ある死神の未来改変日記 作:夢日記
双殛の丘へ近づくほど、空気が硬くなっていった。
織原シュシュたち四番隊の救護班は、双殛そのものには近づけない。指定された待機位置は、丘から距離を取った通路の一角だった。そこから先は警戒区域であり、下級死神が勝手に踏み込める場所ではない。
それでも、霊圧の揺れは伝わってくる。
遠い。だが、重い。
処刑のために集まった隊長格、副隊長格。そこへ向かう旅禍。周辺を固める隊士たち。瀞霊廷の緊張が、ひとつの場所へ吸い寄せられている。
シュシュは、救護道具を抱えたまま、喉の奥が乾いていくのを感じていた。
夢で見た場所。
夢で何度も見た光景。
白い丘。処刑台。朽木家の罪人。巨大な斬魄刀を背負った少年。隊長格たちの霊圧。そして、すべてをひっくり返す男。
ここまで来れば、もう偶然ではない。
わかっていた。
だが、それでも最後の一線だけは越えていなかった。
藍染惣右介が本当に死んでいないのか。
夢の中で見た裏切りが、本当に現実になるのか。
それを見届けるまでは、まだ判断保留にしがみつける。そう思っていた。
しがみついているだけだという自覚はあった。
それでも、崩れかけた足場に指をかけるように、シュシュはその言葉を手放せずにいた。
「織原、物資こっちでいいか?」
相沢ミツルが、担架を壁際に立てかけながら言った。
「はい。担架は通路側に寄せすぎないでください。搬送時に邪魔になります」
「了解。水と包帯は?」
「右側です。重傷者が来たら、止血布を先に使います」
「お前、こういう時は本当に落ち着いてるよな」
「落ち着いてはいません」
「そうは見えないけどな」
「見えるなら、それで十分です」
ミツルは少しだけ眉を寄せた。
前の会話以来、彼はこちらを見る回数が増えた。疑っているというより、心配しているのだろう。だが、シュシュにとってはそれが困る。
見られれば、隠さなければならない。
隠そうとすれば、不自然になる。
不自然になれば、さらに見られる。
悪循環だった。
それでも話すわけにはいかない。
夢日記のことも、夢と現実が一致していることも、藍染惣右介が死んでいないかもしれないことも。
今この場で口にするには、危険が大きすぎる。
「織原」
上席の隊士が呼んだ。
「はい」
「双殛方面で動きがあった場合、負傷者が流れてくる可能性がある。だが、許可なく丘へ上がるな。隊長格の戦闘に巻き込まれれば、救護どころではない」
「承知しました」
「それと、情報に振り回されるな。伝令の確認を待て。噂で動くな」
「はい」
噂で動くな。
その言葉は、シュシュに向けられたものではない。四番隊全体への当然の指示だ。
だが、胸に刺さった。
自分が持っているのは、噂ですらない。
夢だ。
夢を根拠に動くなど、普通なら論外だった。
だからこそ、これまで動かなかった。
朽木家絡みの処刑騒ぎも、旅禍侵入も、藍染隊長の死亡も、すべて見届けるだけにした。
四番隊として、目の前の負傷者には対応した。搬送路も確認した。記録も残した。
だが、大きな流れには触れられていない。
触れなかったのではなく、触れられなかった。
その違いを、シュシュは自分でわかっていた。
◇
やがて、双殛方面からざわめきが広がった。
遠くにいる隊士たちの声が、波のように伝わってくる。
何かが始まった。
救護班の全員が、顔を上げた。
次の瞬間、空気が震えた。
重く、熱く、巨大な霊圧。
双殛。
夢の中で見た処刑具が、現実で動いている。
シュシュは、無意識に救護道具を握りしめた。
手のひらが痛い。
夢と同じだ。
また同じだ。
どこまで同じなのか。
これ以上、一致しないでほしい。そう思う自分と、最後まで一致しなければ判断できないと考える自分が、頭の中でぶつかる。
勝ったのは、どちらでもなかった。
体が固まっただけだった。
「織原」
