自分の弱さを隠す藤田ことねPのお話です。

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第1話

 朝、スマホの目覚ましより5分早く目が覚める。これは慣れたこと。インスタントのコーヒーに水道水をそのまま注ぐ。換気扇の下で煙草に火を点ける。一服吸い終わると、コーヒーが水に溶けて飲めるようになっている。ズボラだろうか、人に見せない部分なんてこんなもんでいい。

 

 いつものルーティンをこなしていく内に、頭が覚めてくるのを感じる。大丈夫、昨晩の酒は残っていない。

 

 繰り返しが悪いことだとは思わない。決まりきったことは頭を使わなくていいから。朝飯は米をレンジで温め、卵かけご飯で済ます。これもいつものこと。

 

 ヒゲを剃り、スーツに着替える。P科がスーツで良かったと心から思う。毎日私服を選ぶなんて面倒くさいことこの上ない。最後に煙草をもう一本、名残惜しいが日中はアイドルの前だ。多感な時期の高校生、何を考えるかわからない。

 

 結局のところ、俺は彼女の考えなんて全てがわかるわけではないのだろうな。人と人、ある程度先読みは出来たって、それでもわからないことの方が多いに決まっている。

 

 それでも俺はやらないといけない。それが多分、彼女が求めているものだから。彼女がファンの前で演じるのなら、俺は彼女の前で演技を行う。

 

 今日も俺は完璧のふりをする。

 

 通勤のバスでは現代人らしく、イヤホンで周囲の世界から遮断されたふりをする。耳から入り込むのは、激しいリズムの洋楽だった。学がないから歌詞なんてわからず、ボーカルのがなるような歌声も楽器の一つと認識している。

 

 煩い音が雑念を飛ばし、ただただ自分の思考に集中することが出来た。今後の手段、頭の中でシミュレートを行う。最善と最悪を考えて、それぞれ対処法を挙げていく。スマホのメモ帳にいくつかメモをすると、学園に近づいてきたことが周りの景色からわかった。

 

 今日は随分と集中していたようだ、体感での時間の進みが早い。彼女について考えなければいけないことはまだまだ山積みだというのに。

 

 イヤホンは外さないまま、運転手に会釈をして下車をすると、事務所の代わりに使っている教室に向かう。授業が始まるまでは時間潰しがてら入り浸っているものだ。

 

 P科は学生なんて括りだが、実際はサラリーマンに近いものがある。同級生は同業他社で、仲間意識こそ生まれても、そこに友情が育まれるなんてことはなかった。そんな夢のキャンパスライフなんて気にするくらいならばそこら辺の大学に行った方がいいだろう。

 

 あくまで話は情報共有に過ぎない、そもそも年齢も目的もバラバラなのだ。青田買いでプロダクションから出向している生徒もいる。

 

 そんなものだ、講義室で仲良く談笑するなんて選ぶくらいならば、教室でPCとにらめっこしている方が健全だ。メールの確認、未読のそれらの送信時間を見て、この人らは果たして寝ているのだろうかと他人事ながら心配になる。

 

 目を通せば良いもの、返事が必要なものに分けていくと、返せるものから返していく。5分もせずにまた返ってきたメールから、相手は多分サイボーグか何かなことを確信する。今度の差し入れは食べ物よりオイルとかの方が喜ばれるかもしれない。

 

「おっはよーございまーす!」元気な声に目を向けると、ようやく俺はイヤホンを外す。「おはようございます」担当アイドル、藤田ことねに挨拶を返した。

 

 胸のあたりまで伸びる、手入れされた三編み。小さい鼻にぷっくらとした唇。どこに触れても柔らかそうな、そして力を込めたら折れてしまいそうな。そんな女の子。世界一可愛いを自称していても、それが嫌味にならないくらいには存在感のある子だった。

 

 入学して、リストを見た時この子だと思った。一目惚れ、そう表現するのが正しいと直感している。正直、どうしていままで評価されていなかったのか、不思議でならない。

 

 運命、なんて陳腐な言葉で表現してみようか。彼女は俺に出会うために雌伏を続けていた。そんなわけあるまい。そんな夢見がちな少女のような言葉で誤魔化されるわけがない。

 

