ある死神の未来改変日記   作:夢日記

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第5話

 

 双殛の丘へ近づくほど、空気が硬くなっていった。

 織原シュシュたち四番隊の救護班は、双殛そのものには近づけない。指定された待機位置は、丘から距離を取った通路の一角だった。そこから先は警戒区域であり、下級死神が勝手に踏み込める場所ではない。

 

 それでも、霊圧の揺れは伝わってくる。

 遠い。だが、重い。

 処刑のために集まった隊長格、副隊長格。そこへ向かう旅禍。周辺を固める隊士たち。瀞霊廷の緊張が、ひとつの場所へ吸い寄せられている。

 

 シュシュは、救護道具を抱えたまま、喉の奥が乾いていくのを感じていた。

 夢で見た場所。

 夢で何度も見た光景。

 白い丘。処刑台。朽木家の罪人。巨大な斬魄刀を背負った少年。隊長格たちの霊圧。そして、すべてをひっくり返す男。

 

 ここまで来れば、もう偶然ではない。

 わかっていた。

 だが、それでも最後の一線だけは越えていなかった。

 藍染惣右介が本当に死んでいないのか。

 夢の中で見た裏切りが、本当に現実になるのか。

 

 それを見届けるまでは、まだ判断保留にしがみつける。そう思っていた。

 しがみついているだけだという自覚はあった。

 それでも、崩れかけた足場に指をかけるように、シュシュはその言葉を手放せずにいた。

 

「織原、物資こっちでいいか?」

 

 相沢ミツルが、担架を壁際に立てかけながら言った。

 

「はい。担架は通路側に寄せすぎないでください。搬送時に邪魔になります」

 

「了解。水と包帯は?」

 

「右側です。重傷者が来たら、止血布を先に使います」

 

「お前、こういう時は本当に落ち着いてるよな」

 

「落ち着いてはいません」

 

「そうは見えないけどな」

 

「見えるなら、それで十分です」

 

 ミツルは少しだけ眉を寄せた。

 前の会話以来、彼はこちらを見る回数が増えた。疑っているというより、心配しているのだろう。だが、シュシュにとってはそれが困る。

 

 見られれば、隠さなければならない。

 隠そうとすれば、不自然になる。

 不自然になれば、さらに見られる。

 悪循環だった。

 

 それでも話すわけにはいかない。

 夢日記のことも、夢と現実が一致していることも、藍染惣右介が死んでいないかもしれないことも。

 今この場で口にするには、危険が大きすぎる。

 

「織原」

 

 上席の隊士が呼んだ。

 

「はい」

 

「双殛方面で動きがあった場合、負傷者が流れてくる可能性がある。だが、許可なく丘へ上がるな。隊長格の戦闘に巻き込まれれば、救護どころではない」

 

「承知しました」

 

「それと、情報に振り回されるな。伝令の確認を待て。噂で動くな」

 

「はい」

 

 噂で動くな。

 その言葉は、シュシュに向けられたものではない。四番隊全体への当然の指示だ。

 だが、胸に刺さった。

 

 自分が持っているのは、噂ですらない。

 夢だ。

 夢を根拠に動くなど、普通なら論外だった。

 

 だからこそ、これまで動かなかった。

 朽木家絡みの処刑騒ぎも、旅禍侵入も、藍染隊長の死亡も、すべて見届けるだけにした。

 四番隊として、目の前の負傷者には対応した。搬送路も確認した。記録も残した。

 だが、大きな流れには触れられていない。

 

 触れなかったのではなく、触れられなかった。

 その違いを、シュシュは自分でわかっていた。

 

 ◇

 

 やがて、双殛方面からざわめきが広がった。

 遠くにいる隊士たちの声が、波のように伝わってくる。

 何かが始まった。

 

 救護班の全員が、顔を上げた。

 次の瞬間、空気が震えた。

 

 重く、熱く、巨大な霊圧。

 双殛。

 夢の中で見た処刑具が、現実で動いている。

 

 シュシュは、無意識に救護道具を握りしめた。

 手のひらが痛い。

 

 夢と同じだ。

 また同じだ。

 どこまで同じなのか。

 これ以上、一致しないでほしい。そう思う自分と、最後まで一致しなければ判断できないと考える自分が、頭の中でぶつかる。

 

 勝ったのは、どちらでもなかった。

 体が固まっただけだった。

 

「織原」

 

 ミツルが小声で呼ぶ。

 

「大丈夫か」

 

「大丈夫です」

 

「嘘つけ」

 

