ある死神の未来改変日記 作:夢日記
警報の音は、夢と同じだった。高く、硬く、瀞霊廷の白い壁に反響する。普段なら秩序の象徴であるはずの隊舎や通路が、その音ひとつで別の場所に変わっていく。
織原シュシュは、指定された救護待機区域へ向かいながら、自分の呼吸が乱れていることに気づいていた。走っているからではない。怖いからだ。
旅禍が侵入した。その報せは、ただの事件ではなかった。夢日記に書いた言葉が、またひとつ現実になったということだった。
朽木ルキア。現世。力の譲渡。連行。処刑。そして、旅禍侵入。
ここまで並べば、もう偶然で片づける方が難しい。けれど、シュシュはまだ「未来」という言葉を認めなかった。認めてしまえば、今ここで叫び出しそうだった。
あそこに行くな。その戦いは無駄だ。負傷者が出る。隊長格が動く。誰かが倒れる。誰かが死んだように見える。そして、その裏で、もっと大きなものが動いている。
夢の断片が、頭の中でばらばらに浮かび上がる。ひとつひとつは映像でしかないのに、現実がその輪郭をなぞり始めたせいで、もうただの夢には見えなかった。
「織原、こっちだ!」
相沢ミツルの声で、シュシュは我に返った。
救護待機区域には、すでに数人の四番隊員が集まっていた。包帯、止血布、簡易担架、応急用の薬品。普段より多めに用意された物資が、壁際に並べられている。
上席の隊士が、早口で指示を飛ばしていた。
「交戦区域には近づくな。負傷者が出た場合は、近隣の隊士と連携して搬送する。重傷者を優先。軽傷者は応急処置後、自力移動させろ。判断に迷ったら呼べ。勝手に前線へ出るな」
「はい!」
周囲の隊士たちが声を揃える。シュシュも同じように返事をした。
口は動く。体も動く。指示の内容も理解している。だが、頭の奥では別の作業が止まらなかった。
夢との照合。
この区域は、夢に出てきたか。この指示は、聞いた記憶があるか。この後、どの方角から負傷者が来るか。誰が倒れるか。誰を運ぶことになるか。
考えるな、と自分に命じても、考えてしまう。考えなければならない気もする。だが、考えたところで、今の自分にできることは少ない。
四番隊の下級死神。それが今の織原シュシュの立場だった。
旅禍を止める権限も、力もない。隊長格の行動に口を挟む資格もない。命令系統の不備を指摘したところで、今この場で聞き入れられるはずがない。
できるのは、負傷者を運ぶこと。応急処置をすること。見たものを覚えること。夢と現実がどこまで一致するのか、確認すること。
シュシュは腰の浅打に触れた。戦うためではない。今の彼女にとって、それは自分を落ち着かせるための重りだった。
「織原」
ミツルが隣に立った。
「顔色、まだ悪いぞ」
「任務には支障ありません」
「それ、支障ある奴が言う台詞だろ」
「あなたも人の顔色を見る余裕があるなら、物資の確認をしてください」
「言い方」
ミツルは軽く顔をしかめたが、すぐに担架の方へ向かった。その背中を見て、シュシュは小さく息を吐いた。
彼を巻き込む気はない。夢日記のことも、夢と現実が一致しているかもしれないことも、話すつもりはなかった。
彼は悪い人間ではない。だからこそ、巻き込めない。知れば、顔に出る。顔に出れば、疑われる。疑われれば、彼も危険になる。
秘密は、持つ人数が増えるほど漏れる。ならば、今は自分ひとりで抱える方がましだった。
◇
しばらくして、最初の負傷者が運び込まれた。
肩を斬られた十一番隊の隊士だった。血の量は多いが、命に関わる傷ではない。本人はまだ戦場に戻ろうとして暴れている。
「離せ! まだやれる!」
「やれません。出血が多すぎます」
上席の隊士が押さえつける。
シュシュは布を渡し、傷口の確認を手伝った。手順通り。訓練通り。考える余地は少ない。むしろ、その方がありがたかった。