 言ってしまえば彼女の自己管理能力の不足、そして自己肯定感の低さから来る遠慮。アイドルの顔色が悪いなんて言語道断だ。

 

 だからこそ問題の解決は簡単だった。少しの休養と、称賛の言葉を掛けるだけで良かった。彼女の自信をつけさせるために、より簡単なオーディション、彼女の実力ならば受ける必要がないそれらを受けさせて自己肯定感を上げていった。

 

 俺がすごいわけではない、ただ背中を押し、道の石を取り除いてあげただけだ。そう表現すると、確かに事を成した気になるが、自己の能力を過信しないよう気を張る。結局のところP科での評価は彼女自身の努力の表れであり、俺には関係がない。

 

 タイミングが良かったのだろう。その言葉に尽きる。ある日、藤田さんのプロデュースをしているととある人物が教室を訪ねた来た。

 

 十王星南。

 

 現役の一番星が俺に何の用だと警戒したものだ。彼女がそこにいるだけで場の空気が引き締まるのを感じる。オーラと呼ぶべきか、圧倒的な存在感を纏っている。凡人の俺とは一線を画す人物であることをすぐに理解した。

 

 シワ一つない制服の着こなし、指先まで完璧にコントロールされた所作。彼女が歩くたび、ローファーが床を叩く硬い音が、静まり返った室内で秒針のように規則正しく響いた。

 

「ことねのプロデュース、順調のようね」

 

 鈴の音のように澄んでいるはずの声が、今の俺には鼓膜を撫でる冷たい刃のように感じられた。毛穴が引き締まり、逆立つことでわかった。俺は怯えているのだ。

 

「私も、彼女の潜在能力には以前から目を付けていたわ。良ければ、私も協力させてもらえないかしら」

 

 彼女と話すと、心臓が早鐘を打つ。彼女の目線で冷や汗がじわりと背中に滲むのを感じる。怖かったのだ、自分の無能さがバレることが。それが他人でも、なにより藤田さんにも。

 

 俺以外でも藤田さんの才能を開花させられていた、俺の関与など不要であったこと。それが露呈することをなによりも怖かった。

 

 教室の換気扇が回る低い唸り声が、急に耳障りなほど大きく聞こえ始めた。嗚呼、煩い。彼女と目が合う。射抜くような、それでいてすべてを見透かすような黄金の双眸。

 

「⋯⋯いえ。お気持ちだけ、受け取っておきます」

 

 自分の声が、ひどく掠れて、情けなく響いた。拒絶の言葉を吐き出した瞬間、喉の奥がカラカラに乾いていることに気づく。

 

 独りよがりの意見だとは思う。それでもなによりも藤田さんが俺から離れていく、その可能性を生み出してしまうこと自体に俺が耐えきれなかった。

 

 そこから先は良く覚えていない。確か残念がるような言葉と、もう一度来るという死刑宣告。彼女の完璧な存在を前にして、俺の「無能さ」という泥が、足元からじわじわと溢れ出してくるような恐怖。いつか足を取られて、俺だけ置いていかれるのではないだろうか。

 

「プロデューサーっていつもイヤホンしてますけれど、何を聴いているんですか?」

 

「ええと⋯⋯」言葉に詰まる。別にやましいことは無いと正直に伝えても良いかもしれない。だけれども、藤田さんの期待したような目が俺を見ていた。純粋な少女のそれは、俺には眩しかった。

 

 自分を正直に明かすことがとてつもなく恥ずかしいことのように思えて、咄嗟に「世界一可愛い私」ですよと嘘をついた。

 

「えぇー!あたしの曲ですか〜! も〜プロデューサーってばあたしのことしゅきすぎ〜!」

 

「プロデュースのプランを考えながら聴いています」

 

 そうやってまた嘘をついた。必要のない嘘は、息をするような癖になっていた。窒息しそうだから呼吸音に欺瞞を乗せていた。

 

 より藤田さんに好かれるため、彼女の喜ぶであろう回答を返し続ける。ハリボテのように重ねた嘘で本当の自分がわからなくなっている。

 

