ある死神の未来改変日記 作:夢日記
判断保留。
その四文字は、織原シュシュにとって逃げ道だった。夢を信じたわけではない。未来を見ているなどと、本気で考えたわけでもない。ただ、気味の悪い一致を、なかったことにはできなかった。
だから、判断を保留した。信じない。否定もしない。騒がない。誰にも話さない。記録だけを続ける。それが、今のシュシュにできる一番安全な処理だった。
朽木ルキアの名を現世派遣関連の資料で見つけた翌日、シュシュは普段より早く目を覚ました。眠れなかった、という方が正しい。
夢を見た。また、同じ夢だった。
現世の夜。電柱。住宅街。黒い死覇装の少女。巨大な虚。橙色の髪の少年。少女が倒れ、少年が叫ぶ。斬魄刀が胸を貫く。力が移る。
夢の中の光景は、前よりも鮮明だった。朽木ルキアという名が、ただの文字ではなく、顔と声を持ち始めていた。小柄な女死神。真面目で、少し意地っ張りそうな目。その彼女が、現世で傷つき、黒崎一護という少年に斬魄刀を突き立てる。
そして、少年は死神の力を受け取る。
あり得ない。
死神の力を人間に譲渡するなど、軽い話ではない。少なくとも、四番隊に所属する下級死神のシュシュでさえ、それが禁じられている行為だということくらいはわかる。
夢の内容が正しいなら、朽木ルキアは罪に問われる。
だが、そこでシュシュは筆を止めた。
正しいなら。
無意識に、そう考えていた。まるで夢の方を基準にして、現実を照らし合わせようとしている。それに気づいた瞬間、胃の奥が冷えた。
「違う。まだ違う」
声に出して否定する。部屋には誰もいない。それでも、言葉にしなければ不安に飲まれそうだった。
夢は夢だ。現実に朽木ルキアという死神がいることと、夢で見た朽木ルキアが罪人になることは、まったく別の話だ。名前が一致しただけで未来だと考えるのは短絡的すぎる。
だから、判断保留。
シュシュは紙にそう書き足した。
『黒崎一護。橙色の髪。現世の人間。朽木ルキアから力を受け取る。現時点で実在未確認。判断保留』
筆先が、最後の一字でわずかに乱れた。自分の手が震えていることに気づき、シュシュは小さく舌打ちした。
下級死神が、夢ひとつでここまで動揺してどうする。
任務中に顔に出せば、周囲に不審がられる。不審がられれば、説明を求められる。説明を求められれば、夢日記の存在に触れざるを得ない。それだけは避けなければならなかった。
夢の内容がただの妄想なら、笑われて終わる。夢の内容が本当に何かを示しているなら、笑われるだけでは終わらない。どちらに転んでも、得はない。
シュシュは夢日記を紐で縛り、衣装箱の底に隠した。すでに隠し場所は何度も変えている。
最初は文机の引き出しだった。だが、掃除や点検の際に見られる可能性を考え、衣装箱の底へ移した。さらに、紙束の上には古い訓練記録を重ね、外から見ればただの不要書類に見えるようにした。
そこまでする自分が滑稽だった。だが、やめる気にはなれなかった。
◇
朝の四番隊舎は、いつも通り騒がしい。眠そうな者、救護詰所へ向かう者、薬品の在庫確認に追われる者、上官から小言を受ける者。誰も彼も、昨夜のシュシュの夢など知らない。
当たり前だ。夢は彼女の頭の中にしかない。そう思うたびに、少しだけ安心する。その安心が、長続きしないこともわかっていた。
「織原、今日はまた資料室だとさ」
相沢ミツルが、廊下の向こうから声をかけてきた。
「昨日の続きですか」
「たぶんな。現世関連の報告がまだ残ってるらしい」
「……そうですか」
「何だよ、その顔」
「どんな顔ですか」
「嫌そうな顔」
「資料整理は嫌いではありません」
「じゃあ、何が嫌なんだ?」
シュシュは少しだけ黙った。
夢。朽木ルキア。黒崎一護。現世。罪。
言えるはずがない。
「寝不足です」
「またか。お前、最近ずっと寝不足じゃないか」
「自覚はあります」
「自覚があるなら寝ろ」
「寝た結果がこれです」
「どういう意味だよ」
「こちらの話です」
ミツルは訝しげに眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。彼は軽い男だが、踏み込むべきでないところを何となく察する程度の気遣いはある。その距離感が、今はありがたかった。
資料室に入ると、昨日よりも多くの書類が積まれていた。現世派遣に関するものだけではない。通信記録、伝令控え、隊ごとの確認書、補足報告。四番隊に回されるものは、負傷者の有無や救護体制に関する控えが多いが、下級隊士が扱える範囲のものとはいえ、量が多い。