「今は大丈夫ということにしてください」

 

 ミツルは何か言いかけたが、そこで遠くから大きな衝撃が響いた。

 救護班の隊士たちが一斉に身構える。

 

 霊圧がぶつかった。

 巨大な力が、何かに止められた。

 ざわめきが悲鳴に変わる。

 

「何が起きた?」

 

「双殛が……」

 

「止まった?」

 

「旅禍か?」

 

 断片的な声だけが届く。

 シュシュの頭の中では、すでに夢の映像が開いていた。

 

 黒崎一護が来る。

 処刑を止める。

 大きな斬魄刀で、あり得ないものを受け止める。

 朽木ルキアを救う。

 隊長格が動く。

 副隊長たちが倒される。

 その後に、さらに大きな裏切りが現れる。

 

 知っている。

 見た。

 書いた。

 それなのに、現実で起きると、こんなにも息ができない。

 

「織原、顔が真っ白だぞ」

 

「……問題ありません」

 

「問題しかなさそうなんだけどな」

 

「相沢」

 

「何だよ」

 

「今、私が変なことを言っても聞き流してください」

 

「は?」

 

「聞き流してください」

 

 ミツルが目を見開いた。

 シュシュは自分でも何を言っているのかわからなかった。だが、口に出さなければ、何か別の言葉が漏れそうだった。

 

 藍染は死んでいない。

 この後、全部ひっくり返る。

 そう言ってしまいそうだった。

 

 言えば終わる。

 自分も、ミツルも。

 だから、先に封じた。

 

「織原、お前――」

 

「来ます」

 

 シュシュは遮った。

 視線の先、通路の向こうから隊士が走ってくる。伝令だった。

 

「双殛方面、負傷者発生! 救護班、待機位置を維持しつつ搬送準備! 直接丘へは上がるな!」

 

「了解!」

 

 上席が声を返し、救護班が動き出す。

 ミツルも、それ以上は聞けなかった。

 

 シュシュは担架を手に取る。

 動け。

 考えるな。

 今は四番隊の仕事をしろ。

 

 負傷者が来る。

 処置する。

 運ぶ。

 生かす。

 

 それだけを頭の中で繰り返す。

 

 やがて運び込まれてきたのは、双殛周辺の警戒に当たっていた隊士たちだった。直接黒崎一護と戦った者ではない。霊圧の衝撃で吹き飛ばされた者、混乱の中で転倒した者、退避指示の途中で負傷した者。

 戦闘の中心から少し離れていても、被害は出る。

 シュシュはそれを見て、またひとつ記録すべき項目が増えたと思った。

 

 大規模霊圧衝突時、周辺警戒隊士にも負傷者発生。

 救護待機位置は、戦闘中心からの距離だけでなく、霊圧衝撃の伝播も考慮すべき。

 退避経路が狭い場合、転倒・接触による二次負傷が出る。

 

 頭の中で文章が組み上がっていく。

 怖い。

 怖いのに、記録しようとしている。

 そのことに、シュシュは少しだけ自分を異常だと思った。

 

 だが、異常でも構わない。

 恐怖で動けなくなるよりは、情報に変換する方がまだ役に立つ。

 

「織原、こっち!」

 

「はい」

 

 負傷者の腕を固定し、担架に乗せる。

 呼吸はある。意識もある。出血は少ない。搬送優先度は中程度。

 判断する。

 動く。

 声を出す。

 その間にも、双殛の丘では何かが進んでいる。

 

 夢と同じなら、黒崎一護はそこにいる。

 朽木家の罪人は処刑台から降ろされる。

 隊長格が動く。

 そして、誰もが別の場所へ意識を向けている隙に、本当の敵はまだ盤面の上にいる。

 

 藍染惣右介。

 その名前が浮かぶたびに、シュシュは自分の背後が冷えるような感覚に襲われた。

 

 彼女は、藍染を直接知らない。

 言葉を交わしたこともない。遠目に見たことがある程度だ。穏やかで、優しげで、周囲に慕われている隊長。

 現実の藍染惣右介は、そういう男として認識されていた。

 

 だが、夢の中の彼は違った。

 死を偽装し、他者を欺き、すべてを利用し、最後には悠然と立っていた。

 あの夢が正しいなら、瀞霊廷は最初から盤上に乗せられている。

 旅禍も、処刑も、混乱も、隊長たちの怒りも悲しみも。

 

 その考えは、シュシュにとってあまりにも重かった。

 重すぎて、今の自分では持てない。

 だから、目の前の負傷者を見る。

 手元の包帯を見る。

 今触れられる現実だけを見る。

 

