スターリンの娘に転生したけど、周りの男が消えていくのですが 作:rune
私は最近、ひとつの法則に気づきつつあった。
私の周りの男が、よく消える。
いや、もちろん、比喩である。
たぶん。
最初は、アレクセイだった。
図書館で知り合った、機械工学の学生。
真面目で、少し不器用で、本を取ってくれた時に、私より先に本の心配をした男の子。
彼はある日から、図書館に来なくなった。
風邪かな、と思った。
試験かな、とも思った。
私の言葉が重かったのかな、とも思った。
でも、それから一週間が経ち、二週間が経ち、同じ机に別の学生が座るようになった。
アレクセイという名前は、図書館の中から消えた。
次は、若い護衛だった。
セルゲイという名前だったと思う。
たぶん。
背が高くて、軍服の襟をいつもきっちり正していた。
私が廊下を歩くと、いつも少しだけ視線をそらした。
別に話したわけではない。
ただ一度だけ、私が外の雪を見て、
「軍人さんって、自由に散歩もできないんだね」
と言ったことがある。
セルゲイは、困ったように笑って、
「我々は自由のために働いています」
と、ものすごく模範解答みたいなことを言った。
私は思わず笑った。
「それ、自分で言ってて変だと思わない?」
彼は一瞬だけ、笑いをこらえた顔をした。
翌日から、彼はいなくなった。
次は、給仕の青年だった。
食卓で私がうっかりスープをこぼした時、彼は慌てて布巾を持ってきてくれた。
「ありがとう」
と言っただけだった。
本当に、それだけだった。
なのに、次の日には別の給仕になっていた。
私はだんだん怖くなってきた。
もしかして、この家では、私に親切にすると異動になるのだろうか。
そういう職場なのだろうか。
ブラック企業どころではない。
ブラック国家である。
私はある日の夕食で、父を見た。
長い食卓の向こう側。
新聞を読みながら、黒パンを切っている男。
太い眉。
口ひげ。
教科書で見た顔。
ヨシフ・スターリン。
私の父。
父は私の視線に気づいたのか、新聞から目を上げた。
「どうした、スヴェータ」
声は静かだった。
怖いというより、重い。
この人の言葉は、一つ一つに鉛が入っている。
「いえ」
私はスープを見つめた。
聞けるわけがない。
お父さん、私に近づいた男の人って、もしかして消してます?
そんな親子会話、家庭科の教科書にも出てこない。
父はしばらく私を見ていた。
それから、少しだけ目を細めた。
「何か、困ったことがあるのか」
あった。
かなりあった。
でも、その困りごとの中心にいるのが、たぶんあなたです。
とは言えない。
私は首を振った。
「ありません」
「そうか」
父は新聞に視線を戻した。
「困ったことがあれば、言いなさい」
それだけ聞けば、普通の優しい父親の言葉だった。
問題は、この父親がスターリンだという点である。
父は私を大事にしている。
それは分かる。
たぶん、溺愛に近い。
服も、食事も、部屋も、教育も、全部ちゃんとしている。
寒い日は外に出すなと言うし、知らない男と話すなと言うし、本を読みすぎると目が悪くなるとまで言う。
過保護だ。
完全に過保護だ。
ただし、この家の過保護は、普通の家の過保護と単位が違う。
普通の父親なら、娘に近づく男を警戒する。
うちの父は、娘に近づいた男の戸籍ごと警戒する。
たぶん。
いや、たぶんであってほしい。
私はスプーンを口に運びながら、心の中でため息をついた。
このままだと、私は誰とも話せない。
廊下の人に挨拶してもだめ。
図書館で男子学生と話してもだめ。
護衛に冗談を言ってもだめ。
給仕にありがとうと言ってもだめ。