シュシュは、淡々と分類を始めた。
指先が紙をめくる。日付を見る。表題を見る。隊名を見る。必要なら写す。不要なら束に分ける。作業そのものは単純だ。
だが、今日はひとつひとつの文字が目に刺さった。
現世。空座町。朽木。未帰還。異常。
それらしい単語を見つけるたびに、心臓が跳ねる。何でもない報告であってほしい。ただの虚討伐の記録であってほしい。夢とは関係ない、ありふれた任務であってほしい。
そう願いながら紙をめくる自分に、シュシュはひどく苛立った。
なぜ夢に現実の判断を揺らされているのか。馬鹿げている。だが、馬鹿げていると切り捨てるには、夢の輪郭が鮮明すぎた。
「織原」
資料室の奥から、上席の死神が声をかけた。
「この束を六番隊関連に回せ。分類だけでいい」
「はい」
受け取った書類の束を持った瞬間、シュシュの指先が固まった。
六番隊。朽木白哉。夢の中で何度も見た名が、頭の奥を通り過ぎる。
冷静になれ。六番隊関連の書類など珍しくもない。四番隊にも、他隊との連絡書類はいくらでも回ってくる。救護対象、任務報告、隊士の負傷状況、搬送記録。六番隊の名を見ない方が珍しい。
そう自分に言い聞かせ、シュシュは分類棚へ向かった。棚の前で、束の表題を確認する。
『現世派遣任務者未帰還に関する照会』
呼吸が止まった。
未帰還。朽木ルキア。現世。夢の断片が、無理やり頭の中で繋がった。
違う。まだ違う。
現世派遣の死神が予定より戻らないことはある。虚の発生状況、通信の不備、現地の霊的異常。理由はいくらでも考えられる。任務者の名は書類の表からは見えない。だから、これが朽木ルキアに関するものとは限らない。
限らないはずだった。
シュシュは無言で書類を棚に収めた。
手順通りに。いつも通りに。余計な確認はしない。不自然に覗き込まない。下級死神が知るべきではない情報まで追おうとすれば、必ず痕跡が残る。
何より、今の自分はまだ判断保留の段階だ。夢が正しいと決めたわけではない。決めてはいけない。
◇
その日の作業を終える頃には、シュシュの肩はひどく凝っていた。
肉体労働をしたわけでもないのに、全身が疲れている。夢と現実を照合しないようにすることが、これほど消耗するとは思わなかった。
資料室を出ると、ミツルが伸びをしながら言った。
「今日の飯、何だろうな」
「……知りません」
「お前、ほんとに具合悪そうだな」
「……少し、疲れただけです」
「詰所戻ったら誰かに診てもらえよ」
「……診てもらうほどではありません」
「倒れてからじゃ遅いぞ」
その言葉に、シュシュは少しだけ足を止めた。
倒れてからでは遅い。
夢の中の護廷十三隊にも、同じことを言いたかった。被害が出てから動く。誰かが倒れてから本気になる。取り返しがつかなくなってから、ようやく危機だと認める。
そうなる前にできることは、いくらでもあったはずなのに。
「……そうですね」
シュシュは小さく答えた。
「遅いですね、倒れてからでは」
「何か急に重いな」
「一般論です」
「お前の一般論、だいたい不吉なんだよ」
ミツルは顔をしかめたが、シュシュは返事をしなかった。
頭の中では、別のことを考えていた。
もし夢が正しいなら。朽木ルキアは現世で力を失う。戻ってこない。やがて連行される。そして、処刑される。
そこまで流れが見えているなら、今のうちに何かできるのではないか。
その考えが浮かんだ瞬間、シュシュは自分の爪が手のひらに食い込んでいることに気づいた。
何か。
具体的に、何を。
彼女を救いたいのかと問われれば、答えは違う。朽木ルキアに個人的な恩があるわけではない。正義感で罪人を救いたいわけでもない。
ただ、夢の通りに進むなら、その先で瀞霊廷が大きく乱れる。旅禍が侵入し、隊長格が動き、負傷者が出て、命令系統が混乱する。
それが自分の生活圏に及ぶなら、無関係ではいられない。
だが、今の自分が下手に動けば、疑われるのは自分だ。夢の通りに事が進まなければ、ただの妄言。夢の通りに事が進めば、なぜ知っていたのかを問われる。
どちらにしても、危険が大きすぎる。
そして何より、まだ確信がない。名前と状況の一部が重なっただけだ。それだけで大きく動くのは、合理的ではない。
合理的ではない。
そう結論づけたはずなのに、胸の奥はざわついたままだった。
◇
その夜、シュシュは夢日記に新しい項目を書いた。
『現実記録。現世派遣任務者未帰還に関する照会あり。対象者不明。ただし、朽木ルキアの現世派遣記録と時期が近い。夢日記との関連は不明。判断保留』
