ある死神の未来改変日記 作:夢日記
第1話
織原シュシュは、夢を見る。
それは、眠りが浅い夜に見るような、曖昧で、輪郭の溶けた夢ではなかった。色がある。音がある。匂いがある。痛みまではっきり残る。目覚めた後も、断片が頭の奥にこびりついて離れない。
黒い死覇装を着た少年が、身の丈に合わないほど大きな斬魄刀を振るっている。橙色の髪。強すぎる目つき。荒削りな霊圧。
その隣に、朽木ルキアという名の女死神がいる。白い塔。処刑台。双殛。旅禍。隊長格同士の衝突。血の匂い。叫び声。崩れていく命令系統。
そして、穏やかに笑う男。
その笑みだけは、何度見ても気味が悪かった。
「……まただ」
目を開けたシュシュは、暗い天井を見つめたまま呟いた。
隊舎の一室は静かだった。外からは、夜番の足音がかすかに聞こえる。
瀞霊廷の夜は、普段なら落ち着くものだった。整えられた道、白い壁、規則正しい巡回、遠くで揺れる灯り。けれど夢を見た後だけは、その静けさが妙に薄く感じられる。まるで、布一枚の向こう側に、何か得体の知れないものが潜んでいるようだった。
シュシュは布団から起き上がると、枕元に置いていた紙束を引き寄せた。文机まで移動する時間すら惜しい。
夢は、起きた直後が一番鮮明だった。少しでも時間が経つと、細部が崩れる。人の名前、場所の形、誰かが言った言葉、違和感の正体。それらを逃すのが、シュシュは嫌だった。
怖いからではない。いや、怖いことは怖い。だが、それ以上に、忘れることが気持ち悪かった。
意味があるのかないのかわからない。自分の頭が勝手に作った幻かもしれない。疲労が見せているだけの、悪質な夢かもしれない。それでも、あれほど鮮明なものを、ただ忘れてしまうのは落ち着かなかった。
だから書く。
夢日記。そう呼び始めたのは、いつからだったか。
最初は一枚だけだった。変な夢を見た。気味が悪い。そう書いて終わるつもりだった。
しかし、夢は一度では終わらなかった。二度目、三度目、四度目。夢は続いた。別々の場面に見えて、どこかで繋がっていた。知らない名が繰り返し出てきた。知らないはずの人物の顔を、何度も見るようになった。
気づけば紙は増え、束になり、日付ごとに整理されるようになっていた。
シュシュは筆を取り、息を整えた。
「黒い死覇装の少年。橙色の髪。斬魄刀が異様に大きい。名は……黒崎、一護」
筆先が紙を滑る。
「朽木ルキア。現世。力の譲渡。罪。連行。白い塔。処刑。双殛」
書きながら、眉間に皺が寄った。
何度見ても意味がわからない。
朽木。その姓を持つ死神は、瀞霊廷において軽い存在ではない。下級死神のシュシュでさえ、朽木家の名くらいは知っている。
六番隊隊長、朽木白哉。四大貴族。規律と誇りの象徴。
その関係者らしき女死神が、現世で力を失い、罪人として連行され、処刑される。
馬鹿げている。
夢だと考えれば、まだ納得できた。夢は現実の整合性など気にしない。知っている名前や噂を勝手に混ぜ合わせ、妙な物語に仕立てることくらいあるだろう。
だが、それにしては細かすぎる。
誰がどこで動いたのか。どの隊がどのように反応したのか。どの報告が遅れ、どの判断が後手に回ったのか。夢のくせに、嫌に筋道立っている。
そして、その筋道が気に入らなかった。
「……なぜ、ここで情報共有が止まる?」
シュシュは、紙に書きながら小さく呟いた。
夢の中の護廷十三隊は、強かった。隊長格は化け物じみていた。副隊長も、席官も、下級死神から見れば十分に遠い。個人の戦闘力だけで言えば、瀞霊廷は疑いようもなく強大な組織だった。
だが、夢の中で見た彼らの動きは、組織としては奇妙だった。
情報が遅い。連携が薄い。戦力が小出しになる。負傷者の搬送が後手に回る。敵の目的が不明なまま、各所で個人判断が先行する。何より、強者の矜持や感情が、戦術上の最適解より優先されている場面が多すぎる。
夢に文句を言っても仕方がない。そう思う一方で、シュシュの中には妙な苛立ちが残った。
夢であっても、もっとましな動き方があるはずだ。
包囲するなら包囲する。分断されるなら伝令系統を確保する。負傷者が出る前提で救護経路を整える。未知の敵が侵入したなら、個々の武勇ではなく情報の集約を優先する。
