キヴォトスの残響-とある漂流者の活動記録ー   作:わたぬき※

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キヴォトス、ブラックマーケット。
 そこは、光り輝く学園都市の影が最も深く落ちる場所。
 その路地裏に、一軒のカフェが店を構えていた。
 ちょっと癖のある店長と、二人の看板娘。
 
 琥珀色の液体が満たすカップの向こう側で、彼らが何を待ち、何を見ているのか。
 これは、嵐の前の静けさのような、とある日常の記録。


第1話:休日の終わりの、黒い琥珀

  ブラックマーケットの朝は、硝煙と廃油の匂いで始まる。

 だが、その路地裏の突き当たり、喧騒から切り離されたような一角だけは、深く、穏やかな焙煎豆の香りが支配していた。

Caffè Centotto(カフェ・チェントット)

 

 カウンターの中で、マサキは静かに時計を見た。

店主のマサキが入り口の鍵を開け、看板を出す。

 この世界に流れ着いてから、五ヶ月。ようやくこの街の空気にも、淹れ慣れた豆の香りにも、違和感がなくなってきた頃だった。

 

「……店長、おはよ」

 居住区へと繋がる扉から、眠たげな声を出しながら同居人のユエがやってくる。

 この店、Centotto(チェントット)で従業員として働くようになって数ヶ月。彼女はマサキの横を通り過ぎる際、定位置に掛けられた自分のエプロンを手に取ると、そのまま慣れた手つきでカウンターの内側へと滑り込んだ。

 

「ユエ、フロアのセッティングを済ませておけ。連休明けだ、一息つきに来る連中が来るぞ」

「はいはい、店長。……でもさ、『疲れるほど頑張る必要はない』っていつも言ってる本人が、一番完璧に店を回そうとしてますよね。説得力ないんですけど」

 ユエがニヤリと揚げ足を取るように笑いかけると、マサキは表情一つ変えずに、手元のカップを磨きながら淡々と返した。

「勘違いするな。この店の経営なんぞ、俺にとっては『頑張る』の範疇にすら入らん。……半分は趣味のようなものだ」

「あっそ。……相変わらず、可愛くないですね」

 ユエは肩をすくめると、フロアの各テーブルを回り始める。

 

 

 

 正午を過ぎた頃、カラン、と乾いたドアの鈴が鳴った。

 入ってきたのは、全身に「疲労」という名の重圧を纏った、一人の少女だった。

 

「……いつものブラックコーヒー」

 

 ゲヘナ学園の次期委員長候補、空崎ヒナ。

 彼女はマサキの顔を見るなり、吸い寄せられるようにカウンターの一角へ腰を下ろすと、そのまま両腕を投げ出して突っ伏した。

 

「あらら……ヒナちゃん。お疲れ様。連休はゆっくり……なんて、聞くまでもなさそうかな?」

 

 もう一人の従業員のウツホが苦笑混じりに水を置く。どこか間の抜けた柔らかい声音は、殺伐としたブラックマーケットの空気には、ひどく不釣り合いな響きを持っていた。

 

 ヒナは顔を伏せたまま、くぐもった声で答えた。

 

「……いいえ。連日、大規模な合同演習が入っていて。私の連休は、全部その対応で潰れたわ」

「不憫だな、お前も」

 

 マサキが淡々と、けれど温かな湯気を立てる一杯をヒナの前に置いた。

 

「……店長。あなたは他人事だと思っているでしょうけ、ど予備弾薬の補充から事後処理まで、私がどれだけ……」

 

ヒナが恨めしそうに視線を向けるが、マサキは眉ひとつ動かさずに、手元のカップを布巾で拭った。

 

「当然だ。俺はこの店の店長であって、お前の教官でも上官でもないからな。お前がどれだけ働こうが、俺には関係のない話だ」

 

 その、あまりにも潔い「他人事」としての宣言。

 ヒナは毒気を抜かれたように「……それもそうね」と小さく吐き捨て、再びカウンターに顔を埋めた。だが、その背中に追い打ちをかけるように、マサキの低く落ち着いた声が続く。

 

「……だが。他人として言わせてもらえば、……お前はよくやっている。十分すぎるほどにな」

「……え?」

 

 予想外の言葉にヒナが顔を上げるより早く、マサキはカウンター越しにそっと手を伸ばした。

 大きな掌が、ヒナの白い髪を覆う。それは責任ある立場としての評価ではなく、ただ頑張りすぎた教え子の頭を、その道の先達が労うような――そんな無骨で、静かな「撫で」だった。