ミツルが小声で呼ぶ。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
「嘘つけ」
「今は大丈夫ということにしてください」
ミツルは何か言いかけたが、そこで遠くから大きな衝撃が響いた。
救護班の隊士たちが一斉に身構える。
霊圧がぶつかった。
巨大な力が、何かに止められた。
ざわめきが悲鳴に変わる。
「何が起きた?」
「双殛が……」
「止まった?」
「旅禍か?」
断片的な声だけが届く。
シュシュの頭の中では、すでに夢の映像が開いていた。
黒崎一護が来る。
処刑を止める。
大きな斬魄刀で、あり得ないものを受け止める。
朽木ルキアを救う。
隊長格が動く。
副隊長たちが倒される。
その後に、さらに大きな裏切りが現れる。
知っている。
見た。
書いた。
それなのに、現実で起きると、こんなにも息ができない。
「織原、顔が真っ白だぞ」
「……問題ありません」
「問題しかなさそうなんだけどな」
「相沢」
「何だよ」
「今、私が変なことを言っても聞き流してください」
「は?」
「聞き流してください」
ミツルが目を見開いた。
シュシュは自分でも何を言っているのかわからなかった。だが、口に出さなければ、何か別の言葉が漏れそうだった。
藍染は死んでいない。
この後、全部ひっくり返る。
そう言ってしまいそうだった。
言えば終わる。
自分も、ミツルも。
だから、先に封じた。
「織原、お前――」
「来ます」
シュシュは遮った。
視線の先、通路の向こうから隊士が走ってくる。伝令だった。
「双殛方面、負傷者発生! 救護班、待機位置を維持しつつ搬送準備! 直接丘へは上がるな!」
「了解!」
上席が声を返し、救護班が動き出す。
ミツルも、それ以上は聞けなかった。
シュシュは担架を手に取る。
動け。
考えるな。
今は四番隊の仕事をしろ。
負傷者が来る。
処置する。
運ぶ。
生かす。
それだけを頭の中で繰り返す。
やがて運び込まれてきたのは、双殛周辺の警戒に当たっていた隊士たちだった。直接黒崎一護と戦った者ではない。霊圧の衝撃で吹き飛ばされた者、混乱の中で転倒した者、退避指示の途中で負傷した者。
戦闘の中心から少し離れていても、被害は出る。
シュシュはそれを見て、またひとつ記録すべき項目が増えたと思った。
大規模霊圧衝突時、周辺警戒隊士にも負傷者発生。
救護待機位置は、戦闘中心からの距離だけでなく、霊圧衝撃の伝播も考慮すべき。
退避経路が狭い場合、転倒・接触による二次負傷が出る。
頭の中で文章が組み上がっていく。
怖い。
怖いのに、記録しようとしている。
そのことに、シュシュは少しだけ自分を異常だと思った。
だが、異常でも構わない。
恐怖で動けなくなるよりは、情報に変換する方がまだ役に立つ。
「織原、こっち!」
「はい」
負傷者の腕を固定し、担架に乗せる。
呼吸はある。意識もある。出血は少ない。搬送優先度は中程度。
判断する。
動く。
声を出す。
その間にも、双殛の丘では何かが進んでいる。
夢と同じなら、黒崎一護はそこにいる。
朽木家の罪人は処刑台から降ろされる。
隊長格が動く。
そして、誰もが別の場所へ意識を向けている隙に、本当の敵はまだ盤面の上にいる。
藍染惣右介。
その名前が浮かぶたびに、シュシュは自分の背後が冷えるような感覚に襲われた。
彼女は、藍染を直接知らない。
言葉を交わしたこともない。遠目に見たことがある程度だ。穏やかで、優しげで、周囲に慕われている隊長。
現実の藍染惣右介は、そういう男として認識されていた。
だが、夢の中の彼は違った。
死を偽装し、他者を欺き、すべてを利用し、最後には悠然と立っていた。
あの夢が正しいなら、瀞霊廷は最初から盤上に乗せられている。
旅禍も、処刑も、混乱も、隊長たちの怒りも悲しみも。
その考えは、シュシュにとってあまりにも重かった。
重すぎて、今の自分では持てない。
