは分からないけれど、勝った気がした。

 

 

 

「でも、休みの日くらい、自分の足で好きに歩きたいでしょ」

 

 

 

軽い雑談のつもりだった。

 

本当に、それだけだった。

 

 

 

セルゲイは困ったように眉を下げた。

 

 

 

そして、少しだけ考えてから言った。

 

「命令がなければ、少しは自分の足で歩けます」

 

 

 

その言い方が妙に真面目で、私は笑ってしまった。

 

「何それ」

 

「変でしたか」

 

「ううん。ちょっと詩みたい」

 

「詩、ですか」

 

「命令がなければ、自分の足で歩ける」

 

 

 

私は口の中で繰り返した。

 

「うん。いいね。真面目すぎて、ちょっと面白い」

 

 

 

セルゲイは慌てたように姿勢を正した。

 

「いえ、任務を軽んじる意味ではありません」

 

「分かってるよ」

 

「軍人は命令に従います」

 

「それも分かってる」

 

「誤解されると困ります」

 

「誰に?」

 

 

 

私が聞くと、セルゲイは答えなかった。

 

 

 

ただ、少しだけ周囲を見た。

 

 

 

門の近く。

 

建物の影。

 

回廊の柱。

 

 

 

そこには兵士がいる。

 

いつものように。

 

 

 

見ていないふりをしている人たちがいる。

 

 

 

私は少しだけ声を落とした。

 

「大丈夫。私は誰にも言わない」

 

 

 

言ってから、微妙に変なことを言った気がした。

 

 

 

秘密を共有するみたいな言い方になってしまった。

 

 

 

別に秘密ではない。

 

ただの会話だ。

 

 

 

雪の日の庭で、若い将校と少し話しているだけ。

 

 

 

それ以上の意味なんてない。

 

少なくとも、私の中では。

 

 

 

セルゲイは真面目に頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

「お礼を言うこと?」

 

「はい」

 

「やっぱり真面目だね」

 

「よく言われます」

 

「絶対モテないでしょ」

 

 

 

言った瞬間、私は自分で自分の口を疑った。

 

 

 

またやった。

 

 

 

なぜ私は、初対面に近い男性に対して、すぐモテなさそうと言ってしまうのか。

 

 

 

前世の悪癖か。

 

いや、前世でもたぶん失礼だった。

 

 

 

セルゲイは案の定、固まった。

 

「それは……評価でしょうか」

 

「半分くらい褒めてる」

 

「残り半分は」

 

「事実確認」

 

「なるほど」

 

 

 

なるほどじゃない。

 

納得しないでほしい。

 

 

 

それからさらに数日、私たちは内庭で短い会話を交わすようになった。

 

 

 

長くても数分。

 

短ければ挨拶だけ。

 

 

 

私は勝手に休憩している給仕係のような顔をして、彼の近くを通る。

 

 

 

セルゲイは最初こそ戸惑っていたが、だんだん私を見ても驚かなくなった。

 

 

 

「今日も寒そう」

 

「問題ありません」

 

「鼻、赤いよ」

 

「任務に支障はありません」

 

「それ、この前も聞いた」

 

「事実です」

 

「軍人って強情だね」

 

「任務です」

 

「強情も任務なの?」

 

「場合によります」

 

「便利すぎる」

 

 

 

そんな会話。

 

本当に、それだけだった。

 

 

 

けれど、私はその数分が少し楽しみになっていた。

 

 

 

図書館に行かなくなってから、私はアレクセイのことを考える時間が減った。

 

 

 

それが良いことなのか悪いことなのかは、よく分からない。

 

 

 

ただ、内庭でセルゲイと話している間だけは、私はスヴェトラーナではなく、ラーナでいられた。

 

 

 

給仕係か、使用人の娘か、よく分からない誰か。

 

 

 

でも、スターリンの娘ではない誰か。

 

 

 

それは思っていたよりずっと楽だった。

 

 

 

ある日、セルゲイが言った。

 

「ラーナさんは、いつも休憩中なのですか」

 