 やがて、双殛方面からさらに大きな混乱が伝わってきた。

 処刑が止まった。

 旅禍が朽木家の罪人を奪った。

 副隊長格が倒された。

 隊長同士が動いた。

 

 噂は断片的で、正確ではない。伝令も混乱している。誰も全体を把握していない。

 だが、シュシュには、聞くたびに夢の断片が埋まっていくように感じられた。

 知らないはずの絵に、色が戻っていく。

 紙の上の文字が、現実の声になる。

 

「……もう、無理でしょ」

 

 小さく漏れた声は、自分にしか聞こえないはずだった。

 だが、隣にいたミツルが振り返った。

 

「何が?」

 

「何でもありません」

 

「今のは何でもなくないだろ」

 

「何でもありません」

 

 シュシュは強く言い切った。

 ミツルは納得していない顔をしたが、負傷者が来たことで会話は途切れた。

 

 助かった。

 同時に、限界が近いとも思った。

 

 これ以上、隠し続けられるのか。

 夢と現実の一致を目の前で見続けながら、何も知らない顔を保てるのか。

 できる。

 やるしかない。

 少なくとも、この一件が終わるまでは。

 

 終わった後、考える。

 いや、終わった後は考えるだけでは足りない。

 対策する。

 その言葉が、初めて明確に頭の中へ浮かんだ。

 

 対策。

 夢を恐れるのではなく、夢から情報を取り出す。

 現実に確認できたものを分類する。

 被害の原因を洗い出す。

 自分にできる範囲を見極める。

 次に備える。

 

 正義ではない。

 英雄願望でもない。

 このまま同じことが起き続ければ、自分の生活圏が削られていく。隊舎が壊れ、詰所が埋まり、顔見知りが運び込まれ、救護体制が後手に回る。

 それが困る。

 だから、対策する。

 その考えは、恐怖よりもずっと扱いやすかった。

 

 日が傾き始めた頃、空気が変わった。

 最初に気づいたのは、霊圧の質だった。

 双殛方面とは別の場所から、異様な圧が広がった。強い。だが、ただ強いだけではない。冷たく、滑らかで、底が見えない。

 

 シュシュは息を止めた。

 知っている。

 夢で感じた。

 あの男だ。

 

 周囲の隊士たちもざわめく。

 

「何だ、この霊圧」

 

「隊長格か?」

 

「でも、これは……」

 

 声が震えている。

 シュシュは、ゆっくりと顔を上げた。

 

 藍染惣右介。

 死んだはずの男。

 夢の通りなら、今、彼は現れる。

 自分の死を覆し、すべての前提を壊し、瀞霊廷の混乱を完成させる。

 

 伝令が駆け込んできたのは、その直後だった。

 息を切らし、顔を青ざめさせている。転びそうになりながら、彼は上席の隊士の前で足を止めた。

 

「報告!」

 

「落ち着け。何があった」

 

「藍染隊長が――」

 

 救護詰所の中が静まり返った。

 シュシュは、指先の感覚が消えていくのを感じた。

 

 聞きたくない。

 だが、聞かなければならない。

 これが最後の確認だ。

 最後の逃げ道を壊す言葉だ。

 

 伝令は、震える声で続けた。

 

「藍染隊長が、生きていました」

 

 その瞬間、シュシュの中で何かが静かに折れた。

 音はしなかった。

 叫びもしなかった。

 ただ、判断保留という札が、意味を失った。

 

 夢は現実に対応している。

 もう、そう認めるしかなかった。

 偶然ではない。

 思い込みではない。

 疲労が見せた悪夢でもない。

 少なくとも、夢日記に書かれた出来事の多くは、現実に起きる。

 そして、自分はそれを事前に見ていた。

 

 救護詰所では、怒号と困惑が広がっていた。

 

「何を言っている!」

 

「藍染隊長は殺されたはずだろ!」

 

「どういうことだ!」

 

「詳細は不明です! ただ、複数の隊長格が確認したと――」

 

 声が重なり、情報が乱れる。

 誰も全体を理解できていない。

 当然だ。

 普通なら理解できるはずがない。

 死んだはずの隊長が生きていて、しかもこの混乱の中心にいるなど、誰がすぐに受け入れられるのか。

 

 だが、シュシュだけは違った。

 受け入れたくなくても、知っていた。

 夢で見ていた。

 だから、驚きよりも先に、吐き気が来た。

 

 自分は知っていた。

 知っていたのに、何もしなかった。

 いや、違う。

 できなかった。

 