「プロデューサーって最近眠れてますか?」

 

 不意に藤田さんが尋ねてきた。なにかを探るような目をしている。見透かされているようで、ドッドッドッと心臓が痛くなる。周囲の色がふと消えた感覚に襲われる。酸素が足りない。白黒の視界の中、俺は笑うことが出来ていただろうか。

 

 頭に強制的に血を回し、考えを巡らせる。心配を掛けるわけにはいかないと願う気持ちは彼女のためか、はたまた俺のためか。

 

「ええ、それはもうぐっすりと。藤田さんの『N.I.A』の順位も順調に上がっていますしね」

 

 いくつかの事務的なやり取りの後に予鈴の音に救われた。開放感と、疲労感。このやりとりを後何度続けるのだろうか。教室に向かう彼女の足音が聞こえなくなってから、ようやく息を吐くことが出来た。ため息で幸せが逃げていくのならば、俺にはもう残ってもいないだろう。

 

 彼女と出会えたことが最大限の幸福ならば、あとは転がり落ちる以外の選択肢がないのかもしれない。

 

 

 

 放課後。俺はレッスン室の隅に立ち、藤田さんのレッスンを見守っていた。壁一面の巨大な鏡は、西日の差し込む室内を無機質に反射している。

 

 次のオーディションで行うファンサについて。彼女のファンサは個人で身につけたものにも関わらず、高いレベルで行われている。俺が口出すことは何もないだろう。

 

 ビジュアルトレーナーの指示で藤田さんがくるりと旋回してこちらを向く。鏡越しの光を背負って、彼女の頬に伝う汗がキラリと光った。そう、意識した所に笑顔を見せることが可能なのだ。それが今レッスン室の隅に立っている俺にも。

 

 ドク、と心臓が跳ねる。彼女の笑顔は、タネも仕掛けも知っている俺にすら「自分だけが特別なのではないか」と錯覚させる。その光があまりにも眩しすぎて、網膜が焼けるような痛みを感じ、俺はわずかに目を細めた。

 

 幸せを与えるはずのアイドルと、影に沈んでいくプロデューサー。鏡の中に映る二人の不釣り合いな輪郭が、鋭いトゲとなって胸に突き刺さる。

 

 直後、感想を求められた。何と答えるのが正しいのか。事象には目を向けず正解を紡げば良いだけだ。ずっとやってきたことだろう、何を今更躊躇をする必要がある。喉の奥から出た声は、自分でも驚くほど滑らかで、それでいてひどく空虚に響いた。

 

「藤田さんの笑顔が俺に向けられたのを感じました。やはり藤田さんは最高のアイドルです」

「本当ですか! うへへ、プロデューサーに褒められて困っちゃうな〜!」

 

 喜ぶ彼女を見て、胸を撫で下ろす。どうやら今回も間違えずに選ぶことが出来たようだ。

 

「プロデューサーちゃん、あなた随分と気障なのね。今の言葉、ことねちゃんの目を見て言える?」

 

 トレーナーからの問いかけ、呆れたような、それにしては温度が低いような。多分、心当たりのある俺にだけわかるように責めている。

 

 わかっているのだろう。俺が藤田さんの瞳を直視できず、逃げるように足元のフローリングの継ぎ目ばかりを追っていることを。

 

 彼女は現在に至るまでに、数多の数のアイドルを見送った。そして、それに付随するように、見てしまったのだろう。凡人のプロデューサーの末路を。

 

 泥が溢れて足を引っ張る。だけれども、藤田さんに見限られることになっても。だが、いい。見限られるのが「今」でないのなら、俺はどんな泥にでも浸かってやる。

 

 藤田ことねがアイドルならば、俺はそれに応える偶像だ。

 

 俺はゆっくりと顔を上げた。レッスン室の鏡の中。見たくもない自分と目が合わないよう、意識を無理やり彼女の瞳へと固定する。

 

「藤田さんの笑顔が俺に向けられたのを感じました。やはり藤田さんは最高のアイドルです」

 

 それまで無邪気に笑っていた藤田さんが、唐突に言葉を失う。彼女の首筋に浮いた汗が、夕陽を浴びて赤く染まった。 彼女は顔を真っ赤に染め、たまらず俺から視線を逸らした。

 

「うーん、二人が納得しているならいっか。じゃあことねちゃん、応援しているわよ!」

「はい、この調子で『N.I.A』も頑張ります!」

 

 トレーナーは呆れたように肩をすくめ、二度とこちらを見ようとはしなかった。本当に俺は正解を選べていたのだろうか?