「え?」

 

「その、よくこちらに来られるので」

 

「ああ」

 

 

 

私は一瞬だけ迷った。

 

 

 

そして、笑ってごまかした。

 

「仕事をさぼるのがうまいの」

 

「それは、あまり良くないのでは」

 

「真面目」

 

「職務は大切です」

 

「セルゲイに相談した私が間違いだった」

 

「相談だったのですか」

 

「今のは冗談」

 

「難しいですね」

 

「何が?」

 

「ラーナさんの話は、どこまでが本当なのか」

 

 

 

私は少しだけ黙った。

 

 

 

鋭い。

 

意外と鋭い。

 

 

 

軍人型の真面目さかと思ったら、ちゃんと人を見ている。

 

 

 

「半分くらい本当」

 

「残り半分は」

 

「秘密」

 

 

 

セルゲイは困ったように笑った。

 

「秘密の多い方ですね」

 

「そうかな」

 

「はい」

 

「じゃあ、セルゲイも秘密を持てばいいよ」

 

「軍人が秘密を持つのは、あまり良くありません」

 

「また模範解答」

 

「申し訳ありません」

 

「謝らなくていいって」

 

 

 

私は笑った。

 

 

 

その時の私は、本当に笑っていた。

 

 

 

あの言葉がどこへ届くのかなんて、少しも考えていなかった。

 

 

 

誰が聞いているのかも。

 

誰が書き留めるのかも。

 

どの言葉が、どう読まれるのかも。

 

 

 

ただ、雪の中で若い将校と話していただけだった。

 

 

 

やがて、建物のほうから使用人が歩いてきた。

 

 

 

私を見つけると、ほんの一瞬だけ顔色を変えた。

 

 

 

私は慌てて首を振る。

 

 

 

名前を呼ばないで。

 

そういう意味で。

 

 

 

使用人は察してくれたらしい。

 

 

 

さすがである。

 

 

 

この家の使用人は、たぶん人類の中でもかなり空気を読む能力が高い。

 

読めなかった人間は、もうここにいないのかもしれない。

 

 

 

いや、考えるのはやめよう。

 

 

 

使用人は少し離れた場所で言った。

 

「お食事の準備が整っております」

 

「分かった」

 

 

 

私はセルゲイを見た。

 

「じゃあ、またね」

 

 

 

セルゲイは姿勢を正した。

 

「はい。ラーナさん」

 

 

 

私の名前を、彼は丁寧に呼んだ。

 

 

 

少しだけ胸が温かくなった。

 

 

 

スヴェトラーナではない。

 

スターリンの娘でもない。

 

 

 

ただのラーナ。

 

 

 

そう呼ばれることが、私は思っていたよりずっと好きになっていた。

 

 

 

その日の夕食で、父は何も言わなかった。

 

 

 

新聞を読んでいる。

 

私はスープを飲む。

 

 

 

食卓は静かだった。

 

 

 

外では雪が降り始めていた。

 

 

 

内庭で話した若い将校のことを思い出した。

 

 

 

命令がなければ、少しは自分の足で歩けます。

 

 

 

変な言葉。

 

でも、少しだけ好きな言葉だった。

 

 

 

私はスープを飲みながら、窓の外を見た。

 

 

 

モスクワの夜は白い。

 

 

 

雪は静かに降っている。

 

 

 

誰かの足跡を、ゆっくり消していくみたいに。

 

 

 

その時の私は、まだ知らなかった。

 

 

 

数日後、セルゲイがもう内庭に立っていないことを。

 

 

 

そして彼が、なぜいなくなったのかも。

 

 

 

私が知ることは、たぶんなかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

「ヴォルコフ中尉」

 

 

 

名前を呼ばれた瞬間、セルゲイ・ニコラエヴィチ・ヴォルコフは敬礼した。

 

 

 

呼び出しは、朝の点呼の直後だった。

 

 

 

命令書には、余計な言葉がなかった。

 

 

 

日時。

 

場所。

 

出頭せよ。

 

 

 