 今の自分が動いても、状況を良くできる可能性は低かった。むしろ、自分が消されるか、精神異常扱いされるか、情報源として危険視されるだけだった。

 そう判断した。

 その判断は間違いではなかったはずだ。

 少なくとも、合理的には。

 

 それでも、胸の奥が重い。

 合理的に正しいことと、気分が悪くならないことは別だった。

 

「織原?」

 

 ミツルが声をかけてきた。

 シュシュは返事をしようとして、できなかった。

 声が出ない。

 

「おい、本当に大丈夫か」

 

「……大丈夫です」

 

 かすれた声だった。

 

「どこがだよ」

 

「今は、倒れません」

 

「今はって何だ」

 

「倒れたら、迷惑なので」

 

 それだけ言って、シュシュは壁に手をついた。

 足元が揺れている。

 だが、倒れるわけにはいかない。

 

 今も負傷者はいる。

 藍染が生きていたという報せで混乱しても、四番隊の仕事は止まらない。

 むしろ、これからさらに増える。

 

 夢の通りなら、この後、藍染は瀞霊廷を去る。市丸ギンと東仙要も共に行く。隊長格の裏切り。中央四十六室の件。崩玉。虚圏。

 情報が多すぎる。

 一度に考えれば潰れる。

 だから、切り分ける。

 

 今考えるべきこと。

 後で記録すべきこと。

 今は考えてはいけないこと。

 シュシュは、震える息を吸った。

 

 まず、目の前。

 負傷者。

 救護。

 搬送。

 それだけ。

 その後、記録。

 そして、対策。

 順番を作ると、少しだけ呼吸が戻った。

 

「上席」

 

 シュシュは声を絞った。

 

「周辺隊士の動揺が大きいです。搬送指示が混乱する可能性があります。救護班内だけでも、搬送先と優先順位を再確認した方がいいと思います」

 

 上席の隊士が、一瞬こちらを見た。

 その目には驚きがあった。だが、すぐに現場の顔に戻る。

 

「……そうだな。全員、聞け! 情報に惑わされるな! 重傷者優先、搬送先は変更なし! 待機位置を離れるな! 伝令が来るまで独自判断で動くな!」

 

 声が飛ぶ。

 救護班の空気が、わずかに締まった。

 

 シュシュは口を閉じた。

 今のは、大きな介入ではない。

 ただの現場判断だ。

 夢の流れを変えるものではない。

 けれど、混乱を少しだけ抑えた。

 それでいい。

 今は、それでいい。

 

 遠くで、さらに強い霊圧が揺れた。

 誰かが戦っている。

 誰かが叫んでいる。

 誰かが、裏切りを目の当たりにしている。

 

 シュシュはそこへ行かない。

 行けない。

 行くべきではない。

 けれど、もう目を逸らすことはできなかった。

 

 夢は現実に対応している。

 ならば、夢日記はただの悪夢の記録ではない。

 危険な情報だ。

 扱いを間違えれば、自分を殺す。

 隠し続ければ、何かを見殺しにするかもしれない。

 しかし、正しく使えば、被害を減らせるかもしれない。

 その可能性がある以上、捨てられない。

 

 ◇

 

 やがて、藍染惣右介たちが瀞霊廷を去ったという報せが入った。

 詳細はまだ曖昧だった。

 だが、隊長格の裏切りという事実だけで、十分すぎるほど重かった。

 

 救護詰所には、言葉を失った沈黙が落ちた。

 誰もが疲れ切っていた。

 怒る者もいる。呆然とする者もいる。信じられないと呟く者もいる。

 

 シュシュは、その中で床に座り込むことだけはしなかった。

 座れば、もう立てない気がした。

 代わりに、近くの棚に置いていた紙片を取り出す。

 

 手が震える。

 それでも書いた。

 

『藍染惣右介、生存確認。死亡偽装。隊長格の裏切り。市丸ギン、東仙要も関与の可能性。夢日記との一致、否定困難』

 

 そこで筆が止まる。

 否定困難。

 まだ逃げている。

 シュシュは、しばらくその四文字を見つめた。

 

 そして、ゆっくりと横線を引いた。

 否定困難。

 その上から、新しく書く。

 

『夢日記は、現実に対応している』

 

 書いた瞬間、身体の奥が冷たくなった。

 認めた。

 もう戻れない。

 

 夢を夢として処理する段階は終わった。

 判断保留は終わった。

 ここから先は、知っている者として考えなければならない。

 

