## 第一話:静寂の帰還、あるいは調律の胎動
高専最深部、その特級封印施設から解放された湊が再び地上の土を踏んだ時、季節はすでに秋の深まりを見せていた。
吹き抜ける風には冷たい冬の予感が混じり、周囲の木々は赤や黄色に燃え上がっては、無慈悲にその葉を散らしている。かつての彼であれば、この「朽ちゆく風景」すらも素材として認識し、自身の欠落を埋めるための餌食にしていたかもしれない。だが、今の湊の瞳に宿るのは、底の見えない凪のような静寂だった。
かつての狂気じみた飢餓感は鳴りを潜めている。以前の彼は、混ぜ合わせることでしか自分を保てない不完全な器だった。しかし、封印という名の空白期間を経て、彼は自らの魂から「混じり物」を取り除いた。その佇まいは、まるで嵐の去った後の湖面のように、どこまでも透き通っている。
だが、その静けさとは裏腹に、彼の傍らで影から音もなく滑り出す黒龍『黄泉』の存在感は、以前の比ではなかった。
「おー、出てきたね。顔色が良くなったじゃないか」
校門の石柱に背を預け、いつものように軽い足取りで歩み寄ってきたのは、五条悟だった。目隠しの奥にある『六眼』は、湊が数歩歩いただけでその変貌を即座に見抜く。湊を巡る呪力の流れが、以前のような制御不能な「情報の濁流」ではなく、極限まで磨き上げられ、一本の研ぎ澄まされた弦のように調律されていることを。
「……先生。ご迷惑をおかけしました。少し、頭の中を整理する時間が必要だったみたいです」
湊の言葉は穏やかだったが、その声には以前にはなかった芯の強さが宿っていた。五条は口角を上げ、湊の肩を軽く叩く。
「整理、ね。自分と龍を切り離して再構築するなんて、呪術の歴史で見ても荒療治もいいとこだけど。……おかげで、その龍、もう僕でも『呪霊』とは呼びにくい神々しさになってるよ。まるで、古の神使だね」
五条の言葉通り、黄泉の挙動は劇的に変化していた。かつては湊の情動に引きずられ、破壊を撒き散らすだけの獣だった黒龍は、今や湊の命令を待たずとも自律的に周囲を索敵し、主を守護する。主を縛り、侵食するための存在から、主を支え、共に歩む「対等な半身」へと昇華を遂げたのだ。
「これからは、無闇に混ぜることはしません。……でも、世界には『あるべきではない形』が多すぎる。それを放っておくことも、もう出来そうにありません」
湊は、自身の白い掌を静かに見つめた。
かつての彼は、目の前にある全ての事象を皿に載せ、力任せに混ぜ合わせようとした。しかし今の彼には、対象を「あるべき最小単位」へと解体し、そこに潜む歪みを正す**『理解(りかい)』**の境地が見え始めていた。混ぜるのではなく、正す。その指先は、今や破壊のためではなく、世界の歪みを調律するためにある。
「湊、ちょうどいい。復帰明け早々で悪いけど、渋谷で少し『不穏な影』が動いてる。虎杖くんたちも向かわせてるけど、君にしか見えない『歪み』があるはずだ。いや、君にしか直せない歪み、かな」
「……渋谷、ですか」
湊の脳裏に、かつて奪い、そして解き放った漏瑚の熱量や、花御の残滓が疼くように響いた。彼ら特級呪霊を裏で糸を引くように操り、世界のパズルを最も醜い形で組み替えようとしている「何か」の気配。それは、湊が最も嫌悪する「不自然な配合」の匂いだった。
「わかりました。……僕がバラバラにして、正してきます。調律師として」
湊は、校舎の窓から自分を「怪物」としてしか見ていない上層部の刺すような視線を背中に感じながら、五条に背を向けた。
その足取りは軽く、しかし一歩ごとに大地へ確かな意志を刻み込む。
かつての「禁忌の配合師」は、自らの犯した罪と、分かち合った龍の命を背負ったまま、呪術界最大の転換点――**渋谷事変**へと足を踏み入れる。
湊の影の中で、黒龍『黄泉』が静かに、しかし鋭く三対の眼を光らせた。
それは、真の調律師が奏でる、終焉と再生の序曲だった。
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第二部・渋谷事変編、開幕です。