それだけで、被害はかなり変わるはずだった。
もちろん、下級死神の自分が言えることではない。現実の任務ですら、上官の指示に従う立場だ。大きな作戦の全体像など知らない。隊長格の思考など理解できるはずもない。
それでも、夢の中の惨状を見るたびに思う。
なぜ、そうなる。なぜ、そこまで悪化するまで放置する。なぜ、もっと早く動かない。
シュシュは筆を止めた。
紙面には、乱れた字が並んでいる。夢の記録というより、ほとんど文句だった。彼女は軽く額を押さえた。
「……疲れてるのかな、私」
そう考えるのが、一番まともだった。
下級死神の生活は楽ではない。任務、訓練、雑務、上官からの小言。眠りが浅くなる理由ならいくらでもある。
妙に具体的な夢も、日々の緊張と蓄積した情報が混ざった結果かもしれない。朽木の名も、隊長格の噂も、現世任務の話も、どこかで耳にしたものが勝手に組み合わさっただけ。
そう考えれば、説明はつく。完璧ではないが、少なくとも「未来を見ている」などという馬鹿げた仮説よりは、よほど現実的だった。
シュシュは紙束をまとめ、紐で縛った。
その表紙には、細い字でこう書いてある。
『夢日記 一』
続きの束には、『夢日記 二』『夢日記 三』。
すでに三冊目だった。自分でも異常だと思う。だが、捨てる気にはなれなかった。
書いておけば、頭の中から少しだけ外に出せる。忘れられなくても、少なくとも整理はできる。それだけで十分だった。
少なくとも、今は。
◇
翌朝、シュシュはいつも通り隊務に出た。
眠気は残っていたが、表情には出さない。下級死神が寝不足を理由に動きを鈍らせれば、すぐに叱責が飛ぶ。
隊舎の廊下では、同僚たちが慌ただしく行き交っていた。誰かが朝食の文句を言い、誰かが訓練の予定を確認し、誰かが昨日の任務の失敗を笑われている。
平凡な朝だった。
夢の中の血と瓦礫が嘘のように、瀞霊廷は整っていた。白い壁は白く、空は高く、道は清潔で、隊士たちはいつも通りだった。
シュシュは、その光景を見て少しだけ息を吐いた。
やはり夢だ。こんな場所が、あれほど簡単に混乱するはずがない。
そう思いたかった。
「織原」
背後から声をかけられ、シュシュは振り返った。
同期の相沢ミツルが、眠そうな顔で片手を上げている。
「今日、資料整理だってよ。昨日の現世派遣関連の報告が溜まってるらしい」
「現世派遣?」
「詳しくは知らん。上の方がばたばたしてる」
「……誰の?」
「さあ。俺らに細かい話が下りてくるわけないだろ」
ミツルは欠伸をしながら歩き出した。シュシュも隣に並ぶ。
胸の奥に、小さな引っかかりが生まれていた。
現世派遣。それ自体は珍しいものではない。死神の任務としては当然の範囲だ。虚の討伐、魂葬、霊的異常の確認。現世に関する報告など、瀞霊廷には日々上がってくる。
だから、気にする必要はない。
そう自分に言い聞かせた。
しかし、夜の夢で見た言葉が、頭の奥から離れなかった。
朽木ルキア。現世。力の譲渡。罪。
シュシュは首を横に振った。
ただの偶然だ。夢の中に現世任務が出てきた翌日に、現世派遣の資料整理を命じられた。それだけの話だ。瀞霊廷で働いていれば、その程度の重なりはいくらでもある。
そうでなければ困る。
資料室に入ると、紙の匂いがした。
整然と積まれた報告書。任務記録。伝達文書。下級死神に任されるのは、分類、転記、保管、不要分の処理。地味だが、雑にやれば上から怒られる。
シュシュは黙々と作業を始めた。
紙を確認し、日付順に並べ、隊ごとに分ける。必要なら表題を写し、欠落があれば印をつける。単調な作業は嫌いではなかった。
情報が整っていく感覚がある。混ざったものが分かれ、曖昧なものに名前がつき、後から探せる形になる。それは、彼女にとってかなり落ち着く作業だった。
だが、その手が一瞬止まった。
報告書の端に、ひとつの名があった。
朽木ルキア。
文字を見た瞬間、音が遠のいた。
周囲の紙をめくる音も、ミツルのぼやきも、廊下を歩く足音も、全部が一枚膜の向こうに行ったように感じた。
シュシュは、目だけでその文字を追った。