人生が、接触禁止物質みたいになっている。
私は人間なのか。
それとも、政治的放射性物質なのか。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その夜、私は決めた。
外に出よう。
もちろん、許可を取れば無理だ。
護衛がつく。
車がつく。
使用人がつく。
そして、私がパン屋の前で立ち止まっただけで、翌日パン屋が消えるかもしれない。
困る。
私はパンが好きだ。
パン屋には生きていてほしい。
だから、変装することにした。
変装といっても、大したものではない。
地味なコート。
古い帽子。
髪を隠す布。
鏡を見ると、まあまあ普通の少女に見えた。
スターリンの娘には見えない。
少なくとも、私にはそう見えた。
実際に外の人がどう見るかは分からない。
なにしろ私は、前世でも変装して街に出た経験がない。
普通に生きていて、変装が必要になる人生はあまりない。
二周目の人生、妙なところで経験値が試される。
私は廊下の気配を確認し、使用人の目を盗み、裏口から外へ出た。
成功した。
たぶん。
モスクワの空気は冷たかった。
鼻の奥が痛い。
雪は固く踏みしめられ、通りには人と馬車と車が混ざっていた。
灰色の建物。
厚いコートを着た人々。
黒い車。
遠くで誰かが笑い、すぐにその声を飲み込むように風が吹いた。
外だ。
私は思わず笑いそうになった。
家の外。
監視の外。
父の視線の外。
いや、本当に外かどうかは怪しいけれど、少なくとも今この瞬間だけは、私はただのラーナだった。
スヴェトラーナではない。
スターリンの娘でもない。
ただの、ちょっと寒がりな女の子。
私は通りを歩いた。
店の窓を覗いた。
パンの匂いを嗅いだ。
新聞売りの声を聞いた。
全部が珍しかった。
同時に、全部が少し怖かった。
前世で知っているソ連は、教科書の中にあった。
年号と人物名と政策名。
でも今、目の前にいる人たちは、みんな普通に歩いている。
寒そうに肩をすくめ、パンを買い、誰かを待ち、急ぎ足で角を曲がる。
歴史の中の人たちではない。
生きている人たちだった。
そのことに気づくと、少し胸が詰まった。
私は角を曲がった。
人通りが少し減った。
まずいかな、と思った時だった。
「お嬢さん」
後ろから声をかけられた。
柔らかい声だった。
私は振り返った。
男が立っていた。
中年の男。
よく仕立てられたコート。
丸い眼鏡。
口元には笑みがある。
笑っているのに、目があまり笑っていない。
「ひとりかね」
私は一瞬で警戒した。
前世の経験が告げている。
これは面倒なタイプのおじさんだ。
「違います」
私は即答した。
「待ち合わせです」
「そうか」
男は少しも引かなかった。
「では、その相手が来るまで、温かいものでもどうかな」
「結構です」
「遠慮しなくていい」
「遠慮ではなく、不要です」
自分でも驚くほどきっぱり言えた。
えらい。
前世の防犯教育が、ソ連の街角で役に立っている。
男は笑った。
「気の強い娘だ」
その言い方が嫌だった。
気の強い。
娘。
まるで私が、すでにこの男の会話の中に閉じ込められているような言い方だった。
私は一歩下がった。
「失礼します」
「待ちなさい」
男が距離を詰めた。
近い。
近い近い近い。
この時代にもこういう人いるんだ。
いや、いるに決まっている。
時代が変わっても、しつこいおじさんは絶滅しない。
人類史、そこは進歩が遅い。
私は内心で顔をしかめた。
しかも、この感じ。
現代日本で言うところの、あれだ。
パパ活おじさん。
ソ連にもパパ活ってあるの?