それだけだった。

 

 

 

理由は書かれていない。

 

 

 

だが、軍において、理由が書かれていない命令は珍しくない。

 

 

 

命令とは、説明されて従うものではない。

 

従ってから、必要があれば説明されるものだ。

 

 

 

セルゲイはそう教えられてきた。

 

 

 

だから、最初は不安に思わなかった。

 

 

 

いや、少しは思った。

 

 

 

けれど、それは普通の緊張だった。

 

 

 

勤務報告の確認かもしれない。

 

配置換えかもしれない。

 

あるいは、先日の警備任務についての聞き取りかもしれない。

 

 

 

彼は軍服の襟を整え、帽子を被り直し、司令部へ向かった。

 

 

 

モスクワの空は白かった。

 

 

 

雪は降っていない。

 

 

 

だが、街全体が凍っているように見えた。

 

 

 

司令部の入口には、いつもより多くの兵が立っていた。

 

 

 

そこで、セルゲイは初めて違和感を覚えた。

 

 

 

「ヴォルコフ中尉だな」

 

「はい」

 

「拳銃を預けろ」

 

 

 

セルゲイは眉を動かした。

 

「命令ですか」

 

 

 

兵は答えなかった。

 

 

 

ただ、手を差し出した。

 

 

 

セルゲイは一瞬だけ迷い、すぐに腰のホルスターから拳銃を抜いた。

 

 

 

軍人が、軍の施設に入るために武器を預ける。

 

 

 

おかしい。

 

 

 

そう思った。

 

 

 

だが、口には出さなかった。

 

 

 

ここでは、おかしいと思うことと、おかしいと言うことの間に、深い溝がある。

 

 

 

その溝を不用意に跨ぐ者は、たいてい戻ってこない。

 

 

 

セルゲイは案内された廊下を進んだ。

 

 

 

廊下は長かった。

 

 

 

足音が響く。

 

 

 

彼のものではない。

 

左右からついてくる兵の足音だった。

 

 

 

扉の前で止まる。

 

 

 

案内役の兵が二度、扉を叩いた。

 

 

 

「入れ」

 

 

 

低い声がした。

 

 

 

セルゲイは部屋に入った。

 

 

 

中には、大きな机があった。

 

 

 

壁には地図。

 

赤い線。

 

黒いピン。

 

いくつもの部隊配置。

 

 

 

そして机の向こうに、将軍が座っていた。

 

 

 

グリゴリー・パヴロヴィチ・コルネフ大将。

 

 

 

軍の中枢にいる男だった。

 

 

 

セルゲイのような若い中尉が、通常なら直接言葉を交わすことすらない相手である。

 

 

 

セルゲイは反射的に敬礼した。

 

「ヴォルコフ中尉、命令により出頭しました」

 

「座りたまえ」

 

 

 

コルネフ大将は言った。

 

 

 

その声は重かった。

 

だが、奇妙なことに、威圧的ではなかった。

 

 

 

むしろ、疲れていた。

 

 

 

セルゲイは椅子に腰を下ろした。

 

 

 

その瞬間、背後で扉が閉まった。

 

 

 

振り返りそうになったが、こらえた。

 

 

 

兵が二人、扉の内側に立っている。

 

部屋の隅には副官がいる。

 

机の上には、書類の束。

 

 

 

セルゲイは、そこでようやく理解した。

 

 

 

これは説明ではない。

 

 

 

これは審査だ。

 

 

 

「ヴォルコフ中尉」

 

「はい」

 

「君は先週、クレムリン内庭の警備に就いていたな」

 

「はい」

 

「その際、勤務中に若い女性と会話した」

 

 

 

セルゲイは一瞬だけ息を止めた。

 

 

 

ラーナ。

 

 

 

赤いスカーフを巻いて、厨房に近い通路から出てくる少女。

 

 

 

休憩中の給仕係か、使用人の娘。

 

たぶん、そのあたりの誰か。

 

 

 

「はい」

 

「何度もか」

 

「数回です」

 

「数回」

 

 

 

