第1話「スタイリッシュな入道」
実力とは何だろうか。
人は平等ではない。この社会には、目に見えない厳然たる格差が存在する。
その答えを求めて、オレはこの高度育成高等学校の門を叩いた。希望する進路にほぼ100%入れるという、夢のような学校。
だが、入学早々のバス車内で、オレはさっそくこの学校の異質さを突きつけられることになった。
満員のバス。優先席に座る一人の高慢な少年と、その前に立つ老女。そして、席を譲るよう促すお節介な少女。
「君が座るより、そのお婆さんが座った方が有意義だとは思わないかな?」
男子生徒は鏡で前髪を整えながら、鼻で笑った。
「ナンセンスだね。私は私自身の幸福のためにこの席にいる。老い先短い老人に施す義務など、私の美学にはないのだよ」
車内に重苦しい沈黙が流れる。
合理的といえば合理的。だが、社会通念上は悪とされる光景。
オレは窓の外を眺めながら、自分を消していた。下手に介入すれば、平穏な高校生活は初日から瓦解する。
その時だった。
「……やれやれ。少々、空気が淀んでいるようですね」
低く、そして澄んだ声が車内に響いた。
声の主は、オレの数人隣に立っていた。
黒縁のメガネ、寸分の乱れもない七三分け。制服のシワ一つなく、立っているだけで周囲の重力がそこだけ整えられているような、圧倒的な存在感。
「君は……?」
女子生徒が戸惑いながら彼を見る。
少年は老女の前に歩み寄ると、恭しく一礼した。
「お怪我はありませんか、マダム」
「え、ええ……大丈夫ですよ、坊や」
少年は、そのまま男子生徒の方を向くことはなかった。彼が取った行動は、譲歩を迫ることでも、説得することでもなかった。
彼は、老女の隣にある手すりを右手で掴むと、左手を自分の腰に当てた。
「秘技:人間工学(エルゴノミクス)・サスペンション」
彼がそう呟いた直後、バスが大きく揺れた。
乗客たちがよろめく中、彼は微動だにしない。それどころか、彼の左腕は老女の腰を優しく、それでいて鋼のように強固に支え、バスの振動を完全に吸収していた。
老女は、まるで最高級のソファに座っているかのような安らかな表情を浮かべている。
「……な、なんだあいつ」
「立ってるだけなのに、座ってる奴より楽そうに見えるぞ……?」
男子生徒でさえ、その光景には一瞬だけ眉を動かした。
少年は老女を支えたまま、ポケットから一冊の文庫本を取り出し、読み始めた。バスがどんなに揺れようとも、彼が持つ本は一ミリもブレない。
オレは、彼という存在を頭の中で分析しようとしたが、すぐに止めた。
……こいつは、オレの知る人間のカテゴリーに入れていい存在ではない。
1年Dクラス。
それがオレ、綾小路清隆に割り振られた居場所だった。
教室に入り、自分の席を確認する。窓際の後ろから二番目。
そして、その隣の席——。
「よろしく。今朝のバスでのことを見ていた。名前は何というんだ。」
「……坂本ですが?」
「そうか。オレは綾小路清隆だ。」
バスで見かけたあの少年が、定規で測ったかのような正確な動作で着席していた。
彼は着席しているだけなのに、その背筋は天を突くように真っ直ぐで、机に向かう姿はまるで歴史的公文書に署名する外交官のような厳かさを放っている。
さらにその隣には、鋭い目つきの美少女・堀北鈴音が座っていた。彼女もまた、坂本の異常なオーラに毒気を抜かれたのか、一言も発せずに彼を凝視している。
やがて、担任の茶柱佐枝が教室に入ってきた。
彼女はこの学校の特殊なシステム——Sシステムについて説明を始めた。
「この学校では、お前たちの実力をポイントという形で評価する。今、お前たちの端末には一律で10万ポイントが支給されているはずだ。1ポイントは1円。好きなようにしろ」