いや、さすがに制度名は違うだろうけど、構造はだいたい同じなのでは。
お金とか権力とか車とか食事とかで、若い女の子をどうにかしようとするやつ。
だめだ。
それはだめ。
そもそも私は父親だけで間に合っている。
父親がスターリンなので、パパの圧が過剰供給である。
これ以上パパはいらない。
「そういうのは、良くないと思います」
私は真顔で言った。
男が一瞬、きょとんとした。
「そういうの?」
「若い女の子に声をかけて、食事に誘うやつです」
男は、ゆっくり笑った。
今度の笑いは、さっきより嫌だった。
「君は面白いことを言う」
「面白くありません」
「名前は?」
「言いません」
「どこに住んでいる」
「言いません」
「家は近いのか」
「言いません」
「ずいぶん警戒する」
「警戒されるようなことをしているからです」
言ってから、少しだけまずいと思った。
男の顔から、笑みが消えた。
ほんの一瞬だった。
でも、空気が変わった。
寒さとは別の冷たさが、首筋に触れた。
この人は、断られ慣れていない。
私はそう直感した。
普通のしつこい男ではない。
しつこいだけなら、まだいい。
この男は、自分が拒絶されることを想定していない。
拒絶された時に、自分の中で何かを調整するのではなく、相手の方を壊して合わせようとするタイプだ。
まずい。
本当にまずい。
私は身を翻した。
「失礼します」
早足で歩き出す。
背後から、男の声がした。
「待ちなさい」
待つわけがない。
私は歩く速度を上げた。
角を曲がる。
人通りの多い方へ出よう。
とにかく明るい場所。
人のいる場所。
店のある場所。
前世の防犯知識が、頭の中でやたら冷静に指示を出している。
走るな。
目立つな。
でも止まるな。
後ろを見るな。
いや、少しは見ろ。
どっちだ。
私は結局、振り返らなかった。
その時、手首をつかまれた。
「きゃっ」
声が出た。
男の手だった。
手袋越しでも分かるくらい、強い力。
「騒ぐな」
低い声。
さっきまでの柔らかさはなかった。
私は一瞬、頭が真っ白になった。
でも次の瞬間、私は思い切り足を踏んだ。
男の足を。
前世で見た護身術動画。
本当に役に立つのか疑っていたけど、役に立った。
男が呻いた。
手が緩む。
私はその隙に、手首を引き抜いた。
そして走った。
全力で。
帽子がずれた。
布がほどけた。
髪が少し出た。
でも、そんなことを気にしている場合ではない。
角を曲がる。
雪で足が滑る。
転びそうになる。
それでも走る。
心臓が痛い。
息が白い。
背後から何か声が聞こえた気がしたけれど、振り返らなかった。
大通りに出ると、見覚えのある黒い車が止まっていた。
まずい。
護衛だ。
終わった。
自由時間、十五分。
短すぎる。
私が固まった瞬間、車のそばにいた男がこちらを見た。
顔色が変わった。
「スヴェトラーナ様!」
様をつけるな。
外で。
私は心の中で叫んだ。
護衛が駆け寄ってくる。
もう一人も車から降りる。
その顔には、怒りよりも恐怖があった。
私が無事でよかった、という顔ではない。
私を見失ったことが露見したら、自分が終わる、という顔だった。
申し訳ない。
でもこっちも命がけだった。
「すぐにお車へ」
「待って、後ろに変な人が」
私が振り返ると、男は少し離れた場所に立っていた。
追っては来ていなかった。
ただ、こちらを見ていた。
丸い眼鏡の奥の目が、細くなっている。
護衛の一人が、その男を見た。
そして、明らかに固まった。
表情から血の気が引いた。
え。
知り合い?
私は護衛を見上げた。
「知ってる人?」
護衛は答えなかった。
答えられない、という顔をしていた。
男は足元の雪を軽く払った。
それから、何事もなかったようにコートの襟を直した。
その動きが、妙に落ち着いていた。
普通の変質者なら、護衛を見て逃げる。
でもこの男は逃げない。
むしろ、こちらを観察している。
私が誰なのかを、今、理解しようとしている。
いや。
もしかすると、理解したのかもしれない。
男の口元に、薄い笑みが戻った。
私は背筋が冷たくなった。
護衛が私の前に立った。
「お車へ」
今度は逆らわなかった。
私は車に乗り込んだ。
扉が閉まる直前、もう一度だけ男が見えた。
彼は帽子を取らなかった。
頭も下げなかった。
ただ、こちらを見ていた。
まるで、新しい書類の題名を思いついた人のように。
車が動き出す。