コルネフ大将は、机の上の書類を一枚めくった。

 

「君にとって、勤務中の私語は数回までなら許容範囲なのか」

 

「いえ。申し訳ありません」

 

「謝罪を求めているのではない」

 

 

 

セルゲイは口を閉じた。

 

 

 

副官のペンが走る。

 

 

 

カリ、カリ、カリ。

 

 

 

小さな音なのに、やけに大きく聞こえた。

 

 

 

「相手の身元を知っていたか」

 

「いいえ」

 

「知らない女と、任務中に話していた」

 

「その……使用人関係の者かと」

 

「確認したのか」

 

「していません」

 

「なぜだ」

 

 

 

セルゲイは答えに詰まった。

 

 

 

なぜ。

 

 

 

あまりにも普通に見えたから。

 

厨房に近い通路から出てきたから。

 

外套も地味で、スカーフを巻いていたから。

 

黒パンを持っていたから。

 

 

 

そして何より、彼女が楽しそうに笑ったから。

 

 

 

そんな理由は、軍の部屋では理由にならなかった。

 

 

 

「申し訳ありません」

 

「謝罪を求めているのではないと言った」

 

 

 

セルゲイは唇を結んだ。

 

 

 

コルネフ大将は書類に目を落とした。

 

「君は彼女に、こう言ったそうだな」

 

 

 

嫌な予感がした。

 

 

 

「命令がなければ、少しは自分の足で歩けます」

 

 

 

その言葉を聞いた瞬間、セルゲイは内庭の雪を思い出した。

 

 

 

ラーナが笑っていた。

 

 

 

軍人の散歩は大変すぎる、と。

 

 

 

だから彼も、少しだけ気を許した。

 

 

 

ただ、それだけだった。

 

 

 

「言いました」

 

「認めるのだな」

 

「はい。ただし、勤務を軽んじる意味ではありません」

 

「私はまだ、勤務を軽んじたとは言っていない」

 

 

 

セルゲイの喉が乾いた。

 

 

 

失敗した。

 

 

 

また、自分で言葉を先に出してしまった。

 

 

 

副官のペンが止まった。

 

それから、また走り出した。

 

 

 

カリ、カリ、カリ。

 

 

 

「君は軍人だ」

 

「はい」

 

「軍人にとって、命令とは何か」

 

「従うべきものです」

 

「絶対か」

 

「はい」

 

「では、"命令がなければ"とは何だ」

 

 

 

セルゲイは言葉を探した。

 

 

 

あれは、ただの冗談だった。

 

いや、冗談というほどのものでもない。

 

 

 

雪の日の庭で、休憩中の少女に、少し柔らかく返しただけの言葉だった。

 

 

 

だが、その説明をここで口にした瞬間、それがさらに悪いものになる気がした。

 

 

 

「言葉の綾です」

 

「言葉の綾」

 

「はい」

 

「任務中、相手の身元も確認せず、軍の命令体系を言葉の綾にした」

 

「違います」

 

「では、どういう意味だ」

 

「ただ、休みの日なら、歩くこともあるという意味です」

 

「誰と」

 

 

 

セルゲイは一瞬、意味が分からなかった。

 

「誰と、とは」

 

「その女とか」

 

「違います」

 

「では、誰と歩くつもりだった」

 

「誰とも。そういう意味ではありません」

 

「では、何の意味もない言葉だったのか」

 

「はい」

 

「何の意味もない言葉を、勤務中に、身元不明の女へ向けて発した」

 

 

 

セルゲイは黙った。

 

 

 

答えれば悪くなる。

 

黙っても悪くなる。

 

 

 

そのことが、少しずつ分かってきた。

 

 

 

コルネフ大将は続けた。

 

「君は彼女から黒パンを受け取った」

 

「はい」

 

「なぜ受け取った」

 

「断ると失礼かと」

 

「相手の身元も知らずに」

 

「はい」

 

「毒の検査は」

 

「していません」

 

「では、もしそれが毒だったら」

 

「……私の過失です」

 