血の匂いがする。夢の中でも嗅いだ匂いだった。
違う。これは現実の血だ。夢と同じかどうかではなく、今ここで処置すべき負傷者の血だ。
シュシュは無理やり意識を現在へ引き戻した。
「止血、圧迫続けます」
「よし。縫合準備」
「はい」
手を動かしている間だけは、少し楽だった。考えずに済む。目の前の傷を見る。必要な処置をする。搬送の優先度を判断する。自分にできることだけを積み重ねる。
それは、夢日記よりもずっと現実的だった。
だが、負傷者が増えるにつれ、夢の影は濃くなっていった。
別の隊士が運び込まれる。次は、足を折った隊士。その次は、腹部を強く打った隊士。さらに、霊圧を乱して気絶した隊士。誰も、夢で見た主要な人物ではなかった。名も知らない隊士ばかりだ。
けれど、シュシュはそのことに安心できなかった。夢は、主要な場面ばかりを見せる。そこに映らなかった負傷者が、現実ではいくらでもいる。
つまり、夢で見ていないから安全、とは言えない。
その事実が、四番隊員としての彼女に重くのしかかった。
「こっち、担架足りるか!」
「一本足りません!」
「布で代用しろ。動かせるなら二人で支えろ!」
「詰所に追加要請を!」
声が飛び交う。
悪い動きではない。四番隊は、負傷者対応に慣れている。少なくとも、この区域にいる隊士たちは、できる範囲でよく動いていた。
それでも、シュシュには足りなく見えた。
負傷者が出てから担架を探す。情報が来てから人を動かす。どこで戦闘が起きているか、断片的にしか伝わらない。誰がどこに向かい、どの道が危険で、どこを搬送路として確保すべきなのか、全体図が見えない。
現場は動いている。だが、全体として動いていない。
夢の中で感じた違和感が、現実の中で形を持ち始めていた。
護廷十三隊は強い。個々の隊士も、隊長格も、戦闘力は疑いようがない。しかし、強い個人が多いことと、組織として被害を最小化できることは別だった。
シュシュは、唇を噛みそうになってやめた。今ここでそれを言っても意味がない。今の彼女に求められているのは、批評ではなく処置だ。
「織原、次の搬送に入れ!」
「はい!」
声に反応して、シュシュは担架の片側を持った。
負傷者は意識がある。痛みに顔を歪めながらも、必死に何かを言おうとしていた。
「旅禍が……」
「話さなくていいです。呼吸を整えてください」
「でかい斬魄刀の、奴が……」
シュシュの手が、一瞬止まりかけた。
でかい斬魄刀。黒崎一護。夢の中の少年。現実にいる。もう、疑いようがないほど近くに。
「織原!」
「……はい」
ミツルの声で、シュシュは担架を持ち直した。
止まるな。顔に出すな。負傷者を落とすな。今、最優先すべきことを間違えるな。
搬送路を進みながら、シュシュは必死に呼吸を整えた。
黒崎一護がいる。旅禍が夢の通りに侵入した。なら、次は何が起きる。誰が戦う。どこで負傷者が増える。あの夢の中で、自分は何を見た。
思い出そうとして、すぐにやめた。
今は、搬送中だ。夢の確認より、目の前の負傷者を落とさないことの方が優先順位が高い。
それが、四番隊員としての判断だった。
救護詰所に負傷者を引き渡した後、シュシュは壁際で一度だけ息を吐いた。
手が震えている。血で汚れた指先を見ながら、彼女は思った。
見届けると決めた。だが、見届けるだけでも、こんなに重いのか。
何もしていないわけではない。負傷者を運び、処置を手伝い、四番隊の仕事はしている。けれど、夢の大きな流れには何も触れていない。
ルキアの処刑も、旅禍の侵入も、隊長格の動きも、藍染の死も。自分はただ、流れの端で揺れているだけだ。
それが合理的だとわかっていても、無力感は消えなかった。
「織原、次行けるか」
上席の声に、シュシュは顔を上げた。