 何を変えるのか。

 何を変えないのか。

 どこまでなら動けるのか。

 誰に話すのか。

 誰には絶対に話してはいけないのか。

 どうすれば、自分が消されずに済むのか。

 どうすれば、次の被害を減らせるのか。

 

 問いが一気に押し寄せてくる。

 だが、不思議と、先ほどまでのような混乱だけではなかった。

 恐怖はある。

 吐き気もある。

 それでも、判断が終わったことで、視界の奥に一本の線が通ったような感覚があった。

 

 夢は現実に対応している。

 ならば、使う。

 怖いから捨てるのではない。

 気味が悪いから忘れるのではない。

 自分の生活圏を守るために、使えるものは使う。

 

 シュシュは紙片を折りたたみ、懐にしまった。

 外では、まだ騒ぎが続いている。

 瀞霊廷は傷ついた。

 死者も負傷者も出た。

 信頼されていた隊長は裏切り、処刑騒ぎは別の陰謀に利用され、護廷十三隊は大きな失態を抱えることになった。

 

 だが、夢の中で見た未来は、これで終わりではない。

 虚圏。

 破面。

 空座町。

 見えざる帝国。

 瀞霊廷の壊滅的被害。

 

 まだ続きがある。

 

 今回、守りたい場所はすでに傷ついた。

 隊舎も、詰所も、顔見知りのいる日常も、無傷では済まなかった。

 

 それでも、夢で見た瀞霊廷の終わり方は、この程度ではなかった。

 白い壁が崩れ、隊舎が瓦礫になり、当たり前に続くはずの日常が踏みにじられる。

 

 そんな未来が、まだ残っている。

 

 まだ間に合う。

 今なら、まだ。

 

 そう思った瞬間、胸の奥に沈んでいた恐怖が、別の形を取り始めた。

 

 対策する。

 徹底的に記録する。

 被害の原因を分解する。

 救護経路を見直す。

 情報共有の遅れを潰す。

 自分も強くなる。

 治すだけでは足りない。

 逃げる力も、縛る力も、守る力も、戦場を読む力もいる。

 

 次に同じようなことが起きた時、ただ運ばれてくる負傷者を待つだけの四番隊員では終わらない。

 

 シュシュは、静かに息を吐いた。

 自分は英雄ではない。

 正義のために立ち上がるわけでもない。

 ただ、壊されて困る場所がある。

 失うと困る日常がある。

 それを守るためなら、夢だろうが何だろうが、使う。

 

「織原」

 

 ミツルが、疲れた顔で近づいてきた。

 

「少し休め。さっきから顔がひどい」

 

「顔は元からです」

 

「そういう意味じゃない」

 

「わかっています」

 

 シュシュは紙片をしまった懐を、無意識に押さえた。

 ミツルがそれに気づいたかどうかはわからない。

 

「休みます。ただ、その前に記録をまとめます」

 

「今やることか?」

 

「今でないと忘れます」

 

「真面目すぎるだろ」

 

「忘れる方が問題です」

 

 ミツルは何か言いたげだったが、結局ため息をついた。

 

「倒れる前にやめろよ」

 

「倒れたら迷惑なので、倒れません」

 

「それ、さっきも聞いた」

 

「便利なので」

 

 ほんの少しだけ、ミツルが笑った。

 その表情を見て、シュシュは思う。

 

 こういうものを、失いたくない。

 大げさな理想ではない。

 世界平和でもない。

 ただ、こういう会話が明日も続く方がいい。

 隊舎が残り、詰所が動き、顔見知りが生きていて、面倒な仕事に文句を言える方がいい。

 そのために必要なら、彼女は夢日記を使う。

 

 織原シュシュは、救護詰所の片隅に腰を下ろし、紙を広げた。

 もう「判断保留」とは書かない。

 新しい見出しを書く。

 

『確認済み事項』

 

 続けて、もう一行。

 

『今後の対策候補』

 

 その文字を見た時、夢日記は完全に意味を変えた。

 不気味な悪夢を書き出すための紙束ではない。

 未来を恐れて眠れなくなるための呪いでもない。

 被害を減らすための材料。

 自分の生活圏を守るための記録。

 

 まだ小さく、頼りなく、誰にも見せられないものだったが、それでも確かに、彼女にとって最初の武器になった。

 

 遠くで、夜明け前の空が白み始めている。

 瀞霊廷は傷だらけだった。

 だが、まだ壊れてはいない。

 

 織原シュシュは筆を握り直した。

 次は、ただ見ているだけでは終わらない。

 

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