「もし君がそれを別の兵に渡していたら」

 

「渡していません」

 

「渡せたな」

 

「しかし、渡していません」

 

「可能性の話をしている」

 

 

 

セルゲイは、胸の奥が冷えていくのを感じた。

 

 

 

黒パン。

 

 

 

あの小さな黒パンが、いま机の上では軍事上の問題になっている。

 

 

 

ラーナは笑っていた。

 

毒なんて入ってないよ、と。

 

 

 

彼は困りながら受け取った。

 

 

 

それだけだった。

 

本当に、それだけだった。

 

 

 

「中尉」

 

「はい」

 

「君は、自分の行動がどこに届いたのか分かっていない」

 

「どこに、とは」

 

 

 

その時だった。

 

 

 

電話が鳴った。

 

 

 

黒い電話だった。

 

机の端に置かれている。

 

 

 

小さく、乾いた音だった。

 

 

 

軍の司令部なら、電話の音など珍しくない。

 

 

 

だが、その音を聞いた瞬間、部屋の中の空気が変わった。

 

 

 

副官のペンが止まった。

 

扉の前の兵が、背筋を伸ばした。

 

 

 

そして、コルネフ大将の顔から血の気が引いた。

 

 

 

セルゲイはそれを見た。

 

 

 

大将が、受話器を見ている。

 

 

 

すぐには取らない。

 

取らなければならないと分かっているのに、指が動かない。

 

 

 

そういう沈黙だった。

 

 

 

副官が、小さく言った。

 

「……クレムリンです」

 

 

 

セルゲイは息を止めた。

 

 

 

コルネフ大将は受話器を取った。

 

 

 

「はい」

 

 

 

沈黙。

 

 

 

電話の向こうの声は聞こえない。

 

だが、大将の喉が上下するのが見えた。

 

 

 

「……はい、同志スターリン」

 

 

 

その言葉を聞いた瞬間、セルゲイの中で何かが止まった。

 

 

 

意味は分かる。

 

 

 

だが、分かりたくなかった。

 

 

 

分かってはいけない場所に、自分が座っているような気がした。

 

 

 

コルネフ大将の声は、先ほどまでの声とは違っていた。

 

 

 

報告ではない。

 

説明でもない。

 

 

 

ただ、間違えないように言葉を置いている声だった。

 

 

 

「はい」

 

 

 

沈黙。

 

 

 

「身辺警備上の不備として処理いたします」

 

 

 

また沈黙。

 

 

 

「……はい、同志スターリン」

 

 

 

セルゲイは視線を動かせなかった。

 

 

 

目を逸らすことも、直視することもできない。

 

 

 

ただ、椅子に座っている。

 

 

 

座っているだけなのに、自分が何か取り返しのつかないことをしているような気がした。

 

 

 

大将は受話器を握りしめていた。

 

 

 

その手が、わずかに震えている。

 

 

 

軍の中枢にいる男の手が。

 

部隊を動かし、人を配置し、命令を下す側の男の手が。

 

 

 

「接触者は、例外なく」

 

 

 

沈黙。

 

 

 

「承知しております」

 

 

 

沈黙。

 

 

 

「もちろんです、同志スターリン」

 

 

 

その声は、電話の向こうに向けられているはずだった。

 

 

 

だが、セルゲイには、自分に言い渡された言葉に聞こえた。

 

 

 

例外なく。

 

 

 

何の例外なのか。

 

誰が接触者なのか。

 

 

 

それすら分からない。

 

 

 

分からないのに、もう何も言えなかった。

 

 

 

「はい」

 

 

 

最後の沈黙。

 

 

 

コルネフ大将は、ほとんど囁くように言った。

 

「はい、同志スターリン」

 

 

 

受話器が置かれた。

 

 

 

音は小さかった。

 

 

 

だが、その前と後で、部屋は別の場所になっていた。

 

 

 

セルゲイは、何が決まったのか分からなかった。

 

 

 

ただ、自分に何も言えることがなくなったことだけは分かった。

 

 

 