私は座席に深く沈み込んだ。
手首がまだ痛い。
心臓がうるさい。
最悪だった。
変装外出、初回にして終了。
もう二度としない。
たぶん。
「今の人、誰?」
私は小さく聞いた。
護衛は答えなかった。
運転手も何も言わない。
車内の空気が、急に重くなった。
しばらくして、助手席の護衛が低い声で言った。
「お忘れください」
忘れられるわけがない。
そう思ったけれど、言えなかった。
窓の外で、モスクワの街が流れていく。
雪。
黒い車。
灰色の建物。
歩く人々。
私は手首を押さえながら、もう一度だけ後ろを見た。
あの男の姿は、もう見えなかった。
でも、車内の沈黙だけが残っていた。
家に戻ったら、父に怒られるだろう。
それだけで済めばいい。
本当に、それだけで済めばいい。
その時の私は、まだ知らなかった。
あの丸い眼鏡の男の名前を。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その夜、私は父に怒られた。
怒られた、というより、静かに見られた。
父は書斎にいた。
大きな机。
山のような書類。
灰皿。
煙草の匂い。
窓の外には雪が降っている。
「外に出たそうだな」
父は書類から目を上げずに言った。
私は椅子の上で背筋を伸ばした。
「……少しだけ」
「護衛をまいた」
「まいたというか、結果的に」
「同じことだ」
反論できなかった。
父はペンを置いた。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「怖い目に遭ったか」
私は黙った。
正直に言うと、怖かった。
かなり怖かった。
変な男に声をかけられて、手首をつかまれた。
前世なら、警察案件である。
この世界にも警察はある。
問題は、その警察が、こちらに向かってくるのか、相手に向かっていくのか、よく分からないことだ。
私は小さく答えた。
「少し」
父の目が、そこで初めて私を見た。
暗い目だった。
怒っている。
でも、私に怒っているのではない。
たぶん。
「誰だった」
「知りません」
「顔は見たか」
「はい」
「何をされた」
「声をかけられて、食事に誘われて、断ったらしつこくて……手をつかまれました」
書斎の空気が止まった。
本当に、止まった気がした。
父は何も言わなかった。
ただ、机の上に置いた指を、ゆっくり一度だけ動かした。
それだけだった。
なのに、部屋の隅に立っていた男の顔色が変わった。
この家の人たちは、父の小さな動きに敏感すぎる。
犬より敏感だ。
いや、犬に失礼かもしれない。
父は静かに言った。
「手首を」
「はい」
「どちらの手だ」
「右です」
父は私の右手を見た。
私は袖で隠そうとした。
手首には、うっすら赤い跡が残っていた。
しまった。
見られた。
父の顔は変わらなかった。
でも、変わらないことが、逆に怖かった。
「もう外には出るな」
「……はい」
今回は反論しなかった。
というか、できなかった。
父は再び書類に視線を落とした。
「部屋に戻りなさい」
「はい」
私は立ち上がった。
扉の前で、ふと振り返った。
「お父さん」
「何だ」
「その人に、あまり大げさなことはしないでください」
父は顔を上げた。
「大げさなこと?」
「たぶん、ただの変な人なので」
言ってから、私は少し後悔した。
ただの変な人。
この国では、たぶん一番危ない分類かもしれない。
父は私を見ていた。
しばらくして、静かに言った。
「心配しなくていい」
それは、安心させるための言葉のはずだった。
でも私は、少しも安心できなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ラヴレンチー・ベリヤは、その少女の名を知った瞬間、椅子から立ち上がった。
部屋には、まだ部下が一人いた。
報告書を持っている。
顔色が悪い。
それは当然だった。
報告している内容が悪すぎる。
「もう一度言え」
ベリヤは低く言った。
部下は唇を湿らせた。
「本日、市内で接触した少女は……スヴェトラーナ・ヨシフォヴナ・スターリナ。同志スターリンのご息女である可能性が極めて高いと」
ベリヤは笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ、ゆっくりと眼鏡を外した。
机の上に置く。
その指先が、ほんのわずかに震えていた。
「可能性ではない」