 

 

 

「ただいま」

 

 返事が返ってこないことは知っていながらも、帰宅を告げる。実家に居た頃に身に着けた常識は未だに俺にも身に付いていた。誰からも応えて貰えないことに一抹の寂しさを感じてしまうので、これはしない方が良いのかもしれない。

 

 ネクタイを緩め、ハンガーにスーツを掛ける。これは独り暮らしをしてから身に着けた常識。外面を気にする必要のある立場にいるからこそ、スーツのシワなんて些細なことで信用を失いたくはない。

 

 鎧を脱ぎ捨てた後は、少しだけ人間に戻った気がする。そのまま洗面所に向かい、日課にしている儀式を行う。煌々と光るLEDが不釣り合いに俺の顔を照らす。

 

「お前は誰だ。お前は藤田ことねのプロデューサーだ」

 

 鏡に向かって三回唱える。鏡に映った顔は、自分のことながらお世辞にも健康的とは言い難かった。それでも、そこには腹を決めた男の顔があった。

 

 1Kの自分の城。換気扇の下で煙草に火を点ける。依存性の快楽物質はすべからく脳に到達して、現実と虚構を曖昧にする。この瞬間だけが生きていることを実感することが出来る。蓋付きの缶コーヒーは飲んで良し、灰皿にして良し。肺に落ち込んでくる煙は、違和感を残すことなく俺に馴染んだ。

 

 慢性的に頭が重いが、今日は痛みも感じる。身体は気怠い、常に嫌な気が纏わりついてくるような感覚がある。藤田さんにバレていたのは想定外だった。隠さないといけない。そんな俺は偶像の俺じゃない。

 

 泥が膝の辺りまで来ている気配がする。動くのも億劫だが、なにかを食べないといけない。値引きされていたコンビニ弁当を温めずにかき込む。味はさほど重要ではない。カロリーが取れれば身体を動かすことが出来る。人間がそれで動くのならば、ガソリンでも良かっただろう。

 

 夜は嫌いだ。余計な思考が澱のように沈殿するから。このまま横になっても寝付くことが出来ないだろう。いつものことだ。痛む頭で最悪の事態を想像し続けることになる。夜はどうしてこうも長いのだろうか。

 

 睡眠薬は嫌いだ。そういった薬に頼ることが弱い証拠であり、正常ではない証になる。「大丈夫、俺は違う」口に出して確かめると、折れかけた思考が形を取り戻す。

 

 冷蔵庫から安いウィスキーを取り出す。コップに注ぎそのまま飲み干すと、吐き気、その後に喉元に熱が襲ってくる。胃の中から戻ってきそうになるそれを、ゆっくりと目を閉じて落ち着ける。好きなわけではない。一番手っ取り早いからこれにしているだけだ。

 

 思考が鈍化してきた。喉の熱が全身に行き渡ったのを確認してから煙草に火を点ける。今の状態をより確実にするために。嗜好品というよりは、今の俺には必需品だろう。色の薄い煙が換気扇に吸い込まれていく様をゆっくり眺める。

 

 肺に溜まった嘘もこのまま吸い出してくれる錯覚があった。その代わり俺という存在も薄くなるような感覚もあった。

 

 今日もたくさんのやらかしがあったが、それらを直視していたら保たないだろう。今は前だけを見て、やるべきことだけを考えろ。俺は藤田ことねのプロデューサーだ。それ以外に必要なものなどない。

 

 俺の努力とは無関係に藤田さんは評価されている。『N.I.A』のランキングが上昇を続けているのがその証明だろう。俺は間違ってなどいない。このまま変わる必要などない。現状維持、それだけで十分なはずだ。

 

