キヴォトスの残響-とある漂流者の活動記録ー   作:わたぬき※

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かつて、ある少女は絶望の淵に立っていました。 積み重なる責任、終わりのない闘争、そして理不尽な怪異。 すべてが「詰み」に思えたその瞬間、彼女の前に現れたのは、安っぽい同情ではなく、冷静に現状を打破する道を示した一人の男でした。 今夜、カフェ『チェントット』の穏やかな灯りの中で語られるのは、そんな「あの日」の回想。


第3話:境界線の調律

 

数ヶ月前、ブラックマーケットの路地裏。 

空崎ヒナの視界は、どろりとした負の感情が実体化したような「怪異」によって遮られていた。 愛銃『終幕:デストロイヤー』の重みすら感じられないほど、彼女の心身は限界に達している。膝が震え、引き金にかけた指が冷え切っていく。

 

(……ここまで、なの……?) 

 

死を覚悟し、瞳を閉じかけたその時。 横合いから飛来した影が、衝突した瞬間に怪異を数メートル弾き飛ばした。

 

「割り込んで悪いな……怪我はないか」 

 

現れたのは、二十代半ばの落ち着いた風貌をした男――マサキだった。 

彼はヒナを背に庇うように立ち、視線だけを彼女に投げた。

 

「……あ、なたは……?」

「少し前から様子は見ていたんだが、同業者の獲物を横から奪うのはマナー違反だと思ってな直。だが、いよいよ限界のようだったから、割り込ませてもらった」

 

 正直に「様子を見ていた」と打ち明けながらも、その口調にはヒナを尊重する響きがあった。

 

「……私の獲物よ直。まだ、やれる……」

「そうだな。だが、相打ちすら厳しいと思うが……どうだろう、ここは俺に『討伐権』を譲らないか? 悪いようにはしない」

 

 理性的で、対等な「大人」としての言葉。 ヒナはその琥珀色の瞳に見つめられ、今の自分に必要なのは意地ではなく、この「提案」を受け入れる余裕なのだと悟った。

 

「……分かったわ直。お願い、する」

「……助かる」

 

マサキはリボルバーを抜くと、体勢を立て直しこちらへと向かってくる怪異へ狙いを定め、静かに引き金を引いた。 

放たれた弾丸は怪異の心臓付近を正確に穿ち、その瞬間、巨大な風穴があいたかのように怪異の存在が霧散した。

 

 一撃。

 

自分が死を覚悟した相手が、あまりにも呆気なく消滅した。

 

「……今のは、何……? 普通に撃ち込んだだけじゃ、あんな消え方……っ!」

「ここで話すようなことじゃないな。……事情が知りたければ、この場所に来るといい。一人で来れば、君の納得のいく説明をしよう」

 

マサキはカフェ『108』のメモを差し出し、気遣いを見せる。

 

「ここから一人で帰れるか?」

「…大丈夫」

 

ヒナは強がって立ち上がろうとしたが、膝は生まれたての小鹿のように笑っていた。 

マサキは短く溜息を吐き。

 

「少し我慢してくれ」

 

とだけ告げると、彼女を軽々と姫抱きにした。

 

「っ、な!? ちょっ、ちょっと!?」

「口は閉じてろ、舌を噛むぞ」

 

 マサキは答えを待たず、ビル壁を垂直に駆け上がり、屋上から屋上へと空中を舞った。

 

「ひゃあああっ!?」

重力を無視したような加速に、後の風紀委員長らしからぬ悲鳴を夜の街に置き去りにするしかなかった。

 

 

風紀委員の本隊が待機する地区の傍。 安全な場所に下ろすと、マサキは彼女の混乱が解ける前に、闇の中へとその姿を消した。 手元に残されたメモと、常識を遥かに超えた「大人の背中」。 空崎ヒナにとって、それは「信頼」と「不可解」が混ざり合った、生涯忘れられない夜となった。

 

 

 

 

 

 

ブラックマーケットの喧騒が続く時間帯、『Caffè Centotto(カフェ チェントット)』の店内。 風紀委員長としての職務――「商談が難航した」という便利な言い訳を盾に、空崎ヒナは他に客のいない店内で、珍しく長居を決め込んでいた。