 

「お前はよくやっている。……だから次は、人を使うことを覚えておけ。すべてを自分が担えばいいわけじゃない」

 

 されるがままのヒナが驚きに目を見開く中、マサキは淡々と、けれど教え諭すように続けた。

 

「自分がいなくても回る環境をつくる。それが、最終的にお前が楽になるための秘訣だ」

「……っ。……勝手、なんだから」

 

 正論、かつあまりにも突き放した「効率」の論理。

 けれど、自分の限界を見抜いた上でのその言葉に、ヒナは反論を飲み込み、心地よさそうに細めた瞳でその掌を受け入れた。

 

 

「ちょっと! 店長!」

 

 そこへ、お盆を抱えたユエが猛然と割り込んできた。

 

「セクハラ! じゃない、教育的によくない! ……ヒナちゃんも、そんな簡単にされるがままにならないの! もー……」

 

 ユエがマサキの手をヒナの頭から引き剥がし、不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 不意に温もりが消えたヒナは、一瞬だけ呆然とした表情を浮かべたが、すぐに髪を整え、何事もなかったかのように視線をカップへと落とした。

 名残惜しさを口にするような無粋な真似はしない。ただ、少しだけ乱れた前髪を指先でなぞり、冷めかけたコーヒーをゆっくりと一口、嚥下した。

 

「……あなたの言うことは、いつも正論すぎて反論できないわ。……ええ、覚えておくわよ。……秘訣、なんでしょ?」

 

 そう呟く彼女の耳元が、わずかに赤い。

 その隣で、ウツホは何も言わず、ただ眼鏡の奥で呆れたような――けれど、どこか慈愛に満ちた眼差しでマサキを見つめていた。

 

 誰よりも無理をして、誰よりも一人で背負い込み、挙句に「今」を作り上げた本人が何を言っているのか。

 そんな、言葉にするまでもない共通認識が三人の間にだけ流れ、マサキは二人の視線を無言のまま受け流すと、使い終えたドリッパーを静かに片付け始めた。

 ヒナは照れ隠しのように熱いコーヒーを一口啜り、ユエはぶつぶつと文句を言いながらフロアへ戻っていく。

 

 連休明けの静かな午後は、穏やかな距離感の中で、ゆっくりと過ぎていった。

 




第1話をお読みいただきありがとうございます。
 
 ブラックマーケットにあるカフェ『チェントット』。
 マサキ、ユエ、ウツホの三人が、この街に馴染みながら過ごす風景から物語は始まりました。
 次回、第2話。
 そもそもどうしてゲヘナの風紀委員がブラックマーケットへ休憩にきているのか?
 その疑問が明らかになります。
 引き続き、お付き合いいただければ幸いです。

以下、ゲヘナ学園情報部がまとめた風の、内部資料の一部を公開します。

【ゲヘナ情報部 内部調査資料:108-BM-01】
■ 調査対象者 A:マサキ
立場: 『Caffè Centotto』店主 / 『掃除屋108(ハンドレッドエイト)』代表
特徴: ヘイローなし、20代男性、身長175㎝(推定)
調査報告: ヘイローを持たないことから「外来の大人」であると断定。
個人で怪異を討伐可能な戦力を保有する。
出自、流入経路ともに不明。彼が製造する「特殊弾」は通常の火器では傷一つ付かない「怪異」を物理的に消滅させる威力を有する。外来の未知の技術によるものと推測される

■ 調査対象者 B:ウツホ / 調査対象者 C:ユエ
立場: カフェ店員
特徴:両名ともにヘイローあり、18歳前後女性、身長165㎝(推測)
調査報告:連邦生徒会が管理する全校生徒の在籍記録、および過去の除籍者リストに一切の該当データが存在しない。
何らかの技術的手段により、過去の在籍記録そのものが人為的に抹消された可能性が高い。
マサキという「外来の大人」の手によって、社会システムから切り離された「存在しない人間」として再構成されたものと推測される。

[総評]マサキという「外来の大人」を核とした、極めて閉鎖的な共同体。彼らの保有する「特殊弾」は、怪異への唯一の対抗手段であると同時に、キヴォトスという世界の前提(生存性の保証)を根本から崩壊させかねない危険性を孕んでいる。空崎ヒナによる独占的な窓口の維持を最優先とし、情報部によるこれ以上の干渉は、対象による「実戦投入」のトリガーになりかねないため厳禁とする。
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