 根元まで吸いきった煙草を灰皿に入れると、火災防止のため蓋を閉める。酸素がないから燃えることが出来ない、なんて皮肉のように思えて蓋を開けると、燻った煙が異臭を出して目に染みる。不快感を覚えて再び蓋を閉める。無駄なことやってるな。

 

 ベッドに潜り込む、思考はブレるが眠気はやってこない。もう一度アルコールを入れるか考えるが、明日に響く。中途半端な酔いが頭痛を酷くし、後悔だけを加速させる。

 

 目を閉じる。ゆっくりと思考を切り分ける。余計なことは考えないように、空洞で頭を満たすように。消し忘れた換気扇の音が妨害をするけれど、動く気力もなくてそのままにした。

 

 まだ意識は落ちない、輪郭のあるそれがずっと邪魔だった。

 

 

 

 放課後、一人教室で作業をしていると、ノックの音で扉に目を向ける。藤田さんならばしないだろうし、一体誰が。そんな疑問抱くもすぐに解決する。

 

「ことねのプロデュースについて話したい件があるわ」

 

 十王星南の訪れはいつも唐突だ。覚悟の準備も与えてくれない。

 

「失礼するわね」

 

 返事も待たず、彼女は堂々たる振る舞いでで室内へと入ってきた。先にいたはずの俺よりも、まるでこの教室の主じゃないかと錯覚を覚える。大凡全ての所作から迷いというものを感じない。

 

 陰気な俺を照らす光のようで、その実俺の居場所を消し飛ばしてしまうような眩しさがそこにはある。石の底にへばりついたダンゴムシのような俺には、自嘲を込めて笑う以外の選択肢など残っていなかった。

 

「⋯⋯十王、さん。何か不手際でもありましたか」

 

 乾燥した喉が、不快な音を立てて鳴る。投げやりな声は、自分でも驚くほど卑屈で濁っていた。そうだ、その瞳が嫌いなんだ。藤色の双眸は黄金の輝きを拵えて俺を貫く。清廉潔白な人間でなければ思わず怯んでしまうだろう。例に漏れず俺もだ。

 

 泥が股下まで侵食してくる。人肌のような生暖かさで不快になる。

 

 目を逸らして机の上のPCに視線を戻そうとするが、彼女の黄金の瞳が、俺の隠そうとしている「嘘」を、皮膚の上から直接暴いているようで、指先がかすかに震える。

 

 彼女は俺の目の前まで来ると、一束の資料を置いた。

 

「不手際? 逆よ。ことねの直近の成績は素晴らしいわ。オーディションの勝率も高くも、ファンの数も、確実に増えている。⋯⋯それにことねはあなたを信頼しているわ」

 

 褒められているはずなのに、胃の底から苦い液がせり上がってくる。視界の端がチカチカと点滅する。脂汗が滲んできた。

 

「それだとしても。これだけ結果が出ているのに、彼女の潜在能力に比べたら低迷していると言ってしまっても過言ではないわ」

 

 十王さんの声は、どこまでも澄んでいて、一点の曇りもない。だからこそ、その響きは鋭い。鋭利な刃物でも喉元に突きつけられている感覚に陥る。冷たいのに、不意に触れた箇所が熱い。

 

「彼女に与えている仕事は、どれも実力より一段階低いものばかり。確実に勝てる場所、傷つかない場所。あなたは彼女を『成功者』に仕立て上げているけれど、同時に『成長』の機会をすべて奪っているわ」

 

 彼女が机に手をつく。身を乗り出した彼女から、微かに香水のような、あるいは陽だまりのような匂いがした。

 

「あなたの努力はわかる。私も最近後輩をプロデュースし始めたのよ。同じ目線に立ってみて、その重圧も少しは理解したつもりだわ。それでも、ことねならもっと高く飛ぶことが出来る。あくまでアドバイスとしてだけれど、私も口出しさせて貰うことは可能かしら?」

 

 俺でも明確にわかる。これは蜘蛛の糸だ。カンダタとは違いこれを受け入れればいいだけ。蹴落とす対象もいないのならば、それだけで受ける価値があるだろう。何を迷っている。その手を取るだけでいいはずだ。

 