部下は答えなかった。
「護衛がいた。車もいた。名前を呼んだ」
ベリヤは独り言のように言った。
「スヴェトラーナ様、と」
部下は黙っていた。
部屋の中に沈黙が落ちた。
ベリヤは、その沈黙の中で計算していた。
少女。
変装。
街。
接触。
拒絶。
手首。
護衛。
目撃者。
そのすべてが、最悪の順番で並んでいる。
ただの少女なら問題はなかった。
いや、問題ではある。
だが、処理できる問題だった。
証言者を消す。
記録を直す。
相手の素性を変える。
よくあることだ。
この国では、真実はしばしば書類の後ろを歩く。
だが、今回は違う。
相手はスターリンの娘だった。
よりによって。
この国で最も触れてはならないものに、彼は手を伸ばした。
それも、自分から。
「誰に漏れた」
「護衛が内務人民委員部の連絡線を通じて――」
「誰に漏れたと聞いている」
部下は喉を鳴らした。
「おそらく、すでに上へ」
上。
その一文字で十分だった。
ベリヤは机の上の書類を見た。
山のような報告。
密告。
配置表。
監視記録。
自分はこれまで、その紙の山を使って他人を動かしてきた。
昇進させ、落とし、黙らせ、消してきた。
だが今、その紙のどこかに、自分の名前が書かれようとしている。
いや。
もう書かれているのかもしれない。
ベリヤは眼鏡をかけ直した。
「車を用意しろ」
「どちらへ」
「ダーチャだ」
部下が一瞬、目を上げた。
「今からですか」
「今すぐだ」
遠くへ。
いったん離れる。
理由はいくらでも作れる。
地方視察。
病気。
緊急案件。
時間を稼ぐ。
同志スターリンの怒りは、正面から受けるものではない。
避ける。
逸らす。
別の敵を差し出す。
そうやって生きてきた。
ベリヤはコートを取った。
その時だった。
扉が叩かれた。
強くはない。
むしろ、丁寧だった。
だが、その音を聞いた瞬間、部下の顔が紙のように白くなった。
「入れ」
扉が開いた。
男が二人、立っていた。
どちらも軍服ではない。
しかし、軍服よりも悪い。
彼らは名乗らなかった。
名乗る必要がなかった。
片方の男が短く言った。
「同志ベリヤ。お越しください」
ベリヤは、ほんの一秒だけ沈黙した。
「今は立て込んでいる」
「同志スターリンがお待ちです」
部屋の温度が下がった。
ベリヤは部下を見た。
部下は視線を伏せていた。
もう誰も彼の味方ではなかった。
あるいは、最初から味方などいなかった。
ベリヤは笑みを作った。
「もちろんだ」
声は落ち着いていた。
見事なほどに。
だが、コートの袖に通す手は、少しだけ遅れた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
同志スターリンの書斎は、夜になっても明るかった。
机の上には書類がある。
灰皿には吸い殻がある。
壁には地図がある。
そして、その中央に同志スターリンがいた。
ベリヤは部屋に入ると、いつものように姿勢を正した。
「同志スターリン」
同志スターリンは返事をしなかった。
椅子に座ったまま、手元の書類を読んでいた。
しばらく、紙をめくる音だけがした。
ベリヤは立ったままだった。
背中に汗が流れる。
それでも表情は崩さなかった。
この部屋で怯えを見せることは、自分で自分の墓標を書くようなものだ。
同志スターリンは、ようやく顔を上げた。
「外へ出ようとしていたな」
ベリヤは一瞬だけ息を止めた。
「地方の件で、確認すべきことが」
「夜にか」
「緊急の報告がありまして」
「そうか」
同志スターリンはうなずいた。
信じたようには見えなかった。
信じていないとも言わなかった。
それが一番怖かった。
机の上に、一枚の紙が置かれていた。
ベリヤは、その紙を見た。
自分の名前があった。
その下に、今日の日付。
そして、スヴェトラーナの名。
ベリヤは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「同志スターリン」
彼は声を整えた。
「誤解があります」
同志スターリンは何も言わない。
「私は、その少女がどなたであるかを知りませんでした」
まだ何も言わない。
「街で偶然、見かけただけです。変装しており、護衛も離れていた。私は――」
「手をつかんだ」
ベリヤの言葉が止まった。
同志スターリンの声は低かった。
怒鳴ってはいない。
むしろ静かだった。