教室が騒然となる。10万ポイント。高校生が自由に使える金額としては破格だ。
「マジかよ! 10万だぜ!?」
「何でも買えるっすよ!」
須藤、池、山内が色めき立って騒ぎ出した。
「……10万ポイント、ですか」
隣で、坂本が小さく呟いた。
彼は支給された端末を手に取ると、その画面を愛おしそうに見つめた。
……いや、違う。彼は金額を見て喜んでいるのではない。
「この0が並ぶ規則的な配列……実にスタイリッシュなデザインです」
彼はそう言うと、端末をポケットにしまい、二度と取り出そうとはしなかった。
「坂本、ポイントは使わないのか。」
オレがなんとなく尋ねると、彼はメガネのブリッジを中指でクイと上げた。
「綾小路くん。武士は食わねど高楊枝……と言いますが、僕は『学園の無料配布の水道水』があれば、十分に芳醇な生活を送ることが可能です。ポイントに縛られるのは、少々無粋かと」
……10万ポイントを無粋で切り捨てる男。
堀北が隣で興味あり気といった風に彼を見つめていた。
放課後。
教室内には、まだ浮ついた空気が残っていた。
そんな中、須藤たちが坂本の席に歩み寄るのが見えた。
彼らは、入学初日から異様な存在感を放つ坂本が気に食わなかったのだろう。典型的ないびりだ。
池が目配せをし、山内が教室のドアの上に、チョークの粉が詰まった黒板消しを仕掛けた。
「おい、坂本! ちょっと購買まで付き合えよ!」
須藤が坂本に声をかける。
坂本は「お誘い、恐縮です」と優雅に立ち上がった。
オレは、ドアの上に仕掛けられた罠に気づいていた。だが、あえて声は出さない。坂本という男がどう対処するのか、あるいは無様に粉塵を浴びるのか、確認したかった。
坂本がドアに手をかける。
ゆっくりと開かれる扉。
重力に従い、黒板消しが真っ逆さまに落下した。
「——秘技:無重力捕獲(ゼログラビティ・キャッチ)」
シュッ、という風を切る音が聞こえた。
坂本は一歩も動いていない。だが、彼の頭上にあったはずの黒板消しは、彼の首の付け根と制服の襟の間に、奇跡的な角度で挟まっていた。
制服には一粒のチョークの粉も付着していない。
「なっ……!?」
須藤たちが絶句する。
坂本はそのまま、首を傾ける動作だけで黒板消しを手元に滑り込ませると、流れるような動作で黒板へと向かった。
「皆さんの熱烈な歓迎、痛み入ります。このお礼に、少々汚れが目立っていた黒板を、クリーニングさせていただきましょう」
彼は両手に黒板消しを持つと、猛烈なスピードで左右に動き始めた。
「秘技:反復横跳び(レペティションサイドステップ)」
残像が見えるほどの高速移動。
それによって発生した旋風が、教室内の埃やチョークの粉を一点に集めていく。
瞬く間に、黒板は新品同様の輝きを取り戻した。
「……し、師匠……!」
呆然としていた須藤が、膝から崩れ落ちた。
「なんだあの動き……。俺たちの仕掛けた罠が、あいつにとってはただの『掃除の合図』だったってんじゃねえか……」
池と山内も、その圧倒的な格の差に涙を流している。
「坂本……! 俺たち、あんたについていくぜ!」
「これからはあんたがDクラスのアニキっすよ!」
わずか数分の出来事だった。
Dクラスの火薬庫とも言える三馬鹿が、坂本の軍門に降った瞬間である。
「やれやれ。この学校のシステムが崩壊する音が聞こえる。」
オレは独り言をこぼし、カバンを手に取った。
高度育成高等学校。
実力至上主義のこの学び舎に、あってはならないイレギュラーが混じり込んだ。
坂本。
彼がこの学校を、どのようにスタイリッシュに変えていくのか。
……その観察記録は、案外退屈しないものになりそうだ。