 だとしても、十王さんが描くその未来に、最適解を選び続けた先に。俺の姿はあるだろうか。俺がいない、俺ではない他の誰かが藤田さんをプロデュースすることが、他でもない藤田さんにとって最良の結果を導き出せるのではないだろうか。

 

 何度も何度も繰り返し自問自答してきた。その度に残酷な答えが見えてきた。俺がいなくても、藤田さんは大空に羽ばたくことが出来る。むしろ、足枷になっているのが自分自身の存在そのものじゃないか、と。

 

 だからこそ、その可能性を否定したい。俺自身が藤田さんをトップアイドルに導ける存在なのだと。それを証明したい。俺は、俺自身のために、十王さんの手を振り払った。

 

「⋯⋯ご懸念、痛み入ります。ですが、これはすべて計算の内ですよ」

 

 乾ききった喉の奥から、自分でも驚くほど滑らかな声が滑り出した。嘘を吐くことへの抵抗感は、すでに胃の腑へ流し込んで消した。震えそうになる指先を机の下に隠し、俺はゆっくりと口角を吊り上げた。完璧なプロデューサーの、完璧な「ふり」だ。

 

「藤田さんは、あなたのような『選ばれた天才』とは違う。彼女に必要なのは、急激な成長という名の劇薬ではなく、着実な成功体験の積み重ねなんです。土台が脆いまま高く飛ばせれば、いつか彼女は空中で空中分解してしまう。⋯⋯俺は、それを防いでいるに過ぎません」

「⋯⋯そう。あなたがそこまで確信を持っているなら、外野が口を出すことではないわね」

 

 彼女が踵を返し、教室の入り口へと向かう。ローファーが床を叩く規則正しい音が、俺の心臓を刻むカウントダウンのように響いた。扉に手をかけたところで、彼女は顔だけをこちらに向けた。

 

「あなたの考えは尊重する。それも間違いではないと思う。それでも、私はことねの可能性を信じたいと思ってしまう。それでは、プロデューサー。もうここに来ることはないと思うわ」

 

 パタン、と静かに扉が閉まった。その瞬間、俺を支えていた細い糸がぷつりと切れ、俺は椅子に深く沈み込んだ。去って行く十王さんに俺は何も言い返すことが出来なかった。

 

 泥がみぞおちまで登ってきて、重苦しい。圧迫感に息が出来なくなる。それでも、俺は間違っていないと信じている。いや、そう思ってもいないと俺は生きている意味などないだろう。一人になった教室には淀んだ空気と、死人のような男だけが存在する。未来なんて俺にはとっくに見えていない。

 

 

 

 しばらく動けないでいると、ノックもなしに扉が開く音がした。それならば、そこに立っている人物は一人しか考えられないだろう。気力で振り向く、身体からは油を切れた機械みたいなぎこちない音がした気がした。

 

「お疲れ様です。⋯⋯そんな所で立ち止まってどうしたんですか?」

 

 藤田さんは、教室に入ってこようともしなかった。表情が暗い。その目は今にも雨が降り出しそうだった。

 

 最悪のシナリオが頭をよぎる。それでも、俺がやることはいつもと変わらない。口角を攣ったように持ち上げて、仮面を貼り付ける。

 

「十王会長とすれ違いました。なにか話していたんですか?」

「少し、なにか俺の悪口でも言ってましたか?」

「そんなことはないです。ただ、会長が怖く感じて。でも、その目はあたしに向けられていなくて。悪いことを考えちゃったんです」

 

 そこまで話して藤田さんはようやく教室に足を踏み入れた。そのままゆっくりとこちらに歩いてくる。その足取りは覚束無い。不安定な足音は暗く、狭い教室によく馴染んだ。

 

 そのまま俺の膝にしがみつく様に、至近距離で見た顔は可愛いと言うには酷い顔をしている。俺の鏡写しみたいだ。

 

「あたし、人がいなくなることが怖くて⋯⋯、プロデューサーはいなくなりませんよね?」

「俺は藤田ことねのプロデューサーです。どこにも行きません」

 

 仮面を付けたまま微笑み返す。それでも、ここ最近では一番上手に笑えた気がした。

 