コルネフ大将は、しばらく受話器から手を離さなかった。

 

 

 

やがて、ゆっくりと指をほどいた。

 

 

 

その顔は、さっきよりも老けて見えた。

 

 

 

「ヴォルコフ中尉」

 

 

 

大将は言った。

 

声は少し掠れていた。

 

 

 

「君の処遇は決まった」

 

 

 

セルゲイは立ち上がろうとした。

 

 

 

すぐに背後の兵が肩を押さえた。

 

「お待ちください。私は正式な軍法会議を要求します」

 

「これは軍法上の懲罰ではない」

 

「では何ですか」

 

「配置転換だ」

 

 

 

大将は書類を一枚取った。

 

「東方勤務。特別監督下。期間は未定」

 

 

 

セルゲイは一瞬、意味が分からなかった。

 

 

 

東方勤務。

 

特別監督下。

 

期間未定。

 

 

 

言葉は軍の書式だった。

 

 

 

だが、その下にある現実は、もっと単純だった。

 

 

 

シベリア。

 

 

 

戻れるかどうか分からない場所。

 

生きていることと、存在していないことの境目が、雪で埋まっている場所。

 

 

 

「理由を、お聞かせください」

 

 

 

コルネフ大将は答えなかった。

 

 

 

答えないまま、書類を机の端へ滑らせた。

 

「署名したまえ」

 

「私は、何をしたのですか」

 

 

 

大将の目が、ほんの一瞬だけ黒い電話へ向いた。

 

 

 

それだけだった。

 

 

 

セルゲイはペンを取らなかった。

 

「署名できません」

 

 

 

大将は目を閉じた。

 

 

 

ほんの短い沈黙。

 

 

 

それから、静かに言った。

 

「君の父親は、トゥーラの兵器工場にいるな」

 

 

 

セルゲイの心臓が止まりかけた。

 

 

 

「母親は同居。妹が一人。名はアンナ。十六歳」

 

 

 

セルゲイは息を呑んだ。

 

「なぜ、それを」

 

「署名したまえ」

 

 

 

答えは、それだけだった。

 

 

 

セルゲイは書類を見た。

 

 

 

異動命令。

 

服務上の不適格。

 

特別監督下勤務。

 

 

 

罪とは書かれていなかった。

 

反逆とも書かれていなかった。

 

 

 

だから、裁かれない。

 

 

 

ただ、送られる。

 

 

 

セルゲイはペンを取った。

 

 

 

署名欄に、自分の名前を書く。

 

 

 

セルゲイ・ニコラエヴィチ・ヴォルコフ。

 

 

 

書いた瞬間、自分の名前が自分から離れていく気がした。

 

 

 

それはもう、自分の名ではなく、輸送名簿に載る文字だった。

 

 

 

大将は書類を受け取った。

 

 

 

しばらく見つめてから、低く言った。

 

「賢明だ」

 

 

 

兵が近づいた。

 

 

 

セルゲイの腕を取る。

 

 

 

抵抗はしなかった。

 

 

 

抵抗すれば、次は父の名が出る。

 

母の名が出る。

 

アンナの名が出る。

 

 

 

それだけは分かった。

 

 

 

扉の前で、セルゲイは一度だけ振り返った。

 

 

 

コルネフ大将は机の向こうに座っていた。

 

 

 

大きな地図の前で。

 

軍のすべてを動かせそうな肩章をつけて。

 

 

 

それなのに、その男は黒い電話を見ていた。

 

 

 

まるで、それがまた鳴るのを恐れているように。

 

 

 

セルゲイは廊下へ出された。

 

 

 

扉が閉まる。

 

 

 

それで終わりだった。

 

 

 

理由は最後まで分からなかった。

 

 

 

あの少女が誰だったのかも。

 

自分の言葉が、どこで、誰に、どう届いたのかも。

 

 

 

ただ、自分が何かを踏んだことだけは分かった。

 

 

 

見えないものを。

 

踏んではならないものを。

 

 

 

その正体を知る機会は、もう与えられなかった。

 




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