判断保留。
また、その言葉に逃げた。紙の上でなら、冷静でいられる。
けれど、筆を置いた後の静寂の中では、別の声が聞こえる気がした。
本当に保留でいいのか。何もしなくていいのか。夢が本当だった時、何もしなかった自分を許せるのか。
シュシュは、そこまで考えてすぐに目を伏せた。
許せるかどうかではない。
今の自分が動いて、状況を良くできるかどうかだ。感情で動けば、たぶん悪化する。自分が潰れるだけならまだいい。情報源として不審視されれば、今後の選択肢も消える。
だから、動かない。
動けないのではない。
今は、動かない方がましだ。
そう結論づけて、シュシュは布団に入った。それでも、しばらく目を閉じられなかった。
眠れば、また夢を見るかもしれない。眠らなければ、明日動けない。どちらも嫌だった。
結局、疲労が勝った。
意識が沈む直前、彼女はまた同じ景色を見た。
白い塔。処刑台。黒い蝶。そして、誰かの声。
処刑は、決まった。
◇
数日後、瀞霊廷の空気が変わった。
下級死神の耳に入る情報は限られている。それでも、空気の変化くらいはわかる。
上層部の伝令が増えた。六番隊と十三番隊周辺の出入りが慌ただしくなった。四番隊にも、万一の負傷者対応についての確認が増えた。救護詰所では薬品や布の在庫が見直され、普段より少しだけ緊張した空気が漂っている。
そして、隊士たちの噂話に、ひとつの名が混じるようになった。
朽木ルキア。
罪人として、現世から連れ戻されるらしい。
その噂を聞いた瞬間、シュシュは食堂の椀を落としかけた。
「おっと」
隣にいたミツルが、慌てて椀を支えた。
「危ないな。熱いぞ」
「……すみません」
「本当に大丈夫か? 顔、真っ青だけど」
「少し、手が滑りました」
「手だけじゃなくて顔色も滑ってるぞ」
「意味がわかりません」
「俺も言ってからわからなくなった」
普段なら、少しは笑えたかもしれない。けれど、その時のシュシュには無理だった。
耳の奥で、周囲の会話が反響している。
「朽木家の養女だってよ」
「罪状は何だ?」
「現世の人間に力を渡したとか何とか」
「まさか。そんなことあるか?」
「でも六番隊隊長自ら動いたらしいぞ」
「十三番隊はどうなるんだ」
やめてほしい。
それ以上、夢と同じことを言わないでほしい。
そう思った。だが、現実は止まらない。隊士たちは噂を続ける。誰もが、驚き半分、興味半分だった。
彼らにとっては、遠い場所の事件だ。貴族家に関わる珍しい不祥事。現世任務で起きた異常。処分がどうなるかという話題。
けれど、シュシュにとっては違った。
その話は、すでに紙の上にあった。自分の部屋の衣装箱の底に、数日前から眠っている。
朽木ルキア。現世で力を失う。黒崎一護。力の譲渡。罪。連行。処刑。
ひとつずつ、現実が夢の文字をなぞっている。
胃の中が裏返るようだった。
「織原」
ミツルの声が、少し低くなった。
「本当に大丈夫か」
「……大丈夫です」
「嘘だろ」
「大丈夫です」
強めに言い返してしまい、シュシュはすぐに口を閉じた。
ミツルが少し驚いた顔をする。周囲の数人も、こちらを見た。
しまった。感情を出した。
シュシュは椀を置き、立ち上がった。
「食欲がないので、戻ります」
「おい」
「任務には出ます。問題ありません」
それだけ言って、食堂を出た。
廊下に出た瞬間、足元が揺れた気がした。壁に手をつく。呼吸が浅い。
夢ではなかった。
まだ、そう断言するには早い。しかし、偶然と言い張るには、一致しすぎている。
朽木ルキアが現世に派遣されていた。未帰還になった。罪人として連れ戻される。罪状は、現世の人間への力の譲渡。
そこまで揃っても、まだ偶然だと言うのか。
言える。言わなければならない。少なくとも、まだ口に出してはいけない。
シュシュは震える息を押し殺した。
ここで崩れるな。ここで騒ぐな。何も知らない下級死神として振る舞え。そうでなければ、自分が潰れる。
◇
その日から、瀞霊廷の中で朽木ルキアの名は少しずつ重くなっていった。
罪状の話。処分の話。六番隊隊長が関わった話。十三番隊の反応。中央四十六室の判断。
どの情報も断片的で、下級隊士たちの噂に過ぎない。だが、断片は夢日記の中の記述と重なった。
シュシュは何度も自分に言い聞かせた。
まだ動かない。今、何かをしても意味がない。下級死神が、処刑の決定に口を挟めるはずがない。朽木ルキアに接触することもできない。黒崎一護という人間が本当にいるとして、現世に行く権限もない。