 今までは自分が藤田さんに見限られたくないだけだった。だけれど、今この瞬間からは俺の「嘘」にも意味があるものになった。

 

 藤田ことねのプロデューサーは俺だ。十王星南でもない、他の誰でもない。間違いなく俺なんだ。

 

「約束ですよ!」

「ええ⋯⋯、約束です」

 

 指切りを交わす。子供じみた、おまじないような契約。外そうとしたその一瞬、彼女は力を強めた。俺はそれに応えるようにもう一度、「約束です」と口にした。この繋がりを決して切らすことなど、何人たりとも出来ないであろう。

 

 改めて藤田さんの顔を眺める。もう雨は上がっていた。無邪気な少女の微笑みは今は俺にだけ向けられている。守らなくてはならない。失ってはならない。彼女が俺を見ているのだから。

 

 それなのに何故、泥の感触が抜けない。もう既に胸下まで登ってきている。いや、それでも良いかもしれない。俺はもう、どこにも行けないのだから。

 

 

 

「一位、白草四音。二位、藤田ことね」

 

 無情にも順位を告げる結果発表を、俺は黙って聞いていた。

 

 終わりはあまりにも呆気ないものだった。『QUARTET』で敗退、つまり藤田さんに『FINALE』の参加資格は無くなった。藤田さんの『N.I.A』がここで終わった。

 

 会場は白草四音のライブの熱狂と、白草姉妹直接対決の話題で持ちきりである。誰もが「見逃せない」と口々に言い合う中、頭の中に響く耳鳴りがそれを掻き消した。

 

 体温の低下を感じる。視界がモノクロになり、次第に端の方から黒一色に塗りつぶされていく。立っていることもままならなくなった俺は、その場に膝をついてしゃがみ込む。

 

 親切な誰かが声を掛けてきた。耳鳴りが煩くてなに言っているのか聞こえねえよ。頼むからどっか行ってくれ。人が集まってきた。いや、この場合は異質なのは俺の方だ。その場から去ろうとしても足が思うように動かない。

 

 スタッフが近づいてくるのが見えた。辞めてくれ、俺に構わないでくれ。粉々に砕け散った後も、最後に残ったプライドを掻き集めてその場から逃げ出した。

 

 藤田さんを迎えに行かなくてはいけない。藤田さんに励まさなければいけない。だって俺は藤田ことねのプロデューサーだから。それでも、藤田さんに合わせる顔なんてもう持ち合わせてはいない。仮面の在庫を探しても、俺の中には一枚たりとも残っていなかった。

 

 人のいないところを見つけては、壁に体重を預ける。またしゃがみ込んでしまったら、次は二度と立てないかもしれない。

 

 白草四音、勝てない相手ではなかった。確かに彼女は今の藤田さんにとっては格上の相手だろう。それでも、藤田さんならばひっくり返せるだけのポテンシャルはあった筈だ。

 

 あの日の十王さんの言葉が頭の中で反芻される。戦い方を教えられていなかった。実力以下の舞台で安全に育てようとした。成長の機会を奪った。いずれは『N.I.A』を勝ち進めればこうなることなんて分かりきっていたはずなのに。

 

 誰のせいだ。一体、誰のせいだ。どれだけ犯人探しをしたって、他責で擦り付けようとしたって。辿り着く答えは俺のせいだ。

 

 これが十王星南だったら、これが俺以外の有能な誰かが藤田さんをプロデュースしていたら。あの日捨て去ったはずのいくつもの『もしも』がこびり付いて離れない。藤田さんの可能性の翼を、丁寧に、一枚ずつもぎ取った先にある現在。彼女を地に堕としたのは太陽でもなく、俺自身だ。

 

 泥が頭の天辺まで埋めていく、息は出来なくなっている。暗くて、前だって見えない。

 

 俺を動かしたのは贖罪の気持ちだった。謝って楽になりたい訳では無い。それでも、俺は藤田さんに謝らないといけない。

 

 失望されるだろう。完璧じゃない俺の手の中に残ったものは何も無い。繕える仮面も持っていない。窓ガラスに写った俺は真っ黒な物体に見えた。

 

 

 