「行けます」
「なら戻れ。まだ来るぞ」
「はい」
まだ来る。その言葉は、予告のようだった。
実際、その後も負傷者は続いた。夢で見た混乱が、現実の瀞霊廷で少しずつ広がっていく。
旅禍の侵入経路。各隊の交戦。誰かが突破されたという報告。どこかで壁が壊れたという噂。十一番隊の隊士が妙に楽しそうに旅禍を追っているという話。
四番隊にとっては、どれも負傷者発生の予兆だった。そして、シュシュにとっては、夢日記の文字が現実に滲み出してくる音だった。
◇
夜になっても、騒ぎは収まらなかった。
交代で休めと言われても、眠れる気がしなかった。仮眠室に入った隊士たちは、疲労で倒れるように眠っていく。シュシュも横になったが、目を閉じると夢と現実が混ざった。
白い塔。斬魄刀を振るう少年。血を流す隊士。救護詰所の床。担架の軋む音。警報。誰かの叫び。
そして、静かに笑う男。
藍染惣右介。
その名が浮かんだ瞬間、シュシュは目を開けた。
天井が見える。仮眠室の天井だ。夢ではない。今は、まだ。
シュシュは起き上がり、周囲を見回した。眠っている隊士たちの呼吸が聞こえる。誰も彼女を見ていない。
彼女はそっと立ち上がり、荷物の中から小さな紙片を取り出した。
本当の夢日記は自室に隠してある。だが、任務中に見聞きしたことを書き留めるため、今は簡単な記録用の紙を持っていた。
そこに、今日の出来事を書き込む。
『旅禍侵入。警報発令。四番隊は救護待機、搬送準備。負傷者多数。巨大な斬魄刀を持つ旅禍の証言あり。黒崎一護の実在可能性、極めて高い』
書いてから、シュシュは筆を止めた。
実在可能性。
そんな逃げた書き方を、まだしている。
現実に負傷者が証言した。夢と同じ特徴の旅禍がいる。もう、ほぼ確定している。
それでも、彼女は「実在」と断言できなかった。断言した瞬間、次の言葉が必要になるからだ。
夢は、現実に対応している。
そこまで書けば、もう戻れない。
シュシュは紙片を折りたたんだ。
まだだ。まだ、最後まで見ていない。
尸魂界の混乱が、どこまで夢と一致するのか。藍染惣右介の件まで本当に起きるのか。処刑台で何が起きるのか。そこまで見届けてから判断する。
それは慎重さだった。同時に、臆病さでもあった。どちらなのか、シュシュ自身にもわからなかった。
◇
翌日、さらに混乱は広がった。
旅禍の一人が隊士を多数倒したという報告。別の場所では、隊長格が動いたという噂。瀞霊廷の空気は、もう普段とはまったく違っていた。
それでも、四番隊の仕事は変わらない。
負傷者を拾う。運ぶ。処置する。生かす。戦場の中心に立たない者たちが、戦いの後始末を必死で支えている。
シュシュは、その現実を初めて身体で理解した。
夢の中では、戦う者ばかりが目立っていた。黒崎一護。朽木ルキア。隊長格。副隊長。藍染惣右介。
だが、現実には、その周囲に無数の名もない負傷者がいる。運ぶ者がいる。包帯を巻く者がいる。血の跡を拭く者がいる。
夢に映らなかった者たちの方が、ずっと多い。そして、自分はそちら側の人間だった。
それは、妙に納得できる事実だった。
シュシュは英雄ではない。旅禍と戦う主役でもない。処刑台に駆けつけて運命を変える者でもない。
四番隊の下級死神として、混乱の端で人を運び、記録し、歯噛みしている。それが今の彼女だった。
だからこそ、見えるものもある。
負傷者がどこで増えるのか。どの道が詰まるのか。どの指示が遅れるのか。どの情報が救護側に届かないのか。
戦う者が見落とす、戦場の裏側。
そこにこそ、自分が後で使える情報があるのではないか。
その考えが浮かんだ時、シュシュは自分の中の恐怖が、ほんの少しだけ形を変えるのを感じた。
怖い。だが、ただ怖がっているだけではない。
観測する。記録する。次に使える形にする。