だから、目の前の負傷者を見る。
手元の包帯を見る。
今触れられる現実だけを見る。
やがて、双殛方面からさらに大きな混乱が伝わってきた。
処刑が止まった。
旅禍が朽木家の罪人を奪った。
副隊長格が倒された。
隊長同士が動いた。
噂は断片的で、正確ではない。伝令も混乱している。誰も全体を把握していない。
だが、シュシュには、聞くたびに夢の断片が埋まっていくように感じられた。
知らないはずの絵に、色が戻っていく。
紙の上の文字が、現実の声になる。
「……もう、無理でしょ」
小さく漏れた声は、自分にしか聞こえないはずだった。
だが、隣にいたミツルが振り返った。
「何が?」
「何でもありません」
「今のは何でもなくないだろ」
「何でもありません」
シュシュは強く言い切った。
ミツルは納得していない顔をしたが、負傷者が来たことで会話は途切れた。
助かった。
同時に、限界が近いとも思った。
これ以上、隠し続けられるのか。
夢と現実の一致を目の前で見続けながら、何も知らない顔を保てるのか。
できる。
やるしかない。
少なくとも、この一件が終わるまでは。
終わった後、考える。
いや、終わった後は考えるだけでは足りない。
対策する。
その言葉が、初めて明確に頭の中へ浮かんだ。
対策。
夢を恐れるのではなく、夢から情報を取り出す。
現実に確認できたものを分類する。
被害の原因を洗い出す。
自分にできる範囲を見極める。
次に備える。
正義ではない。
英雄願望でもない。
このまま同じことが起き続ければ、自分の生活圏が削られていく。隊舎が壊れ、詰所が埋まり、顔見知りが運び込まれ、救護体制が後手に回る。
それが困る。
だから、対策する。
その考えは、恐怖よりもずっと扱いやすかった。
日が傾き始めた頃、空気が変わった。
最初に気づいたのは、霊圧の質だった。
双殛方面とは別の場所から、異様な圧が広がった。強い。だが、ただ強いだけではない。冷たく、滑らかで、底が見えない。
シュシュは息を止めた。
知っている。
夢で感じた。
あの男だ。
周囲の隊士たちもざわめく。
「何だ、この霊圧」
「隊長格か?」
「でも、これは……」
声が震えている。
シュシュは、ゆっくりと顔を上げた。
藍染惣右介。
死んだはずの男。
夢の通りなら、今、彼は現れる。
自分の死を覆し、すべての前提を壊し、瀞霊廷の混乱を完成させる。
伝令が駆け込んできたのは、その直後だった。
息を切らし、顔を青ざめさせている。転びそうになりながら、彼は上席の隊士の前で足を止めた。
「報告!」
「落ち着け。何があった」
「藍染隊長が――」
救護詰所の中が静まり返った。
シュシュは、指先の感覚が消えていくのを感じた。
聞きたくない。
だが、聞かなければならない。
これが最後の確認だ。
最後の逃げ道を壊す言葉だ。
伝令は、震える声で続けた。
「藍染隊長が、生きていました」
その瞬間、シュシュの中で何かが静かに折れた。
音はしなかった。
叫びもしなかった。
ただ、判断保留という札が、意味を失った。
夢は現実に対応している。
もう、そう認めるしかなかった。
偶然ではない。
思い込みではない。
疲労が見せた悪夢でもない。
少なくとも、夢日記に書かれた出来事の多くは、現実に起きる。
そして、自分はそれを事前に見ていた。
救護詰所では、怒号と困惑が広がっていた。
「何を言っている!」
「藍染隊長は殺されたはずだろ!」
「どういうことだ!」
「詳細は不明です! ただ、複数の隊長格が確認したと――」
声が重なり、情報が乱れる。
誰も全体を理解できていない。
当然だ。
普通なら理解できるはずがない。
死んだはずの隊長が生きていて、しかもこの混乱の中心にいるなど、誰がすぐに受け入れられるのか。
だが、シュシュだけは違った。
受け入れたくなくても、知っていた。
夢で見ていた。
だから、驚きよりも先に、吐き気が来た。