「私の娘の手をつかんだ」
ベリヤはすぐに頭を下げた。
「知らなかったのです」
「知らなかった」
「はい」
「誰の娘でなければ、つかんでもよかったのか」
ベリヤは答えられなかった。
答えてはいけない問いだった。
同志スターリンは椅子から立ち上がらなかった。
ただ、机の向こうからベリヤを見ていた。
「君の献身には感謝している」
その言葉に、ベリヤの背筋が冷えた。
感謝。
この部屋で、それは救済の言葉ではなかった。
清算の言葉だった。
「君はよく働いた」
同志スターリンは続けた。
「党のために。国家のために。私のために」
ベリヤは頭を下げたまま言った。
「光栄です」
「君の行っていることにも、目を瞑ってきた」
その瞬間、ベリヤは顔を上げた。
同志スターリンの目は、少しも揺れていなかった。
「報告は来ている」
ベリヤは唇を開いた。
「同志スターリン、それは敵の中傷です」
「そういうことにしてきた」
同志スターリンは静かに言った。
「今日までは」
沈黙。
短い沈黙だった。
だが、ベリヤにはその間に、自分の人生が一度すべて燃え尽きたように感じられた。
「今日までだ」
同志スターリンは言った。
それだけだった。
命令らしい命令ですらなかった。
しかし、扉のそばに立っていた男たちが動いた。
ベリヤは一歩下がった。
「同志スターリン」
声が少しだけ乱れた。
「私は知らなかった。本当に知らなかったのです」
同志スターリンは灰皿に煙草を押しつけた。
「知らなかったことは、罪を軽くしない」
「私はあなたに尽くしてきました」
「だから、ここまで来られた」
「今後も尽くします」
「今後はない」
その言葉で、ベリヤの顔から色が消えた。
男たちが両腕を取った。
ベリヤは抵抗しなかった。
いや、できなかった。
この部屋では、抵抗という行為そのものが滑稽だった。
彼は最後にもう一度、同志スターリンを見た。
「同志スターリン」
同志スターリンはもう彼を見ていなかった。
机の上の別の書類に視線を落としていた。
まるで、用の済んだ紙を脇へ寄せた後のように。
扉が開く。
ベリヤは連れて行かれた。
廊下に足音が響いた。
やがて、それも聞こえなくなった。
書斎には、また紙をめくる音だけが残った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝、私は食卓でパンをかじっていた。
手首の赤みは、少しだけ薄くなっていた。
父はいつも通り新聞を読んでいる。
私はちらちらと父を見た。
昨日のことを聞きたい。
でも、聞きたくない。
聞いたら、何か大げさな話になりそうだった。
あの丸眼鏡の男の人は、どうなったのだろう。
怒られたのだろうか。
たぶん偉い人なのだろう。
偉い人なら、お父さんから一言注意されて終わりだろうか。
それとも、私に近づかないよう言われたのだろうか。
まあ、それくらいならいい。
しつこかったし。
手首もつかまれたし。
普通に反省してほしい。
私はスープを一口飲んでから、小さく聞いた。
「昨日の人……もう、私に近づいてきませんよね」
父は新聞から目を上げなかった。
「近づかない」
短い答えだった。
私はほっとした。
「よかった」
父は何も言わない。
新聞をめくる音だけがした。
私はパンをもう一口食べた。
少し焦げていたけれど、温かかった。
それにしても。
最近、私の周りでは男の人がよくいなくなる。
図書館のアレクセイ。
廊下のセルゲイ。
食卓の給仕の青年。
そして、昨日の丸眼鏡のおじさん。
偶然にしては多い。
多いけれど、たぶん偶然だ。
この国は広い。
人事異動も多い。
それに、父は私を心配しすぎるところがある。
きっと、私に変な人が近づかないように、少し厳しく注意したのだろう。
少し。
たぶん、少し。
「スヴェータ」
父が言った。
「はい」
「知らない男とは話すな」
私は小さく頷いた。
「はい」
父はそれ以上、何も言わなかった。
私も何も聞かなかった。
窓の外では雪が降っている。
白く、静かに。
昨日の足跡を、全部隠してしまうみたいに。
私はスープを飲みながら思った。
昨日の人、ちゃんと反省してるといいな。
そして、できればもう二度と、私の前に現れないでほしい。
父は新聞を読んでいる。
その朝の新聞には、昨日の男のことは何も載っていなかった。
もちろん、それは当たり前だった。
私は、あの人の名前さえ知らなかったのだから。