 突き動かされて向かった先、藤田さんのいる控室。扉の前に立ち、ドアノブに手を掛ける。後は捻って開くだけ、ごく単純な動作が出来ない。イップスの様に固まった手首は痙攣を繰り返すばかりで、一向に握らない。

 

 ここまで来て、何事だ。思考とは無関係に手先は自分のものでは無いように振る舞う。どれだけ大層な名分を抱いたとしても、己の中にある恐怖は無意識にブレーキを掛ける。

 

 自分に言い聞かせた所で、怖いものは怖いのだ。なにより、藤田さんに失望されるのが怖い。それはずっと抱えてきたもので、剥き出しの自分には自信がないことには変わりない。

 

「プロデューサー⋯⋯ですか?」

 

 向こうから俺を呼ぶ声がした。導かれるままに、俺は扉を開けた。意外な程に、するりと身体が動いた。

 

「えっと⋯⋯藤田さん。何と言うか⋯⋯」

「ごめんなさい!」

 

 言葉を見つけられなかった俺に対し、藤田さんから謝罪の声が聞こえた。彼女は、真っ直ぐに俺を見ていた。泣くこともせずに、気丈に振る舞っている。その震えから無理していることなんて俺にでもわかる。握りしめた拳の白さから、どれだけの力を込めているかを察する。

 

「プロデューサーが頑張ってくれたのに、期待に応えられなかったです」

 

 そうじゃないだろ。謝らないといけないのは俺の方で、むしろ責め立ててくれた方がどれだけ楽になれたことか。

 

 罪の意識が俺を苛み続ける。鋭い痛みを覚える。茨の道を進むが如く、藤田さんに朧気な足取りで近づく、棘が足に突き刺さるが、気にしてなどいられない。ふらふらと藤田さんの元に辿り着くと、ぷつりと糸が切れた。

 

 藤田さんに縋り付くように、衣装の状態を考える程の余裕なんて今の俺には無い。縋って、叫ぶ。それでも声は上手く音にならない。

 

「俺が⋯⋯、俺が藤田さんの可能性を潰したんだ。⋯⋯どうか謝らないでくれ。⋯⋯全部俺が弱いから」

「違いますよ⋯⋯、プロデューサーがここまであたしを連れてきてくれたんですから⋯⋯」

「違う⋯⋯、藤田さんの実力ならば⋯⋯。もっと高く飛べた筈なんだ⋯⋯。俺が自分のことしか考えていなかったから⋯⋯」

 

 感情のままに慟哭をした。いくつもあった道は全部俺が潰した。弱い自分でも、それでも藤田さんに謝りたかった。

 

 そこまでしても藤田さんから返ってきたものは、俺を追い詰める言葉ではなく。代わりに暖かい抱擁だった。

 

「⋯⋯ふふっ、前と逆ですね、プロデューサー」

 

 耳元で、彼女の鈴の音が鳴った。あの日、放課後の教室で、俺の膝にしがみついて「いなくならないで」と泣いた彼女。今は、情けなくも震える俺を、彼女が静かに抱き留めている。

 

「プロデューサー。あたし、今日負けて、なんだかスッキリしちゃいました」

 

 彼女の声に、熱っぽい毒が混じる。憑き物が落ちたような顔でこちらを見つめている。

 

「あたしにはもう、プロデューサーしかいなくなりました」

 

「そんなことはない」と口に出せばよかった。でも、そうしたら藤田さんが離れてしまう気がして。今はそれよりも温もりを優先した。

 

 俺が彼女の可能性を潰したのではない。俺が彼女を、俺しかいない世界へと引きずり込んだのだ。そして彼女もまた、それを望んでいたかのように俺を深く、深く、腕の中に閉じ込める。

 

「⋯⋯これからも、ずっと一緒ですよ。あたしの、プロデューサー」

 

 指切りを交わしたあの日の呪いが、完成した音がした。もう、完璧なふりをする必要もない。剥き出しの無能な俺を、彼女の温もりが全肯定していく。

 

 もう、息苦しくはなかった。泥が俺を包む。今はその暖かさが心地良い。それでも未来は見えなかった。

 

 俺は藤田ことねに沈んでいる。


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