自分は知っていた。
知っていたのに、何もしなかった。
いや、違う。
できなかった。
今の自分が動いても、状況を良くできる可能性は低かった。むしろ、自分が消されるか、精神異常扱いされるか、情報源として危険視されるだけだった。
そう判断した。
その判断は間違いではなかったはずだ。
少なくとも、合理的には。
それでも、胸の奥が重い。
合理的に正しいことと、気分が悪くならないことは別だった。
「織原?」
ミツルが声をかけてきた。
シュシュは返事をしようとして、できなかった。
声が出ない。
「おい、本当に大丈夫か」
「……大丈夫です」
かすれた声だった。
「どこがだよ」
「今は、倒れません」
「今はって何だ」
「倒れたら、迷惑なので」
それだけ言って、シュシュは壁に手をついた。
足元が揺れている。
だが、倒れるわけにはいかない。
今も負傷者はいる。
藍染が生きていたという報せで混乱しても、四番隊の仕事は止まらない。
むしろ、これからさらに増える。
夢の通りなら、この後、藍染は瀞霊廷を去る。市丸ギンと東仙要も共に行く。隊長格の裏切り。中央四十六室の件。崩玉。虚圏。
情報が多すぎる。
一度に考えれば潰れる。
だから、切り分ける。
今考えるべきこと。
後で記録すべきこと。
今は考えてはいけないこと。
シュシュは、震える息を吸った。
まず、目の前。
負傷者。
救護。
搬送。
それだけ。
その後、記録。
そして、対策。
順番を作ると、少しだけ呼吸が戻った。
「上席」
シュシュは声を絞った。
「周辺隊士の動揺が大きいです。搬送指示が混乱する可能性があります。救護班内だけでも、搬送先と優先順位を再確認した方がいいと思います」
上席の隊士が、一瞬こちらを見た。
その目には驚きがあった。だが、すぐに現場の顔に戻る。
「……そうだな。全員、聞け! 情報に惑わされるな! 重傷者優先、搬送先は変更なし! 待機位置を離れるな! 伝令が来るまで独自判断で動くな!」
声が飛ぶ。
救護班の空気が、わずかに締まった。
シュシュは口を閉じた。
今のは、大きな介入ではない。
ただの現場判断だ。
夢の流れを変えるものではない。
けれど、混乱を少しだけ抑えた。
それでいい。
今は、それでいい。
遠くで、さらに強い霊圧が揺れた。
誰かが戦っている。
誰かが叫んでいる。
誰かが、裏切りを目の当たりにしている。
シュシュはそこへ行かない。
行けない。
行くべきではない。
けれど、もう目を逸らすことはできなかった。
夢は現実に対応している。
ならば、夢日記はただの悪夢の記録ではない。
危険な情報だ。
扱いを間違えれば、自分を殺す。
隠し続ければ、何かを見殺しにするかもしれない。
しかし、正しく使えば、被害を減らせるかもしれない。
その可能性がある以上、捨てられない。
◇
やがて、藍染惣右介たちが瀞霊廷を去ったという報せが入った。
詳細はまだ曖昧だった。
だが、隊長格の裏切りという事実だけで、十分すぎるほど重かった。
救護詰所には、言葉を失った沈黙が落ちた。
誰もが疲れ切っていた。
怒る者もいる。呆然とする者もいる。信じられないと呟く者もいる。
シュシュは、その中で床に座り込むことだけはしなかった。
座れば、もう立てない気がした。
代わりに、近くの棚に置いていた紙片を取り出す。
手が震える。
それでも書いた。
『藍染惣右介、生存確認。死亡偽装。隊長格の裏切り。市丸ギン、東仙要も関与の可能性。夢日記との一致、否定困難』
そこで筆が止まる。
否定困難。
まだ逃げている。
シュシュは、しばらくその四文字を見つめた。
そして、ゆっくりと横線を引いた。
否定困難。
その上から、新しく書く。
『夢日記は、現実に対応している』
書いた瞬間、身体の奥が冷たくなった。
認めた。
もう戻れない。
夢を夢として処理する段階は終わった。
判断保留は終わった。