 

「……マサキ。今の言い方は少し、つっけんどん過ぎない?」 

 

カウンターの奥で、黙々とグラスを磨くマサキへヒナが不満げに口を尖らせる。あの日、自分を救い上げた時の「紳士的な大人」の面影は、今の事務的な店主の姿には薄い。

 

「……私は、初対面のときはもっと紳士的に対応されたと思うけど?」 

 

その一言に、店内で手伝いをしていたユエとウツホが、弾かれたようにマサキを凝視した。

 

「「!!??」」

「……なんだ。当然だろ?」

「「「当然!?」」」

 

三人の驚愕の声が重なる。マサキは不思議そうに眉を寄せた。

 

「マサキ君……まさか、ヒナちゃんを特別扱いして落としにかかったんですか?」

「? いや。同業者の討伐に割り込むんだから、対等以上に言葉には気を付けないと余計な摩擦やら軋轢やらが生まれるだろ。そういうことだぞ」 

 

あまりにも情緒のない合理的な回答。 

 

「なんだ……」

「なんだ……びっくりさせないでください」

 

肩を落とすヒナと安堵するユエ。だが、ウツホはある単語を思い出し、ニヤリと笑った。

 

「ねぇ、マサキ君。それって、いわゆる『ビジネススマイル』の延長線上のやつ?」

「? まあ、円滑に物事を進めるための対人技術という意味では、そう言えなくもないが」

「じゃあさ、やってみてよ! 『いらっしゃいませ!』ってお客さんが来た感じで!」

「えー? なぜそんな必要が……」

「できるんですよね? 見てみたいです」 

「……私も、見てみたい」

 

ユエが煽り、ヒナまでが身を乗り出して話に乗ってきた。マサキは露骨に嫌そうな顔をして、しばらく粘ったが。

 

「……はぁ。分かった、一度だけだぞ」 

 

マサキはわずかに間を置いた。 そして、顔を上げた瞬間。

 

「いらっしゃいませ」 

 

パァァァァ、と音がしそうなほどの、一点の曇りもない満面の笑み。 それは長年の経験から導き出された、相手の懐へ無抵抗に踏み込むための、あまりに「完成」された笑顔だった。

 

「「「…………」」」 

 

三人は言葉を失い、石像のように硬直した。 あまりの破壊力に、各々が耳や頬を赤らめ、視線を泳がせる。

 

「……おい。やらせておいて反応なしは、さすがに酷くないか?」

「……あ、いや。なんでもないですよ。なかなかでした、ビジネススマイル……」

「……うん、すごかった……」

「もう絶対、外でやっちゃダメだからね! 禁止! 禁止だから!」

「……やらせておいて理不尽な……」 

 

マサキは納得のいかない様子で、溜息とともにグラスを拭き始めた。

こうして、『Caffè Centotto(カフェ チェントット)』における「マサキのビジネススマイル禁止令」が全会一致で可決されたのだった。

 

 

 

 

 

閉店時間を過ぎ、最後まで残っていたヒナを送り出す。

その後、従業員であるユエとウツホがそれぞれの居住スペースへと引っ込むと、『Caffè Centotto(カフェ チェントット)』は本来の静寂を取り戻した。 

マサキは使い終えたネルドリップを洗い終えると、カウンターの奥で一人、エプロンを外した。 

 

鏡の前で、緩く結っていた白髪をほどき、後ろへと流す。眼鏡を外せば、伏せられていた琥珀色の瞳は、濁りのない冷徹な光を湛えた。 

黒系のスーツを纏い、その上に黒のロングコートを羽織る。 懐のホルスターを確かめ、そこへ重量感のあるリボルバーを収めた。

金属と革が擦れる、乾いた音。理外の怪異を貫くために、その「神秘」を最適化した弾丸を吐き出す、使い慣れた道具だ。

 

「……さて」 

 

彼は正面入口には向かわず、階段を上がり屋上へと出た。 

地上五階。 眼下に広がるのは、無法と神秘が入り混じるブラックマーケットの夜景だ。 

マサキは柵のない縁に立ち、冷たい夜風を肺の奥まで吸い込んだ。内画を循環させ、意識と肉体の出力を「戦闘」の領域へと引き上げていく。 

 