それなら、自分にもできる。
今はまだ介入しない。けれど、何もしないわけではない。
見て、覚えて、書く。
それが、今の自分にできる唯一の準備だった。
「織原、搬送だ!」
「はい!」
声が飛ぶ。
シュシュは担架を取り、走り出した。その途中、遠くで大きな霊圧がぶつかるのを感じた。
彼女には、それが誰と誰のものなのかまではわからない。だが、瀞霊廷の空気が震えるほどの衝突だった。
周囲の隊士たちが一瞬だけ足を止める。シュシュも、足を止めかけた。
夢のどこかで見た気がする。
だが、今は関係ない。
「行きます」
自分に言い聞かせるように言って、彼女は走った。
戦いの中心に向かうのではない。その周辺で倒れた者を拾うために。
救護現場に着いた時、そこには数人の負傷者がいた。意識がある者、ない者。軽傷者が重傷者を支えている。誰もが混乱していた。
シュシュは瞬時に視線を走らせた。
呼吸。出血。意識。搬送可能か。今すぐ処置が必要か。
訓練で叩き込まれた判断基準が、恐怖より先に動いた。
「そちらの方を先に。腹部の出血が多いです。意識のある方は壁際へ。歩ける人は自力で詰所まで向かってください。道は右手の通路です」
言ってから、自分でも少し驚いた。
声が出ている。震えていない。夢のことを考えている暇がない時の方が、冷静に動けるらしい。
上席の隊士が一瞬こちらを見たが、すぐに頷いた。
「織原、その判断でいい。そっちを持て」
「はい」
担架に負傷者を乗せ、搬送を始める。
その間も、遠くの霊圧は揺れ続けていた。
大きな流れは、夢の通りに進んでいる。だが、小さな現場では、自分の判断で救えるものがある。
それは、夢で見た大きな流れを変えるような行動ではない。誰の運命を大きく変えるものでもない。
けれど、目の前の負傷者が生きるか死ぬかには関わっている。
シュシュは、その事実を胸に刻んだ。
◇
やがて、夜が深くなった頃。
救護詰所に、新しい噂が流れ込んだ。
「五番隊の隊長が――」
誰かが言いかけて、言葉を飲んだ。
周囲の空気が凍る。
シュシュの手から、包帯が滑り落ちた。
五番隊。隊長。藍染惣右介。
夢の中で見た、次の大きな節目。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
聞きたくない。
聞けば、また一致してしまう。
だが、耳は塞げない。
隊士の声が、震えながら続いた。
「藍染隊長が、殺されたらしい」
世界が、また紙の上の文字をなぞった。
シュシュは何も言わなかった。言えなかった。ただ、床に落ちた包帯を拾い上げる。
指先が冷たい。
頭の奥で、夢日記の一文が開いていく。
『藍染惣右介、死亡。だが――』
だが。
そこから先を、彼女は思い出したくなかった。
今、思い出してはいけない。顔に出る。声に出る。誰かに気づかれる。
シュシュは包帯を握りしめ、ゆっくりと息を吸った。
観測者でいろ。
まだ動くな。
まだ、見届けろ。
夢の通りなら、藍染惣右介は死んで終わりではない。ならば、この混乱はまだ序盤にすぎない。
シュシュは、震える喉を無理やり押さえつけた。
瀞霊廷の夜は、もう静かではなかった。警報、足音、伝令の声、負傷者の呻き。そのすべての向こう側で、夢の中の男が静かに笑っている気がした。
織原シュシュは、その笑みに背を向けるように、目の前の負傷者へ手を伸ばした。
今はまだ、救うべき大局には届かない。けれど、手の届く傷なら塞げる。記録すべき現実なら、覚えられる。
そして、いつか動く時のために、全部残す。
全部、忘れない。
その夜、彼女の中で、夢日記は少しだけ意味を変え始めていた。
まだ対策記録ではない。まだ未来の証明でもない。
けれど、ただの悪夢として捨てるには、もうあまりにも重すぎるものになっていた。