ここから先は、知っている者として考えなければならない。
何を変えるのか。
何を変えないのか。
どこまでなら動けるのか。
誰に話すのか。
誰には絶対に話してはいけないのか。
どうすれば、自分が消されずに済むのか。
どうすれば、次の被害を減らせるのか。
問いが一気に押し寄せてくる。
だが、不思議と、先ほどまでのような混乱だけではなかった。
恐怖はある。
吐き気もある。
それでも、判断が終わったことで、視界の奥に一本の線が通ったような感覚があった。
夢は現実に対応している。
ならば、使う。
怖いから捨てるのではない。
気味が悪いから忘れるのではない。
自分の生活圏を守るために、使えるものは使う。
シュシュは紙片を折りたたみ、懐にしまった。
外では、まだ騒ぎが続いている。
瀞霊廷は傷ついた。
死者も負傷者も出た。
信頼されていた隊長は裏切り、処刑騒ぎは別の陰謀に利用され、護廷十三隊は大きな失態を抱えることになった。
だが、夢の中で見た未来は、これで終わりではない。
虚圏。
破面。
空座町。
見えざる帝国。
瀞霊廷の壊滅的被害。
まだ続きがある。
今回、守りたい場所はすでに傷ついた。
隊舎も、詰所も、顔見知りのいる日常も、無傷では済まなかった。
それでも、夢で見た瀞霊廷の終わり方は、この程度ではなかった。
白い壁が崩れ、隊舎が瓦礫になり、当たり前に続くはずの日常が踏みにじられる。
そんな未来が、まだ残っている。
まだ間に合う。
今なら、まだ。
そう思った瞬間、胸の奥に沈んでいた恐怖が、別の形を取り始めた。
対策する。
徹底的に記録する。
被害の原因を分解する。
救護経路を見直す。
情報共有の遅れを潰す。
自分も強くなる。
治すだけでは足りない。
逃げる力も、縛る力も、守る力も、戦場を読む力もいる。
次に同じようなことが起きた時、ただ運ばれてくる負傷者を待つだけの四番隊員では終わらない。
シュシュは、静かに息を吐いた。
自分は英雄ではない。
正義のために立ち上がるわけでもない。
ただ、壊されて困る場所がある。
失うと困る日常がある。
それを守るためなら、夢だろうが何だろうが、使う。
「織原」
ミツルが、疲れた顔で近づいてきた。
「少し休め。さっきから顔がひどい」
「顔は元からです」
「そういう意味じゃない」
「わかっています」
シュシュは紙片をしまった懐を、無意識に押さえた。
ミツルがそれに気づいたかどうかはわからない。
「休みます。ただ、その前に記録をまとめます」
「今やることか?」
「今でないと忘れます」
「真面目すぎるだろ」
「忘れる方が問題です」
ミツルは何か言いたげだったが、結局ため息をついた。
「倒れる前にやめろよ」
「倒れたら迷惑なので、倒れません」
「それ、さっきも聞いた」
「便利なので」
ほんの少しだけ、ミツルが笑った。
その表情を見て、シュシュは思う。
こういうものを、失いたくない。
大げさな理想ではない。
世界平和でもない。
ただ、こういう会話が明日も続く方がいい。
隊舎が残り、詰所が動き、顔見知りが生きていて、面倒な仕事に文句を言える方がいい。
そのために必要なら、彼女は夢日記を使う。
織原シュシュは、救護詰所の片隅に腰を下ろし、紙を広げた。
もう「判断保留」とは書かない。
新しい見出しを書く。
『確認済み事項』
続けて、もう一行。
『今後の対策候補』
その文字を見た時、夢日記は完全に意味を変えた。
不気味な悪夢を書き出すための紙束ではない。
未来を恐れて眠れなくなるための呪いでもない。
被害を減らすための材料。
自分の生活圏を守るための記録。
まだ小さく、頼りなく、誰にも見せられないものだったが、それでも確かに、彼女にとって最初の武器になった。
遠くで、夜明け前の空が白み始めている。
瀞霊廷は傷だらけだった。
だが、まだ壊れてはいない。
織原シュシュは筆を握り直した。
次は、ただ見ているだけでは終わらない。