この歪んだ世界が、せめて明日も同じ朝を迎えられるように。 

マサキは迷いなく、漆黒の底へとその身を投げ出した。 

翻る裾の音だけを置き去りに、数多の世界を渡り歩きこの地に辿り着いた漂流者は、深夜の街へと消えていった。




第3話、最後までお読みいただきありがとうございました。 

今回は、空崎ヒナとの出会いを通じて、マサキがこの世界でどのような立ち位置を選んでいるのかを描きました。
彼が見せる「大人の振る舞い」や「完成された対人技術」は、彼が渡り歩いてきた無数の世界と時間の積み重ね、その一端に過ぎません。 賑やかな日常の幕が下り、漆黒の夜へと飛び込んでいった漂流者。 

次話からは、さらに賑やかで、そして厄介な「新たな客」たちがこのビルを訪れることになります。 

第4話にて、またお会いしましょう。

【蛇足:なんであんなにビジネススマイルが凄いの?】
「……昔、観光業の現地ガイドとして接客をしていた時期があってな。その時に習得した技術だ。その時の仕事の真似事のようなものだよ。……なぜそんな顔をする? 結構役に立つ対人スキルだろう?」
「いや、そのスキルで何人の観光客を沼に沈めてきたのかと思って……」
「? 先輩ガイドの方がすごいぞ? 固定客(ファン)がついていたからな。……あの人がまだ見習いだった頃に拾われて、しばらく一緒に住み込みで働いていたが、あの包容力だけは最後まで身に着けられなかった」
「………………」
「固定客? ガイドで? ……それ、もう別の『プロ』の領域に足踏み込んでない?」
「すごいよなー」
「(……ねぇユエちゃん、今の聞いた? 『拾われた』『住み込み』『包容力』……)」
「(……聞こえてます、ウツホ先輩。……明言はされてませんけど、十中八九、女性ですよね……?)」

以下、第3話時点でのゲヘナ情報部による内部資料を公開します。

【ゲヘナ情報部 内部調査資料:108-BM-03】
■ 調査対象者 A:「マサキ」
【更新】技術的解析の停滞:空崎委員長の報告にある「怪異の即時霧散」について、技術部門より詳細な解析依頼が出されている。
しかし、空崎委員長が対象と結んでいる『契約』により、本学園への「特殊弾」等の現物提供が厳格に禁止されている現状では、間接的な観測以上の解析は不可能である。
また、対象はリボルバーを使用しており、現場に空薬莢を一切残さない。不発弾や排出薬莢からの成分分析を物理的に遮断する意図的な秘匿工作と推測され、技術部門からは「意図的にこちらの解析を拒絶している」との強い不満が出されている。

【追加】対人論理の極端性:対象が提示する「紳士的対応」の正体は、倫理観ではなく、「リスクヘッジ」という名の冷徹な計算に基づいている。
対象は「強者との無用な摩擦は非合理的」と断じており、その場に最適化された完璧な振る舞いを「ビジネス」として実行する。この無自覚かつ完成された「演技」によって、空崎委員長の内面に解除不能な心理的依存(楔)を打ち込んだものと断定する。

■ 調査対象者 B:呼称「ウツホ」 / 調査対象者 C:呼称「ユエ」
【更新情報なし】

[総評:更新]
対象の危険性は、その圧倒的な武力以上に、「理性的かつ善意を装った合理的な介入」によって、対象者の常識と依存先を不可逆的に書き換えてしまう点にある。
空崎委員長が『Caffè Centotto(カフェ チェントット)』へ長居し、本隊への報告を遅延させている現状は、心理的防衛の域を超え、対象による「環境的な囲い込み」が完了しつつあることを示唆している。
現時点での武力介入は、百鬼夜行の二の舞を招くだけでなく、空崎委員長というゲヘナ最大の抑止力を完全に喪失(マサキへの完全な帰依)させるトリガーになり得る。引き続き、空崎委員長を「唯一の接点」として維持しつつ、対象が次に介入の必要性を認めるであろう特異点、およびそこで接触が予想される生徒の特定が急務である。
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