何より、自分はまだ確信していない。
確信していないことになっている。
それは言い訳だと、心のどこかでわかっていた。それでも、動かなかった。
夜になるたび、シュシュは夢日記と現実記録を照合した。
そして、照合するたびに気分が悪くなった。
『朽木ルキア、連行』
現実でも、連れ戻された。
『罪状、力の譲渡』
現実でも、そう噂された。
『処刑』
現実でも、処刑が決まった。
紙の上に並んだ一致は、もう偶然というには多すぎた。だが、シュシュは最後の一線だけは越えなかった。
未来。
その言葉を書かない。夢日記のどこにも、現実記録のどこにも、まだ書かない。
書いてしまえば、認めることになる。認めてしまえば、次に問われるのは行動だった。
知っていて、どう動くのか。
その問いに、答えられる材料がまだ足りなかった。
◇
ある夜、シュシュは夢の中で黒崎一護を見た。
彼は瀞霊廷に入っていた。巨大な斬魄刀を背負い、無茶苦茶な霊圧を撒き散らしながら走っている。
仲間がいる。人間。滅却師。巨漢の少年。猫の姿をした誰か。
旅禍。
夢の中で、誰かがそう呼んだ。
瀞霊廷が騒然となる。各隊が動く。警報が鳴る。強者たちがぶつかる。負傷者が出る。倒れる者が出る。
それでも事態の全体像は、なかなか共有されない。
誰が敵で、誰が何を目的としていて、どこに向かっているのか。わかっている者と、わかっていない者がばらばらに動く。
夢の中のシュシュは、ただ見ていた。
叫びたかった。
そこではない。その戦い方では被害が増える。追うなら追う、守るなら守る、情報を集めるなら集める。役割を分けろ。救護経路を確保しろ。指揮系統を止めるな。なぜ、個人の判断に任せる。なぜ、全体で動かない。
叫びたいのに、声が出ない。
夢だからだ。
夢の中でさえ、彼女は傍観者だった。
◇
目が覚めた時、夜明け前だった。シュシュはしばらく布団の上で動けなかった。
そして、その日の昼。
旅禍侵入の報せが、瀞霊廷を駆け抜けた。
警報が鳴った瞬間、シュシュは自分の中の何かが音を立てて崩れるのを感じた。
周囲の隊士たちは慌ただしく動き出す。上官が指示を飛ばす。伝令が走る。誰かが武器を取る。誰かが持ち場へ向かう。四番隊にも、救護待機と搬送準備の指示が飛んだ。
それらすべてが、夢で見た光景に重なっていく。
「織原! 聞いてるか!」
上官の声で、シュシュは我に返った。
「はい」
「お前たちは指定区域の救護待機に回れ。交戦は避け、負傷者が出た場合は搬送を優先。異常があれば報告。勝手な行動はするな」
「承知しました」
口は動いた。足も動いた。だが、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
旅禍が来た。本当に来た。黒崎一護がいるのか。夢の通りなのか。
なら、この後は。
処刑台。隊長格の衝突。藍染惣右介の死。裏切り。
そこまで考えた瞬間、シュシュは息を詰めた。
藍染惣右介。
夢に出てきた、あの穏やかな笑みの男。
もし、あれまで現実になるなら。
シュシュは足を止めそうになり、すぐに踏みとどまった。
止まるな。今は任務中だ。顔に出すな。何も知らない四番隊の下級死神として動け。今の自分にできることは、それだけだ。
旅禍を止めに行く力はない。処刑を止める権限もない。隊長格の戦いに割って入るなど論外だ。夢と現実が一致していると叫んでも、誰も信じない。
ならば、今は見るしかない。
記録するしかない。
この異常がどこまで続くのか、自分の目で確かめるしかない。
シュシュは、震えそうになる手を握り込んだ。
怖い。恐ろしい。
自分の頭の中にだけあった夢が、現実の瀞霊廷を動かし始めている。世界が、自分の知らないところで紙の上の文字をなぞっている。その事実が、吐き気がするほど怖かった。
それでも、彼女はまだ介入しなかった。
ただ、心の奥でひとつだけ決めた。
もし、この先も夢の通りに進むなら。
もし、これが本当にただの夢ではないのなら。
今回だけは見届ける。
そして次は、何もしないままではいない。
今はまだ、何もできない下級死神だ。だが、ずっとこのままでいるつもりはない。
瀞霊廷が夢の通りに混乱し、壊れ、負傷者が運ばれ、命令系統が乱れる未来が本当にあるのなら。
それが自分の生活圏を脅かすものなら。
それを、ただ眺めるだけの自分では終わらない。
シュシュは腰の浅打に手を添え、指定区域へ向かって走った。
空の向こうで、警報が鳴り続けている。
夢と同じ音だった。