現世派遣。担当死神──朽木ルキア。
詳細は下級隊士が見る範囲にはない。報告書の一部に名が載っているだけだった。
それだけ。それだけのことだった。
だが、指先が冷たくなる。
「織原?」
ミツルが怪訝そうに顔を上げた。
「どうした?」
「……何でもない」
「顔色悪いぞ」
「……寝不足」
「またかよ。ちゃんと寝ろって」
「努力する」
シュシュは報告書を他の紙と同じように処理した。
特別扱いしない。凝視しない。声に出さない。自分でも驚くほど慎重に、紙を分類棚へ戻した。
心臓だけがうるさかった。
偶然だ。
まだ偶然で片づけられる。
朽木ルキアという名を、どこかで聞いたことがあったのかもしれない。下級死神の耳にも、貴族家や隊士の名が入ることはある。記憶に残っていなくても、夢に出てきただけかもしれない。
それなら説明できる。説明できるはずだった。
◇
その日の隊務を終えた後、シュシュはまっすぐ自室に戻った。
夕食に誘うミツルには、体調不良を理由に断った。実際、体調は良くなかった。胃の奥が重い。頭の中で、夢の断片が何度も再生されている。
黒い死覇装の少年。朽木ルキア。現世。罪。連行。処刑。
「……いや、違う」
部屋に入るなり、シュシュは声に出した。
違う。まだ何も起きていない。名前が一致しただけだ。現世派遣があっただけだ。それだけで、夢が現実になるなどと考える方がおかしい。
おかしいのは自分の方だ。
そう結論づけようとして、失敗した。
胸の奥で、何かが小さく鳴っている。警鐘に似ていた。
シュシュは文机の引き出しを開け、夢日記の束を取り出した。何度も読み返したせいで、端が少し傷んでいる。
彼女は、朽木ルキアの名が出てくるページを開いた。
そこには、数日前の自分の字でこう書かれていた。
『朽木ルキア。現世で何かを失う。黒崎一護という少年。力の譲渡。罪。瀞霊廷への連行。白い塔。処刑』
読み返すほどに、寒気がした。
書いた時は、意味のわからない夢の羅列だった。だが、今日、現実に「朽木ルキア」という名を見た。ただそれだけで、紙の上の文字が急に重くなる。
シュシュはすぐに日記を閉じた。
これ以上読み続けると、良くない方向に考えが沈みそうだった。
夢だ。
まだ夢だ。
彼女はそう決めた。決めなければ、まともに動けなくなる。
下級死神が、夢に出た名前と現実の報告書の名前が一致した程度で騒ぎ出せば、どうなるか。笑われるならまだいい。精神状態を疑われるか、余計な関心を持たれるか、最悪の場合、どこかの誰かに目をつけられる。
どれも得にならない。
だから、黙る。書くだけにする。今までと同じように、夢を記録するだけにする。
シュシュは新しい紙を出した。
そこに、今日の出来事を書き足す。
『現実記録。現世派遣関連資料内に朽木ルキアの名を確認。夢日記との一致。ただし、現時点では偶然の可能性が高い。判断保留』
判断保留。
その四文字を書いた瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。
結論を出さなくていい。今すぐ何かを信じる必要はない。ただ、記録する。見たものを書く。起きたことを書く。夢と現実の一致らしきものがあれば、それも書く。
それだけなら、まだ自分は正気でいられる。
シュシュは筆を置き、紙を乾かした。
窓の外では、瀞霊廷の夜が静かに広がっている。白い壁も、隊舎も、通路も、遠くの灯りも、いつも通りだった。夢のように壊れてはいない。混乱もしていない。血の匂いもしない。
だから大丈夫だ。
そう思いながら、彼女は夢日記を紐で縛り直した。
その時の織原シュシュは、まだ本気でそう思っていた。
自分が見ているものは、ただの夢だと。奇妙で、不快で、妙に筋道立っていて、何度も同じ名前が出てくるだけの、悪い夢だと。
だから彼女は、まだ何も変えない。誰にも話さない。夢に出てきた出来事を止めようとはしない。未来という言葉すら、意識の奥から追い出していた。
ただ書く。
忘れないために。頭の中に残った不気味な夢を、紙の上に追い出すために。
いつかその紙束が、自分の生活圏を守るための最初の武器になるなど、考えもしないまま。